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青島江里様
評をいただきありがとうございました。大変励みになります。
作品に登場する彼は、知り合いの男性なのですが、
その話をもとにかなり想像して膨らませてしまいました。
いくつかご指摘いただいた点、しっかり考えてみたいと思います。
今後ともよろしくご指導くださいますようお願いいたします。
雨音様
評をいただきありがとうございました。
好意的にお読みいただき 大変励みになりました。
糸車をネットで見てみました。
これまた ものを干すのに打ってつけですね!
今後ともよろしくご指導くださいますようお願いいたします。
こんにちは。上田です。
いつもながら鋭い観察力、凄いです。
確かに瘋癲病院で聴いた音は文字に表すことが出来ないような声でした。それをあのような表現にしたのは、50年後に精神病院で聴いたものを同じと推定して持って来たのです。ですから正確には幼い頃聴いた声とは違います。
少し状況を説明いたします。
幼い頃、母の実家に行くとき、岩徳線の駅で降りて、約二キロの道のりがありました。途中国道二号線(旧山陽道)の峠越えの道を歩くと、小さな平屋の黒い病院がありました。瘋癲病院です。看護婦だった母の学友が勤めていたそうです。ぼくは薄気味悪くてそばを通るのが嫌でした。いつもお経を読むような声がしたからです。文字にならない言葉です。
長じて、精神病院にお世話になったとき、僕は入院はしませんでしたが、担当医の診察室が、入院患者棟にあって、入る機会があったのです。鍵がかけてあり、外来は普通入れません。
病棟入口に事務室があり側には大部屋があって、見張りの必要な患者が常時四〜五名いましたね。彼らは統合失調症の患者で壁に向かって話しかけたり、意味不明の言葉を発していた、そういう状況でした。
もう十年以上前のことですが、流石に忘れられません。本作ではこの声の部分だけがフィクションです。そのように説明が必要でした。失礼しました。
今回も御感想ありがとうございます。
圭作一歩手前嬉しいです。この作品は僕が若い頃
彼女に薔薇を送ったことがあることから思い出しながら書いたモノです。経験談は今までもちらほらあるのですが、これはなかなかに印象が濃いものだったので懐かしく感じました。これからも頑張っていくので宜しくお願いします。
批評ありがとうございました。
佳作との評価ありがとうございました。
やはり批評はありがたいですね。
自分の気づかない事を教えてくれるので。
また投稿します。よろしくお願いします。
おはようございます。
詩を読んでいただきまして、ありがとうございます。
最後あたり、もう少しコンパクトにして、研磨しきれる箇所は研ぎ澄まして読みやすくできる余地があったかもしれないと思いました。
これもふまえまして、推敲の練度を高めていかねばと思いました。
評をありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。
今回も私の詩に丁寧なご感想をいただき、誠にありがとうございます。
投稿させていただいた作品は、歴史上の様々な事実を参考にしてはいますが、フィクションです。
その分、却って歴史上の悪役に匹敵するほどには悪に徹しきれなかったのかもしれません。著者(わたし)
の甘さが出てしまったのでしょう。
長崎高資、その人も大河ドラマで見たことがあります。確かNHKの「太平記」で
登場していました。落ち目の執権北条氏を対抗勢力から守るため、権謀術数を駆使
する役で、フランキー堺さんが熱演しておられました。
今後とも、どうかよろしくお願い致します。
2024/6/11~6/13ご投稿分、評と感想です。
☆「母ちゃんの台所」森山 遼さん
母ちゃんの古くからある台所を大切にしている思いと、新しい台所を我慢して自分を進学させてくれたという息子さんの思い。程よく調和し、響きあって、ほろりとさせてくれるものがありました。
