◆ここは「MY DEAR掲示板」です。
詩をある程度の期間書いている方、詩に意欲的に取り組みたい方、詩人に向け成長を目指す方はこの掲示板をご利用下さい。
あなたの詩をしっかりと読み、評や感想を、しっかりと書かせて頂きます。
ここから詩人として巣立った人は数知れず、です。あなたの詩を継続的に見守り、詩の成長を助ける掲示板です。
(あのーー、私が言うことでもないんですけど、詩は自由を旨としていますから、どこにでも投稿しようと思えば、投稿できないところはないんですけど、いきなり大きなところに挑戦しても、世の多くのものがそうであるように、ポッと書いて、ポッと通用する、ポッと賞が取れる、なんてことは、まずありえないことというか、相当に稀有な話なのです。
やってみることは止めませんけど、大きなところのノー・レスポンスにがっかりしたら、
あきらめてしまう前にMY DEARに来ませんか?
MY DEARは投稿された作品全部に評をお返しします。
本来、こつこつ実力をつけてから、賞などに挑戦するのが、スジだと思いませんか?
MY DEARはあなたのこつこつを、支援するところです。)
なお「MY DEAR掲示板」では、新規ご参加の際に、ペンネームとメルアドの届け出が必ず必要です。
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緩やかな上り坂の
街灯のない夜道
2本のソヨゴの常緑樹に
冬なのに黄色い大ぶりの花
車のヘッドライトに
華やかに照らされる
まさか?と思って近寄ると
街路樹のイチョウの葉が
降りかかっていたのだった
大小の葉がちょうどいい高さと
間隔でソヨゴの枝に落ち着き
赤い小さな実が喜んでいる
冷たい路面に落ちた葉は
点字ブロックのところだけ
無事 もとの形
周りの葉は踏まれて
形が崩れたり裂けたりで
少し無念そうに
ソヨゴを見上げていた
翌朝には
ソヨゴの花は消えていた
赤い実だけが光って
寂しそうに揺れていた
路面の葉は
道路脇に吹きためられ
道の凹みには
小さな葉のカケラ
隣人に黄色い花を贈って
今年の最後の仕事を終えた
枝に残った葉
風に任せて別れの手を振り
イチョウはしばし冬の眠りに
あさおきて すぐにかーてんをあける
かーてんから せせらぐように ひかりがふくらむ
ひかりがふくらみ あたたかいあさにみちる
おはよう どあのそとから おかあさんのこえ
あさごはんは すふれぱんけーき
にちようびだけ おかあさんは
あさごはんをいつもより すてきにしてくれる
ふっくらふくらんでいる すふれぱんけーき
めれんげをちょうどいいあんばいで かきまぜないと
できないのだと おかあさんはいう
あつくない ほんのりあたたかい
ふわふわ ぽかぽか
においにつられて ねこのたまがきて にゃおとこえをあげる
わたしにも ちょうだいってことかな?
わたしより すこしおくれて おきてくる おとうさん
きのうは のみすぎた という おとうさん
ぽんぽこした おなかを さすっている
おおきくそだちすぎた ねこのたまみたいだなとおもう
たまはのびをしている このときだけ おなかがめだたない
おかあさんのおなかも だんだんと おおきくなっている
おなかのなかに あかんぼうがいるのだ
それをおしえてもらったときに
このすふれぱんけーきと おなじにおいがしたのを おぼえている
おかあさんのおなかが あたたかくかんじた
ふくらむおなか
ふくらむあさ
ふくらむあたたかさ
わたしのなかにふくらむなにか
たまの おなかを なでる
このときとは ちがうきもち
このきもちのなまえは なんだろう
水無川 渉様 今回もお読みいただきありがとうございました。また、佳作の評をいただき、うれしいです。子どものころには色々な体験をするものですが、それらがどのように人格形成に結びついているのかについて関心を持っておりまして、作品化を試みてみました。もちろん、トラウマとなることも多いとは思いますが、忘れていた記憶がよみがえって、自分の行動を助けてくれるということもよく経験するように感じております。いただいた修正部分のご助言ありがとうございます。早速修正いたしたく存じます。水無川様また評者の先生方にはお世話になりありがとうございました。良いお年をお迎えください。今後ともよろしくご指導をお願いいたします。
君と僕 二人階段登って転がり落ちた
心の中は解けて大空いっぱいに
シャボン玉飛ばして一つ一つ割れてゆくけど
二人はいつまでも壊れたりしない
だけどまだまだサイン一つじゃ分かり合えないから
