投稿日: 2月 3日(火)09時01分52秒
きっこさん、さっそくのお答え、ありがとうございました。
確かに、短歌だと字余りにして、意味的な正確さを求めるでしょうね。
読み流すのではなく、立ち止まることで、短歌と俳句の個性が見えてくるものなんだなあ。
俳句にはまだ、あまり親しんでいないものですから、他の方にはひどく的外れな質問をしてしまうかもしれませんが、これからも、よろしくお願いいたします。
希理子さん、書き込みをありがとうございます。
同じ短詩型であっても、短歌は定型感覚がゆるく、俳句はとても厳しいのです。
希理子さんは歌人ですから、良くお分かりだと思いますが、短歌は、定型を崩すことによって余情を表現したりするだけでなく、そのような意図が無くとも、作者はあまり音数に捉われずに、使いたい言葉をそのまま使うことが許されています。
一方、俳句は、たった1音の字余りであっても、そこに明確な意図がなければ許されません。
親切な心であればさつき散る 爽波
この句の下五を希理子さんのおっしゃるように正確に表現すると「さつき落ちる」となり、字余りになってしまいます。
定型に収めるために「さつき落つ」とすると、季語の持つ本意が強調され、作者が本来言いたかったこととは、句のイメージ、そして裏側にある意味がまったく違ってしまうのです。
ですから、本来のさつきの花の散り方(落ち方)よりは柔らかい表現を選び、定型に収めるとともに、描写と響き合わせているのです。
「写生」と言う観点から見れば「さつき落つ」とすべきように思われますが、何気ない親切によって心が和んだ作者には、ポトッと落ちたさつきの姿も、柔らかく散ったように感じたのです。
投稿日: 2月 3日(火)02時48分16秒
先日はしりとり俳句に失礼いたしました。
俳句ももう少し分かりたいので、こちらでも勉強させてください。
親切な心であればさつき散る 爽波
この句なのですが、「さつき散る」の「散る」が気になってしかたが無いのです。
というのも、さつきの花は朝顔やつばきと同じ合弁花で、花が終る時には散ると言うより、落ちるという感じになるように思うんです。
それを「散る」と表現したのは何でなんでしょうか。
投稿日: 2月 3日(火)02時24分31秒
お元気?さん、爽波を語る上で、とても重要な句を取り上げてくださって、どうもありがとうございます。
爽波については色々な人が書いていますが、「角川俳句」の昭和61年6月号に掲載されている、永田耕衣の「爽波布毛一すじ」と言う文章が、最も興味深いものです。その中で、「親切な心~」の句に対して書かれている箇所があるので、抜粋してみます。
『(前略)軽妙だが永遠に続くユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレも無い、融通無礙、イナそれさえもない日常茶飯の情緒だろう。正宗白鳥の「一つの秘密」が赤裸々にひそんでいるのであろうが、ソレがつかめぬモドカシサと快感が不尽である。〈凍鶴に立ちて出世の胸算用〉なら分かるのだが、一句の「親切な心」も「であれば」も「さつき散る」もナゾだらけで、快感の深淵を極めているのである。「思想」は元より「人生哲学」がハイデッカー以上に「野の道」に出ていて、「行方不明」の柔軟至極な微笑を不逞なまでに持続している。サツキの花の美学が世阿弥の「花のしほれたらむこそ面白けれ」に関わる一徹な宏大さに出ているからだ、ともいい切れぬ。「季霊」のハタラキが、宇宙的な人間性を放射せしめているためのナゾであろうことだけは分かるが、ヤハリ波多野爽波の言詮不能な、分け入りがたい人間性に由来していると裁断しておく方が賢明であろう。(後略)』
結局、さすがの耕衣も、この句に関しては、完全には読み切れない、と言っているのです。しかしそれは「お手上げ」と言っているのではなく、数学を大好きな人がなかなか解けない難問を好むように、この句の持つ難解性を楽しんでいるのです。
そして、爽波作品に共通する「日常に底流するワビ、サビ」を「日常茶飯の情緒」と言う巧い言葉で表現しています。
この句の解釈は、「であれば」にすべてが凝縮されています。
通常は、因果関係がある場合に使われるこの「であれば」を無関係な2つのコトを結びつけるために使っています。そのために、この句は一気に深読みを誘う難解な句になっているのです。
「親切な心があるやさつき散る」ならば、とても分かりやすくなるはずです。
結論を言えば、爽波の句は、あれこれと深く考えず、そのまま読めば良いのです。爽波自身、わざと難解にしようとか、読み手を困惑させようなどと考えて詠んでいるのではないのですから。
誰かから、ちょっとした日常の親切を受け、その行為に心が和んだ時、ふと見ると、さつきが散ったのです。それだけのことなのです。読み手から見ると、まったく関係の無いように思えるこの2つのコトも、その時の爽波にとっては、ひとつの流れの中でのコトだったのです。それが、「であれば」に集約されているのです。
これが、リアリティーの欠落した非日常的な大感動ではなく、何でもないコトやモノの中に必ず存在している小さな気づきであり、それを掬い取る名人、爽波ならではの視点なのです。
ぴーこさん、お元気?さんのように、清水哲男さんのサイト「増殖する俳句歳時記」の「作者検索」で爽波を検索すれば、たくさんの作品と、哲男さんの素晴らしい鑑賞を読むことができます。
2月 3日(火)01時19分24秒
こんばんわ!
