Q
うちの子は26歳男子(15歳のとき暴力をふるい、その後閉じこもり)で、今は普通に暮らしている状態(風呂掃除と買い物はします)です。この子が社会に出るようにするためには、親はどのような言葉がけと生活をすればいいか、アドバイスをお願いします。
A
親が、「子どもを社会に出るようにさせる」と言うときに、すでに間違いがあります。そうではなくて、「子どもがどんな形で社会に参加したいか」を話し合っていかないといけないだろうと思います。
それには、話が「働くこと」から始まってはいけないと思います。「遊ぶこと」から始めないといけない。この世の中をどうやって楽しむのか、どうやって遊ぶのかを、まず最初に決めないと、子どもたちは世の中に出ていけない。
26歳の子ども(?)に遊ぶ援助を親ができるかというと、親が遊んでないと難しいと思います。「遊ぶ」ということについて、親がわかっていないと難しい。ただやみくもに仕事をしてもしょうがない。今は何か面白いことを探してあげるのが大事だと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
よく怒鳴る10歳の子どもがいるのですが、どうすれば治せるでしょうか?
A
怒鳴るところに注目をしないで、たまたまおとなしくしゃべっているときに、「そういうふうにしゃべってくれるとよくわかるなあ」と言います。それから、すごく大きい声でこちらに向かってしゃべっているときに、「私、耳がいいから、もう少し小さい声でも聞こえるよ」と言います。(回答・野田俊作先生)
Q
先生の講演で、協力の手続きの仕方、協力の素晴らしさ、精神を、今の子どもたちに伝えていくことの重要さを学ばせていただきました。私にとっては、とても新鮮なお話でした。正しい言葉を使う実践など、すぐにもやっていけそうです。
ただ、「叱るということ」、「感情を込めた話」というのについて、もう少しお話を聞いてみたいです。私は今、これらも子どもたちにとって必要だと考えています。どうなのでしょうか?
A
それらは絶対必要ありません。まったく必要ありません。私はまったく必要なしに子どもたちを育ててきました。それでちゃんと育ちました。ただし、話し合いはたくさんしました。
例えば、子どもが真夜中に帰ってきたとします。これはよくする話ですが、うちであった出来事です。長男が高校生のころに、いけないことにパチンコに凝ったんです。それでよくパチンコ屋に入り浸りになりました。パチンコ屋さんは10時までやっています。だからだいたい10時15分くらいに、近所のパチンコ屋さんから帰ってきていました。それがある日帰ってこないので、「あれ?」と思いました。11時になっても帰ってこないし、12時になっても帰ってこない。そのとき考えたんです。もしも交通事故に遭うとか、警察に捕まるとかしていれば、連絡があるはずだ。連絡がないということはどっちでもない。交通事故でも警察でもない。まあどこかへ遊びに行ってるんだろうと思って、私は寝ました。そしたら、午前2時ごろ帰ってきました。それでまあ起きました。午前2時に息子はゴソッと入ってきました。さて、こんなとき父親は、いったい子どもに何と言えばいいでしょうか?私はこう言いました。「お帰り」。それだけ。そしたら息子は「ただいま」と言いました。私は次に「おやすみ」と言いました。向こうも「おやすみ」と言いました。終わり。
こんなときに話したら駄目です。こっちも寝ボケているので、ちょっと混乱しそうです。向こうも少し後ろめたいところがあるでしょうから、防衛的になるでしょう。だから、その日はもう何も言わないで終わる。これが絶対的なコツです。危ないときには話はしない。話はいつでもできます。
