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真言宗

同じ宗派でも教えはそれぞれですよね?それは同じ宗派とは言えるのですか?

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釈尊は対機説法といって、相手によって教え方を変えられました。しかし、似通った能力、考え方の弟子たちには、その説き方も似通ったものになったはずです。こうして、最初のグループ(宗派)ず生まれます。しかし、時を経るにつれて、人々の考え方、社会状況も自ずと変化してきます。こうして、同一グループ内で、考え方の違いよる分裂が生じます。
お尋ねの一件は、同一グループ(宗派)内に異なる考え方が存在する場合、それは同一宗派と言えるのかという疑問かと推察します。
そのグループ内で、その考え方が皆が許容される範囲内であれば分裂は生じません。しかし、それが許容範囲を超えれば、自ずと分裂して新グループが生まれます。現宗門で、最も分裂が激しいのが日蓮宗です。日蓮聖人没後すぐに分裂が始まったようです。
我が妙法十句は法華経を重視していますが、日蓮系を名のれません。何故なら、お題目を採用していないからです。日蓮系とは、題目を唱える宗派・グルーブをこう呼びます。同じように、念仏系では、浄土宗と浄土真宗は念仏を称える宗派・グルーブです。お尋ねの宗派はこのようなもので宜しいのでしょうか。

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お元気ですか?

先生様お元気ですか?
こないだ覗いたら閉店してたからもうやめっちゃたのかと心配してました。
どうも復活したようで安心しましたよ~
今、私は有給で実家に戻って来ていてのんびりな毎日を過ごしています。
それと大大報告、二人目の妊娠が決まりましたーーーー
10月半ば予定です。これもご利益間違いないね!
先生も元気で益々のご繁栄祈願しております。

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アリさん。心配かけました。ウイルス対策をしていました。対応は終わりましたので安心してください。
懐妊おめでとうございます。アリさん一人の身体ではなくなりました。出産まで身体に気を付けて、元気なお子さんを生んでください。日々祈っています。

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父が亡くなりました。

題名でもあるように最近父が亡くなりました。
仲も良く、親孝行も個人的には出来ていたので後悔はあまりありません。勿論、泣きましたし悲しかったのですが、実感がないのか普通の人よりサッパリしています。あまり親に感謝していないのでしょうか。自分には心が無いのかなんて考えてしまいます。

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金髪さん。自分には心がないなどと考えないでください。心を考える主体とすれば、心があるのは人間だけです。心があるからこそ死を自覚し、死を怖れ、身内の死に慟哭するのです。サルは死を自覚出来ません。死んだ子猿を背負うてあやす母猿の姿をいつか映像で見たことがあります。
死は生まれた者には必ず訪れます。釈尊は子を亡くし、嘆き悲しむ母親にこう諭しました。「家族に死者がいない家を訪ねて布施をもらってきなさい」・・・しかし、母親はそのような家を見つけることは出来ませんでした。釈尊はこの母親に「生まれた者には必ず死が訪れるのだ」という事実を、彼女自らに確かめさせたのです。
金髪さん。あなたは父上の死に際し、とことん悲しみ、とことん泣き明かして、心が清められたのではないですか。あなたは十分に父上の死を悼み、父上をお浄土に往(おく)り届けました。
初七日。百か日。一周忌。三回忌。七回忌・・・追善供養をしっかり行ってください。

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無題

知識とは、言葉によるものが全てですか? それとも仏教の悟りのように体験しないとわからないものもありますか? 教えていただきたいです。

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ムハンマドさん。投稿ありがとうございます。同様の投稿がすでにありました。
2月6日付け、投稿者はにたまごさんです。そちらを参照してください。

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質問させて下さい。

宗教の質問です。輪廻転生についてです。
宗教によって輪廻転生についての解釈は違うと思いますが、①まずよく知られているキリスト教、仏教、神道、イスラム教においての輪廻転生の概念を教えてください。
②また、何何をしたら輪廻転生ができない。どの生き物が何に生まれ変わることが出来る、などの詳しい話があれば教えてください
③上に載せた宗教以外にも輪廻転生について興味深いのがある場合は教えてください。
宜しくお願いします。

