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島秀生様、「意味の海」に評をいただきありがとうございました。
なかなか心の中にある景色を的確に言い当てる言葉が見つかりません。語彙の問題もありますが、どうも末端の出口の部分、表現の選択の部分に問題があるような気がします。これはもう実際読んでもらって場数を踏むしかないのかもしれませんが。
次第に私の作品も有り難いことに読んでいただく機会も徐々に増えてまいりましたので、そこを今後の課題として活かしていきたいと思っております。
今回はいつもと違って特別に何かを意識したというわけではありませんが、普段から何気なく考えていることを言葉にしてみました。お褒めいただきありがとうございます。テクはちょっとそう思われないように気をつけたいです。また次回よろしくお願いいたします。
こんにちは上田です。
この度は拙作「秋津の使者」をお読み下さり、ありがとうございました。
評を頂きまして、まず思いましたのは作品に対する印象に落差があるということです。チョウトンボからオオムラサキを連想されたのは意外でした。ヒコウキトンボとも呼ばれるこのトンボを「蝶蜻蛉」と漢字で表記したのは自分の工夫ですが、あるイメージを醸成して、「得体の知れない不思議」さを醸している、そのように評されるとは思いもしませんでした。
「秋津」と「みやびの色」がイメージに合わないこと、「ひらひらひら…」の書き方と「飛び方と速さ」のことを書いた点に矛盾があること、につきましては納得致しました。ご指摘のように直しますと、スッキリとした印象に仕上がり、とても気に入りました。ありがとうございました。また、投稿致しますので宜しくお願いします。
島様
こんにちは。
詩の評、有難うございます。
中途半端な感じになってしまってます。
反省です。
次回の投稿をさせて頂く時、同じタイトル、同じテーマで再挑戦させて下さい。
宜しくお願い致します。
1 大杉 司さん 「蝉」 7/28
蝉、鳴き始めましたねえ。やはり蝉は夏詩の超定番であります。アクセサリーとしての登場率も極めて高い。初連ですが、ミンミンゼミとアブラゼミは鳴き声ははっきり区別できる気がしますが、何か事情がありそうですね。この詩に書かれていることが生態学的にあったか、なかったか、を考えることもできますが、それはこの詩を味わうのに邪魔になるでしょう。―たぶんあったのでしょう。
この詩が面白いのは、詩が丸ごと”擬人法”的になっている点でしょう。人間社会に”翻訳”して読んでも充分読めるし象徴的です。そんな翻訳を通じて、又、蝉の世界に戻って来ると、なんだか、この蝉たちが、かわゆくもある。そんな詩ですね。やや散文的。詩性を含める余地は充分ありそうです。佳作一歩前で
アフターアワーズ。
あるアニメを欧州に輸出する時、作品に蝉の鳴き声が入っていたそうです。ところが欧州では蝉の鳴き声は殆ど馴染みが無いことを知り消して出した、そんなエピソードを聞いた事があります。
2 上田一眞さん 「ねがい」 7/29
「じょうでんかずま」さんの名前の風韻に通じる古格な味わいです。
文語の採用も程がいいです。むしろ情緒を付加するに一役買っていますね。「妻 ひとつ」「夫ふたつ」や「温かき(妻)」「強き(夫)」―この対位的アプローチはたぶん意図されたと思います。
いいと思います。詩は幻想的であり寓話的でもあるんですが、不思議と情景がありあり浮かぶ心地がします。詩行も節度とリズム(この詩の場合、韻律と言うべきか)があります。書き方も、二人の生き方も、こうありたいものです。佳作を。
3 凰木 さなさん 「穏やかな朝」 7/29