次の日の夕方に、「ちょっと話がありますが、いいですか?」と話をしました。「昨日は帰るのが遅かったですね。何時に帰っても私はかまいませんけど、都会に住んでいるので(当時、新大阪に住んでいました)物騒だからチェーン錠を掛けたいんです。一応午後11時には掛けたいと思っているので、11時までに帰ってくるか、あるいは朝まで帰ってこないかどちらかにしてほしいんですが……」と言うと、息子は「わかった」と言って、それからは11時までに帰ってくるか、電話をかけて「ちょっと遅くなる」と言うようになりました。叱らなかったです。
帰ってきたそのときに、「どこに行ってた?」と聞くのは、私は良くないと思う。夜どこに行くかは私が干渉すべき事柄ではなくて、彼が自分で管理する彼の人生の課題だと思うからです。彼がどんな人とつきあってるか、何してるか、私は知らなくていいと思う。ここで問題になっているのは、家庭の管理、チェーン錠を掛けるということに関する問題だとわかりました。でも、急にわかったわけじゃなくて、その晩は寝て、朝からずっとどこをどう話したらいいのか考えて、夕方ごろに、これはチェーン錠の話だけだとわかったからそこで話したんです。これがひと晩待った効果です。夜中に話したら、「どこへ行ってたの?」なんてきっと言うでしょう。それに対して、「そんなん勝手だろう」と言うかもしれない。「勝手だろう」と言われると、こっちもムカッとして何かひとこと言いたくなるかもしれないでしょう。だから十分落ち着いて、十分何がテーマなのか、何を問題解決すればいいのか、ちゃんとわかってそれから話をするほうがいいです。
例えば、「お小遣いくれ」と言われても、「何に使うの?」とは聞かないことにしています。お小遣いをあげるかあげないかを、向こうがいい使い方をするか、いい使い方をしないかで決めるのは“縦関係”だと思います。私のほうとしては、お小遣いをあげるかどうかは、「お金があるかどうか」なんです。払えるかどうか、それから、向こうが上手に頼むかどうかによって決めようと思っています。
この間、娘に騙されました。上の娘が、「お父さん、この前会ったときに、『あなたのお誕生日に財布を買ってあげる』って言ったでしょう」と言うんです。「おかしいな、そんなこと言った覚えないよ」と言ったら、「お父さんはいつもそうやって、言っていて忘れるんだから」と言う。私、確かに「そうだな」と思う。いつも言っておいて忘れて、みんなに怒られている。「言ったかもしれん。私は確かにそういう性格だから、言っておいて忘れるからなあ」「そうでしょう。だからねえ、財布を買いに行こうよ」「うん、行こう、行こう」と大阪の街へ出ました。道を歩いていたら、財布屋さんがあって、“大特価!!5割引!!”と書いてある。「あれ行こう」と言うと、「あんなんだったら、お父さんに頼まない」と言う。「なるほどね。じゃあどこへ行くんですか?」と聞くと、「デパートへ行こう。デパート」。デパートへ行ったら、ウワっと目の玉が飛び出るようなブランドものの財布が並んでいる。それを見て娘は、「これ!」って。しょうがないなあ。まあお誕生日のお祝いに、大安売りの1500円くらいの財布でごまかそうというのも、大人の娘を持った親としてはセコイ話だと思って、少し高い財布を買いました。買って支払いが終わったときに、「ねっ、この手はうまくいくでしょう」と妹に言っている。だから私は、上手に頼まれると騙されることにしています。
叱らなくても、感情的にならなくても、子どもはちゃんと育てられます。そんなふうに育てると、子どもたちは、感情を使って人を支配しない子、他人を罰しない子、そんな子になります。あの子たちが将来子どもを産んだら、きっとそういうふうに子どもを育てていくだろうし、夫婦関係なんかでも、きっとそういうふうにやっていくだろうと思います。一体何をテーマにすればいいのかをゆっくり考えて、ゆっくり話し合う子(人)になると思います。