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皆様、回答ありがとうございました。
こんなに沢山の回答をいただけると思ってなかったので嬉しいです。そして本当に勉強になりました。
どの回答も興味深くとても悩んだのですが、今回は主催者様のをベストアンサーに選ばせていただきます。
またご縁がありましたら、その時もよろしくお願い致します。

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根本的なことですが、「輪廻転生」というのは、インドの土着思想で、インドの宗教以外にはない概念です。
従って①キリスト教、神道、イスラム教に輪廻転生の概念はありません
人の生涯は一度きりです。
神道に至っては、神ですらも〇にます。
後年、神道は仏教を受け入れた宗派(吉田神道・伊勢神道)が次々に出てきますが、輪廻転生するのは、神⇒仏・天部などだけで、人は輪廻転生しません。
②仏教の輪廻転生では、必ずしも人に生まれ変われるというわけではありません。
生まれ変わる世界は、6つの世界に分けられています。
その世界は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つで総称して「六道」と呼ばれています。
また、地獄、餓鬼、畜生の3つの世界を三悪道といい、特に苦しみの激しい世界だといわれています。
天上界は極楽浄土とは違い、迷いのある世界です。また、悲しみも寿命もあります。
次に生まれる世界は、〇ぬまでに行った行為「引業」によって、決まっています。引業とは、生前に行った悪行のことを意味します。
なので、引業の重さによって、次に生まれ変わる世界が決まります。
地獄には5つの種類があり、生前の行為によって、生まれ変わる地獄も違います。
等活地獄:生き物を〇す殺生罪の場合
黒縄地獄:〇生罪に加えて、他人の物を盗む偸盗罪の場合
衆合地獄:〇生・偸盗罪、淫らなことを行う邪婬の罪をもつ場合
叫喚地獄:〇生・偸盗・邪婬・飲酒の罪をもつ場合
大叫喚地獄:〇生・偸盗・邪婬・飲酒の罪、嘘をつく妄語の罪をもつ場合
ふたたび人間に生まれ変わるためには、「五戒」という戒律を守り続けなければなりません。
五戒とは、不殺生・不偸盗・不邪婬・不飲酒・不妄語の5つのことを意味します。
③輪廻転生思想は、古代ギリシャやイスラム教のごく一部でも見られますが、一般的にイスラム教にはありません。
輪廻転生思想は、インドの土着思想であり、インドの宗教であるヒンズー教やジャイナ教にもあります。
ヒンズー教の輪廻転生思想は、水を生命原理とする思想にもとづいています。
水は天界から雨となって地上にふり、植物を生長させます。
根から水分を吸収して成長した植物は、やがて穀物や果実を実らせます。
それらは食べられ精子となり、母胎内にはいり新たな生命として誕生します。
そして、人は〇んで火葬にされると、水分は煙となってふたたび天上に昇っていきます。
輪廻の主体が、人間の本体、永遠不滅の実体であるアートマン(個体を支配する原理/我)であるとされます。
このアートマンを支配しているのが「業(ごう)」です。
業とは、魂に付着し、その人の生前の行為により魂にはたらきかけ、その人の〇後の運命を決定づける目にみえない力です。
来世にいかなる生をうけるかは、現世の業のいかんにかかっています。
死後に魂がたどる道は、「神道」と「祖道」にわかれます。
〇者が火葬され、生命である水は煙となって天界にいき、月に到達します。
信心は苦行なりと信じ実行する人の魂は、ふたたび〇ぬことのないすばらしい世界=ブラフマン(宇宙を支配する原理/梵)の世界にいけます。
これが神道です。
しかしこの知識を知らず、祭祀やお布施をした者は、雨となって地上にふりそそぎ、その水分を吸収した米・麦・草・木・ごま・豆となり、さらにそれを食べた人の精液となって母胎にはいります。
これが祖道です。
どの母胎にはいるかは、前世の業にしたがいます。
悪行をかさねた人は、犬や豚や賤民の母胎にはいります。
(五火二道説/ごかにどうせつ)
この様な解釈で良いかと思います。
先生の意見とも一致する部分が多く参考になさって下さい。