「壁にぶつかる~右にも左にも~」―自己の屈託を表現するに、このユニークな表現、いや、気に入った、心にヒットしました。こうした心情世界にも朝はやって来るわけです。「絶え間なく」から「なのでしょうか」までの詩空間、いいですね。穏やかながらも底力ある朝の恵みを充分感じさせます。評者のイメージで言うと、明け方ごろ、暗さを少しづつ覆して育ってくる明るさのような、そんなエネルギーが読み取れます。最後にちょっとアドバイスを。「そう思えてきます」は締めるには、ちょっと散文的か?前連で語っているわけですから「そう思えてきます」は言わずもがな、という感じです。
短い詩に合わせるように「〇〇〇な朝」など、名詞止めでもいいかもしれない。その際「穏やかな」はタイトルで使用済みなので、別の言葉を用意したいところ。今回から評価です。さしあたり二歩前からで。
4 エイジさん 「旅」 7/29
詩行タッチもモチーフも趣きを変えて来てます。これは意識された事と思います。
散文的あるいは掌編小説的です。私事ですが。ちょうどミウラも旅の詩を書く都合があって書いていました。詩上、ご一緒しましょう。
3つのパートに分かれそうですね。
① ……車窓の風景・事物。 ②……下車してたこ焼き。 ③……神社境内にて。
① は「追いかける」感覚、「風の形」「スネアドラム」が目玉でしょうか。(そっか、列車の音がスネアドラムか―あるかもなあ―)
② は、たこ焼きが、ひょうきんで素朴でいい味出してます。「たこ焼きが欲しいのですが」「六つで百円になります」―この生真面目なやりとりに隠されたユーモアや風情は、えも言えぬものがありますねえ。
③ は前半の動の風景に対して静の風景。その際立ちの中にあるようです。神社とたこ焼きの取り合わせもおもしろいですが、基調となるのはあくまで此処の佇まいと濃く流れる時間のことでしょう。
少し冒頭主旨に戻りますと、今回は技法や修辞的なことが影を潜め余計な修飾を避け、ありのままを展開して「プレーン」といった言葉が浮かびます。これはエイジさんの心情的なところから来たものだと把握しています。増えてきたコレクションの中で、こういった傾向もアリだと思います。少し様子を見たいです。評価は保留させてください。
5 久遠恭子さん 「七夕の悲しみ」 7/29 初めてのかたなので、今回は感想のみ書かせて頂きます。
よろしくお願い致します。そうですねえ、七夕は梅雨真っ最中なので、今ひとつメジャーになれないのも、この辺にありそうな気がしてます。雨のせいで初連のようなこともあるでしょう。詩はこの事情を基調として展開します。ところで、織姫と彦星は伝説上ではありますが、年一回は会っています。ところが、変な言い方になって申し訳ありませんが、この詩は会えない運命上で成立している。逆説的ではありますが、そこがかえってこの詩のユニークなところかもしれない。それは多分に雨という人間界の事情に拠ってはいるのですが。―というわけで、詩上、悲嘆が続きます。終連はそんな二人に同情したのでしょうか、願いで締め括られます。終句のみはちょっと“ベタ”な気がしますね。少し詩的な願いのありようを考えてみてください。 また書いてみてください。
6 晶子さん 「引きこもり」 7/30
まずゴーレムの基礎知識を得るよう努めました。そして、この詩を読んだ場合、ゴーレムと引きこもりといった繋がりにある奇妙さを感じました。そういった意味でこれは不思議な詩であります。わずかに奇怪とも言えるかもしれない。ゴーレムは直接は出て来ないけれど、発話主体の「僕」は注目していいかもしれない。そこで用意される仮説は「僕」がゴーレムという泥人形を自ら造ったということ。けれども造っておきながら、下記ゴーレムの属性に手を焼いているような気がします。詩はそんな伝わり方をするようです。
ゴーレムの属性……頑迷・閉鎖性(このあたり、タイトルに繋がるか?)・暴力性・主人への盲従性(主人はそれがかえって、うとましい?)
