Q
「正しい話し方ができるように、技術を深めていかなくてはいけない」とお聞きしたのですが、具体的にどういうことかわかりません。ご説明いただけますか?
A
まず、丁寧に話すことです。命令したり、指示したりしないで、対等の仲間と、自分の家族と話をするわけですから。なるべく丁寧な言葉で話をしたいと思います。
ぞんざいな言い方のほうが親しみを込めているという感じがありますが、感情的になりそうなこととか、難しい話題は、子どもが相手でも丁寧な言葉で話したほうが安全だと思います。こちら側を冷静に保つためにも、極端な敬語でなくてもいいから、丁寧な言い回しをします。私も自分の子どもと話すときに、なるべく丁寧な言い回しを心がけてきました。
それから、私が何か提案することを、向こうが断れるようにします。『スマイル』(『PASSAGE』の前身)を受けると“お願い口調”というのが出てきます。テキストには、「お願い口調というのは『こっちへ来なさい』とか『こっちへ来てちょうだい』と言わないで、『ちょっとこっちへ来てくれませんか?』とか『こっちへ来てくれると助かるんだけど』というように、疑問文や仮定文で言ってください」と書いてあります。「お願い口調を使うと向こうがよく言うことを聞いてくれる」と誰かが言いますが、それは違います。お願い口調を使うと、向こうがよく言うことを聞いてくれないんです。そこがいいところです。お願い口調を使うと、子どもが断りやすいんです。「ちょっとこっちへ来なさい」と言われるより、「ちょっとこっちへ来てくれないかな」と言われるほうが、「イヤです」と言いやすい。そのためにお願い口調を使うんです。
私(野田)によくお願い口調を使ってものを言う人がいますが、それは全部断ることにしています。「野田先生、今日、帰りはヒマですか?ねえ、一緒につきあってもらえません?」「イヤです」。するとその人は怒るんです。怒ると、「こいつ、まだアドラーができてないな」と思います。お願い口調は、断られるために言っているんです。だから、子どもにも断る権利があり、その権利を認めながらも、こっちが何か頼みたいことは、平等に頼んでいく工夫をしようと思っています。
それから、理屈の通った(論理的な)ことを言いたいし、向こうの理屈が通っていれば、負けたいと思います。これも昔、息子にイタズラで話したことです。彼、お魚のカレイが好きで食べていたんですが、片身だけ食べて片身残すんです。私、面白いから、「ねえねえ、ちょっとお説教していいですか?」と聞いた。「面白いね、お父さんがお説教しますか。やってごらん」と言うから、「それじゃあ、やらせていただきます」とお説教をしました。
「今、アフリカでは子どもたちが飢えている。それなのに君は、こうして食べ残していいと思っているんですか?」。すると息子は、「私がこれを食べるのと、アフリカの子どもが食べないのとは関係がないと思います。それともお父さんは、これを宅急便でアフリカへ送りますか?」と言うんです。負けました。一本負けました。だから、「すみませんでした」と謝りました。
子どもでも、向こうのほうが理屈が勝っていればやっぱり負けたいと思うし、こちらも、子どもが納得できる理由でいろんな話をしたいと思うんです。両方が納得できる、筋の通った理屈で話がしたいんです。
伝統的に日本人は理屈を言うのが嫌いなようです。でもこれからは、理屈の強い日本人を作っていかないと世界的に困ります。外国人は否応もなく、これから増えていきます。今は例えば、イラン人とか、インドネシア人とか、タイ人とかの未熟練労働者が、あるいはバーのおねえさんが入ってきてますけど、いつまでもその状態ではなくて、やがて必ず、熟練した労働者、知的な労働者が日本でも働くようになると思います。企業も、インドネシアやタイやフィリピンの大学卒を雇わなくてはならなくなると思うんです。国際的な圧力もありますし、それから、絶対的な必然でもありますね。あるいは、日本の企業で働いていても、タイやフィリピンやインドネシアに工場を持っています。大企業だけでなく、中小企業も同様です。日本国内では、人件費が高い、土地も高いのでやっていけなくて、外国に工場を造ります。だから、お宅の坊ちゃんやお嬢ちゃんは、将来問題として、タイの奥地でカマボコを作っているかもしれないです。
外国人とつきあうときに、われわれが頼れるのは論理の力だけです。理屈ならどの国の言葉に訳しても共通だから通じます。日本ふうの「情」は通じない。「情」に絡めようったって、タイ人やフィリピン人は絡められない。あの人たちには“大和魂”はないから。
そんなふうに論理的な力がすごく大事と思うから、子どもと話をするときにもわれわれは、冷静に論理的にちゃんと理屈が立つ、筋道が立つ話し方をしていきたいと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
「好きな仕事」「やりたい仕事」というのが自分の使命でしょうか?