罰にはありとあらゆる害悪がありますが、1つだけ利点があります。それはすぐ効くということです。罰すれば、こちらの思いをすぐ効かせられます。例えば登校拒否なんて、法律を改正して「3日以上学校を無断で休んだ者は死刑」にするとすぐ解決できます。こうすると、たいていの子は学校に行きます。しかしこの方法で子どもたちが学校に来たって、その子たちの「体」は来ているが「心」は来ていない。何も根本的な問題は解決してなくて、恐怖で動いているだけです。だから、即効性はありますが、副作用が大きすぎる。例えば人間関係が悪くなるとか、消極的になるとか、人が見てないと悪いことをするとか、恐怖心で動いて人生を楽しめなくなるとか、人を罰することを覚えるとか、いっぱい副作用があります。
心理学の常識ですが、叩いて育てられた子どもは、大人になったときに自分の子どもを叩くんだそうです。叩かれないで育った子どもは、大人になっても自分の子どもを叩かない。それはそうです。親から教えてもらった方法で子どもを育てますから。だから、暴力はいけませんし、怒りの感情も動物的な原始的なものですから、あれはなくてもやっていけます。(回答・野田俊作先生)
Q
ときどきスネたり、どこか体の不調を訴えたりする子がいます。私は、こういうときあまり取り合わず、普通にしているときに話しかけたり、接触するようにしています。しかし職場では、「あの子がスネたりしなければいけないのはなぜなのか、背景(原因)を探ろう」という考えが主流です。私があまり取り合わず、「放っておいて」と言っても、他の人が、「どうしたの?」とか「元気がないね」と声をかけたり、機嫌を取ったりします。私にできることはありますか?
A
「私にできること」?……できることは、(スネているときは)取り合わずに、その子が元気なときに話をすることだと思います。
「主流」というのは、つまり心理学の主流ね。今、学校ではたぶん、“カウンセリング・マインド”という変な言葉が流行っていますが、私はそんな気持ちの悪いものは持つべきではないと思います。アドラー心理学は、日常の暮らしとカウンセリングしているときとまったく違いがないんです。私が家族と話しているときと、カウンセリングでクライエントと話しているときと、自分でも全然変わりないんです。あるいは、学校で先生と会うときも、生徒と話すときも関係なかろうと思います。それは、私がカウンセリング・マインドを持っているからではなくて、私がそういうふうに暮らしているからです。自分の普通の暮らし以外に、何か特別なしゃべり方とか、特別の技術があるわけではないと思っています。ところが、そうでないカウンセラーたちがいます。それは、そうでない特殊なしゃべり方をする人たちで、何か相手の言うことを繰り返したりしますね。例えば、「映画行ったんだよ」「おお、映画行ったのか」「タイタニックね」「ああ、タイタニックなあ」「すごいなあ」「あの映画すごいのか」って言うんです。普段の、日常生活で使えないようなカウンセリング・トークを使うと、カウンセリングしている自分としてない自分を区別するようになります。そこからカウンセリング・マインドという1つの技術としてのつきあい方ができてしまうんでしょう。
そういう主張をしている人たちは、原因論的です。子どもが何かフテくされているときは、きっとそこに何か心理的な原因があると考えます。原因は普通2種類あります。周囲の社会とか家庭に原因があるという考え方。もう1つは、子どもの過去に原因があるという考え方。その過去と周囲とを組み合わせれば、過去の育児というところへ行きます。子どもが教室の中でフテくされているのは、どうもあれは家で面白くないことがあったからだろうと考えます。ということは、子どもが家で暴れたら、学校で面白くないことがあったことになりますよ。どうして、学校でフテくされているのは学校に原因がなくて、家で暴れるのは家に原因がないと考えるのかよくわからないですが、なぜかそう考えます。教師の集会で、「クラスに登校拒否の子がいる」「万引きする子がいる」と言うと、みんなで「家庭背景が悪い、家族が悪い、おーっ!」と言う。今度は親の会に行くと、「家に登校拒否児がいる、万引きする子がいる」と言うと、みんなで「学校が悪い、おーっ!」と言う。両方一緒に集まったらどうするのか、昔すごく興味がありました。そんなときたまたま、両方一緒に集まる教師と親の会に出ました。そしたら、「文部行政が悪い、社会が悪い」なんです。要するに、そこに来ていない人が悪い。ということは、そこにいる人の責任は逃れられるわけです。
