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汗ひいて太幹をしげしげと見る 爽波

投稿日: 2月 4日(水)10時09分9秒

きっこさん、みなさん、素晴らしい鑑賞に楽しませていただいています。
揚句は、そのまんま素直な句でいて、自然に対するやさしさに嬉しくなって書き込みました。まったく同じように感じていても、句には詠めませんでしたが、親しみが出ました。
自然の中に自分が生かされていると思うと、「落ちる」「散る」もその人の心の反映のようです。気持ちが少しでもやわらかくなっているときっと、椿も散る>となるかもしれません。わたしは、猫髭さんのように文学はわかりませんが、常識>とするのは危険なように思います。それぞれの感性ですから。こうしていろいろ感想を聞くのはとても勉強になりますので、大いにやりましょう。また。教えてください。

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鳥威きらきらと家古りてゆく 爽波

投稿日: 2月 4日(水)09時45分41秒

私のところは南の僻地ゆえ、都会に住む友人から『波多野爽波』花神社が送られてきました。持つべきものは句友ですね。今までは俳人が選んだ佳句の中から気楽に選んでいたのですが、句集から選ぶのはたいへんです。掲句は後半の展開が素晴らしいです。一瞬のテープのきらめきと千古の昔からの営みがたおやかに融合しています。大変余韻のある句です。

   腕時計の手が垂れてをりハンモック  (昭和15年/17才)

この句を始め、ずい分若い頃から徹底した写生で、季語の趣を存分に描いていることに感嘆します。

猫髭さん、文学作品を読んだことがなく直感だけで鑑賞している私には羨ましい存在です。是非鑑賞をご披露くださいね。

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>猫髭さん

投稿日: 2月 4日(水)02時26分14秒

猫髭さん、正直な意見をありがとうございます。
反論は、大いに結構です。
このコーナーは、俳人をひとりづつヨイショして行くコーナーではありませんので、反論があって、初めて本質に近づいて行くことができます。

俳句は、他の文芸や芸術、果ては食べ物や着る物の趣味と同様に、オールマイティーではありません。
地球上でオールマイティーなものと言えば、空気と水くらいしかありません。
すべての読み手の心に響く俳句や、すべての読み手に理解される俳句、ましてや、すべての読み手を納得させる俳句など、現時点では存在しないと思います。
いくらあたしが爽波を評価していても、世の中の評価は猫髭さんと同様に、低いものとなっています。
ですから、猫髭さんは自信を持って、この作家の作品は自分には響かない、とおっしゃれば良いと思います。
多くの人たちも、同じ意見なのですから。

ただ、言葉の使い方がおかしい、と言うだけで否定するのであれば、爽波の「親切な心~」の句を指摘する以前に、否定すべき句は星の数ほどあります。

あたしの感覚を言えば、さすがに「椿」を「散る」と言ったらおかしいと思いますが、花が小型で、見るからに重さを感じさせない「さつき」の場合は、その時の作者の感覚によっては、「散る」と言ってもそれほど違和感を感じません。
椿はボトッと落ちますが、さつきはフワッと落ちますので、あたしの感覚では、この二つの状態を「落ちる」と言う同じ言葉で表現するほうが、逆にイメージに反しているようにも感じられます。
たとえば、「桜」は「散る」と言いますが、落ちているものを見ると、花弁だけではなく、花自体もたくさん落ちています。
八重桜などは、花が塊になって落ちていますが「散る」と表現しています。
ですから、あたしの感覚では、花弁であっても、花自体であっても、それが、それほど大型ではなく、重さを感じさせないものであれば、「散る」と表現しても、それほどおかしいとは感じません。
もちろんこれは、あたしの感覚ですから、猫髭さんの考えを否定するものではありません。

念のために、「散る」と言う言葉を辞書でひいてみましたが、「花や葉が茎や枝から離れて落ちる。」と書かれてあり、「花弁」とは指定されていませんでした。

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散ると落ちると

投稿日: 2月 4日(水)01時39分21秒

   親切な心であればさつき散る 爽波

   椿散るああなまぐさき昼の火事 赤黄男

   曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて 朱鳥

散らないものを散らした三馬鹿トリオとしか思えません(笑)。
すみません、馬鹿正直な意見で。でも、書かれた事への意見を書いてもいいとおっしゃられていたので。
齋藤茂吉も北原白秋も沙羅や桐の花を散らしていますが、たとえ有名人であっても、常識以前の日本人としての素養に関する部分はきちんと馬鹿野郎と言いましょう。これは写生以前の問題です。過ちはあらためる、過ちはかざってはいけないと孔子曰くです。