織姫と彦星のようにお互いをたった一つの
存在になれる時まで夜空を羽ばたくよ
決して手の届かないくらい遠くにあるものに
手を伸ばす大切さを知ったのは
君を好きになったからだった
君の話を聞いて僕の話をする
そんな些細なことで有頂天になってしまう僕がいた
時に悔しくて悲しいこともある
笑顔ときどき涙 そんなこともあった
君は悲しい話も楽しい事のように話す
そんな君がとても愛おしくて
そして君の話の後に僕の話をする
さり気なく君のことが好きだと思わせるような話を
それって逃げてるかな
でも上手くいくような確かな予感
そして君の番 真っ直ぐに僕の目を見つめて
少し微笑んでいる
今度は僕の番 さり気なく手を握って
ゆっくり歩き出す 君はうつむき加減で
少しだけ照れている
そんなことしているうちに君の家に着いた
家に寄って行ってと君は言った
そして君の部屋に入りベッドに座った
君は 私を抱いて キスをして 抱きしめてと
連続攻撃
僕は深呼吸を一つして君を抱きしめた
今はこれが精一杯
君ときどき僕 二人の関係はそんな感じだ
それは今年初めての雪の日だった
タイトルは破れかぶれに勢いでつけてしまったので、分かりにくかったかもしれません。タイトルはずーっと課題のままです……。
パンダの箸置きのしっぽの黒が気になる自分を他所では言えないから、詩で書いている自分。
匿名の皮でしか言えないけど、白は白だと言えたらなぁと思いでつけました。
詩のテーマと距離があるとは思います。「白は白」思いついたことがことがあるので、
他の評者の方になりますが、来週か再来週あたりに書いてみたいと思います。
佳作の評ありがとうございます。
評で特に重く受け止めたい部分は……
> たとえば特定の人種の人々の身体的特徴をデフォルメしてその「野蛮さ」や「他者性」を強調するような表現は決して許されるものではないでしょう。
ここですね。MY DEARでも差別的な表現はアウトと明文化されていますし、自分自身でも書きたくない内容ではあります。
差別に映る偏った考え方が無自覚に出てしまい、それが叩かれるのはネットを見ていると常々あるように思います。
匿名性の分厚い皮と、エコチェンバーの偏った肯定の皮に覆われ尽くさないよう、バランスを保っていきたいと思います。
詩というか、人としての振り返りになりましたが、
ありがとうございます!
十三歳。
あなたの声は、空に浮かぶ風船のように、軽やかで儚かった。
「大好き」
僕より二つ上の彼女は、きゃあきゃあ騒いで、
ウサギのように跳ね回り、
「可愛いね、ほんと可愛い」としきりに言った。
僕は少しだけ愛されていた。
卒業と共に彼女は去った。
あなたの瞳に、僕が映っていたこと。
それが誇らしくて、恥ずかしかった。
僕は、あなたのように人を愛したい。
その頃、僕には好きな人がいた。
「何読んでるの?」
彼女は、窓際で本を読む僕に、そう話しかける。
「学級文庫」
「面白い?」
「別に、普通」
君は一瞬だけ眉をひそめて、「そう」と呟くと、そっけなく歩き去った。
その背中に揺れる長い黒髪のツインテール。
似合っていないと伝えたかった。
ある日、廊下で掲示板を見ている僕に、
彼女は「ねぇ」と呼びかけた。
そして、「あのね」と耳元で囁く。
「××ちゃんが、君のこと好きなんだって。
それで、付き合って欲しいって」
僕はその場にへたり込んだ。
「伝えたからね」と言って、彼女は去った。
××ちゃんとは、うまく行かなかった。
僕は理由を言わずに別れを告げて、
××ちゃんを遠巻きにして胡麻化した。
十四歳。
ツインテールの彼女とも、××ちゃんとも別のクラスで、特に何もない平和な日々が過ぎた。
昼の学校、夕方の部活、夜のスポーツクラブ。
僕は本も読まなくなった。
それでも心の奥には、来年のクラス替えに期待する自分がいた。
十五歳。
ツインテールだった彼女はショートカットに変わり、僕らは同じクラスになった。その変化は、僕の自意識よりも鮮明に、彼女がどこか新しい段階に移ったように感じさせた。その後、同じアニメを好きだと分かり、僕と彼女の距離は縮んだ。
秋ごろ、二人きりの廊下で、僕は、
「好きです」と彼女に言った。
「考えさせて」と彼女は言った。
それから、彼女は返事をくれなかった。
ある日、彼女は教室で、
「どうするの」と言う友達に、
「なんかもう、面倒くさい」と口走った。彼女は、教室の入り口前に、僕がいると知らなかった。
僕は行く当てもなく図書室へ行った。
本を手に取り読み始めたが、すぐ面倒になって止めた。僕は二度と彼女に話し掛けず、時々何事もなかったのかのように話し掛けてくる彼女に応じるだけだった。
