投稿日: 2月 6日(金)13時02分24秒
「二階かな」が抜群にうまいですね。頭を使う仕事をしている作者が見えてきます。退屈してきて、口寂しくなってきている。でも、きりが付くまで頑張ろうと思っている。じらされている瓜が冷えて美味しそうに思えます。
猫髭さま、温かいお言葉ありがとうございます。好きな句に出会うと黙っていられない性質をしております。あのような竪穴式住居のHPでも続けるのは大変でして、たまに頂けるお褒めの言葉に励まされております。お礼に私の大好きな句を披露します。
両方に髭があるなり猫の妻 小西来山
投稿日: 2月 6日(金)10時54分22秒
「キリストのうしろ」というのは十字架を連想させますが単なるそれだけではなく、人への愛情や人からの期待、裏切り、宿命など、さまざまな想いが含まれていると思います。それは爽波自身のことかもしれませんが人間の生き様を句に読み込んだのだと思います。「白菜真二つ」の白菜は、もしかして爽波には羽根のように思えたのではないでしょうか。自分あるいは人が背負う業を、スパッと真二つに切り捨てたい、でも自由としての羽根は何かに切られてしまう。そんなジレンマを現しているようにも思えます。
投稿日: 2月 6日(金)00時44分34秒
猫髭さん、貴重なご意見をありがとうございます。
猫髭さん、「ぬ」は、動作・作用が完了すること、してしまったこと、だけではなく、その動作が存続することも表します。
ですから、「~てをり」に「ぬ」が続いた場合は、完了ではなく存続となりますので、その動作が続いている状態を表しつつ、「けり」と同じように切っているのです。
大空をたゞ見てをりぬ檻の鷲 高浜虚子
えごの花遠くへ流れ来てをりぬ 山口青邨
比良の雪春はけぶりてきてをりぬ 森澄雄
とけるまで霰のかたちしてをりぬ 辻 桃子
蛙鳴く中やふはふはしてをりぬ 矢島渚男
帰り花枝に遠慮をしてをりぬ 後藤比奈夫
それから猫髭さん、爽波は、決して有名俳人ではなく、このコーナーに取り上げて来た句も、一般的には名句とは呼ばれていません。
10年も俳句をやっていても、爽波の名前すら知らない人もいますし、名前は知っていても作品までは知らない人もたくさんいます。
稲畑廣太郎ですら3冊も句集を出しているのに、爽波は生涯で4冊しか出していません。
ですから、あたしが取り上げているのです。
朝比古さん、書き込みをありがとうございます。
爽波の俳句の素晴らしさのひとつとして、できる限り簡単な言葉を選び、簡潔でいて、それなのに類想が少ないと言う点があげられます。
語彙に逃げる俳人が多い昨今、簡単な言葉だけでストレートに勝負して、それでいて類想が少ないと言うのは、本物であることのひとつの指針でもあります。
あたしが理想とするのは、極論で言えば、「俳句を知らない人や子供が読んでも伝わる句」です。
それに最も近い俳人のひとりが、爽波なのです。
今後も、色々な書物や俳句サイトなどであまり取り上げられない俳人にスポットを当て、順次掘り下げて行きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。
皆さんへ。
ついでにお知らせいたしますが、朝比古さんの21句「十徳ナイフ」が、「俳句研究」の今月号(2月号)に掲載されていますので、ぜひお読みくださいね。
2月 6日(金)00時03分27秒
爽波は、処女句集「鋪道の花」でも、自選二句目に
籾殻の山より縄の出てをりぬ
を揚げており、デビューしたときから「~てをりぬ」という弛緩した言葉を使っています。
「をり」は動詞の連用形、またそれに助詞「て(で)」の付いたものに付いて、動作・状態が続いていることを表し、「ぬ」は動作・作用が完了すること、また、すでに完了してしまったことを表す助動詞なので、意味が通らず、これは日本語とはいえません。
これらの句が写生や諧謔の目はすばらしいのに表現として弛緩しているのはそのためです。
写生というものが力を持つとすれば、それはこういう見た時の目の厳しさ、気づきの繊細さを言葉で定着させるまでゆるがせにしない時に初めて力を持つのであって、わたくしはこういう意味不明な産五の句は、好き嫌い以前に産五の肥立ちが悪いとボツ。写生に徹していない、発見したことそのことや諧謔の思いつきで主観が弛緩し客観を忘れている事例です。
