お久ぶりです。
先生様、お元気でしょうか?ボーイでございます。
祝!10周年を迎えておめでとうございます。
私は今、山梨の機械工作メーカーにて最新の工作機械の勉強会に来ています。
会社での推薦もあり、興味本位で行かせて頂いております。
正社員2名と私で3名にて近くのビジネスホテルから配信しております。
日程は3日間で明日最終日となります。
最新の工作機械は殆ど、人が操作する必要がなく、機械のメンテナンスを中心にカリキュラムにそって行っております。
自分の感想ですが、将来殆どの工場で人員の削減が予定されており、私みたいな作業員は必要とされなく未来が見えてきました。
今後、自分は生き残れるか?考えさせてもらう貴重な体験をしています。
先の事は解らないですが、自分の出来る事を精一杯やる事が将来に通じると信じて頑張りますので、どうか今後もご指導ほど宜しくお願いいたします。
ビジネスホテルから乾杯!
No.222ボーイ2022年7月29日 19:04
ボーイさん。確実に、キャリアアップされているようで嬉しく思います。今の努力を続けていれば必ず目標(正社員)達成できると思います。
当方も20周年めざして頑張ります。今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。
No.223主催人2022年7月29日 19:05
先生、お元気してますか?
10周年と訪問者10000件おめでとうございます。
私もかれこれ6、7年位かな?大変お世話になっております。
これからも社会の為、皆の為、益々のご活躍お祈りしております。
アリ
No.220アリ2022年7月29日 19:03
アリさん。励ましのコメントいただき、嬉しく思います。後十年、20周年目指して頑張ります。今まで通り、引き続きご支援のほどよろしくお願いいたします。
No.221主催人2022年7月29日 19:03
仏教について聞きたいです。 最近仏教の本を読んだのですが、苦痛を無くすには、欲を無くすることが大事というニュアンスで書かれてました。 そこで引っかかったのですが、仏教を広めて世の中を良くしようという思いそのものが欲なのではないでしょうか?
No.214にたまご2022年7月29日 18:58
法華経・方便品第二(第二章・巧妙な手段)にこうあります。梵文和訳で引用します。
「如来はただ一つの目的・ただ一つの仕事の為に、この世に出現する。それは、偉大な目的であり、偉大な仕事なのだ。如来がこの世に出現する目的となった、如来のただ一つの偉大な目的、ただ一つの偉大な仕事とは、一体何であろうか。それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞(こぶい)する為であって、その為に如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示す為であり、またそれを人々に理解させ、分からせる為であり、また如来が智慧の発揮するに至るまでの道程を人々に理解させる為に、世尊はこの世に出現するのだ。このことが、シャーリープトラよ、如来のただ一つ偉大な目的であり、ただ一つの偉大な仕事であり、如来がこの世に出現するただ一つの動機なのである。」
少し長い引用となってしまいましたが、お許しください。ここで”如来のただ一つの偉大な目的”としたところは、漢訳では「一大事の因縁」となっており、あまりにも有名な箇所です。
要するに、如来つまり仏の行為は全ての人々(衆生)を成仏させる為であり、だから、究極の利他行なのです。しかし、我々凡夫が仏を真似したところで、仏と同じことを行うことは出来ようがありません。自分の出来る範囲で人の為に行えばよいのです。道を聞かれて教えてあげるのも小さな利他行です。
にたまごさん。あまり深刻になる必要はありません。悪しきことはせず、すべての善きことをせよ(諸悪莫作、衆善奉行)法句経のこの教えは仏の教えの基本です。
No.219主催人2022年7月29日 19:02
返信ありがとうございます。
利他行は欲望を超えたものてすか、~したいと思ってしまった時点で欲望では無いのか、しかしそれを言い出すと生きていくことも出来ないという無限ループに入って混乱してます(´>∀<`)ゝ
No.216にたまご2022年7月29日 18:59
にたまごさん。確かに、貴君の言う通り、釈尊は「苦しみの原因は欲望である」と説かれました。しかし、そもそも、その「欲望」とは何でしょうか。