一瞬の動作でゴーレムは壊れる。それは主人次第なのだけど、当の主人がためらい、逡巡している、そんな風情です。対象が異風のせいか、詩の雰囲気も異色のものを感じました。晶子さんにおいて珍しい作品でしょう。 タイトルはちょっと違うと思います。もう少し、ドロドロ、奇怪、悪魔的でもいいと思います。これ、おもしろいです。甘め佳作で。
7 朝霧綾めさん 「朝が来た」 7/31
初連、全くその通りですね。そして中盤で2連、情景を出す。正常進化の流れでしょう。4連では少し方向性を変えていますが、これも初連同様、又然りです。終連では溢れるような好意を以て朝を迎えています。実に前向きで清々しいですね。これでいいと思います。もし、もう1連足すとするならば、手を振るに至った自己の心模様は書いておきたい。僕はこんな風に思っています。
〇〇〇〇年〇月〇日は、自分がこの世に一人しかいないように、この世に一つしかない。唯一無二。換えが利かない。一日とて同じ日はない。そんな、それぞれに新しい日を連れて来る朝も日々新しいとは言えそうです。そんなフィーリングを書いてもステキですね。だから朝霧さんは手を振るのかもしれない。佳作半歩前で。
評のおわりに①
LADY JULYは静かに去り
今や
暑苦しく タフガイの
Mr. AUGUST 闊歩
ミウラにとって
暑い日続くも事多し
評のおわりに②
朝の詩が二篇ありました。そこで思い出したのがー知ってる人多いと思いますが―谷川俊太郎氏作品「朝のリレー」です。
シンプルですが思いのこもった良い詩です。初めてのかた、よかったら、読んでみてください。 では、また。
朝早くゴミ出しに行くと
一頭の黄色い揚羽蝶が道を遮る
花のない
百日紅の木の周りを
無心に飛び回る揚羽蝶
ひらひらと飛ぶ様に
こころの淡い影を見る
百日紅の木から大合唱
見上げると
ジージー ワシャワシャ
ジージー ワシャワシャ
蝉時雨
にいにい蝉にあぶら蝉
チッチッ チッチッ
と鳴いて木肌を少しづつ移動する
あっ 落ちた
地中七年地上七日の生命の灯し火が
いままさに燃え尽きた
百日紅のすべすべの木肌には
無数の蟻ん子の列
蝉の死骸でも運びたいのか
七年と七日待ったのか
黒くて細い列がぞろぞろと続いている
蝶は舞い
蝉の声騒がしく
蟻は列をつくる
いよいよ夏本番
命燃え尽きるこの季節
記憶の彼方に夏休みがある…
・ビッグモーターの街路樹枯れる問題ですが、
除草剤は、取説どおりの適量に薄めた場合、街路樹みたいな大きいものは早々枯れません。中には雑草と一緒に枯れてしまう場合もあるかもしれませんが、あんな大きいものが一律に枯れるということは、まずあり得ません。
あれは、除草剤を原液に近い状態でまいて、故意に枯らしてますね。店舗の視認性を良くして、走ってる車から、店舗全体がはっきりと見えるように、前を塞ぐ街路樹をわざと全部枯らしたのでしょう。
そしてまた全店においてそうなってるということは、上からの指示で全部やっているということです。
除草剤を使ったことのある人なら、あれは故意だと、みんな思ってますよ。ふつうに適量で使ってたら、そんなに強いものではない。街路樹なんて大きなもの、ふつうは枯れるはずないので。
・本当に災害レベルの猛暑が続いております。
皆さん、無理をせず、どうぞご無事でこの夏を乗り切って下さい。
●江里川 丘砥さん「朝顔」
いつになく丹念に描きましたね。丹念に描いたとこは良しですね。
3連はつる、4連は葉、5連は花で、6連はその3つの計となります。そこ、構成ができているので、2~3連は一つにまとめた方がいいでしょうね。(初連は前提となるグリーンカーテンなので、そこはそのままで良しです)
日を浴びて咲く
青紫の 柔らかな花
強い風のなかを
舞い踊るように揺れる
葉はひっくり返り
打ち付ける風に煽られても
飛ばされず
伸びていく
壁の上まで
伸びていく
こんな感じ。
で、丹念に書いたあと、
やっぱり終連では、朝顔だけで着地せずに、ちょっと作者と絡めたい。
朝顔の生き方に学ぶ、という感じで。
一つ前から行きます。
大切な場所から
飛んでいかないように
風に逆らわず
なびくことで
生き延びる術を身につけた
ひと夏の命
ゆらりゆらり
