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障害者の息子、夫婦喧嘩への声かけは?

Q0292
 結婚して1年になる息子、交通事故による障害者です。嫁は健常者です。よく夫婦喧嘩をします。親としての声のかけ方を教えてください。

A0292
 結婚したらもう子どもじゃないから、忘れてください。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

34,子曰く、君子は小知すべからずして、大受(たいじゅ)すべし。小人は大受すべからずして、小知すべし。

古注:先生が言われた。「君子は小さい範囲の観察では理解しにくいけれども、一般人が彼から大きな利益を受けうる」。
新注:先生が言われた。「君子は小さいことはできないが、大きな任務を引き受けることができる。小人は大きな任務は引き受けられないが、小さいことはできる」。

※浩→現代感覚からすると、職業や人格の差別的待遇を意味するようにも思えますが、孔子の時代には君子は「小さな仕事(身近な問題)」にとらわれ過ぎないで、「大きな仕事(政治や礼制における道の実践)」に専心して己れの徳性を磨くことが正しい生き方だと考えられていたのです。それはそうでしょう。儒学は、言うなれば、政治家養成哲学のようなものですから。「修身~斉家~治国~平天下」です。前回も出ましたが、「民主主主義」で、“平等”が当然視されますが、これは“同等”とは違います。“平等”は、「違うけれど等しい」ということです。クリステンセン博士の説明がわかりやすいようですから、そこから引用します。博士は1989年アドラー心理学会岡山総会で外国招聘講師でした。当時、アメリカ・アリゾナ大学教授でした。私がアドラー心理学に出会ったのは、それから2年後の1991年でした。↓
 ここで私たちは、「平等」ということについての理解を明確にしておきましょう。アメリカでワークショップを行なう場合、まず最初に参加者に質問表を配ることにしています。第一の質問は、「一行で、平等という言葉を定義してください」というものです。北アメリカのどこの地域の人たちも、どんな民族的な背景や教育的な背景を持っている人も、とても面白い意見を書いてきます。70%の人たちが、「平等であることは同じであることである」と答えてきます。しかし、私は、同じであるということは、平等であるという観念を侵害するものであると考えています。男と女は同じではありませんが、平等です。フランス人は、何世紀か前にこの問題を解決しました。その時フランス人は、「違い、万歳!」と言ったのです。子どもと大人とは同じではありませんが、平等です。子どもは大人ほど大きくはありません。大人ほど教育を受けてはいません。そして常に言えることは、子どもは大人ほど歳をとっていません。でも平等なのです。
 平等というのは、平等の中には違いも存在すると定義しておく必要があります。私が一番うまく定義するとすると、「価値観の平等、価値の平等、そして人格の平等」ということができます。もし、同じであるという考えを進めていくならば、大人、親、そして教師の果たす役割はなくなってしまいます。けれども、“違い”という概念を受け入れていくと、教える先生の役割と生徒の役割、親の役割と子どもの役割というのを相互尊敬の関係のもとに明確に定義できるのです。
 学校や家庭についてのもうひとつの問題は、親になるために、あるいは教師になるために受けてきた教育は、自分が子どもだった時に受けた教育しかないということです。今ここにいる、かなり若い方を除いては、かなり専制主義的な家庭環境の中で育てられたのではないでしょうか。そして、学校でもなかり専制主義的な教師に出会われたのではないでしょうか。そうすると、民主的な教育の本を何冊読んでも、民主的な子育ての本を読んでも、何か問題が起きてくると、あなたのお父さん、お母さん、そして先生が対応したのと同じような形で反応してしまいます。
 教員養成の専門機関の訓練で、いい教師が育てられることはありません。もし、良い教師がいたとしたら、それはその訓練機関によるものではなく、訓練を受けたにもかかわらず良いと考えたほうが適切でしょう。というのは、「あなたがたまたま良い先生にめぐり会っていた。そしてそこで訓練を受けていた」ということにほかならないからです。現在の教師は、次の世代の教師を訓練しているということができます。ですから、教育界にどんな革新が起きたとしても、次の世代の教師たちは、今の教師たちが教えているような形で教えていくことになるのです。このことは、親たちについても言えることです。皆さんが孫の親を教育していると言えるでしょう。それは、とても恐ろしいことでもあります。というのは、孫に対しては、つい甘やかしがちになるからです。そして、自分の子どもたちが自分の孫をどのように育てているか、その子育てに関して嘆くということがよく見られます。
 子育てにおいて、そのほとんどの会話が上から下への会話です。これは3、40年前には悪いことではありませんでしたが、今日の子どもは平等という位置からその話を聞いています。その結果、コミュニケーションにどんなことが起きるかはもうおわかりでしょう。それより、もっと悪いのは子どもたちが平等というポジションから親たちに話して返すということです。
 私は、「生徒が言い返す」という報告を受けたときは、「自分が子どもとどういうふうな交流しているのかテープに吹き込むように」と指示します。そしてテープを聞いてみますと、教師の話し方が、文句を言っている子どもと全く同じ話し方をしていることがわかります。子どもたちが平等という仮定のもとに話しているとしたら、子どもたちは教師が話すのと同じように話す権利を持っていると考えるでしょう。
 私は、2週間ほど前に、とても面白い電話を受けて、イギリスから来ている教授と会いました。彼の6歳になる息子が新しい学校へ入りました。彼は入学して2日目に、学校から排斥されてしまったのです。1年生の子どもが排斥されることがどういうことかわからなかったので、びっくりしました。「何が起こったのか?」と聞いてみました。わかったことは次のようなことでした。
 教師が、「もう誰も話してはいけない」と子どもたちに命令したらしい。そして、教師自身が話をすることで、その約束を破りました。そこで、6歳の子どもが教師の論理に挑戦をしたということでした。平等の観点で見ようとしている人には、明らかにわかる例ですが、自分がボスになろうとしている人には、まったく理解しがたいことです。もし1年生の子どもが平等について理解しているのは普通とは思えないと言われるかもしれませんが、私の扱っているケースの多くが、わずか2、3歳ですでに専制君主と言われる子どもたちなのです。

