2月21日(土)13時09分53秒
誰にでも見に覚えのある一駒ではないでしょうか?慣れない水飲み場、水道の栓。ちょっとひねっただけで水が飛び出した経験。おまけにだぼだぼの制服、大きなリボン。まっさらの固い靴が飛沫をすっと吸って・・・。こういう瑞々しい句を見ていると、自分も不調のトンネ ルから抜けられそうな気がします。
両方に髭があるなり猫の妻 小西来山
確か『俳句朝日』に載っていたと思って、探しましたよ、バックナンバー。去年の一月号に「俳人は幸せだ」という題で岩田由美という人がユーモアのある10句を挙げています。猫の妻の句はその筆頭。「猫の雄雌に髭があるのは当たり前だが、「妻」と思うと滑稽だ。」と書いています。嬉しいことに爽波の句もあり ました。
壷焼が運ばれてなほ浮かぬ顔 爽波
2月21日(土)01時26分9秒
第二句集「湯呑」におさめられている、昭和49年の句です。
お茶の花を見たことのある人なら、一読して「あれ?」と思ったのではないでしょうか。
あの丸っこくて可愛らしい花は、雨がするすると流れるような感じではないからです。
しかし、もっと近づいて良く見てみると、ひらいていない堅い蕾や、ひらきかけの花の間の枝を伝わり、するすると流れ落ちて行く雨水が見えて来るのです。
この花はどんなふうに散るのか、この鳥はどんなふうに鳴くのか、この水はどんなふうに流れるのか‥‥。
他人の俳句やその他の媒体から作られた先入観などには惑わされずに、自分の目や耳でキチンと対象を感じてみましょう。
そうすれば、爽波のように、自分だけの発見に辿り着けるのです。
投稿日: 2月21日(土)00時37分1秒
パピプペパピプペパピプペポ~うち~の女房にゃひげがある~♪
これ古賀政男の作曲でわし歌えます(笑)。ドリフなんて若ぶるなよお(笑)。「ああそれなのに」なんて五歳にして英語で歌えた(笑)。
Ah nevertheless nevertheless I'm so angry I'm so angryって、流行ったんよ、五十年以上前は。ひとみさんが生れる前ですが。
ひとみさんからプレゼントされた当事者としては、古賀政男の歌が頭にあったのと、カーメン・マクレーじゃないがほんとにうちの女房は髪がコワイので笑うたわけですが、先週大阪出張の折、道修町にある大阪支社が來山生誕の地と知り、かつわしが芭蕉よりも好きな鬼貫の友人と知って驚いていた矢先です。
來山は、『今宮草』 『續いま宮草』 『津の玉柏』 『十萬堂來山句集』 『再興木葉駒』が代表句集と現地の史家が言うていたので、ひとみさんがわしにプレゼントしてくれたのが原型でしょう。子孫が朝陽学院理事長で、全集が朝陽学園から出ているとのことなので、調べればどちらが先かはわかると思います。我が書斎をあさりちゃんした限りでは、きっこさんが罵倒していた大岡信(笑) の『百人百句』に「猫の恋」として出ていますが、典拠が『近世俳文俳句集』なので、孫引きで化けたか、來山が推敲したかだと思いますので、その前後は、こ れは匿名さんに調べてもらうことにいたしやしょう。匿名さん、よろしくね。国会図書館ならあるよ。
2月20日(金)12時54分32秒
白靴の持つさわやかさが、小さな空間だけを描いて存分にでている句ですね。純白のシャツカラーの女性の胸元に光る ネックレスのようでもあります。「見ゆ」は一見要らない措辞のようにも思えますが、この金の文字をより繊細な細さに感じさせる重要な言葉のようにも思えま す。「見ゆ」は「ちらりと見ゆ」なんですね。作者は少し離れたところから見ている。日本家屋の薄暗い三和土に浮き上がった白ですね。
両方に髭があるなり猫の妻 小西来山
きっこさん、よくぞ探して下さいました。感激しております。この「猫の妻」を見ていると、ドリフの荒井注の「なに見てんだよぅ」の顔を思い出します。(年が判りますね)
籐椅子にひつかかりつつ出てゆきぬ 爽波
籐椅子の質感を描いて素晴らしい句だと思います。爽波の句集から「写生とは?」を教わっています。ただ、省略のしすぎで眉間の痛くなる句もあります。猫髭さんのおっしゃった「学んではいけない」句もあると思いますね。いろいろあって楽しいです。
投稿日: 2月20日(金)10時48分40秒
自分も椅子にひっかかったり、自動ドアにぶっつかって前歯を折ったり(鼻が低いので歯にあたりました)大鏡にぶつかって自分の姿に「すみません」と謝ったりするので、この籐椅子にひっかかっている人の気持ちがホントよくわかります。