気になったのは言葉と言葉の間にあった空白でした。読みやすく分けてくださっているのかなと思いましたが、「使いにくいので あった」であったり「するのであった」であったり、区切り方が不統一なところが気になりました。とつとつと読むためのリズムをつけるための空白なのかなとも思ったのですが、「その古びて使いにくいことと言ったら/知らないひとには想像もつかないだろう」と、空白のつけていない部分も見受けられます。もしかしたら、詩が全体的に長くなってしまうため、少しでも短い感じにするために、通常とは違う書き方を試みたのかなぁ?などとも思いました。どことなく、区切りや改行に迷っていらっしゃる感じがしました。
今回のこの作品、個人的には、心がいっぱい感じられる作品ですので、句読点のある散文のかたちにしてもよいと思いました。機会があれば、ネットでもいいので「散文詩」を検索してみてください。もしくは、いつものような感じでしたら、特にこれだという決まりはないので、改行する区切りをいつもより長めにしてもよいと思います。読みにくいと思うところを漢字にしたり、空白をあけたり。あまり神経質になるのはよくないですが。一番肝心なのは、作品に込める気持ちの強さですものね。例えばこんな感じにすると、読みやすくなるかも。
本題に戻るが
母ちゃんはあの台所で料理をするのであるが
あんなに大きいのがかえって不便で
それは それは 使いにくいのであった
母ちゃんは自分の責任ではないのに
あの古びて使いづらく更にきたなくもある台所を
近所のひとに見られるのが本当に恥ずかしいらしく
あとは、タイトルが「母ちゃんの台所」なのですが、主要な部分が「五右衛門風呂」に傾いているところでした。タイトルのままだと、五右衛門風呂の部分を整理する方がよいと思いました。話が二転三転と本題よりそれていますので、できれば、そちらの方も整理できれば、かなりまとまったよい作品になるのではと感じました。心のこもったとてもあたたかみのある作品でした。今回は佳作半歩手前で。
☆三角公園 喜太郎さん
子供の頃に遊んだ公園がそのままあるって、うらやましい限りですよ。最近は、禁止事項が多すぎて、更地?と思うような公園も増えていますよね。
かわらない風景を見た瞬間、走馬灯のように巡りだした子供時代のさまざまな風景。思い出の数々。スピード感をもって、読み手の私の目の間にも巡り出しました。
一連目の「あの頃は三角公園なんて言ってたけれど/よくよく見れば台形に近い五角形」というところがいいなぁと思いました。なんていいますか、子供時代に歩いた道を、大人になって歩いたら、意外にも狭く感じたという感覚に似ています。自分は大人になったんだよっていうことを、事実の風景を用いて表現されていて、特別な比喩を用いることもなく、大きな時の流れを感じさせてくれるところがよかったです。また、三角公園だから三角だと思っていたのに実際は台形に近い五角形だったという、大人になってからの気づきを取り入れたことも同じようなことを感じました。「そうだよね。あの時は確かに三角にしか見えなかったよ」という描き方は、子供だけに見える世界、子供だけのこころの世界を感じさせてくれました。
一つの公園は、いつでもそばにあって、大人には踏み入ることのできない特別な王国のような世界であったということが、思い出綴りを通じて伝わってきました。子供時代を見つめる大人になった僕の姿を、第三者の立ち位置からうかがっている、読み手の私も、いつのまにか、そばにいました。
最後の方の、今の子供たちも使っていたという「三角公園」というキーワード。思い入れの深い作者のこの公園の呼び名の継続に、行と行の間から、作者の愛着と、今も変わらないという嬉しさが、じわっと滲んできました。また「タイムトンネル」という言葉は、トンネルのある遊具を彷彿させ、今の子供と、時代を遡った時の自身の子供の姿を重ね合わせるのに、最適だなぁと思いました。最終行の「振り返ると子供の僕が笑ってピースサインしていた」は、かなり印象度高め。拝読中、かなりドアップの、茶目っ気たっぷりな子供の姿が、目の前に広がりました。