身をまかせる (or我が身もまかせる)
こんな感じに、少し作者と絡めて終わりましょう。
ということで2ヵ所かな、一考下さい。
秀作プラスを。
●理蝶さん「夏の路端にて」
もしわかっているなら、あまり具体的でなくてかまわないので、死因のヒントぐらい置いていってほしいとこですね。この詩を読むと「路端」がキーワードになっているんですが、とりわけ、
あの子だけが知ってる夏の路端のこの暑さ
の詩行からは、路端が暑いから、真ん中を歩いてて事故にあったのかな? みたいなことも思ってしまって、ぼやんとした疑問が、この詩の読後感に残ってしまうので、冒頭のことを思ったわけですが、
作者的にはもしかしたら、花束の位置が端っこにあることをただ言ってるだけなのかもしれないのです。もっというと、作者自身も死因は知らなくて、電信柱の花束からの連想で書かれている詩なのかもしれないのですが。
もし、死因に触れずに、この詩から感じる疑問を回避しようとするならば、少なくとも交通事故であることを確定する必要があって、それはどのような道路のどのような場所の電柱のそばにあるか、ロケーションを書くことで回避できると思います。(電柱と電線は書いてくれてるんですが、もうちょい外回りの外観からということです。)
2連2行目以降の幻想的な情感、いいですね。
それで3連、花屋に向かおうという気持ちと、行く途中の4連で、他者にあの子の姿をダブらせてしまうところも。2~4連の情感の流れはとてもいいなあと思いました。
ああ、3連の2行目と4行目は、一字下げにするか、( )で閉じるか、した方がくっきりすると思います。
終連の「花屋で涼もう」は、今の季節の実感で、いいですね。
ただ、あっさり終わったなあと思う。もうちょっとボリュームつけた方がいいですが、せめて、
花屋で涼もう
じっくり花でも選んで
あの子の好きな色はなんだっけ
あの子の好きな花はなんだっけ
みんな忘れたふりをして
こうかな?
ということで3点言いましたが、ご一考下さい。
気力が抜けて、意識も飛びそうに、ふわーっと漂い歩いてる感がいいですね。
秀作プラスあげましょう。
●freeBardさん「開幕宣言」
最初は、「貴方」が個人に見えたので、恋の開幕宣言的なものかな?と思ったのですが、その場合だったら「貴方」を「貴女」にする方が的確だし、初連終行を見ると、この舞いは大勢の前で行なわれているもののようなので、個人宛のものには見えないので、それは違うなと初見の解釈は撤回することにしました。
「舞い」は比喩的に捉えていましたが、ここは素直に、本当の舞い、ないしパフォーマンスか大勢の前でやるものに受け取った方が、初連終行の解釈が成り立ちますし、文字通り競う要素がある大会なので、「開幕宣言」であり、結果判断を「貴方に委ねる」のだ、と解釈した方が、詩に書かれているいくつかのキーワードの、共通項が立ちますので、いちおう最終的にそういう解釈で読ませてもらいました。
もし、本当に何かを愛でる気持ちや、祝って書いているなら、具象の部分と抽象の部分はメリハリをつけた方がいいですよ。
具体を書いた方が、そこまでの自身の経緯もこのためであったと、情感が生きることになります。
全部を気取った言葉で書いているので、全部が抽象や比喩的なものに見え、したがい詩全体から距離を置いて読むしかなくなってるのが、この詩の読後感ですね。
読む側として距離を置くしかなくなってしまうと、愛でる気持ちや、祝う気持ち、自身の経緯に対して思う気持ちに対しても、全部、距離を置いて眺めるしかなくなってしまうのです。
結果、感動が5分の1も伝わらない。それでいいのか?と言いたいですね。
伝えるためには、抽象・具象のメリハリも、表現の緩急も必要です。どうやったら伝わるか、ということに、もうちょっと力点を置いて考えて欲しいとこですね。
情景の枠組みは書けているので、一歩半前とします。
●エイジさん「永遠の国」
初連、すごくキレイですね。この初連はぞっこんです。
ただ、終連でそれを、一部なぞって入るのはいいけれど、まるまるなぞって、それで終わりってするのはいただけない。
部分をなぞりつつ、また別の叙景フレーズを加えて終わりにしないといけない。そこは、もう1回考えないと!