冬、部活動の送別会の後、一つ下の後輩が、僕にお菓子と手紙をくれた。その手紙は恋文だった。想いのつづられた最後には「また部活に来てください」と書いてあった。
人間関係のいざこざがあり、僕は引退したら二度と部活に行かないと決めていた。渡す機会もない手紙の返事を書くこともなく、ただ無言のまま卒業までの日々は過ぎた。
今になって、涙が出る。
君に会いたくない訳ではなかった。
僕は、君のように奥ゆかしくありたい。
十六歳。
高校で、春から夏まで勉強に打ち込んだ。
大学進学、その先の将来のことも考えていた。
しかし、それから、またどうでもよくなった。
そして、学校を辞めようかと考え始めた頃、
クラスメイトの女子の一人が、僕に視線を送っていることに気が付いた。
不安定な均衡が始まった。
僕は高揚と恐怖を覚えた。すっかり白々しい心で、様変わりする一貫性のない心象を往復した。相手を見透かしてほくそ笑んでは、自分がなんて浅ましい男なのかと震えた。
十七歳。
僕は夏になる前に、学校を辞めることを教師に伝えた。両親は僕の自己責任を尊重した。
クラスメイトには伝えていなかったが、終業式の日に、僕は彼女に呼び出された。夕方、四階の端の空き教室で、彼女は僕に告白をした。
僕はへらりと笑って、
「ごめん」と言った。
なぜ笑ったのか、なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。笑う必要はない、謝る必要もない。なぜ、せめてもう一言「ありがとう」と言えなかったのか。
それから僕は学校の人たちと連絡を絶ち、二度と会わない人間を増やした。
今思えば、僕はあの時、
孤独から抜け出るための、最後の機会を逃したのだ。
僕は、あの子のように、勇気のある人間になりたい。 もっと素直な人間に、人から逃げない人間に、 過去を受け入れる人間に、なりたい。
十八歳。
何も言わず、初めて女と手を繋いだ日に思った。
(君は僕から何を奪うの?)
「幸せ」と、彼女は言った。僕は幸せだろうか。
「緊張するね」と、照れて笑う君に心が冷えた。
「ねぇ、こっち見て」これ以上、僕を見ないで。
僕は彼女と何度か夜を明かした。寂しげに、「待ってるから」と言った彼女に、僕は決して手を出さなかった。まるで呪いだと思った。
そして最後はすぐに来た。
「もう限界。別れよ」
と、彼女からLINEが来た。僕は怒りが湧いてきた。そして真夜中のぼやけた頭で、一気に文字を打ち込んだ。
「僕はあなたが嫌いです。他人に甘えた態度が気に入りません。君がそうやって生きるのはある種の美徳 かもしれません。でも僕は君の責任なんて負いたくありません。僕のぎこちない態度は君を傷つけたと思います。すみませんでした。」
こんなことしか言えない人間になる前に、僕は他人を愛するべきだった。もっと踏み込むべきだった。人に愛される幸福も、誰かを愛する勇気の女神も、充血した目で睨む僕を見て、すっと目をそらした。
お待たせいたしました。12/10~12ご投稿分の評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。
●松本福広さん「パンダの皮をかぶりたい」
松本さん、こんにちは。パンダのしっぽは本当は白だということを、私も初めて知りました。日常のちょっとした気付きや疑問、「ひっかかり」にこだわるというのは、詩人の特徴の一つではないかと思います。私自身、詩を書くようになってから、それ以前よりずっと身の回りの世界の細部に注意を払うようになったと思います。ですからこの詩はまず着眼点が良いと思いました。
そして、この詩では「白と黒」が鍵となるイメージになっているようです。最初は文字通りパンダの毛色について語られているのですが、いつのまにかそれは抽象的な価値判断を伴った意味を持ち始め、最終行の「私は・・・白ではないようだ」に行き着きます。このような全体的な構成、展開も自然で巧みですね。
この詩のタイトルの意味はよく分かりませんでした。本文に「パンダの皮」は登場せず、代わりに「常識の皮」について語られていますが、後者については日常に潜む小さな真実から目を背ける妥協的な生き方として否定的に捉えられているようですので、語り手である「私」がそれをかぶりたい訳ではないと思います。もしかしたら「私」は今かぶっている「常識の皮」を脱ぎ捨てて、ちゃんと白いしっぽのついた真実なパンダの皮をかぶりたいのだろうか、と思いました。