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独自の視点

投稿日: 2月 4日(水)00時01分4秒

対象の見方、切り取り方と言うものは、人と同じでは類想句になってしまいますし、だからと言って、人とまったく違ければ読み手に理解されない句になってしまいます。
爽波の視点は、人と同じようでいて、ほんの少しだけ違うのです。

その場にいる全員が、池の面の蓮を見て、一生懸命に蓮の句を作っている時に、爽波も皆と一緒に蓮を見ながら、耳だけは遠くの音を聞いているのです。

   蓮見茶屋ドーンと遠き音は何  爽波

全員が、一面のげんげや、遠くの山々、広がる青空の美しさに目を奪われている時に、爽波も皆と一緒にげんげを見ながら、そこに落ちているエロ本を見つけてしまうのです。

   恥づかしきものげんげ田に捨ててあり  爽波

真夏の炎天下の吟行で、参加者全員が汗をかきながら歩いていました。
どこにも日影などなく、皆、その暑さにまいっていました。
しばらく進むと、一本の大きな木が見えて来て、その木蔭で休憩することになりました。
やっと汗がひき、まわりを見回すと、皆それぞれに句帳を広げ、今まで歩いて来た道中で見たものを俳句にまとめています。
歳時記をパラパラめくり、一生懸命に俳句を作っています。
爽波だけは、句帳も歳時記も広げず、この素晴らしい木蔭を提供してくれている大木を見上げたのです。

   汗ひいて太幹をしげしげと見る  爽波

炎天下から木蔭に入ったばかりの時は、誰しもが、その木をじっと見る余裕などありません。
汗がひいて、ホッとして、心にゆとりが生まれ、初めて木をしげしげと見ることができるのです。
それなのに、他の人たちは、俳句を作ることにばかり一生懸命で、目の前のものを見る余裕がないのです。

これほどの大木なのですから、作者が生まれる何十年も何百年も前から、この場所に立っていたのです。
そして、作者が死んだあとも、ずっと立ち続けていることでしょう。
つまり、この木から見たら、今、自分の木蔭でひと休みしている人間など、何百年と言う生涯のうちの、瞬きのようなものなのです。
そんな大木と人間との一期一会がここにあり、それに気づいたのは、句帳を開かなかった爽波ひとりなのです。

この句は、ホッとして心にゆとりが生まれ、そのゆとりを与えてくれた大木をしげしげと見ている作者をもうひとりの作者が、第三者として客観的に見ているのです。
これが、コツコツと客観写生を積み重ねて来た者だけが、手に入れることのできる視点なのです。

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鑑賞はにがて・・・

投稿日: 2月 3日(火)18時38分56秒

   煙草盆までとうすみの来ることも   爽波

俳句をやるなら鑑賞も大切ですと教わりました。爽波さんの句は私にも読めます。
とんぼってっ人なつっこくて好きです。テニスをしてる時も羽をふるわせて空に止まっていたりネットに羽を休ませていたりします。煙草の煙に関心があったのかもしれない。
時間がのんびりすぎてゆく感触がいいです。
最初にぱっと見たとき 爽波さんて今活躍してる人だと思いました。そうじゃないと知って二度びっくり!俳句の世界は広いのだあ。

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大金をもちて茅の輪をくぐりけり 爽波

投稿日: 2月 3日(火)18時24分30秒

昭和59年、61才の時の作品です。
12月の大晦日に対して、陰暦6月の晦日を「夏越(なごし)」と呼び、「茅の輪(ちのわ)」と言う浅茅で作った輪をくぐったり、白紙で作った「形代(かたしろ)」を川に流したりして、お祓いをします。
昔は、麻の葉を川に流したりもしたようですが、現在では大麻取締法で逮捕されてしまうので、気をつけましょう(笑)