子供時代の居場所。愛おしいという思う気持ちがあふれる作品。佳作を。
☆洗車 理蝶さん
コイン洗車などもありますが、やはり、自分自身で車を洗う洗車の姿には、持ち主の愛情を感じます。今回の作品も、洗車という言葉から、愛車という言葉も重ねて感じさせてくれました。
一連目。この連から、快晴の日曜だけでなく、許すという言葉から「僕」の穏やかな表情が浮かんできました。心の余裕が洗車をするということに繋がっていったのだなということも、感じさせてくれました。
滑らかな背のカーブへ
この空を移してやるように ひたすら磨く
だんだんあらわれてくる 二つ目の快晴
愛車が、空が悪天の日も、心が曇天の日も、自分のすべてを受け止めて走ってくれたという感謝の気持ちを込めての洗車。通常以上の感謝をこめて洗う様子が、丁寧に描かれていると思いました。特に上記の「二つ目の快晴」というところがよかったです。きれいに磨かれて、車体に映る空がみえるような表現だと思いました。
九連目から、実は最近、恋人と別れた事実があるということが発覚します。洗車というのは、汚れた車を洗うというだけでなく、別れた事実を引きずることなく、新しい自分をスタートさせたいということも表現されているようにも思えました。
全体的にみて、気になったことの一つは、車体の色の表現についてです。最後の方でやっと黒ってわかります。なぜこのようなことをいうのかといいますと、作品の途中で青色が何度か登場します。なので、読み手からすると、個人的な感じ方になるかもしれないですが、もう、青い車気分になってしまったりします。そして最後の連で黒となると、「?」となって、せっかくの感動が薄まってしまったのです。最初の連あたりで、わかるようにしていれば、もっと感動は深くなると思います。それからもう一つ。ラストです。
そして今
かなしいほどに光っている
黒い車とスピード
洗車の様子よりも、少し多めに運転の場面がある分、かなしいほどに光っているのは、どうしてかということになると、運転している途中の美しい海の景色のせいのように傾いてしまいまう気がしました。どちらかといえば、自分の心をかけて洗い上げたものを象徴としてあげてほしいなと思いました。なので、下記のような感じにしてみてもよいかと思います。
そして今
洗い上げた車体の黒が
速度をあげる
かなしいほどに光っている
連の中に、洗車された車という意味をはじめの部分に。そして、洗い上げ、磨かれて生まれた光を象徴させるべく、最後の最後にもってきました。なにかのご参考になればうれしいです。
日曜の晴れの日の洗車。元気になるための、新しくやりなおすための洗車。二つの意味合いが詩の中に織りこめられている、眩しいけれど、どこか切なさを感じさせてくれる作品でした。今回は佳作一歩手前を。
☆白い紙 温泉郷さん
○○モンスターや○○ハラスメントという言葉を耳にする昨今。こちらのご老人も、そのようなカテゴリーに属する方だと思われましたが、作者さんの言葉に触れるうち、このご老人は100%そうではないと言っているように感じられました。
窓口の応対というのは、本当に大変だと思います。筋の通らないことを言ってくる方に、きちんと説明しても、斜めから意見してこられたりすることもあったり。ご老人に対する苦情電話でのマニュアル対応。それに納得できず今度はFAXでの苦情。そこから、言葉なしの白紙。ここから伝わってきたのは、ご老人の寂しさ、そして孤独。社会と繋がっていたいけど、どこか疎外されているように感じてしまう気持ち。誰かと喧嘩することで、心のどこかで安心してしまうという、少し擦れた気持ち。言葉なしのFAXのところでは、特にそのような姿が浮かんできました。