ただ、誤解の無きように言っておきますが、それは爽波を全部捨てるということではありません。捨てるのは、「てをりぬ」といった弛緩した表現の句や、合弁花を散らすようなわたくしにとっては五感にそむく句で(これは文学とか常識とか、そういうゴタク以前の生活の中の五感上の、散る、落ちる、萎れるといった違いが、具体的にその花の色匂い形を伴って瞬時に四肢を包む記憶に照応するかしないかという話です)、爽波の句のほとんどは古びない言葉を選んで表現されています。例えば、
銀色の釘はさみ抜く林檎箱 爽波
などは釘がなくなりバールがなくなったとしても容易に錆びない輝きを持っています。吉行淳之介の短編にも似た趣です。銀が古びることを拒み、はさみ抜くことでギーッという音とともに輝きも増すほど木目にサビを保護され拭われ、リンゴの香りがその金属臭さを消して銀色の輝きだけを吟醸香のように残します。
爽波の瀟洒にして洒脱な句業は虚子門下では群を抜いており、その自作ノートは稀有な実践論としても有名です。
しかし、こういう有名人の有名な名句を取り上げることが果たして、わたくしのような素人にどこまで役に立つかというと、余りのレベルの差に、わしゃ及び腰。裏山をヨタヨタ歩いてる爺いがいきなりエベレストに登れと言われるようなもので、いくらきっこさんのような優秀なシェルパが付き添うてくれても無謀やがな。
骰子の一の目赤し春の山 爽波
なんか、木枯紋次郎と国定忠治が赤城山麓で骰子賭博をしてるような主観妄想句にしか見えん(笑)。
閑話休題。ひとみさん、あなたの「つれづれ日記」素晴らしいですね。日々の無名の句のなかの誰かに伝えたい息吹を持った良さがある句を自分の気持に誠実に語られていて心に響きます。A級、超一流のブランドを掘り下げるきっこさんの鑑賞の仕方も凄いですが、あなたの自分の背丈が届く範囲での心に響く無名の作品を拾い上げていくやりかたはわたくしの善しとするところです。
投稿日: 2月 6日(金)00時01分40秒
こちらの掲示板でははじめましての齋藤朝比古と申します。
皆さまの爽波鑑賞、素晴らしいですね。爽波は私も大・大好きな俳人なので、ちょっと書き込みさせて下さい。
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
世に何億句発表されているのかは知りませんが、私の最も好きな俳句のひとつです。初見のとき「こんな句なら作れる」と勘違いさせてくれ、二度目に読んだとき「なかなか面白いな」と俳句への興味を深めさせてくれ、三度目に読んだとき「こりゃ凄い」と、私を俳句の深遠なる世界に誘ってくれた、私にとってとても感慨深い俳句なのです。凡なる俳句実作者ならば「鳥の巣へ鳥の入つてゆきにけり」と詠むのでしょうが、爽波の「ゆくところ」という一瞬の切り取り方は、まさに至芸です。
腕時計の手が垂れてをりハンモック
私が毎年ハンモックの句を詠むことになった句です。午睡の心地好さがあますことなく伝わってきます。
いろいろな泳ぎ方してプールにひとり
爽波にしてはかなり心象的な雰囲気を漂わせている句です。自虐ともナルシシズムとも違うなんともいえない孤独感がたまりません。
爽波の句のはまったときの爽快感は他の作者の追随を許さないほどのインパクトがあります。解っていても空振りしてしまう全盛時の江川の快速球のような心地好さです。恐らく多作多捨の捨てた句は恐ろしいほどつまらない句もあったのでしょうが、氏の俳句へのアプローチのストイックさと芸術の域にまで高めた芸は自らの作句姿勢の模範とするところです。所謂俳壇(こういう言い方はあまり好きではありませんが・・・)においては不遇だったようですが、かの三島由紀夫が俳句は爽波に叶わないと、俳句実作から遠ざかったのはさすがに目があると思ってしまいます。
投稿日: 2月 5日(木)22時07分7秒
これは見ているだけではできない句ですね。
いくつもの雪うさぎをひとつひとつ触ってみたのでしょうね。