A
わかりませんね。われわれはこの世に生まれてきて、いろんな出来事に出会っていくんです。その中で、私の願いもあるけど、まわりの願いもあって、いろんな人間が絡まって自分の人生ができてきます。
私(野田)は今、たまたまアドラー心理学を教えています。でも、生まれたときからアドラー心理学を教えようと思っていたわけでもないし、中学生や高校生のときに思ったわけでもないし、大学のときに思ったわけでもない。大学の医学部にいたころは、無医村のお医者さんになりたかったんです。
それで、無医村のお医者さんになれるように、卒後研修を大阪大学の微生物病研究所というところに行って、普通の内科じゃなくて熱帯病とか寄生虫病とかの研究ができる施設でお勉強しました。最初に持った患者さんが、何しろサナダムシですから、日本の医者としてはかなり珍しいです。日本脳炎なんかも診たし、ちょっと変わった内科の先生を一時していました。で、無医村へ、特に南のほうの沖縄の孤島とか、ひょっとしたらもっと向こう、フィリピンかアフリカとか暑いところの無医村で一生暮らそうと思っていました。そう思っていたら、そのうち、たまたま結婚しました。結婚したら奥さんが、「無医村なんて絶対イヤ!」という人だった。「あらまあ」と動けなくなりました。
その動けない状態で考えているうちに、5年内科をやって気がつきました。自分がものすごいヤブだということに。あんまりすごいヤブだから、内科をやめたほうがいいと思って、それで精神科医になりました。精神科医になりたくて医学部に行ったわけではない。内科不適応で精神科に行った。
精神科でいろんなことをやっていましたが、統合失調症の患者さん、できたてホヤホヤの失調症の患者さんに対して、どうしたらいいのかわからない。古くなった患者さんならわかります。今狂ったばかりという人が入ってくると、全然話が通じない。警察に連れられたり、救急車に乗せられたりして、ものすごい混乱状態で入院してきます。最初、2、3週間から3、4週間、ほんとに狂乱状態になっているんですが、そこを何もしないで見ているのも芸がない。それで、何かいい本はないかなと思っているときに、私の先生のシャルマンという人が書いた統合失調症(当時の言い方では精神分裂病)の本があって、それが良かった。それで、手紙を書いたら、「こっちに勉強においで」と言われて行ったら、たまたまそれがアドラーだったんです。それでお勉強しているうちに、統合失調症がどうでもよくなり、アドラー心理学だけ残り、アドラーマニアになりはてて、こんなになっちゃいました。
高橋さと子さんが、石垣島で育児コースをすることになりました。「そんな遠いところにおばさん1人で行ってはいけない。みんなで鞄持ちに行ってあげよう」ということになって、5人が鞄持ちでついて行きました。
そのときつくづく思いました。ひょっとしたら私は、この石垣だとか、波照間だとか、与那国だとかいうところで、医者をしていたかもしれない。もしそうしていたら、日本にアドラー心理学はなかったかもしれない。わからんもんだ。これは仏様のおはからいとしか言いようがない。
何にも私の意志で動いてない。私が無医村に行けなかったのは、たまたま奥さんが田舎嫌いの人だったから行けなかっただけで、私が内科医をやめたのは、たまたま私がヤブだったり、精神科に知り合いがいて、「精神科に来ないか」と言われたという因縁があったからだし、アドラーを習ったのも、アドラー心理学がやりたいからやったわけではなくて、統合失調症の患者さんと関係して、一種の悪戦苦闘の中でたまたま見つけたにすぎず、すべてが外側から決まってきているような気がしています。だから、きっと他の人もそうじゃないかと思うんです。
私の中で自然に、内側にある願いと外側の出来事との連鎖とが反応して決まってくるわけです。それが結局、この世の中で生きる私の人生の意味なんでしょうね。私は、何のためにこの世に生まれてきたのかわからないけれど、こうして決まっているんだろうと思っています。(回答・野田俊作先生)
Q