そして、ご老人のFAXの様子から重なって見えた祖父の姿の場面。ここでは、目の前にいるご老人の姿を、同じような行動をした祖父の姿に重ねていました。このような表現からは、身内のような親近感。当時の祖父が、なぜあのような行動をしていたのかということを、少しだけ理解できるかもしれないという心を、うまく浮かび上がらせているということを感じました。
作品の途中にある「彼は 祈らずにはいられない」ですが、こちらだとご老人さん本人が祈ることになるので、作者さんが祈るのだとしたら「彼のことを」などにする方がいいと思いました。それから、このままでも全然よいのですが、ものすごく欲をいうと「わずかでもいいから/優しい言葉を添えて」の部分の「優しい言葉」ですが、「白紙の中に優しい言葉」など、作者さん独自の表現がプラスされるといいなと思いました。
周辺のアルバイトの方は、単なる事務処理として対応しているようでも、作者さんからは、FAXの白紙を通じて、「人」を感じているのだと、そのように思わせてくれるところがいいなと思いました。仕事で忙しい時は、処理に追われて、なかなか一枚の白紙から「人」を表現するということを感じる余裕なんて無いと思います。ですが、作者さんはそのような大変な中でも「人」を感じることができました。それは祖父との記憶があったからなのだと思います。怒ってばかりで損していた祖父に、こうしたほうがいいよって伝えたかったような、ご老人に対する終盤の思いの数々。たくさんの情にあふれていました。
たった一枚の紙から、このような作品ができるなんて。詩の表現することの世界の広さを感じさせてくれる作品でもありました。ふんわりあまめの佳作を。
☆煙は危ない 紫陽花さん
現在の消防訓練では、実際に煙の中に入って疑似体験ができるのですね。それは知りませんでした。しかもバニラの香りつきですか?!もちろん、人体に影響がないもので実施しているとはいうものの、煙というだけで怖いですよね。
ズバリ、「煙考」ですね。事実を列記しつつ、自身が思う煙についての考えを述べていらっしゃいますね。一連目は面白いですね。煙について、日本昔話を例にして問いかけと思えるようなものを投げかけています。私は煙って単なる煙じゃないと思うの。あなたはどう思う?というような感じで。
二連目からは本当にあった消防訓練のお話。この事実の列記の中に、一連目の「正体不明のもの」や「不穏の象徴」だとか「煙というだけで危ない」という答えのようなものが描かれていると感じました。昔話からの現代。フィクション、ノンフィクションのギャップ。どちらの方でも納得させられる問いかけの事項たち。知らないうちに説得力を感じさせられています。通常でしたら、二連目、三連目は事実の列記が多いので整理をした方が・・・等どいいそうですが、どれも問いかけの答えを導かせるものとして、外せないものだと感じました。
最終連は現実にあったことに基づいた煙についての問いかけのようなもの。「ねぇ?煙っていろんな意味で危ないでしょ?そう思わない?」というような感じ。思わず、「うん。なるほど。」って思ってしまいました。
煙は先が見えないから怖い。また、煙に対しての言葉、自身の過剰な恐怖心や、第三者からのあおりに対して生まれる恐ろしさ。色々な煙に対することが浮かび上がってきます。もっともっと深堀すれば、事実に基づいたことをしっかりと見極めることの大切さ、そんなことも感じさせてくれる作品でした。佳作を。
☆午睡 秋乃 夕陽さん
好きなことをしながら寝落ちするって、ヒヤッとするものの、なんだかよい時間ですよね。
「寝落ちしたことに気づいて、慌てて目を覚ましました。ごはんの用意をします」
普通に列記にしたらこれだけのことなのですが、詩を書くことって、これだけの様子を更に自分の表現を使って広げていくことができるんだよって、この作品は、感じさせてくれました。
