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論語でジャーナル

27,子曰く、巧言は徳を乱る。小、忍びざれば、則ち大謀(たいぼう)を乱る。

 先生が言われた。「上手すぎる弁舌は徳に害がある。小さいことは大目にみておかないと(重箱の隅をほじくらないようにしないと)、大きな計画に害がある」。

※浩→前半は「学而篇」の「巧言令色鮮なし仁」の変化球です。後半は、些事に怒ったり否定したり固執したりばかりしていると、「大きなプロジェクト」に差し支えが生じるから、「小事を捨てて大事を取る」とるということでしょう。このことで、「大道小異」とというフレーズを思い出します。昔、アメリカが「中華人民共和国」を正式な中国と認めて、それまでの「台湾=中華民国」と断絶したことがあります。当時、わが国では田中角栄首相でしたが、即、日本も同調して、北京政府と国交を結びました(1972年)。そのとき確か、「大同小異」というフレーズが引用されたように記憶しています。あのとき、この成句の真の意味はなんだかんだとインテリさんたちの間で騒がれました。記憶がまことにあやしいのですが。「小異を捨てて大同につく」ことだと言われませんでしたか?
そもそも「大同小異」は、『荘子』の「雑編」最後の項目『天下』にある記述が由来となっています。「大同而与小同異、此之謂小同異。万物畢同畢異、此之謂大同異。」
 現代語訳すると「世の中には、大きな全体の中では同じだが、小さな部分が異なっているものがあり、これを小同異という。これに反して、普遍的な意味としては同じものを表しているが、個別的なものとしては異なるものがあり、これを大同異という」となり、「ものごとの見方を変えることで、違うことが同じことになることもあれば、同じことが違うことになることもある」という意味になります。ここから、「大同小異」という四字熟語は生まれて、それが俗化して「似たり寄ったり」という意味になったのでしょう。でも、これでは軽すぎる気がします。実際、同義語を調べると「五十歩百歩」「似たり寄ったり」「同工異曲」などがあるようですが、これだと、「日中国交回復」のときの日中の“絆”を象徴する言葉にはならないのではないでしょうか。
 日常の教訓としては、「些末にこだわっていないで大局を見よ」とはよく言われます。「小さい点では違いはあっても、結局同じではないか」というと、やはり『荘子』の「朝三暮四」を思い出します。

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アメリカではアドラー心理学は?

Q0294
 アメリカにおけるアドラー心理学の発展はどのように行われたのですか?アメリカの心理学会でどのような地位にありますか?

A0294
 アメリカの心理学会の中では無視されています。日本でもそうです。ドイツは学問の世界の中で無視されないでおこうという方向で動いたので無視されていないが、その代わりに莫大な量の妥協をしました。
 日本アドラー心理学会はいわゆる学術会議に入れないんです。心理学や医学を専攻した大学卒業生の集会ではないから、学会じゃないんです。普通のおじさんやおばさんが入っているから。その普通のおじさんやおばんを全部退会処分にして、大学卒だけで固めると学術会議と認めてくれる。それをやりたくない。アメリカもイギリスもそうです。そのため、学問の世界からは完全に無視される。そこの選択は、アメリカのアドラー心理学の歴史は長いから、たくさんの論争もあり葛藤もあり憎しみ合いもあり罵り合いもあって決まってきた。最終的に見るとね。
 日本のアドラー心理学会とアメリカのアドラー心理学は全然体質が違う。日本のアドラー心理学会は、地域の活動グループの積み上げからできた学会で、徳島も福岡もそこからアドラー心理学会にルートが通じている。アメリカにはそんな地域の活動を重視する雰囲気がないから、もっと規制力の弱い方向性のない、ただの連絡議会としてある。あまり参考にならない。あれはアメリカという国の1つの気風ですね。アメリカという国は、アメリカという統一国家として動くよりも、個人の独立や州単位の独立を大事にする国民性だからあんなふうな学会ができたんだと思う。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