作り手によって大きさや形が違うのは当たり前だけれど、
固さまで違うのもいわれてみれば当然。
これが写生の力なんですね。
投稿日: 2月 5日(木)18時44分33秒
好きな句は数え切れないほどありますが、その中でも特に好きな句を紹介して行きたいと思います。
あえて鑑賞は書きませんので、これらの句の中で気に入ったものがあれば、自由に発言してください。
雪うさぎ柔かづくり固づくり 爽波
キリストのうしろ白菜真二つ 爽波
招き猫水中の藻に冬がきて 爽波
瓜冷しあること思ふ二階かな 爽波
虚子の忌を明日にぞくぞく海に星 爽波
投稿日: 2月 5日(木)18時35分36秒
ひとみさん、書き込みをありがとうございます。
ひとみさんのおっしゃるように、佳句の鑑賞はとても意味のあることです。
色々な俳句サイトで鑑賞をやっていますが、BBSを使って皆で鑑賞し合い、ひとりの俳人を掘り下げて行くと言うのは、今までにない新しい試みであり、とても意味のあることだと思っています。
ご無理をなさらず、ご自分のペースでご参加ください。
ただ、このBBSは、ログが100件を越えると消えて行ってしまうので、たまに覗いてみて、必要な書き込みがあれば、消えてしまう前にコピーしておくことをお薦めします。
さて、今まで取り上げた作品や鑑賞を読んで来て、爽波の俳句の魅力は、何と言っても写生の素晴らしさだと言うことが分かったと思います。
写生は、爽波作品の太い柱であり、他の俳人が頭の中だけで作ることの多い滑稽や諧謔の世界までも、爽波の場合は、しっかりとした写生の上に成り立っているのです。
大根の花まで飛んでありし下駄 爽波
雨の傘振り切つていざ壷焼へ 爽波
避暑に来て貧乏ゆすりしてをりぬ 爽波
鮎落ちて引出物にはがつかりす 爽波
正体を現さぬ人青き踏む 爽波
投稿日: 2月 5日(木)08時42分15秒
思わず爽波の頭を撫でてやりたくなる句です。誰もが思った経験があり、しかし句にすることなど思いもよらなかった。句を見て「やられたー」と思う、そんな句ですね。茎の外れたさくらんぼの魅力の無いこと。
歳旦物といいましたっけ?発句・脇句・第三句からなる連句、きっこさんが飛躍のセンスを見につける訓練とおっしゃっていましたが、私も時々三十六歌仙を巻きますので、わが意を得たりの思いでした。著名俳人の佳句を鑑賞することは、その俳人から手ほどきを受けるに値する価値のあることだと思うのですがどうでしょうか?
そういう私も家事が忙しくなり、こちらにいつまで書き込めるかあやしくなってきました。
投稿日: 2月 4日(水)20時25分41秒
第二句集「湯呑」におさめられている句です。
仲秋には「水初めて涸(か)る」と言う季語がありますが、これは中国の七十二候から来ているもので、時候の季語になります。
一方、この句の「水涸る」は、冬季になり、水源地に雪が積もる影響で、実際に川や池の水が涸れてしまう様子を指す季語です。
この句は、写生句でありながら、「川涸れて」や「池涸れて」と言う具体的な季語を使わず、あえて「水涸れて」と言う、焦点のぼやけた季語を使っています。
これは、宿り木の描写のほうに焦点を絞るためであり、この季語が語っているのは、「渇水期である」と言う時季的な背景なのです。
冬の渇水期ともなれば、落葉樹の葉はすべて落ち、裸木になっています。
青々と葉が茂っていた時季には、カムフラージュされて見えにくかった宿り木が、渇水期、つまり冬季に入り、木の葉がすべて落ちたことにより、その独特の姿をあらわにしたのです。
「水涸れて」と言う季語と、宿り木の描写を取り合わせただけの句なのに、ほとんどの読み手の頭の中には、寒々しくも広々とした冬の空が広がって行きます。
波多野爽波と言えば、多読と多作多捨を基本とした「俳句スポーツ説」が有名ですが、この句も、多作多捨だからこそ生まれた句と言えます。
爽波の「俳句スポーツ説」については、以前、「きっこ裏俳話集」に書きましたが、まだ読んでいない方、一度読んだけれど忘れてしまった方は、この機会に読んでみてください。
下のURLからどうぞ。
*図書館註:「きっこ裏俳話集」はアップ次第リンクを貼ります。