例えば、誰もいなくなったガラス窓を、別表現で美しく描写して終わるとかです。
そこがもう一押し、足らんのよなあー
ストーリーはどこか哀しみが漂いながらもロマンチックでした。ストーリーは良かったと思います。それに応じた、いいムードも漂っています。
だから方向性としてはいい作なんですよね。
それと「しじま」の使い方がちょっとヘンです。「しじま」の意は「静寂」とニアーなのですが、用法に違いがあって、「静寂」は単独でも使われますが、「しじま」はあまり単独使用されないんです。「~のしじま」とか、あるいは「の」が付かないまでも、どれの「しじま」がわかる形で使用されます。
たとえば3連なら、
夜の波ひとつない水面のしじまに
吸い寄せられるように
少年を足を差し入れた
こんな感じですね。
「その水面はしじまだった」という、「AはBだった」的な使い方はしないですね。しかも原文だとその前に足を湖に浸けてますから、2行目段階で、しじまをもう破ってますよね。出してくる順番もおかしいです。たぶん「しじま」の意を他のものと取り違えてられてるんじゃないかと思われます。
2回使用されてますが、「しじま」の使い方はどちらもアウトでしょうね。
現時点は、秀作というところですが、
以上2点、直してもらったら、これ、もっと良くなる作だと思いますよ。化けると思います。
●凰木さなさん「泥」
うむ、悪くないね。おもしろい。
ただ、森の出し方だけが気になりますね。
序盤は、「走る」「泥水」「涙」だけに集中した方が話が深まると思いますよ。
こんな感じ。
泥水の上を
君は走っている
沈んでしまわないように
下を見ないまま
足を取られないように
振り向くことなく
ただ前だけを見て
歯を食いしばり
足元で跳ねた泥で
汚れるのも気にしないで
君は走っている
涙を流しながら
溢れる涙で
泥は薄れ
足元の水が
透き通ってゆく
やがて森に入ると
小さな魚の群れや
水草や水中花
浅い川底が姿を現し
綺麗な水が君を洗う
浅瀬から岸に上がると
その先は見渡す限りの草原
この流れの方が良くないですかね? 案ですが。
序盤、せっかく登場人物の必死さがあるので、画面上も、いろいろ出さないで、少ないアイテムで集中した方がいい気がしました。
あと、終連終行、
草原に風の音を残して
で終わってて、「音」感が大事にされてるんですが、
その伏線として書いている、
風が優しく吹き
颯爽と音を響かせる
の連の「音」感が、どうもはっきりしないし、「優しく吹き」と「颯爽」も、風の強さが違うものの感じがする。
今の状態だと、むしろ足を引っ張ってる気がするので、この連は削除で(削除しても、次の連で話は繋がります)、「音」は終連だけに委ねた方がいい気がします。終連だけで、読者の想像に「音」を任せてもいい。
あるいは風は、草原に「流れる」だけでいいのかもしれませんよ。「風の音」というと、どうしても強めの風を思ってしまうので。
ということで、以上2点につき、ご自分で一考してみて下さい。(私への回答は不要です)
一考を条件の、秀作としましょう。
粘り強く、よく書けました。この調子で。
前回ちょっと気になった「作者の位置(視座のことです。その詩において、どういうサイドから作者は見てるのかってことです。私らはつい、フツーに使ってしまうんですが、もしかしたら詩の専門用語かもしれませんね。詩の鑑賞においては必須のものの1つです)」についても今回、一歩客観に置いたナレーション的な立場で「君」を追う視点は一貫していて、ブレは感じなかったのでOKです。
●水野 耕助さん「沈んでいく」
ちょっと解釈がいくつか複数できる詩に思うのですが、
まずもって「自分の中に沈んでいけ」の言葉を、能動的・積極的(意義があり、マジメにそんなに悪いものではないと考えている)と受け取るか、
どうしようもなく沈んでいってしまう自分に対して、それを止めようと抵抗すること自体をやめ、身を任せている感じの意か。
この終連をもってしても、二通りの受け取り方がありますね。
ただ前者のような自己追求型だと、「誰の声ももう届かない」というような他者の眼意識は不要なものなので、前者ではなく後者と受け取るのが順当かもしれません。
あんまりいい精神状態じゃない感じの詩にも読めますね。