“課題の分離”と頭ではわかっていても、なかなか実行に移せません。親の健康状態の不安、子どもへの不信感、仕事の行き詰まりと荷が重く(野田:暗い生活だな)、毎日気が晴れません。登校拒否でも幸せに暮らせる方法があると話されましたが、その切り換えができません。
子どもが学校へ行くか行かないかは「子どもの課題」だから、子どもに任せましょうと、“課題の分離”のことを聞きましたが、そうかなと頭ではわかっていても、なかなか実行に移せません。親の健康状態への不安や子どもへの不信感からも抜けられなくて、仕事も行き詰まり気味で荷が重く、毎日気が晴れません。子どもが登校拒否でも親は幸せに暮らせるそうですが、その切り換えができません。
A
「できません」と言わないでよ、お願いだから。「したくありません」と言ってよ。自分でそう言うんです。「私にはできない」と言うんじゃなくて、「私はしたくない」と言うんです。そうすると“主体的”です。自分が全部決めているから。
「感情」というのも、自然に発生してくるものではありません。感情は他ならぬこの私が作っているんです。多くの場合は、「縦関係」の中で相手を支配する道具に使っています。マイナスの感情がなくなるにはどうすればいいかというと、「縦関係」をやめて「横関係」になるとなくなります。
『スマイル』(「パセージ」の前身)を受けられた方は、スマイルの「親子関係質問紙」というのをご存じでしょう。スマイルを作ってから5~6年したころに、自分は最近どうかなと思って、あれをやってみました。よく「うちの子どもが言うことを聞かないで困る」とか、「勉強しないで困る」とか書いてあるけど、「うちの子どもは言うことを聞かないけど、僕は困らない」、「うちの子どもは勉強しないけど、僕は困らない」と書きました。前のほうはアドラー心理学を始める前とほとんど変わらない。言うことは聞かないし、勉強はしないし、だらしないし、片づけもしないんですけど、親はちっとも困らない。そこだけ変わりました。それはなぜかというと、「横関係」になったからです。前は「縦関係」だったから、子どもを自分の理想の子どもに作り変えるという計画が、私の中で密かに、あるいはあからさまに進んでいたんです。その時期には、「私の理想と違う!」と、いつもムカムカしていたんです。理想から引き算をして、「ここがまずい」「この点が理想じゃない」と思っていた。でもあるとき、私は考えました。「理想の子どもってどんなんだろう?」。まず、学校から帰ったら、言われなくても当然宿題をする。宿題が終わったらすぐに台所に飛んできて、「お母さん、お手伝いしましょうか?」と言う。私がボーっと座っていたら、「お父さん、肩をもみましょうか」と言う。お風呂も自分で入れて自分で入る。布団もちゃんとたたむ。自分の洗濯物が乾いたらさっさと持っていってタンスに片づける。成績はどんどん上がっていく。友だちはいい友だちばっかりで悪い友だちとはつきあわない。テレビも良くない番組になると、パッと消す。新聞は、政治面とか国際面しか見ない。漫画なんか読んだことがない……。そんなの病気ですよ、もしほんとにいたとしたら。そういう子どもが「理想の子どもだ」とみんな思っていませんか?そこから引き算して、「うちの子どもはあれが足りない、これが足りない」と言うんです。そうすると、「感情」が起こります。これが「縦関係」の場合です。
そうではなくて、今、目の前にいるこの子しかいないわけで、この子とどうつきあっていくかが問題なんです。その子の伸びたい方向に伸ばしたい。その子が例えば、「漫画家になりたい」と言ったら、「まあいっぺん、漫画家になってごらん」と思うし、その子が「エンジニアになる」と言ったら、「エンジニアになってごらん」と思う。「しばらくプー太郎する」と言えば、「まあそうしてごらん」と思う。それはそれで引き受けておいて、その上で、どんなふうに良い関係を築くかを工夫し始めるんです。