全体的に、居眠りをして目覚めた感じのけだるさがよく出ていると思います。独特の表現として、テーブルの端の表現がこの作品の中で、一番に際立っていると思いました。小鹿といえば、ディズニーなど、童話の世界にも出てくるもので、どこか夢という言葉を香らせるイメージもあると思いました。そのような言葉からの「薄茶色の斑ら模様がランダムに散らばっている~模様は入り込んで/ゆっくりと消化してゆく」になります。この表現は、目が覚めて、夢か現実かよくわからない寝起きの状況が、読み手の私にも、よく伝わってきました。寝起きに見たテーブルの端から、こんな発想が思い浮かぶ・・・というか、夢みたいだから、夢みたいなことを、そのまま自分らしく表現できたということになるのでしょうね。難しい夢と現実の境目の表現が、ちょうど作品の中におさまっていてよかったと思いました。寝起きといえど、周辺には色々なものがあったはずですが、このようなことに視点をおけたことについては、詩を書くということの楽しさを感じさせてもらえました。
寝起きという非常に短い時間の中に、独自の表現をとりいれ、どこにでもありそうで、どこにでもない、けだるい私だけの寝起きの時間を感じさせてくれる作品でした。佳作を。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
先日の大雨の翌日。ありがたい晴れでした。いつもの通りで雀の親子をみつけました。もう、かなり大きくなった小雀さんに親鳥が餌をあげていました。昨晩、どうやって過ごしたのかと思いました。単純に思われるかもしれませんが、みんな、一生懸命にその日を生きていると思いました。穏やかな夜、穏やかな一日の始まりに感謝。
みなさま、今日も一日、おつかれさまです。
1 上田一眞さん 「曼殊沙華の記憶」 6/15
これは、僕には実話とフィクションが混ざっているように思えました。
曼殊沙華のどぎつい赤と不気味な伝説。近くの病院から聴こえてくる無機質で不気味な声。
けっして心和む風景ではありません。50年後の病院でも昔と同じ発声をするんでしょうかね。
時制がふたつありますが、違和感なく流れ、ストーリー自体も上手く繋がっています。
単純な擬声語にまとわりつく「呪詛」「読経」という言葉。変な褒め方ですが、奇怪さをうまく表現しています。曼殊沙華もいわくの多い花です。転調して最後の章が、詩として注目される所ですね。時制は違えど、中ふたつの章は同じ傾向にあり、両サイドは違うものを持ってきて挟んでいる。
しかも両端は幼い頃と現在の心境を書き分けて詩情あり。これは構成の妙と言っていいでしょう。
最後に色について触れておきます。この場合の赤と黒です。赤は度し難いほど力を発揮すると黒に近づきます。「赤黒い」という言葉があるほどです。この場合の両色は負の親和性をもって地味ながら、この作品を影のように演出しています。 僕はそのことを必要以上に意識しました。暗さが伴うのはモチーフ上、致し方ないことでしょう。甘め佳作を。
2 鯖詰缶太郎さん 「光源」 6/15
「四辻」という言葉が頻繁に出てきます。これは何かを象徴するキーワードと見ます。
3連まで。四辻にまつわる深い隠喩でしょう。さて、それ以降、「本、腹筋」が二度出て来る。ここも重要なのでしょう。想像できるのは己の知性と肉体ということか?抽象的なようでいて、心情告白が多いので、逆にこれは抒情的なものを感じるわけです。そこで考えられるのは「四辻」とは生き方の問題なのではないか、と……。何かを見つけたがっているそのあがきを痛い程感じるわけです。同時にそのことが、この詩の熱量であると思います。一見、この詩は抽象的な衣装をまとっていますが、実は抒情的であると思っています。スタイル上のことですが、4連まで連分けで来て、それ以降、ドバッとかたまってます。連分けして、ほぐしてやった方が見場がいいし統一感も出ますね。暇をみて、やってみてください。甘め佳作で。