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高校中退の長男への声かけ

Q0291
 17歳になる長男が今年になって高校を中退しました。今は家にいますが、「18歳になったらアルバイトをする」と言っています。長男にはずいぶん口うるさく言ってきたことが今は反省です。声のかけ方を教えてください。

A0291
 何もないな。ちゃんと立派に人生計画をしていらっしゃるようですから、「何でもできることがあったら言ってください」と、受け身に回ったほうがいいと思う。先回りして、「ああしなさい、こうしなさい」と言ったり、心配したりしないで、向こうが「してほしい」と言ったことはしてあげたらいいと思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

33,子曰く、知はこれに及ぶも、仁これを守る能わざれば、これを得ると雖(いえど)も必ずこれを失う。知これに及び、仁能(よ)く守るも、荘以てこれに涖(のぞ)まざれば、則ち民は敬せず。知これに及び、仁能くこれを守り、荘以てこれに涖めども、これを動かすに礼を以てせざれば、未だ善ならざるなり。

 先生が言われた。「知識でその地位までゆきつくことはできるが、仁徳によってその地位を守ることができないと、きっとその地位を失うことになる。知識でその地位にゆきつき、仁徳で守っていても、おごそかに地位についていないと、人民は敬意を払わない。知識でその地位にゆきつき、仁徳で地位を守り、おごそかにその地位についていても、人民を動かすのに礼の定めに従わないと、まだ十分ではない」。