この句は、「ばりばり」というところから魚島の風景がひらけていきますね。潮の香りもしてきそうです。
2月 2日(月)21時13分57秒
ハイヒール句会で楽しく勉強させて頂いています。「鑑賞のお部屋」を開設なさってワクワク拝見しています。実は私も爽波と阿波野青畝をカン違いしてました。今回爽波を取り上げて下さり初めてゆっくり立ち止まって鑑賞しています(今までは例え目にしていてもただボーと通り過ぎていたのかと思います)。良い俳句ばかりですね。「純粋な写生は色あせない」ときっこさん仰ってますが、なるほどと肯きます。それに爽波俳句は何とも言えないユーモアがあるように感じます、歌舞伎の見得を切るような派手さじゃなくて懐かしいような上質の可笑しさです。
それから爽波についてショックだったのは、私が頼りにしている平井照敏編『現代の俳句』にも中公文庫『日本の詩歌(俳句)』にも取り上げられてないことでした。救いだったのは清水哲男氏が沢山取り上げていることです。その中にこの句があって面白いなと思ったのです。この句について清水氏は冒頭「さっぱりわからない」と。きっこさん、解説してください。ちなみに私は「小さな親切大きなお世話」をふと思いました。「親切」は時に恩着せがましくなるというのを含んで、親切であろうとなかろうと関係なくさつきは散っているのだよ、という意味に受けたのですが・・・。
2月 2日(月)19時10分41秒
きっこさんの面倒見のいいことに甘えて、つい受身になっていました。
今までの中では3句しか知った句がありませんでした。
近隣の図書館、書店で探しても見つからないので、歳時記から拾ってみました。
お雛様の飾られた部屋は日常の空気とは別の空間を感じます。
掃除をするための窓を開けたのでしょうか。この世の風を肌に受けて
まるで生きているかのようにお雛様の表情が変わった。雛に対する
いとおしさが感じられました。
投稿日: 2月 2日(月)17時21分11秒
komitiさん、敬さん、書き込みをありがとうございます♪
句会の感想と同じく、せっかくPCでつながっているのですから、たったひと言でも、自分の思いを書き込むことが大切なのです。
komitiさん、あたしも初めは番傘を想像しました。
しかし、平成5年の作と言う点、そして、普通の俳人は作品にしないような対象を詠む爽波の作風を考えた時、頭の中で、パッと透明のビニール傘が開いたのです。
これは、どちらが正しいと言うことではなく、それぞれの読み手が、それぞれに感じれば良いことなのです。
敬さん、日本でイギリスのロックと言うと、ビートルズやローリングストーンズが神様のように言われていますが、もっと素晴らしいバンドは数え切れないほどあります。
俳句も同じです。
現在では、「昭和の4S」と言われた、水原秋櫻子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十の4人が、昭和の俳人の代表のように言われていますが、爽波のように、もっと優れた俳人はたくさんいたのです。
この句は、平成2年の第四句集、「一筆」におさめられています。
「夏書机(げがきづくえ)」と言う特別な机があるのではなく、夏の安居(あんご)の間に、供養のために写経をすることを「夏書」と言い、それを行なっている机のことです。
向こう側に猫の尾がピンと立ったのですから、文机でしょう。
「けり」と言う強い切れに、精霊に対するおごそかな供養の念と、真夏の暑さにも汗ひとつかかない精神集中、そして、張りつめた部屋の空気感が伝わって来ます。
投稿日: 2月 2日(月)16時16分0秒
先輩の話では複写機なんかないずっと昔は、設計図を複写するのに、天気の良い日屋上に上がり、お日様に向かって日光写真のように複写をしていたそうです。
それから、青焼きの強烈な臭いに咽せた時期があり、今の複写機になりました。
「鑑賞のお部屋」真剣に読んでいます。
投稿日: 2月 2日(月)16時14分39秒
先人の句集をきちんと読んだことがないので、
ご紹介いただいたもの、全部初見です。
簡単な感想しか書けませんが・・
猟犬はあるじのベレー帽が好き 爽波
これには飛びつきました。
甘えてあるじのベレー帽をくわえて走る犬。
こらこら、と笑いながら追いかけるあるじ。
ベレー帽だから、わたしは猟を趣味としている人と見ました。
楽しいですね。忘れられない句になりそうです。
魚島やばりばりひらく宿の傘 爽波
この「ばりばり」はわたしにとっては番傘です。
新しい番傘は油の匂いを撒き散らしながらばりばり開きました。
あ、トシがバレそう・・(笑)
田舎は内海に面した漁師町なので、魚島は見たことありませんが,
小さな港の懐かしい風景を思い出させてくれました。
本当は自分で検索したり本を読んだりしなくてはいけませんね。
それまでこちらで勉強させていただきます。
よろしくお願いいたします。