大金と言うと、その解釈は人それぞれ違います。
あたしの場合は、実生活では、1万円以上は大金です。
しかし、この句を読んでパッと頭に浮かんだのは、100万円でした。
それも、帯のついたピン札の100万円です。
実際は、200万円だったかも知れないし、50万円だったかも知れません。
作者の背景を考えれば、お金持ちの爽波が大金と言うくらいですから、500万円、1000万円だったのかも知れません。
しかし、問題はその金額ではなく、茅の輪をくぐったと言う部分なのです。
そして、本来ならば省略するはずの「もちて」と言うことをあえて言っている点です。
この2点から、この大金が、労働に対する正当な報酬ではなく、濡れ手に粟で儲けたお金だと言うことが分かります。
だからこそ、茅の輪をくぐってお祓いをしたのです。
「もちて」と言う表現から、作者は、自分自身よりも、その大金に茅の輪をくぐらせたかったと言うことが見えて来ます。
真面目な爽波ですから、法律に触れるようなことはしないと思いますが、株や相場などのギャンブルで儲けたお金であることに間違いありません。
爽波にかかると、こんなことまでが名句になってしまうのです。

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[であれば]ありがとうございます

投稿日: 2月 3日(火)11時34分26秒

   親切な心であればさつき散る 爽波

きっこさん、早速にありがとうございます。耕衣の解説はムズカシ過ぎる! 後に続くきっこさんの解説で成る程と納得します。「であれば」がキーポイントとは思いも寄らなかったー目から鱗!。「なんでもない小さなコト・モノに気付き、掬い取る」。これで読み手に感動を与えるのは最高の難しさですね。俳句の奥の深さをしみじみ。
それから取り上げて欲しい人に阿部完一・飯島晴子。非常に興味ありますが難しい、きっこさんに教えてもらいたい俳人です。機会があるのを期待してます♪

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爽波 17才から30才まで

投稿日: 2月 3日(火)10時04分18秒

   腕時計の手が垂れてをりハンモック  (昭和15年/17才)

   鳥の巣に鳥が入ってゆくところ  (昭和16年/18才)

   砂日傘さつきの犬がまた通る  (昭和17年/19才)

   クローバの中にも水の溜まりをり  (昭和18年/20才)

   大小のはたはたのとびちがひけり  (昭和19年/21才)
    ※「はたはた」はバッタのこと。

   氷上に少しく土の崩れ落ち  (昭和20年/22才)

   滝見えて滝見る人も見えてきし  (昭和21年/23才)

   次の間に歩きながらに浴衣ぬぐ  (昭和22年/24才)

   紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら  (昭和23年/25才)

   恋猫に投げたる石の見えて弾む  (昭和24年/26才)

   食事とりつつ秋雲の流るるを  (昭和25年/27才)

   自動車の下向きとまる春の山  (昭和26年/28才)

   風の夜やまたげぢげぢが出て壁を  (昭和27年/29才)

   金魚玉とり落しなば鋪道の花  (昭和28年/30才)

ひとみさんの取り上げてくださった「銀色の~」の句は、昭和16年、18才の時の作品です。

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銀色の釘はさみ抜く林檎箱  爽波

投稿日: 2月 3日(火)09時22分11秒

清水さんのHP,作者からも検索できるとは知りませんで、得した気分です。掲句はその中から一番心が躍った句です。「銀」が手柄ですね。林檎をスパッと切ったときのジューシーな果肉の質感と響きあって、瑞々しい一句となっています。

   親切な心であればさつき散る 爽波

句会で目にしたならば、没のマークを入れてしまいそうな句ですね。好きになった爽波の句だからなんとか鑑賞しようと思いますが、難しいです。ビッグバンのことを考えていたら頭が痛くなる、そんな感じです。遊歩道なんかに両側に植えられていますから、道を譲ればさつきが散るとでもしておきましょう。椿と違ってめしべおしべを残して落ちるさつきには「散る」が相応しいかもしれません。

花に心象を添わせた句に<老ゆることを牡丹のゆるしくるるなり>細見綾子 がありますが、こちらは読むたび涙がちょちょぎれます。きっこさん、細見綾子リクエストしておきます。それから、色がまぶしすぎるので画面を白に変えてくださいますか?じっくり皆様の意見も読みたいので。

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