よく自分の内面は深海や海底に例えられます。そのように考えると絵に描きようがあるのですが、「すべてがある」という言い方を短絡的にいきなりしてしまうと、それ以上、描きようがなくなってしまうし、
もっと言うと、わかろうとする方もいきなり「すべてがある」と言われてしまうと、白壁を押しつけられたのと同じで、わかるための術や取っ掛かりが一切なくなってしまうので、入りようがなく、入る気もなくなってしまいます。
それ言うと、表現上もストップするし、内容の方向性においても読者的にもストップするので、のっけから使う言葉ではないですね。
いろんな方向から個々に調べて述べた上で、もし「すべてがある」と言えるものでならば、最後に「すべてがある」と言うべき、と考えます。
そのへんが、この詩が広がらない由縁ですね。思考って、思考のプロセス部分を書き留めることも大事なんですよ。
半歩前とします。
●じじいじじいさん「あおとあおとひかり」
方向性はいいし、アイデアもいい詩だと思います。
でも、そこだけで終わっちゃいましたね。
話に発展性がない。それに尽きます。
しかも、この短い作の中で、
あおとあおとひかりに
みんなはつつまれていきているから
と
あおとあおとひかりのおかげで
みんながいきているんだから
も、ほぼ同じだし。
ほぼほぼ最初で立ち止まったまま状態の、作に見えます。
一案ですが、
「みんな」という言い方は、案外と漠然とした言い方になるので、終始「みんな」で書くところから間違ってるんじゃないですかね? 「みんな」は最後だけにして、「ぼくたち」から初めてはどうですか? 「ぼくたち」で始めれば、ぼくたちの具体的なこと、日常的な場面も、自ずと、あいだに入ってきて、話が展開することと思いますよ。
方向性としてはいい作なので、安易に終わりにしないで、じっくりと作を温められてはいかが?と思いますよ。かなりもったいないことしてます。
これは制作途上のものに見えるので、評価は保留にします。
●小林大鬼さん「炎天」
想いの方向自体はいいのですけど、まだちょっと、部分だけを合致させて済ませようとする、無責任なとこがあるんですよね。
本当に考えてるんなら、もうちょっと書くことがあるでしょう、と言いたい。
具体的にいうと、あと2連~3連は入らないといけない詩だと思いますよ。なにが足りないのかは、自分で考えてみて下さい。
小林さんの詩は、いつもこういうふうに、部分だけ合致させて済ませて、深く入らないんですよね。そこのところは直ってないと思いますよ。
悪い言い方をすると、「ちょっと触れて終わり」「匂わせて終わり」の詩が多いんです。
たぶん即興モノでしたら、こんなふうにサッと触れるだけでマルになるんでしょうけどね。印刷物にして読んでもらうつもりがある詩であれば、テーマがなんであるにせよ、もう一歩踏み込んだとこまで書かないとダメです。この点については、もう口がすっぱくなるほど言ってますが、一向に直す気がないように見えます。早くそこから脱してほしいと思うけど。
(小林さんの暖簾に腕押し感は、これに限らずもう何年間もずっとですからねー。私、初期にそもそも即興でここに書きに来るのはダメだ。過去にも即興で書きに来てた人は何人かいたけど、誰一人として、前に進んだ人はいないからやめなさいと、絶対3回以上は注意したと思うんだけど、一向に聞かなかったから、案の定な、歩みなわけです。即興で書きに来てた間は、あまり前に進んでない。ゼロとは言わないけど、遅々としたものです。
自作の控えを取ってないから、評をもらっても照合できないし、しない。だから前に進むわけがないのです。小林さんが延々遠回りしてる理由は、かなりはっきりとしてます。)
この詩に関しては、きちんと推敲されてるようで、概略悪くない詩なんですけど、というか外枠のとこではできてるんですけど、一歩踏み込むとこが依然として直ってないんで、半歩前とします。
小林さんは、今ここに来てる中で一番のベテランさんですからねー。ちょっとキビシメに行かせて頂きます。
●上田一眞さん「秋津の使者」
見た目の群青色感と言われて、最初に思いつくのはオオムラサキ(日本の国蝶)でした。他の蝶のような、ひらひらした飛び方をあまりせず、飛翔速度が速いところも、この詩で描かれたものに似ています。