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小林さん。輪廻転生という考え方(死生観)はインドアーリア人独特のものの考え方であることをまず確認しておきます。
従って、キリスト教、イスラム教、神道にはこのような考え方はありません。
キリスト教とイスラム教は兄弟宗教であって、共に、ユダヤ教を母体として誕生しました。だから、旧約聖書は共通のはずです。つまり、神が人間を創ったという教えは両教に共通する死生観です。
神道は我々日本人の宗教観です。神道は「何故人はこの世に生まれたのか」ということを考えません。もっぱら、死後のことを心配します。つまり、人の魂これを「タマ」と言いますが、人の死後、その人の「タマ」は荒魂(あらみたま)、つまり、悪霊となって、生きている者たちに祟りを起こす。だから、生者は、死者のタマを慰めなくてはならない。これを「鎮魂」(ちんこん)と言います。本来、鎮魂は神道の役割でしたが、仏教伝来によって、仏教の役割となって現在に至っています。当時の祖先たちにとって、仏は強力な神だったわけです。
さて、インドアーリア人の死生観です。インドアーリア人は人間は業(カルマ)を背負った存在と考えます。業は行為つまり日常の積み重ねです。行為は必ず結果を生みます。悪因悪果。善因善果。今生を考えれば、当たり前にこのことは観察されます。しかし、悪因善果。善因悪果ということも世の中起こり得ます。憎まれっ子世にはびこるということもあるわけです。
そこで、インドアーリア人たちはこう考えました。人の生涯は今の生涯だけではない。数々の生涯が繋がっている。その繋がりの一つの結節点が今の生涯である。この繋がりを動かすものが今生の業である。かれらはこう考えたわけです。輪廻転生の発見でした。
つまり、輪廻転生は業が決めるのであって、自分の思い通りになるものではありません。この理(ことわり)を因果の道理と言います。仏教徒の立場に立てば仏が決めるという事でしょうか。仏は即ち因果の道理であるからです。
もう一回確認しておきます。輪廻転生つまり因果の道理はインドアーリア人の思想であって、我々日本人は仏教を通じてこれを知りました。だから、学ばずして因果の道理を知ることは出来ません。
小林さん。主催人は幼少時祖母や曽祖母から地獄極楽の話をよく聞きました。なので、その存在を信じます。地獄極楽をこころの問題と捉える考え方もありますが、主催人は賛成できません。実際にあると信じられるから自分の行為を正すことも出来るのです。

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質問させて下さい。

teacup.掲示板よりお邪魔させて頂きます。
個人的な質問なのですがアドバイスいただければ幸いです。
私は主にアジア圏が好きで幾つかの国を旅行しているのですが、その際(特に宗教色の強い国で)現地の人に、「何の宗教に属しているのか」と聞かれることが何度かありました。
恥ずかしながら私は英語も殆どできないので、うまく受け答えが出来ずでした。
伝わらず困り果て「ノーゴッド!」なんて言う始末…
そういった質問をされた時、どのように答えればよいでしょうか?
「私は特定の宗教には属さず、無宗教です。
ですが神への信仰(存在)を否定するわけでなく、それぞれの考え方や信仰心を尊重したいと思っています。」
という風なことを英語で表現するにはどう言えばいいのでしょうか?
ちなみに現地で知りあった人にも誤解のないよう、それを判る要に明記したいのですが…。
他の質問サイトより宗教家の方の意見が聞きたいと思い、こちらに投稿させていただきました。
ご回答宜しくお願い致します。
長文失礼致します。