それから、「過去が悪い」というのは、「今が悪い」と言ってないということです。アドラー心理学では「今の行動は今と関係がある」と考えます。今ここで子どもが反抗的であったり、今ここで子どもがフテくされているのは、今、私との関係の中で、フテくされている。だから、私がその子が反抗的になるように、何か刺激を出している。もしかすると、私が刺激の出し方を変えれば、その子は変わるかもしれない。まあ、私じゃないかもしれないけれど、さしあたって私だと思っておくと、私が何か変えてみようかという気になります。それで変わればよし、変わらなければまた別のことをやります。
行動を変えるにも原則があります。子どもの不適切な行動のほうに声をかけていくと、子どもは「そうか、不適切な行動をしているとコミュニケーションができるんだな。注目してもらえるんだな。みんなが私のことを大事にしてくれるんだな」と学ぶわけです。それで不適切な行動を中心に、それを話題にコミュニケーションしていく。
そうではなくて、適切なこと、勉強しているとか、お掃除をちゃんとしてくれているとか、あるいは元気に遊んでいるとか、はっきりとお話してくれるとかというほうに注目していくと、「そうか、適切にやってもいいなあ」と学ぶでしょう。だから、“適切な行動を探して、それに注目をする”というのを原則にしたい。
ところが困ったことに、適切な行動というのは、不適切な行動ほど目立たない。不適切な行動というのは、何しろ不適切というくらいですから、すぐ目立って相手はムカッとくる。「あいつめ!!!」と思う。「適切」というのは全然目立たない。しゃべったり横向いたり寝たりしないで黒板を見ているのは、教師は「そんなのは当たり前」と思う。だからそれに声をかけない。でもやっぱりそれに声をかけていきたい。「私のつまんない授業を、1時間も一生懸命聞いてくれてありがとう」と。
まず出だしとしては、不適切なほうにあんまり声をかけないでいきたい。不適切な行動をするには、それなりに理由、必然性があるだろうから、もしも、必然性を取り除けるものなら取り除きたい。必然性というのは例えば、「注目の中心にいたい」なんて思っているかもしれないので、「注目の中心にいなくても、あなたはとても素敵だよ」と言ってあげられるなら言ってあげたい。あるいは、喧嘩をして勝ちたいと思っていたら、負けてあげたい。だいたい、子どもと喧嘩をしても大人は勝てません。喧嘩というのは、汚い手を使えるほうが勝ちます。男と女では女のほうが汚い手が使えます。泣くとか、叫ぶとか、実家に電話するとか、夫の実家に電話するとか、「もとの19歳に戻してよ」と言うとか。男はこの手は使いにくい。男が夫婦喧嘩して泣くのはちょっとやりにくい。実家に電話して、「お母さん、嫁にいじめられてます」と言うのも、相手の実家に電話して、「お宅の娘さん、私にこんなことをします」とも言えない。大人と子どもが喧嘩をしても、子どものほうがいっぱいいろんな手が使えます。子どもはグレることもできるけど、教師が生徒と喧嘩してグレるわけにはいかない。登校拒否に倣って出勤拒否も具合が悪い。子どもは、そういう手が使えるから、子どものほうが強い。だから、向こうが喧嘩をしようとしたら、まずさしあたって負けることです。「あんたの勝ち」って。
それから、子どもとの関係を少しずつ立て直していく。向こうがそうやって喧嘩をしようと思うのは、それまで子どもを傷つけてきたということです。だから、どこで自分が子どもを傷つけてきたかちゃんとわかって、そこを謝っておく。そうしないと関係は良くならない。(回答・野田俊作先生)