箸置きの写真もありがとうございました。ここからは蛇足ですが、調べてみますと、昔パンダのイラストやキャラクターデザインを手掛けた人々が、しっぽが黒い方が可愛く見えるということで、黒いしっぽのパンダを描くようになったことから広がったようです。でも確かにしっぽが黒いほうが何となく可愛いと感じてしまうのは不思議ですね。そして多くの人々のイメージの中では、しっぽの黒いパンダのほうが「リアル」な存在なのかもしれません。
それが良いことなのか悪いことかはよく分かりません。たとえば特定の人種の人々の身体的特徴をデフォルメしてその「野蛮さ」や「他者性」を強調するような表現は決して許されるものではないでしょう。しかし同時に、客観的事実の正確な描写だけが「リアル」ではない、ということもまた言えるのかもしれません。詩という世界においては、しっぽの黒いパンダもまた、ある意味ではしっぽの白いパンダ以上にリアルな存在でもありうるのではないか・・そんなことを考えました。
日常のちょっとした気付きから読者を様々な思索にいざなう、興味深い作品でした。評価は佳作です。
●温泉郷さん「守り神」
温泉郷さん、こんにちは。子どもにとって、夜の家というのはいろいろな想像をかき立てる未知の世界ですね。私自身、布団の中から薄暗い豆電球に照らされた天井を眺めていると、羽目板の木目が得体のしれない怪物の顔のように見えてきて恐ろしかったのを覚えています。
この作品はそんな子どもの心理を巧みに描いた詩ですね。でもこの詩では、天井裏に潜む「何か」は実は恐ろしい存在ではなく、「子ども」を見守り助ける「守り神」だったという展開が意外でもあり、心を和ませる内容になっています。しかも、その「何か」が良い存在なのか悪い存在なのかは最終連に至るまで明かされず、サスペンスが持続する構成になっているのが効果的です。「守り神」というタイトルで最初に種明かしがされているとも言えますが、逆にこれがないとどういうことなのかわからずに終わってしまう可能性もありますので、このタイトルはこれで良いと思います。
子どもは成長するにつれて、かつてその実在を信じていた幻想的な世界に興味を失い、恐怖も感じなくなる。けれどもその「何か」は子どもの心の中に生き続け、しかも成人した後も人生の中で時々助けを与えてくれる・・。その「守り神」が実在する何かであれ、子どもの心の中だけに存在する想像上のものであれ、そういうことはあるのかもしれませんね。だれの心の中にも、そういった「守り神」はいるのかもしれません。
一つだけコメントさせていただきますと、最終連で突如「君」が登場します。これが前の連まで一貫して言及されてきた「子ども」であるのはすぐ分かるのですが、やや唐突な感じがしますので、この行「成長した君を」を「かつて子どもだった君を」としてはどうかと思いました。もちろん「成長した」でも同じことを言っているのですが、「かつて子どもだった」の方がややつながりが自然かと思います。ご一考ください。
懐かしさを感じるとともにどこか心温まる、素敵な詩でした。評価は佳作です。
*
以上、2篇でした。2024年もあとわずかですね。今年もたくさんの素敵な詩に出会うことができて感謝しています。島様はじめ、皆様には大変お世話になりました。どうぞ良いお年をお迎えください。
お忙しい中ご講評下さりありがとうございます。
ご指摘頂いたように私は何か一つ面白い描写が出てくるとそこで満足してしまう傾向、そしてそういうパーツを集めて書けたらすぐに投稿してしまう癖があり、物語性のある作品を作る際にはまあまあ弊害となっております。できたと思っても一晩以上寝かせて添削する努力が必要かもしれません、、、
頂いた貴重なアドバイスを基に良い作品を作り直したいと思います。また、次に批評して頂ける際もどうぞよろしくお願いいたします。
島様、評をありがとうございます。
迷いながら言葉を書き出しているので、ディテールや文体を魅力的と言っていただけて嬉しいです。
しばらくセリフ調の表現の勉強を続けていこうと思います。
ご指導よろしくお願い致します。
評をありがとうございます。
面白いとおっしゃって頂き、大変嬉しく思います。
本田宗一郎や山葉寅楠など、遠州の創業者達は、きっと「ねえたらくわず」を憎んでいたのではないかなと勝手に思いますが、遠州の「やらまいか」精神に対して、駿河は「やめまいか」になってしまうとか。「やらまいか」も否定ではなく、やってみようよのようなチャレンジ精神。「やめまいか」はやめようよという消極的な考えです。
最後のジューンブライドは強引かとは思いましたが、どんでん返しになっていますでしょうか。