というわけで、私の印象はまあオオムラサキでしたが、それと特定せずに「蝶蜻蛉」と表現されたのは、それはそれで得体の知れない不思議さがあって、古から飛んで来たものとの想像を巡らせるにふさわしく、グッドだと思います。
概ねいいんですがね、2点引っ掛かることがあって、
「秋津の国」という言葉と、「時空を飛び越えて」の言葉がセットになって、タイムワープを思わせますが、秋津洲という言い方は神武天皇が始まりで、古といっても、そういう紀元前の古を想起させるものですので、終連終行の「みやびな色」(平安時代を思わせる)と合わないのです。
なので、終連終行の「みやび」は別の言い方を使うか、せめて「みやびな群青の移ろいに」と、後ろに来る色を固定するか、した方がいいです。「みやびな色」のまま放置しない方がいいです。
もう一点は、「ひらひら ひらひら ひらひら」です。イメージを取る分には、むしろフツウの蝶のような羽ばたきで「ひらひら ひらひら ひらひら」の、今のままの方がイメージが取りやすいくらいなのですけれどね。
どっこい3連で「蝶蜻蛉」の由来となる、飛び方と速さのことが書いてあるでしょ? ここと矛盾するのです。
3連に沿うならば、スピード感つけて「ひらひらひらひら」くらいの方が、いいでしょうね。
気になったのは以上2点です。ご自身で一考してみて下さい。
上田一眞さんは、私は初めてですので、今回感想のみとなりますが、とてもおもしろい作でしたよ。
●妻咲邦香さん「意味の海」
実力があるのはわかってるんだけど、なかなかジャストミートしない人よなあーと思ってたんですが、
これは珍しくジャストミートしましたね。名作あげましょう。良かったです。
「一番遠くまで行けそうな気がしたから」は、いい言葉ですね。選択理由として、これ以上の言葉はないかもしれん。
「一面は意味の海」は、詩や文学を示唆する、ここの脈絡からは話はずれのですが、情報過多の今の時代を指す言葉でもあるな、と思いました。
さっきまで拗ねていた子供が
突然いい子になってお菓子をねだるように
この比喩、いいですね。この比喩もぞっこんです。ここもジャストミートです。
その連の最後の、「かくれんぼの鬼になるしかない」、の覚悟は、これも詩や文学に限らず、今の時代を生き抜くのに必要なのは、このような意志かもしれないと思われ、深く感じ取りました。
終盤で「人」を出すのは、ちょっとテクっぽい気もしたんですが、そこまでの話を抽象に浮遊させないためにも、ここで「人」を出してきて、「人」に定着させるのは正解だと思いました。
もしかしたら、裏に、作者の別の意味が隠れてるのかもしれませんが、私は今回、気持ち良く読めたので、というか読者サイド的にはこれ、素直に深く読める作だし、一部特定の人間に限らない、現代人への共通項がある。
いい詩だと思います。代表作のラインナップに入れてもいい作だと思いますよ。
みとめられないことを
みとめられず
ただ、さけをあおった
さけのざつみしか
うつらない夜
おれは
さびしくて
おんなに
でんわをかけた
おんなはでなかった
ああ、しかし
かみさまのでんわばんごう
どうせ、有料なんだろ
おれは
さけをあおる
アルコールのむこうがわ
ろくなもんじゃないことは
わかっちゃいるよ
ほんとうだよ
そうはみえないだろうけど
駅前の中国人男性二人で切り盛りしているラーメン屋か
この時間、まだやっているかどうかわからないインドカレー屋に行こうか
と思った
しかし
のみすぎた
しきっぱなしの
ふとんに
たおれこみ
ねた
真夏の夕暮れ。
街を歩けば夏の声。
つんざく蝉のやがて消えゆく合唱。
鮮やかなオレンジに実ったホオズキの鉢を
持って歩く男性の姿。
しぼんだ朝顔は朝に向けてうつむき
夕顔は微笑んでいる。
風鈴が奏でる風の一つの音。
街もあかりを灯し始める。
車のヘッドライトとテールライトが
奏でる光の流線形。
夏空の蒼い音。
真昼の入道雲はもう見えない。
茜色に任せるままたなびく姿は
淡い煙のような雲。
涼しい時間帯で歩けば
汗ばむ私の体。
冷たい水とミネラル。ラムネ。
夏は一つの楽器じゃない。
ひとつひとつが儚い命のオーケストラ。
奏でる盛夏。
やがて晩夏が訪れ
消えゆく音に
音符の一つは結晶のように溶けて
今年の夏は終わるのを私たちは知っている。
1番星見える時、星の音するんでしょうか?