※浩→吉川先生は、これは個人的な道徳ではなく、政治についての道徳であると解説されます。孔子は、士大夫(上級官吏)の心構えは、「十分な知性(見識)・人民を愛する仁徳・厳粛な仕事への姿勢・古来からの礼制」が揃っていることだと語っています。
 「荘」は、「おごそか」「正しい姿勢」。「涖む」は「定められた地位につくこと(位について人民に対すること)」。
 今の政治家の条件にこれを当てはめると、どうなるでしょうか。「知識・仁徳・荘厳・礼」のすべてが揃うなどとは、夢のまた夢ではないでしょうか。ときどき、「この国に民主主義はあるのだろうか?」と疑いたくなります。選挙のたびに見る投票率の低さ。「民が主」ということは「メンバー個々人が主体」ということになります。一部の権威者がメンバーに一方的に命令を出して組織を動かすことではなくて、「民意」が尊ばれることになります。政治では、「絶対君主主義」とか「貴族主義」とかに対して「民主主義」と言うのでしょう。古代ギリシャでは「民主政」は「衆愚政」に陥ると危惧されていました。今はどう見ても「衆愚政」のような気がします。「平等」と「同等」を混同して、「何でもみんな同じ」でないと、すぐに「差別だ」「人権侵害だ」と騒ぎます。日本は戦後、それまでの反省から、国家による「私権」の侵害にとても過敏になったのでしょうか。「憲法」には、「個人の権利は最大限尊重するが、濫用してはならない。公共の福祉のために利用すること」と明記されているのに、政治家もメディアも「公共の福祉」という言葉はほとんど口にしません。こういう意味でも、この国は「アナーキズム」になってしまっったのでしょうか。その「アナーキズム」も、もとの意味をたどると、この思想の基礎には、「善意の人々」の存在が前提なのだそうです。今の世の中、善意の人ばかりではありません。国内的にも国際的にも。

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高2女子(不登校)の担任として

Q0300 
 高2の女の子が9月から学校を休んでいます。家でのんびりテレビを見たり外出したりして過ごしています。「親が学校へ行けと言うのがうっとおしい」と言うのでいろいろ相談した結果、「学校へ行け行けと言わないでほしいと、自分でも言う。私から親にお願いする」という結論に達し、今は親も「学校へ行け」と言わなくなり、そこそこ快適な日々を過ごしているそうです。他種の高校の情報も、本人の希望により提供しました。11月いっぱい休んでも大丈夫です。もちろんもっと休んでもOKだけど、今年進級するなら。
 「どうせ休むなら楽しく過ごすように」と言ったのですが、担任として何か他に援助できることはあるでしょうか?

A0300
 いつも学校の先生に言っているんですが、子どもの注文をしっかり取ってください。こっちから、「あれしてあげたらいいだろう」、「これしてあげたらいいだろう」というのは、思春期の子どもにとって侵入的なんです。思春期の子どもにとって、大人というのはすごく扱いにくい動物で、ちょっと気を許すとつけあがるんです、子どもから見れば。やさしい顔をするとどんどん進入してくるし、遠ざけるために恐い顔をするとあたふたして怯えるし、猛烈に扱いにくい動物なので、まず扱いやすい動物になってあげないといけない。
 それは結局、「私にできることがあったら言ってください。言ってもらえばそれはします。知りたい情報があればそれは提供します。こっちから積極的にああしなさいこうしなさいという助言はしません」というくらいの出方のほうがいいと思う。
 特にこれは高校生でしょう。高校生が学校へ行かなくなったのを登校拒否と言うのがおかしいので、登校拒否というのはやっぱり義務教育に対して言うべきではなかろうか。学校へ行く行かないは自由な選択なんです。「高校へ行かない」と子どもが自己選択・自己決断したわけだから。その線上でOKを出しておけばいいんじゃないですか。別の高校へ行くというならその方向で援助すればいいし、やめると言えばやめる方向で援助すればいいし、今の高校へ戻ると言えば戻る方向で援助すればいいし、全部子どもが決めて僕らが助ける。(回答・野田俊作先生)

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