26,子曰く、吾(われ)は史の闕文(けつぶん)に及ぶべきか。馬ある者は、人に借してこれに乗る。今は則ち亡きかな。

 先生が言われた。「私は、歴史の記述が欠けている部分については言及しないことにしている。馬を持っている人は、自分が乗れなくても、誰か(馬に乗れる人)に乗せて貰うことができる。しかし、今はそういった慎重さ・親切さがなく、人々ががむしゃらになった」。

※浩→ここは古今東西の註釈家が最も読みかねた文章で、自信満々の荻生徂徠先生も読みかねたそうです。「史の闕文(けつぶん)」からして、「歴史書に記述がないこと」と、「“史”すなわち歴史記述官吏が疑問の文字を空格にしたこと」を意味する説があって、よくわかりません。わかりやすいのは、「歴史に記述が欠けているところは、無理に想像で補っても仕方がない」と読むほうです。後半はわかりやすい。車の運転免許は持たなくても、誰か持っている人に運転してもらって乗せてもらえばいいわけですから。私が思い出す人としては、あの歌舞伎通・細川公之先生は免許を持たなくて、自転車を愛用されました。また、土木科でお世話になった平田先生は、車が必要なときはタクシーを利用されました。こちらは豪華です。彼は、人の話を聞き出すのがお得意で、岡山駅から職場までの徒歩15分ほどの距離を一緒に歩いていると、いつの間にか彼のペースに引き込まれて、いろいろなことをしゃべってしまいました。彼はカウンセラーに向いているのかもしれません。とても。聞き上手です。細川先生もお話上手な方でした。私はお2人から強く影響を受けています。大きなことを言えば、私はアドラー心理学を野田俊作先生に学びました。その先生は、アメリカのバーナード・シャルマン先生から学び、シャルマン先生はルドルフ・ドライカース先生から学び、ドライカースは創始のアルフレッド・アドラーから学んでいます。草の根の一本にすぎない私も、この脈々と伝わる偉大な系図に位置づけられているんです。とても誇らしいです。

 さて、「共同体感覚の概念の変遷」の続きです。前回の「攻撃性衝動」に続きます。↓
続いて、「男性的抗議」という概念を提唱しました。
 これは器官劣等性からの類推で(オチンチンがないのは女性にとって器官劣等性)、女性は社会的に劣等な地位に置かれているため、自分が女性であることについて態度決定を迫られ、このとき、その劣等感を過剰に補償して、女性であることを否定して、男性よりもっと男性っぽい人になることを言います。
 この概念の価値は、初めて社会的な文脈の中で劣等感を考察した所にあります。のちに、体の障害に止まらず、一般的な主観的な劣等感の理論に発展し、アドラー心理学の認知論(→仮想論)の基礎になっていきます。
 ちょうど、共同体感覚が攻撃性衝動の抑制因子であると考えられたのと同様に、大きな劣等感は共同体感覚の不足を意味し、共同体感覚が発達すれば、劣等感は軽減すると考えられています。
 第3期は、1918年から1927年までです。この時期の最初を飾るエピソードがあります。アドラーは第1次大戦に軍医として従軍しますが、復員して、仲間と集う路上のカフェに初めて姿を現したときのことです。
 誰かがアドラーに、「何か新しいことがありますか?」とたずねました。彼は、「世界が今必要としているのは、新しい政府でも新しい大砲でもない。それは共同体感覚だ」と答えました。
 この時期のアドラーの仕事の中心は、ライフスタイルの概念です。共同体感覚は健全なライフスタイルの指標であると考えられ、正しい目標追求を可能にする因子であると考えられました。この時点ではまだフロイトの「超自我」に似て、共同体感覚はどちらかというと、「誤った目標追求の抑制因子」であると考えられていたのです。
 しかしこの時期に、共同体感覚の理論に1つの発展があります。それは先ほど言ったように、「生得的に存在する」という考え方が撤回されて、「生得的可能性であり、意識的に発達させなければならない」というように修正されたことです。これはアドラーが、育児や教育の力が共同体感覚の育成に不可欠であると考え始めたことを意味します。
 第2期のアドラーの仕事の中心は神経症者の心理療法でしたが、第3期には教育カウンセリングの仕事に比重が移っていったことに伴う変化でしょう。
 第4期は、1928年から1937年です。
 児童相談所の仕事を辞めることになります。ナチの迫害でオーストリアにいにくくなって、次第に海外、主にアメリカで活動するようになり、1934年には正式に亡命します。
 そうして臨床の基盤を失い、講演とスーパービジョンで暮らすことになると、いっそう共同体感覚論が前面に出てくる。
 共同体感覚という名前の生き方、共同体感覚という名前の目標追求が。エゴイスティックな目標追求があってそれを共同体感覚が修正する、という考えから完全に脱却する。
 この時期には、共同体感覚が理論の中核になりました。育児と教育の必要性はますます強調され、治療から予防へ、すなわち、異常の修正から健康の育成へと、話題の中心が変化します。
 67歳、円熟期の最中に講演中のスコットランドで突然亡くなります。14歳上のフロイトは翌々年に死ぬんですが、あとは弟子たちの仕事になります。