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即答にて対応頂きありがとうございました。
英語の件は少し残念ですが、自分の中で気持ちの整理が出来ました。
この様なサイトに出会えた事に感謝申し上げます。
これからも、益々のご活躍を期待しております。メッカ

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メッカさん。相当に難解な課題を頂きました。貴君の宗教観は典型的な日本人の宗教観でそれはそれでいいと思います。思想家の山本七平氏はこのような日本人の宗教観を「日本教」と名付けています。
メッカさん。外国人から「宗教は何か」と問われたら、「日本教徒です」と答えられたらいかがですか。そして貴君の宗教観を述べたら良いと思います。それがそのまま日本教の説明になります。
ただ、日本教で問題なのは、第一に、信仰対象が一つではないということです。いわゆる多神教で、ご利益を分業しています。ご神体は山や滝、或いは、川や石など自然物があります。富士山は一山が神です。那智の滝は滝そのものが神です。あるいは、人が神として祀られます。菅原道真を祀った北野天満宮。日光東照宮は徳川家康が祀られています。明治神宮は明治天皇を祀ったものです。
第二に、教義がないことです。ここらあたりが、外国人から誤解される最大の理由かも知れません。そもそも日本教は本質的にはアニミズムであって、自然界の働きに神性を感じる所に宗教としての本質があります。だから、教義を作りようがないのです。但し、それぞれの神社の沿革とご利益が教義と言えば教義といえるかも知れません。
ただ、ここで神道系の新興宗教はどうなのかという疑問か生じるかもしれません。これらの教団は必ず教団独自の神を立てています。例えば、天理教は天理王命(てんりおうのみこと)という一神を立てます。実質は一神教と言えます。
さて、英語表現の件ですが、残念ながら、当方、英語は苦手で、ご期待に沿えません。ご容赦ください。

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質問

知識とは、言葉によるものが全てですか? それとも仏教の悟りのように体験しないとわからないものもありますか? 教えていただきたいです。

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にたまごさん。投稿ありがとうございます。
さて、ご質問の件ですが、主催人はこう考えます。知識には、学習知と体験知があると思います。学習知は学校での学ぴ、あるいは、書籍を通しての知識を言います。対して、体験知とは、体験を通しての実体験そのものを言います。職人の技などは代表的な体験知に当たるでしょう。
宗教的悟り、或いは、深い信心から出てくる智慧もまた体験知の代表的なもので、悟り体験あるいは信心体験なくしては到底理解できるものではありません。つまり、言葉による表現は不可能だということです。
にたまごさん。こう考えると、言葉による知識は知識の全てではないと言えるのではないでしょうか。つまり、身体で学習する知識があるということです。運動競技(スポーツ)などもそうでしょう。今、冬季オリンピック北京大会が開催中ですが、出場選手の中には、身体がかってに動くというような域まで達している選手もいるかも知れません。

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研修中

お久ぶりです。
先生様、お元気でしょうか?ボーイでございます。
祝!10周年を迎えておめでとうございます。
私は今、山梨の機械工作メーカーにて最新の工作機械の勉強会に来ています。
会社での推薦もあり、興味本位で行かせて頂いております。
正社員2名と私で3名にて近くのビジネスホテルから配信しております。
日程は3日間で明日最終日となります。
最新の工作機械は殆ど、人が操作する必要がなく、機械のメンテナンスを中心にカリキュラムにそって行っております。
自分の感想ですが、将来殆どの工場で人員の削減が予定されており、私みたいな作業員は必要とされなく未来が見えてきました。
今後、自分は生き残れるか?考えさせてもらう貴重な体験をしています。
先の事は解らないですが、自分の出来る事を精一杯やる事が将来に通じると信じて頑張りますので、どうか今後もご指導ほど宜しくお願いいたします。
ビジネスホテルから乾杯!