それは、完全にではなくても「横関係」でないと、なかなか動かないんです。けれども、「そうしたくない。まだまだ縦関係でいたい」と言うのなら、OKです。私の人生ではないから。その人が、「やっぱりアドラーをやろう。もう今までの育児法とか今までの家族生活の方法は愛想が尽きた、やめよう」という実が熟すまでは、アドラー心理学の新しい芽は接ぎ木できないから、もう少し熟させましょう。精も根も尽き果てて、古いやり方にうんざりしたら、きっとまたこれをやりたくなります。(回答・野田俊作先生)
Q
私は「楽観的」な人間だと思っていましたが、「楽天的」だったみたいです。私は感情の起伏が激しく、よくハイになったり落ち込んだりするのですが、別に今までライフタスクを意識していたわけではありませんが、落ち込んでいる自分は、自分であまり好きな状態ではありません。今まで、誰かと話をしたり、素敵なものに出会ったりして、その状態を抜け出しているのですが、他に何か早く抜け出せる方法とか、落ち込まない方法があれば教えてください。
A
なぜわれわれは落ち込むかというと、1つは無意識からの警告なんです。感情が暗いほうへ向いているのは何かというと、1つは人生の設計を間違えているからです。今行っちゃいけない方向へ進み始めているから。だから何を間違えているのか、ちょっと点検してみないといけません。絶対に不可能なことを実現しようとしていたりすると、だんだん疲れて落ち込みます。
例えば、「すべての人から好かれよう」とか、「誰よりも偉い人になろう」とかしていると、まぁしばらくはいいんですけど、そのうち息切れして、「誰かに嫌われたら…」と思うと落ち込むんです。なんでこんなに落ち込んでいるのか原因を探すと、原因は見つからなくて、“きっかけ”が見つかります。「あの人に嫌われたから」とか、「仕事をやりすぎたから」とかいうのが見つかるけど、それは原因じゃなくてきっかけです。
落ち込む原因は人生の方向性の誤りです。しなくていい仕事を片っ端から抱え込んだとか、好かれなくてもいい人にまで好かれようとしたとか、しなくていいお節介をいっぱいして回ったとか、そういう「自分の人生の方向性の誤りがあるんだよ」という警告です。
ですから、せっかく落ち込んだのだから、まず一度“方向性”の点検をします。「何か間違っているのかな?」って。今と違う生き方を少し考えてみるんです。そうすると人生の方向が開けることがあります。みんな、感情が行動の原因だ、落ち込んでいるから動けないと思っているんですが、感情よりまだもっと前に原因があるんですね。それは何かというと、1つは「人生の向き」が間違っているから変な感情が出てくるんです。もう1つは人生の向きと関係していますが、「考え方」の間違い。しちゃいけないことをしようとしているとか、しなきゃいけないことをしないでおこうと、何か変な理屈をこねているとか。そんな理屈をこねている結果、頭の中に変な呪文ができているんです。「私って駄目だ!私って駄目だ!…」とか、「あの人が悪い!あの人が悪い!…」とか、「悪いあの人、かわいそうな私。悪いあの人、かわいそうな私……」とか、「人生って暗くて思いどおりにならない」とかというのを、まるでお経みたいに頭の中で唱えているんです。
そんなことしていないと思うかもしれませんが、朝起きた瞬間はそれがよくわかります。朝お布団の中で、ムニャムニャって目が覚めてくるでしょう。そのときに自分は何をしているのか考えてみて、ちょっと頭の中を点検するんです。そしたら、「あ~ぁ、何てイヤなんだろう!今日も1日が始まるなー。仕事に行っても、同僚は馬鹿ばかりだし、上司は無理解だし、お得意先は偉そうにしているし、給料は安いし、また交通事故に遭うんじゃないか……」なんてことを思うと、憂鬱になります。これは良くない。そういう言葉が、実は朝ばかりじゃなくて、1日中ずっと無意識の中で動いているみたい。それを探し出すこと。特に朝方はわかりやすいから、朝方に探してほしい。
すると、相当間違っていることがわかります。だって、仕事に行くのはイヤなことかいいことかというと、価値相対主義ですから、イヤでもあるし良くもある。イヤな面もあるしいい面もある。物事には良い面と悪い面と両面あって、その良い面と悪い面のうち、われわれは勝手に悪い面を選んだりしている。無意識的に。でも良い面だって、もしも選ぼうと思えば選べるわけで、良い面を選ぶほうが問題解決につながりそうならそれを選ぶ。別に良い面のほうが本当だから選ぶわけではなくて、どっちも嘘なんです。けれど、良い面を選んだほうが今動き出せそうなら、良い面を選んで動き出せばいいじゃないですか。