3 司 龍之介さん 「水面月」 6/15
このタイトルは「水面に映る月」と解するのが一番妥当な気がします。
あくまで便宜上ですが、分析的仕分けをしてみたいと思います。
A……実際に歩いている場面 (1連、3連、6連)
B……そこから思いを膨らませて、人生として歩いて来た軌跡 (2連、4連、5連)
A、Bがほぼ交互に来ています。異質なものが上手く溶け合って詩の同質になっている。ひとつの世界を築き上げています。”自分への入り方“はサイズから言っても叙景との兼ね合いから言っても、この感じでいいと思います。他者への気づかいもある。言葉にロマンもありますしね。トータルに考えて「適度な」と言った言葉が浮かんで来ます。バランスのことです。最後を飾る幻想性も美しいです。こういうフィーリングをしばらくキープされるといいと思います。いい詩、好きな詩、佳作の詩。
4 荒木章太郎さん 「舟を漕ぐ」 6/15
タイトル「舟を漕ぐ」は言わずと知れた「居眠り」の慣用句です。この詩を現実話として読むには無理がある。これは居眠り時の夢のありようを詩表現したと見るのが至当でしょう。実際に見たつかの間の夢なのか、創作なのか、はともかく措くとして、タイトルの「舟」からイメージして「海岸線~波~潮風~オール~海」が表れ、「漕ぐ」から「自転車~ペダル~オール」が出て来るのはよく考えられています。前半末尾の「る」が4つ、終わりの「る」の2つ。これらは詩にひとつのリズムを与えているようであり、詩のひとつの背景と見ることもできるでしょう。そういう背景だからこそ、中央部の命令的セリフも活きようというものです。異彩を放っています。このあたり意識したとすれば、詩について、細かい所まで目配りが行っていると言えます。一瞬の間に良い夢。幸福な夢を見た、そんな気がします。佳作を。
5 まるまるさん 「死んじゃうなんてイヤだ」 6/17
タイトルに見るお子さんの叫び。これを契機として死とは何か?死ぬまでに何を成すべきか?
まるまるさんが、母親として、大人として考える。これは大人の詩です。
考えを自己の子どもの頃から掘り起こしている。6連では子どもへの責任感を意識する。まじめですね。だから一生懸命考えている。二つの要約が考えられます。前半に見る過去の反省と、それを踏まえての「見つかった課題」以降の将来ですね。「反省と展望」―ここには思考体系の正道があります。やはり今後でしょうね。後者をまるまるさんも力を込めて書いているのがわかるし、お子さんにも伝えるべきでありましょう。ここでは自己と同時に他者との関りも大きく取り上げられています。そこも重要でしょうね。「長男にはまだ難しそうだな」―ある時期が来たら、極論すれば、この詩を読ませるのが手っ取り早いんですが、そういうのって気恥ずかしいですよね。言わず語らずのうちに自然と身に付くものではないでしょうか。これはお子さんというよりも、“まるまる”、まるまるさんの詩ですね。 佳作を。
6 静間安夫さん 「ヴィランの言い分」 6/17
ヴィラン=悪党のことだそうです。ところで―間違ったら、ごめんなさいですが―これは全くフィクションという気がしました。だからこそ、よく書けている、とも言えるのですが。二人の人物が登場します。あの男(人民委員会議長 VL)と「俺」です。機能集団にはよくあることですが、頭目は代表ではあるが、やや象徴性を持つ。実務はナンバー2が受け持つ。便宜上、彼らを①・②と表記します。
特に日本史で見ると時の政権は殆どがこの式です。真っ先にイメージしたのは僕の場合、新選組なんですが、あそこは①と②は、心情的にはまずまず最後まで友好的だった。ところが、この詩のケースは違う。かなりの考え方の違い、確執、いや、それ以上のものがあった。図式的には……、
① エリート、教養あり。理論派?革命家だが、やや穏健も含むか?