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ボーイさん。確実に、キャリアアップされているようで嬉しく思います。今の努力を続けていれば必ず目標(正社員)達成できると思います。
当方も20周年めざして頑張ります。今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。

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10周年おめでとー

先生、お元気してますか?
10周年と訪問者10000件おめでとうございます。
私もかれこれ6、7年位かな?大変お世話になっております。
これからも社会の為、皆の為、益々のご活躍お祈りしております。
アリ

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アリさん。励ましのコメントいただき、嬉しく思います。後十年、20周年目指して頑張ります。今まで通り、引き続きご支援のほどよろしくお願いいたします。

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無題

仏教について聞きたいです。 最近仏教の本を読んだのですが、苦痛を無くすには、欲を無くすることが大事というニュアンスで書かれてました。 そこで引っかかったのですが、仏教を広めて世の中を良くしようという思いそのものが欲なのではないでしょうか?

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法華経・方便品第二(第二章・巧妙な手段)にこうあります。梵文和訳で引用します。
「如来はただ一つの目的・ただ一つの仕事の為に、この世に出現する。それは、偉大な目的であり、偉大な仕事なのだ。如来がこの世に出現する目的となった、如来のただ一つの偉大な目的、ただ一つの偉大な仕事とは、一体何であろうか。それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞(こぶい)する為であって、その為に如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示す為であり、またそれを人々に理解させ、分からせる為であり、また如来が智慧の発揮するに至るまでの道程を人々に理解させる為に、世尊はこの世に出現するのだ。このことが、シャーリープトラよ、如来のただ一つ偉大な目的であり、ただ一つの偉大な仕事であり、如来がこの世に出現するただ一つの動機なのである。」
少し長い引用となってしまいましたが、お許しください。ここで”如来のただ一つの偉大な目的”としたところは、漢訳では「一大事の因縁」となっており、あまりにも有名な箇所です。
要するに、如来つまり仏の行為は全ての人々(衆生)を成仏させる為であり、だから、究極の利他行なのです。しかし、我々凡夫が仏を真似したところで、仏と同じことを行うことは出来ようがありません。自分の出来る範囲で人の為に行えばよいのです。道を聞かれて教えてあげるのも小さな利他行です。
にたまごさん。あまり深刻になる必要はありません。悪しきことはせず、すべての善きことをせよ(諸悪莫作、衆善奉行)法句経のこの教えは仏の教えの基本です。

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返信ありがとうございます。
利他行は欲望を超えたものてすか、~したいと思ってしまった時点で欲望では無いのか、しかしそれを言い出すと生きていくことも出来ないという無限ループに入って混乱してます(´>∀<`)ゝ

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にたまごさん。確かに、貴君の言う通り、釈尊は「苦しみの原因は欲望である」と説かれました。しかし、そもそも、その「欲望」とは何でしょうか。
釈尊はこう説かれています。「それは、即ち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。それは、即ち、欲望に対する妄執と生存に対する妄執と生存の滅無に対する妄執とである。」
ここで、議論を進める前提として、まずは、再生ということの意味を確認しておきましょう。再生とはインドの人々が考える死生観で「業と輪廻」のことを指しています。つまり、人の今世は過去世の業(行為)の結果であり、人は今世の業により、来世に転生し、この生涯を永遠に繰り返す。この生老病死という苦しみの生涯の回転の輪から抜け出す(解脱する)ことが修行(宗教)の目的である。
業と輪廻は否定をしようがしまいが真理・真実です。釈尊は人間の欲望を否定したわけでありません。釈尊が否定されたのは「妄執」です。妄執とは真実が見えない(妄)結果としての執著(とらわれ)です。
さて、にたまごさんは、仏教を弘めたいということも一種の欲望ではないかと疑問を呈しているわけですが、布教結果にこだわれば、それは執着となるでしょう。
釈尊は教えを弘めよと弟子たちを各地に遣わしました。それは施楽と言って人々に安楽を施すのが目的でした。だから、本物の布教は利他行であって、人間の欲望を超えたものです。人々に本物の御利益(ごりやく)を与えるものです。決して、手前勝手な自己満足な行為ではありません。

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