そうやって、ブツブツブツブツ唱えている呪文みたいな考え方、勝手に考える「自動思考」(浩→行動療法の用語)、それを引っ張り出すこと。それが2番目の方法です。
それから第3番目の方法は、もしもこれができればですけど、意欲とか気分とかいうのは、「気分が良くなったら仕事をしよう」とか、「気分が良くなったら運動しよう」とか、みんな思うけど、あれって因果性が逆さまなんです。仕事しているとだんだん気分が良くなるんです。運動しているとだんだんやる気が出てくるんです。だからどうしても動かなきゃならないときは、“イヤな気分のままで”動き出す訓練をします。
雑誌の原稿ですと、だいたい2か月後が締め切りです。でもときどき「急ぎ」で、2週間とかいうのがあります。雑誌社のほうで頼りにしていた著者が1人断ってきて、「先生、何とか15枚ぐらい書いてくれませんか」「締切はいつ?」「再来週」。真っ青になります。そんなの、気が向かないことおびただしい。「2週間でそんなの書けるかしら。原稿は多いし、イヤだなあ」なんてことを思っている間に、とにかく書き始めるんです。
最初2時間くらいは無意識が抵抗しています。「こんなことしていないで、あんなことしよう。あれしよう、面白いことしよう」とブウブウ言うんですけど、「お黙り!」と言ってやっていると、2時間目くらいから、カーッと燃えます。
けれど、誰でもそうなんですが、あんまりこの手を使うと、ストレスが溜まります。そのうち十二指腸潰瘍になったりするから、いつも使う手ではないけれど、どうしてもというときは使えないことはない。動き出せば、気分は動くために良くなってきます。
だいたいそんな克服法というか、抜け出すための方法を知っていると便利です。実はこれについて書いた本が何冊かあります。そのうちの1冊、『嫌な気分よさようなら』(誠信書房)は、私(野田俊作)の友だちが翻訳した本ですが、面白い本で、イヤな気分よさようならのための、ありとあらゆる細かい小ワザ・テクニックがいっぱい書いてあります。まあそんな本もありますので、もし興味があったら本屋さんで探してみられたらどうでしょうか。(回答・野田俊作先生)
Q
前向きに生きたいのでまずプラスに考えて、それからどうなりたいのか具体的なイメージを持つことと、迷ったらいつもそこに帰るということで、人生の課題とつきあってきました。しかし最近、自分はどうなりたいのかわからなくなりました。こんなときはどうすればいいのでしょうか?
A
あのー、私はずーっとどうなりたいかわからないんです。昔、3つの願いがあったんですが、ある時点でわからなくなりました。1つは外国へ行って暮らしてみたかった。一生じゃなくてもいいから。1つは自分で本を書いてみたかった。それからもう1つは、ずっと同じオフィスに座っているのはイヤで、旅をしながら仕事をしたかった。これは35歳までに全部実現しました。おかげさまで、そこから人生の目標を見失いました。
それは私にとってはすごく快適なことなんです。明日この命が終わってもいいから。この世で基本的に最低限やらなきゃならないことはやってしまったように思うので、あとはオマケというか付録というか「プラスα」でやっていることだから、すごくラッキーなんです。そうすると、大きな目標はもう考えなくていいので、さしあたって、当面やりたいこと、当面やりたいことをこなしていたら、それで幸せに生きられるんじゃないかと思っています。
私にとってはどちらかというと、人生の目標・イメージを失ったことは、とても自分の生活をリラックスさせてくれて、良かったと思います。人生は基本的に無意味ですから(浩→ニーチェの影響)、がっかりしないでください。あまりカリカリと意味を求めて走り回らなくても、生きていけますから。(回答・野田俊作先生)