Q
中3の男の子なんですが、「高校に行かない」って言うんです。本人は本当は行きたいんだと思うんですが、友だちが行かないから自分もつきあって行かないと言っている部分もあるようなんです。
A
私の友だちのお母さんの話なんですが、母子家庭でね、その息子さんが中3のときにちょっとグレました。グレるといっても大したことはなくて、犯罪行為もないし、ちょっとした校則違反くらいで、髪の毛を染めたくらいです。彼は結局全日制の高校へ行かなくて、定時制に行きました。しばらく会わなかったんですが、この前たまたま会いまして、「どうですか?」と聞いたら、息子さんは鳶職になったと言うんです。いろんな仕事をやっていたけれど、結局鳶職になって、そこの社長さんがまた中学しか出ていない人で、やっぱり一時突っ張っていた人で、大変可愛がってもらっていて、頑張っているらしい。だいたい月に20万円くらい貰うんだそうです。「こんなにいらないから」と言って、半分以上家に入れるんだって。すごいと思いませんか。お母さんとしては大満足ね。ただね、芦屋に住んでいるの。芦屋というのは関西で高級住宅街なんです。高級住宅街に住んでいるお坊ちゃまが、朝、「鳶(とび)」の格好をして出て行くのがちょっと変な気がしますが、それ以外は何も問題がない。
全部の子が高校へ行かなくていいし、それから高校へ行くことが人生の幸せにつながるという保証は何もないです。高校に行って不幸になった子だっていっぱいいるんだし、中学校を出ただけで働き始めたほうがずっといい人生を送れるタイプの子もたくさんいます。まず、そのことを考えておかないといけない。みんな、中学だけで世の中に出たら破滅するに決まっていると思い込んでいる。だから、あんまり「高校、高校……」と考えなくてもいいと思う。結局は本人が決めることなんですから。そんなに親が焦らないほうがいい。
それから、その年ごろの子どもに一生の方針を全部決めてしまえというのも、これは無理です。1年2年いろんなことをやって、「やっぱり俺はちゃんと勉強しよう」と思ったら、それから高校に行き直すということがあってもかまわないし、今何もかも全部決めてしまう必要はないです。だって、15歳の春になって、中学校を出る時点で、全員が「僕の人生はこうやっていくんだ」と決まっていると思いますか?全然決められない子もたくさんいると思わないですか?というか、大部分が決められない子だと思わない?大部分の子は、友だちがあの学校に行くから僕も行こうということぐらいのことだと思いませんか?あの学校だったら友だちに、「僕はナントカ高校」だぞって言えてカッコいいから行こうとか、あそこはちょっと恥ずかしいからやめようとか、制服がカッコいいから行こうとか、あそこの女の子は可愛いから行こうとか、まぁその程度のことです。それでよろしい。それで一生は決まらないから。(回答・野田俊作先生)
Q
この春に小学校4年生になる女の子のことですが、去年より登校拒否をしていまして、3年から4年になるときは普通だったらクラス替えがないんですけど、親が頼みに行ったらクラス替えをしてくださるという話なんです。頼みに行くべきかどうか悩んでいるんですが。
A
それは、私に相談するより本人に相談するのが一番いいと思う。親が子どもに相談しないで、「この子にとってどちらがいいだろうか、どうすればいいだろうか」と動くということが一番反教育的です。
というのは、この子はそのことによって何を学ぶかというと、「私が困っていればみんながきっと何とかしてくれるでしょう」ということを学ぶ。これが自立から一番遠い姿勢です。育児というものの究極的な目標は、子どもが人に頼らないで生きていけるようになるということでしょう。そして、どうしても自分の力ではできないときには他の人にはっきりと頼むことができるということでしょう。こうして自立していくんです。人間が自立している状態というのは、人に頼まないで、一切何もかも自分でするということではないですね。そんなものは無理です。人間というのは他の人に助けてもらわなければ絶対に生きていけない仕掛けになっているからね。
それで、人に頼むときには「仁義」というものがあるわけよ。私の友だちのあるアドレリアン(アドラー心理学を学ぶ仲間)が、洋服屋さんの重役だったんですが、もうすぐ定年退職になるので、新聞屋さんに転身することになりました。この新聞は世間の新聞とは全然違うところが一か所ありまして、これはいいニュースしか載せないんです。悪い話は全然載っていないという新聞を出すんだそうです。それでインタビューを受けまして、夫婦関係で男と女のトークについて連載することになったんです。それで、夫婦が円満に話をするために最初にわかっておかなければならないことは、「頼みごとがあれば頼め」ということです。普通は、頼みごとがあっても頼まないんですね。ムスッとしてたりね。つまり(素振りで)わかってくれると思うわけ。様子や表情で気持ちを察してくれることを期待する。それは駄目なんです。頼むべきところではちゃんと頼まないといけない。「どうしてあなたは、そうやっていつも家に帰ってきたら寝てばかりなのっ!」と言うのは、ものを頼んだ言い方ではない。「すみませんが、お皿洗っていただけませんか?」と言える奥さんが、自立した奥さんです。頭が痛いふりをして、それとなくお皿を洗わせようとするとか、「どうしてあなたは寝てばっかりいるのっ!」と攻撃すると動くようになると思っている奥さんは、自立していない奥さんです。これが、人間として自立していることと自立してないことの分かれ目です。頼むことがあれば頼めるということ。
子どもたちを教育していく中で、すごく大事なのはこのことです。「頼むことがあれば頼んでください」というメッセージを絶えず送っていること。だから、「学校のクラスを替わったほうがいい」と彼女が思うんだったら、頼むべきなんです。ほんとはこちらからたずねてあげなくていいんです。向こうから言ってくるべきなんですが、今までそういう「頼むべきことは頼む」という習慣を学んでいない子どもたちは、仕方がないからこちらから聞いてあげるしかない。「学校のクラスを替えてもらったほうがいいかな、どうかな?」と聞いて、彼女が答えたことで動けばいい。(回答・野田俊作先生)