また爽波が、それをあきれてというか楽しく見ているすがたも。
古本ネットで爽波の句集を集めました。じっくり読みます。ありがとうございます。
投稿日: 2月20日(金)04時48分1秒
しばらく前に、ひとみさんが、
両方に髭があるなり猫の妻 小西来山
と言う句を紹介してくださり、匿名の方から
両方に髭がある也猫の恋 小西来山
の間違いではないか? とのご指摘を受けました。
あたしが調べたところ、その通りだったので、そのようにレスしたのですが、もっと良く調べてみたところ、ひとみさんの紹介してくださった句も見つかりました。
享保19年の「今宮草」の中に、「猫の妻」の句が掲載されていました。
どちらの句が先に詠まれたのかまでは調べることができませんでしたが、両方とも文献に残っている句なので、ひとみさんが間違えたわけではありませんでした。
一応、お知らせしておきます。
2月20日(金)02時21分32秒
第一句集「鋪道の花」におさめられている、昭和22年の句です。
何気ないことを詠っているようで、実は爽波らしさの光った一句です。
体の大きな人なのでしょうか。
今まで座っていた籐椅子から腰を上げ、部屋から出て行く客人。
まるで、籐椅子がその人を引きとめているようにも感じます。
下五の「出てゆきぬ」に、もう少し話をしていたかった作者の想いが表れています。
2月18日(水)08時25分24秒
第二句集「湯呑」におさめられている、昭和53年の句です。
煮凝の句で、魚の目玉を詠んだ句は、掃いて捨てるほどあります。
そして、そのほとんどが、「目玉が揺れている」か「目玉が失せている」かのどちらかで、それぞれの句は表現こそ微妙に違いますが、完全な類句の世界なのです。
ですから、多少俳句を勉強している者なら、「煮凝を詠む時は魚の目玉は詠まない」と言うのが常識になっています。
そんな類句の山の中にあって、たった一句だけ光り輝いているのが、この爽波の句です。
まずこの句は、煮凝(冬)ではなく、満月(秋)を季としている点、そして、料理としての煮凝ではなく、煮物の鯛が煮凝って行く様を写生していると言う点、この2点により、どこにも類句のない、独自の視点を持った句として成り立っているのです。
類想類句の多い題材でも、爽波のように過去の句をきちんと読んで勉強すれば、まだまだ誰にも詠まれていない隙間や発見があるのです。
煮凝って行く鯛の目が、まるで天上の満月を閉じ込めてしまったようで、秋の夜の澄み渡る空気までを感じさせてくれます。
投稿日: 2月17日(火)13時16分28秒
爽波の前衛時代の作品でありますが。。。
うつわは 変われど 中の酒は変わらず(・-・)b みたいに
なんとなく 彼の特性は残っているような気がする
● どこも絨緞(じゅうたん)で疲れるホテル星が流れ
「星が流れ」が ちょい 無理無理かな とは 思いますが
豪華高級なホテルで なんとなく 落ち着かない 爽波さんの図が
見えてくる。。。(・ー・)
「避暑に来て貧乏ゆすりしてをりぬ」と 共通した空気がありますが
「避暑に来て」が 客観的に自分を とらえてるのに
「どこも」のほ~が 主観的な描写に なってますう(^-^
● 河豚で酔いベルトのように鋪道流る
若い前衛作家たちに 「先輩!(^-^」「先輩!」とか 囲まれて 酔っている 爽波先生の図
「おおおとととっ」とか 及び腰になって
「諸君!(・◇・* わたしゃ いま ベルトコンベアーに載せられとるやうぢゃ!」
というやうに 前衛といえど ひとりよがりなレトリックに溺れることなく
きちん と 景が見えるところが 爽波ティックであるかと。。。
後世のボクらから 見れて 面白いのは
「前衛でっせ!」みたいな 姿勢をとらなくても
最初から 定型の時代から
彼の句が POP※であったり 真の意味での前衛的であったり
していることでせう(^-^)
(※POPは POP ARTのPOPです。)
● 鳥の巣に鳥が入ってゆくところ
「森」というテーマで 展覧会があったとしませ~
各画家の先生が 筆のかぎりをつくして 綺麗な風景を描いてるなか
額縁に 鳥が巣に入っていく写真を ぺたっ と
貼ってあるやうな絵(?)が ある。。。
みんなが「え?」。。。と 一瞬立ち止まる
この衝撃が POP。。。(・-・)\
爽波がこの句を 詠んだ時には アンディ・ウォーホール も ピンクフロイドも
おらんかった(たぶん。。。)
なのに POP。。。
● 腕時計の手が垂れてをりハンモック
の 超クローズアップ!