② 平民出身の成り上がり。教養なし。悪達者。手段選ばず。急進分子
こういったキャラでしょう。まあ、①が死んで②はやりたい放題になるでしょう。推進するのは独裁政治を通り越して、密偵政治、恐怖政治でしょう。こうである限り②は畳(ベッド?)では死なないでしょうね。①もそうだけど、②は絵に描いたような悪党ぶりです。理想も良心もないですね。武闘派です。
本作をフィクションと勝手に推測して書かせて頂くと、―ちょっとヘンな言い方ですが―②にしては刑が甘すぎる気がします。本来、極刑でしょうね。それと、①の死に方を、もうひとひねりさせて、死因不明として、実は②が手下を雇ってやらせた、というのもいいかもしれない。ちょっと物騒な評を書きました。すいません。これ、評価は割愛させてください。
アフターアワーズ。
フィクションとして話をしてきましたが、これ、実話基づき、だとすると、けっこう恥ずかしいんですが、ま、いっか! 密偵政治というので思い出すのは鎌倉時代末期の長崎高資と外国では―僕はよく知らないんですが―ナポレオン時代にジョゼフ・フーシェという男がいて大変過酷な政治力を発揮したそうです。でも、この男、紆余曲折があったが、ちゃんとベッドで死んでますね。もうひとつ余談。日本の警察制度を作った薩摩の川路利良はこのフーシェに範を採ったそうだから、なんか微妙なものですね。
7 晶子さん 「帰っていく者 向かっていく者」 6/17
やや久しぶりでした。健在で何よりです。
この詩は二つの対比の中にあります。1連と2連です。タイトルにも近づくのですが、いわば、消えていくもの、始めるもの。で、3連では人・文明あるいは去るもの・生まれるもの、何もかもが空に消えてゆく。このあたり、神羅万象が持つ終末思想のようなものを感じました。終連が最も素晴らしく、余韻を残し、何かを訴えている気がします。それは希望とか発展とかではなく「孤独」としたことです。あるいは3連と連動しているのかもしれない。ここに、この詩の底部での思想を見る気がしますし、両方の連は受け止め方、解釈の上で、かなりの揺れ幅、余地を残しているように思います。佳作になります。
アフターアワーズ。
晶子さんはもちろん女性なのですが、最近の傾向を見ると、硬質、骨太、彫りが深い、すなわち男性的なタッチにシフトしつつあると感じています。大変興味深いことで、バリエーションとしてあっていいと思っています。今後も見ていきたいと思います。
8 人と庸さん 「きぼうがはいっています」 6/17 初めてのかたなので今回は感想のみ書かせて頂きます。
よろしくお願い致します。ペンネームが面白いですね。よかったら由来をお聞かせください。
すでに数編書いているかたで、既存作を読ませて頂きましたが、今回は少し、モチーフ、作風変えているようです。バリエーションが取れる人かもしれません。しかも今回、かなりユニーク、面白いです。アイデア賞。まず意表を衝いた会話体で始まります。
「そうか これがきぼうか」―この生真面目過ぎるセリフがむしろ笑えますね。きぼうの種類も様子も上手く書き分けて読ませます。「きぼう」の部分は全て1行置きなのもセンスを感じます。自分の今までに思いを致す部分もある。そして最後の2連ですが、せっかく面白い詩なんで、最後もそれを活かさない手はないんです。冒頭セリフの再来は始めに戻る感じで、あっていいでしょう。
けれど最終は何かオチめいたもので終わりたい気はするのです。また書いてみてください。
9 相野零次さん 「生き方」 6/17
これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神を受け継ぎ現代に蘇らせた、とも言うべきか!