Q
物事に取り組むときに、それを達成するために最も効果的な方法というのがあれば教えてください。
A
僕はスポーツはあまり得意じゃないんだけど、あるスポーツのコーチをやったことがあるんです。それで、僕がまず何をやったかというと、あるものを上手にさせるのに、一番早く、しかも努力少なく身につけさせるにはどうすればいいかということなんです。
いくつも方法はあるんですけど、普通スポーツのコーチがやるのは根性主義ですね。「繰り返し繰り返し練習すれば、必ずできるようになるはずだ」と言うのね。でも、ならないものもあるよ、そりゃ。
僕は無努力主義です。まず、「努力なしでも達成できるはずだ」と思う。そうするといろんなことを考えることができる。「これは努力しないと達成できないぞ」と思うと、もう答えは見つからない。人間というものは基本的にもともと努力家なんです。基本的に努力家なんだけど、それ以上に努力を強いるから逆効果になってしまうんですよ。そして、人間というのは基本的にサボリでもあるんです。サボリでもあるから努力家でもあるのね。ここでうんと頑張っておくと、あとでゆっくりとさぼれるなぁと思うでしょう。一生ずっと頑張り続けるぞなんて思ったら、もうやる気がしないですよ。
千葉周作という幕末の剣豪がいました。千葉周作さんのところが、江戸の道場の中でも一番流行っていたし、強い人もいっぱい出たんです。どうしてかというと、彼は“努力しない主義者”なんです。それまでの剣術というのは、要するに棒を振っているうちに、いつか必ず開眼するという主義ですわ。だから、滅多やたら修業修業、稽古稽古なんです。
千葉さんのやり方はそれと違う。剣のやり方を全部バラバラにして、向こうがこうやって来たときにはこっちはこうすればいいとか、あっちがこう前に出たらこっちはこう後ろへ下がるなどと、全部型を作っちゃった。ある意味で剣術を学問的にしたんです。だから、その型を1つずつ身につけていけば、必ず勝てるようになるんです。ただ、やみくもに努力して繰り返すんじゃなくて、最も効率の良い努力のやり方を考えたんです。ある訓練をするには、はっきりとした理論があり、裏付けがあり、方向がないと無意味です。または無意味でないかもしれないけれど、猛烈に効率が悪い。
武田健先生という心理学の先生が、関学(関西学院大学)で昔、アメリカンフットボールが強かった時代に監督をしてたんです。彼はアメリカンフットボールなんて生まれてから一度もやったことがなかった。彼がアメリカから帰ってきて、このスポーツを実験台にして、どういうことをやればチームが強くなるかという『コーチの心理学』の実験をしようとしたんです。
当時、関学のアメフトチームは全然強くなかった。彼がやったことはただ1つです。それは、選手がいいプレーをしたら、「今のプレーは良かった」と必ず言おうということ。それ以外は何もなし。ずっとただ見てて、「おお、そのプレーは良かった」。それだけなんです。だけど、それだけ言っていると、選手はどんどん思い上がる。メチャメチャ思い上がった結果、試合に出たら全然アガらない。選手は自分たちのプレーは全部いいと思っているから。わずか彼が監督に就任してから2年で日本一になりました。2年というのは、大きな試合を2回しか経験してないんですよ。
僕たち人間は、潜在的にものすごく大きい能力を持っています。ただ、それが発揮できないのは、“間違った努力”をするからです。あるいは、勉強するのでも、自分を勇気づけるのとは反対の努力をしているから。不得意なところばかりに注目して、「まだあれができていない、まだこれができない」ということばかり気にしているから。得意なほうを見て、「あぁこれはもうできた、これもできた、これもまたできるようになっていってる」と思えば、いつもいつも前に進んでいくんです。
中学生になっても、分数の計算ができない子どもたちというのがたくさんいます。ある子どもが高校に行けるか行けないかを判断する最も簡単な方法は 1/2+1/3=? という計算をやらせる。それがすぐできる子は、何とか高校へは入れる。2と3を足して5。1と1を足して2だから2/5だと答える子は、相当テコ入れしてあげないと高校には入れない。では、その計算ができないこというのは駄目な子かというと、そうではなくて、例えば「2足す3」はできるわけだし、「1足す1」はできるわけです。それができるというほうに僕たちが注目すれば、この子たちを勇気づけることができるんだし、さらに次のことも学んでもらうことができる。でも、「君は 1/2+1/3 もできないのか。これもできない、あれもできない、全部できないじゃないか」と言うと、この子たちはすっかり勇気がくじかれてしまいます。
とにかく、われわれが新しいことができたり、困難を克服できるための絶対の条件は、思い上がっているということです。「私はできる」と思い込んでいること。思い込んだときに、「なぜならば」というのはあとから大急ぎでついてくることことなんです。「僕はきっとできる。なぜならば、えっと、何だったっけ。あぁそうだ」という具合にね。(回答・野田俊作先生)
Q
唾を手につけて顔をこする癖がある子がいるんですが、どのように指導したらいいでしょうか。
A
いいじゃないですか、趣味なんだから。これだって共同体にとって破壊的な行動じゃないと思う。なんでこんなことをするかというと、これをするとかまってもらえるから。注目を呼ぶための手段だからです。チックとか爪噛みとかは、みんなそうです。それをすると誰かが「やめろ」と言ってくれる。もしも、それをやめたらその子は何も声をかけてもらえなくなるんですよ、きっと。だから、こんな不適切な行動ではなくて、適切な行動に対してたくさん注目してあげてください。(回答・野田俊作先生)