● キリストのうしろ白菜真二つ
● 五山の火燃ゆるグランドピアノかな
における 激突するモノとモノ! イメージとイメージ!
「五山の火」における グランドピアノの存在感!
「白菜とキリスト」 ダリも考えつかん組み合わせでは?。。。
爽波が 前衛から定型有季に戻ったのは
案外 「あ けっこう オレって 前から アヴァンギャルドでPOPぅ?(・-・?
と 感じたからかも 知れません。。。(^-^
投稿日: 2月16日(月)14時17分54秒
あ ひろみんさん ありがとうございます(^-^
さて
爽波の時間の感覚には 独特なものがあると思います。(^-^
まあ 一般的な俳句を 写真とするならば
爽波の いくつかの俳句は デジカメの動画のような。。。
短い時間を切断して かつ 対象でストップモーションで
切断固定される。。。
まえに きっこ師匠が 提示した
切れの 【D】のパターンなんかが その典型では。。。
【D】
繕ひし垣より走り出でて//湖/
そこらじう落ちゐる厄を嗅いで//犬/
戸あくれば/冬空に帽とりて//客/
鋭くカメラがまわり 最後に対象に収縮していく時間
戸ががらりとあく
だだだ。。。(((((・-・)
冬の空
だれかが 帽子をとって
なにか言ってる
あ!
お客さん!(^。^
みたいな。。。
● 冬空や猫塀づたひどこへもゆける
この句も そんな爽波の時間感覚のあらわれた句かと。。。
きっこ師匠風に切ってみれば
冬空や//猫/塀づたひどこへもゆける
いわば 【D】のヴァリエーション。。。
ここで
冬空の塀づたひどこへでも//猫/
で【D】のパターンに 近づける とか
あるいは
冬空や//猫はきままに塀づたひ
で 定型に収める とか
しなかったのでせう?(・-・)?
ボクはその答えは 爽波の時間の感覚だと 思います。。。
彼の頭の中の時間軸では
冬空~~~~と 長い時間 冬空があって
突然 視界に猫が ぴょん と 飛び込んできます
その 運動の描写が 「や」と「塀」の間に割り込んだ
「猫」であるかと。。。。
で 塀のうえを ととととととと と どっかへ行ってまうわけです(^-^
彼の句の中には 対象のかたちだけでなく 時間も忠実に
描写されているのかと
● 天高しやがて電柱目に入り来
以上のことを 頭においてみると この句も
「やがて」を どれだけの 時間と見積もるかに よって
情景が かなり 変わってきます(^-^
数秒とか みじかい時間だと「や」とかで 切ってまえば良い訳ですから
ボク的には 数十分から 数時間 と 見積もりました>「やがて」
とすると
「天高し」と感じた場所 と 「目に入り来」た場所が 違う可能性もありですう(・ー・)
多分 山歩きとかで 自然を堪能してきた 爽波先生を
街くんや 人工くんや 文明くんとかが
「爽波先生(^-^ いつまでも カントリームードで おられたら
こまりますわ。。。ソウハ問屋が。。。」と
出迎えるわけです。。。
最初に 電柱みたとき 彼の胸にも
「あ~~ 明日からしごとかあ(-。- 」 みたいな 感傷があったでせう。。。