大変失礼な言い方をすれば、読み手が「きれいごとだよ」で片付けることはたやすいのです。
いっぽう、詩のひとつの使命として人間を描くということがあるとすれば、一筋縄ではいかない人間を描くには表裏を書かざるを得ない。案外、詩は裏を書く場合も多い。ですが、こういう表もあるということです。そして、こういった理想への願望も人間は本来的に持って真摯に共鳴できるのも事実です。生き方論や人間学は全て表側を目指して書かれている。詩の機能も同じでしょう。この詩はその部分を照らしている、ということです。いわば性善説に立って、この詩は書かれている、そこを見ておきたいと考えています。実際、普段から考え願い、心の訓練をしていないと、技法的にもこうサラサラとは書けないと思います。やはり核になるのは3~4連でしょう。他者、他事との関係において、自己を実現してゆくことが強調されているのがわかります。一方からの反論や技術論は、ひとまず措くとして、これも詩の役割である、と認識して佳作と致します。
評のおわりに。
先日、ある詩の研究会に行って来ました。此処の同人の秋冬さんも来られてました。その講演者がある詩人の作品を取り上げ、その特色を箇条書的に列挙しました。その中で大変興味深い一項があったので書いてみます。
A……省略せずに書きたいことは全部書く。
―というものなんです。これはけっこう―賛否両論含みつつ―興味深い考え方です。
詩法の一般論的には―
① 省略技法をかなりの部分で容認している。 ② 説明調を嫌う(読み手の解釈余地を充分取る)
③ 書き過ぎると、内容上、小説的になりやすい。 ④ 詩の高尚性のようなものをキープする。
Aはそういった①~④の理論からすると特異なんです。少しリスキー(危険)なんです。
現に「MY DEAR」でも、A的なことはわりと指摘の対象になるんです。ただしAを活かす方法がひとつある、と僕は考えています。散文詩として書くことです。ただ、その詩人はAを普通の連分け詩でやっているというのです。逆にそれは御本人にしかできないことかもしれません。かなり著名な人なんです。軽い驚きがありました。それは、僕は俄かには全面賛成しかねるからです。
まあ、詩には数学のように唯一無二の正解がありませんから、良い悪いではなく、その詩人の領域・流儀ではあるわけです。ケースバイケースでもありますし。僕自身、これは隣接する事なので、ちょっと考えてみたいと思っています。それを自分がやるか否か、はまた別問題なんですが―。皆さんも、よかったら、ちょっと考えてみてください。 では、また。
あなたと僕は共にいられない
それはわかりきったことだ
空には僕がいる
晴天の日は泳いでいる
あなたは夜の闇に隠されている
僕が呼ぶと返事はするが
姿は見えない
僕は雨の中を手探りで掻き分ける
あなたの名を呼びながら
あなたの名がなんて名だったのか
思い出すことはできない
あなたは少し悲しそうだ
僕の思い出にいつもあなたはいる
あなたの声が聴こえ
影が見える
あなたの実体は僕には届かない
あなたはとても美しい
のが僕にはわかる
あなたが僕を愛しているのが
僕にはわかる
けれど僕はあなたを愛してはいない
愛でているだけである
僕とあなたの関係は
いつから始まったのだろう
あなたが僕を見つけ
僕に呼びかけ
僕はその声に応じた
あなたは僕にとっての運命の人だ
まだ出会ってはいないが
それだけはわかる
あなたは花の匂いがする
あなたの匂いに包まれると
僕は幸せだ
僕の匂いはあなたにはわからない
僕の姿はあなたには見える
あなたの姿は僕には見えない
そうして僕に感じれないことが
あなたには感じ取れる
僕に感じ取れるあなたについてのこと
その全てが僕にとって
限りなく愛おしい
あなたがどこにいるのか
僕は知らない
けれど僕はそれで幸せだ
あなたはそれが寂しいかもしれない
あなたを愛しているのかどうか
僕によくわからない
あなたは僕を愛していると
はっきり告げた
僕とあなたが出会えない理由は
そこにあるのかもしれない
出会わなければよかったと
思うかもしれない
だから
あなたと出会いたくはない
このままの関係が望ましい
それがあなたは少し哀しい
あなたに告げる
僕の歌を聴かせる
僕の悩みを打ち明ける
あなたは全てを聞き入れてくれる
あなたは僕にとって
理想の母親のような人だ
あなたは僕を恋人にしたいらしい
そういう目で僕はあなたを見れない
だからやっぱり
僕とあなたは出会わないほうがいい
あなたはたぶん今死んでいて
だから僕は生きている
僕が死ぬときがあなたが生きるときだ
それがあなたはやっぱり悲しい
僕とあなたの関係は
どう定義できるのだろう
あなたはいつも僕を見つめている
僕はいつもあなたを聴いている
そうして世界は僕とあなたを受け入れている
世界が僕とあなたの関係を許すとき
僕とあなたは本当の意味で一緒になれるだろう
そんなわずかな希望を胸に
僕とあなたは存在し続けるのだろう
今日も明日も明後日もずっと