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実母が鬱に。どうつきあうか?

Q0293
 実の母が最近鬱病になり、一緒に暮らし始めました。今は夜のみ抗鬱剤を飲み、一見普通に見えます。私自身一緒になるのがイヤなのと、気を使うのとで、疲れています。「この人鬱病だ」と思って接するほうがよいのでしょうか?楽なつきあい方を教えてください。

A0293
 一見普通に見えたら鬱病と違うんじゃない。われわれは病気とつきあうわけじゃない。人間とつきあう。だから、病気のことなどお忘れになったほうがいいと思う。特に、心の病気についてみんな偏見を持っている。私は「体の病気だと思ってください」と患者さん本人にも家族にも言っている。腎臓が悪いとか肝臓が悪いと一緒です。お薬飲んで養生すれば治るわけで、精神的に何か問題があるわけじゃないと思っていますから、普通に人間関係の工夫をしてください。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

25,子曰く、吾の人に於けるや、誰(たれ)をか毀(そし)り誰をか誉(ほ)めん。如(も)し(もし)誉むる所の者あらば、それ試みる所あらん。斯(こ)の民や、三代の直道(ちょくどう)にして行う所以(ゆえん)なり。

 先生が言われた。「私が人々に対するときには、誰かを褒めて誰かを非難するということはしない。もし褒めるべき人物がいれば、何かをやらせてその実力を試してみてからである。この村の人民は、理想政治が行われた夏・殷・周の三代以後変わりなく、まっすぐな道に従って生きている人たちである」。

※浩→ここは難解だと貝塚先生は述べられています。「それ試みる所あらん」を「既に官吏採用試験を受けて採用されている」と解釈するか「その実力を試してみてから褒めるか批判するかを決める」と解釈するかによって変わってくるそうです。迷っても仕方ないので、孔子が郷党(ふるさと)の人たちの「人柄の良さ・誠実な真面目さ」を肯定的に語ったと見ることにしました。「太古の理想に復帰する」というと、まるで『老子』のようですが、孔子も「温故知新」と言うくらいですから、“古き良きものへの郷愁”は大事だと思います。かく言う私も、1993年9月に、勤務校であった岡山工業高校で、アドラー心理学の公開講座を開始しました。今年でちょうど「30周年」を迎えました。津山の地で記念のセレモニーをしていただき、それでもって終了いたしました。ただ、来月からは学校行事としてではなく、私的なボランティア活動として、“お忍び”で月1回実施することにしています。待ってくださっている先生方がいらっしゃるからです。

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