いつになったら
理解するのだろう
歎いたところで
どうしようもないことを
水玉風船を壁にぶつけるように
自分の苛立ちを書きなぐったものが
水玉風船が壁に当たって弾けるように
体中に毒素となって巡っている
解毒されないまま
いずれ海馬に到達し
脳を蝕むだろう
シャクシャクと
病魔が私を食べている音が
時々はっきりと聞こえる
いつになったら
理解するのだろう
どこにも存在しないのなら
どうしようもないことを
満月の今日、独りSionを聴きながら
酒焼けで嗄れに嗄れた彼のヴォーカルに
普通でゐられず世間から弾かれたものの悲哀を味はひつつ、
かぶくものの強さに思ひを馳せる。
翻って吾はといふと、
将にSionと同じやうなもの。
朔太郎、中也、ランボー、ブレイク、イェーツ、リルケなどに憧れつつも、
この思考の即物的な癖は治りさうにない。
そもそも吾には比喩力が皆無なのだ。
それでゐて、浪漫派的要素を色濃く残しながらも
独自の幻視世界を作り上げてしまったヰリアム・ブレイクには特に憧れが強い。
地平より昇りし赤い満月の不気味さに戦きながら、
科学的にいってしまへば浪漫もへったくれもないのだが、
地平近くの満月が赤いのは、
地球の大気を遠くまで通る太陽光のうち
波長の長い赤色の光線以外散乱してしまふからに過ぎぬ。
だからといって不気味といふ印象は吾からちっともなくならない。
科学的論理と吾の感覚との齟齬は今に始まったことではないが、
この齟齬を埋めるものは
今のところ吾が科学的論理よりも感覚を優先することでしかないのである。
それでは人間の進化は起きないと自嘲しながら
それでゐて、科学的論理、特に数理物理の論理に目がない吾は、
一度数理物理の本を読み出すと徹夜しても時間が足りないほど熱狂の中にゐるのである。
とはいへ、その数理物理と吾の五感との齟齬は、
どう足掻いても結びつかずに、
吾の存在にとって五感が先立つのである。
それを追って数理物理の論理がやって来るのであるが、
五感は頑なに数理物理の論理を拒否してゐて
しかし、それは生きるものにとっては当然で、
いざとなったときに数理物理の論理は大いに役立つ筈なのだが、
生き残るのに五感に信を置いてゐる馬鹿な生き物が人間なのだらう。
ただ月満ちて、吾あり。
Sionのヴォーカルが心に染みて
吾、パイプ煙草をふかすのみ。
月明かりの夜空は濃い藍色をしてゐて、
吾が心の鏡に相応しい。
夜空はやがて数珠つなぎの球体群に変化して
その球体の一つ一つが完結した宇宙を表し、
その直後に巨大に合はせられた手が現れ、
数珠つなぎの球体群は
その巨大な合わせられた手にかけられ
何処よりか般若心経が聞こえてくる。
その響きは上空に昇って行き、
さうして闇に呑み込まれた。