釈尊はこう説かれています。「それは、即ち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。それは、即ち、欲望に対する妄執と生存に対する妄執と生存の滅無に対する妄執とである。」
ここで、議論を進める前提として、まずは、再生ということの意味を確認しておきましょう。再生とはインドの人々が考える死生観で「業と輪廻」のことを指しています。つまり、人の今世は過去世の業(行為)の結果であり、人は今世の業により、来世に転生し、この生涯を永遠に繰り返す。この生老病死という苦しみの生涯の回転の輪から抜け出す(解脱する)ことが修行(宗教)の目的である。
業と輪廻は否定をしようがしまいが真理・真実です。釈尊は人間の欲望を否定したわけでありません。釈尊が否定されたのは「妄執」です。妄執とは真実が見えない(妄)結果としての執著(とらわれ)です。
さて、にたまごさんは、仏教を弘めたいということも一種の欲望ではないかと疑問を呈しているわけですが、布教結果にこだわれば、それは執着となるでしょう。
釈尊は教えを弘めよと弟子たちを各地に遣わしました。それは施楽と言って人々に安楽を施すのが目的でした。だから、本物の布教は利他行であって、人間の欲望を超えたものです。人々に本物の御利益(ごりやく)を与えるものです。決して、手前勝手な自己満足な行為ではありません。
No.215主催人2022年7月29日 18:59
仏教を勉強したいです。
今まで仏教入門~みたいな感じの本を読んだのですがイマイチよくわかりません。
そこで仏教の概要?を理解しようと思い仏教史を読もうと図書館でさがして読んでみたのですが、長々と書かれていてよくわかりません。
ほかに仏教の本では三枝充悳著・仏教入門と橋爪大三郎著・世界がわかる宗教社会学入門などを読みましたがぴんときません。おすすめありませんか?
No.217ぺよんぐ2022年7月29日 19:00
ぺよんぐさん。貴君の仏教学習の目的は何ですか。主催人の場合は”心を強くする”ことでした。二十歳の学生の頃でした。大教室での授業になじめず、友人も出来ず、孤立しました。そういう時に出会ったのが岩波新書版の「仏教」(渡辺照宏著)でした。そこには苦しみの原因は欲望であると説かれていました。欲望を無くせば心は強くなる。苦しみも無くなる。少なくとも、当時の主催人はそう教えを受け取っていました。二十歳の学生の頃でした。
ところが、心を強くするどころではありません。不安はつのるばかりです。禁欲生活を自身に課したのですから、当然です。解決は四年生を待つことになります。どうにか就職先は決まったものの今度は社会に出る不安が募ってきました。そして、切羽詰まって、一種の回心体験をします。このあたりの事情は拙著「妙法十句入門」に書きました。
ここからは本題に入ります。まず、仏教は宗教です。宗教の独学はお勧めできません。釈尊は必ず師匠について学べと教えられています。
そこで提案です。拙著「仏教入門ーバラモン教・ウパニシャッド・仏教ー」(ブイツーソリューション)をテキストにしたらいかがですか。仏教には先行する思想があります。それが、バラモン教とウパニシャッドです。少なくとも、釈尊にはこれら二者の素養がありました。まず、これら二教を学んでください。微力ながら、当方も、少しはお手伝いできると思います。
No.218主催人2022年7月29日 19:01
40代主婦をしております。
こちらのサイトには時折拝見させてもらっております。
特に表紙(最初の時事ネタ)での考察が素晴らしく何時も関心させてもらっています。
早速ですが先生のご意見をお聞かせ下さい。
私は日蓮宗の家系なのですが、他人の葬式はその人の宗派に合わせて式に参加しますか?それとも自分の教義に反する事ならやりませんか?
意見をお聞きかせ下さい。
なかなか他のサイトでは回答いただけない場合が多く気になっていました。
どうぞ宜しくお願いします。
No.211毛利2022年7月29日 18:56
迅速な対応に感謝いたします。
丁寧で分かりやすい解答にホットしました。
あまり考えず呪文を唱えてきますね!
これからも応援してますので、どうぞよろしくおねがいいたします。
毛利
No.213毛利2022年7月29日 18:58
釈尊はご自身の葬儀について、出家修行者はそれに関わってはならない。在家信者にまかせよと仰せになりました。ご遺骨は七つに分骨され、受け取った在家信者がそれぞれのやり方で釈尊をお送りしました。
また、対機説法と言って、相手の能力に応じて教えを説かれました。今の仏教各宗派はこれら釈尊の基本的考え方にルーツがあります。
ご質問の件。主催人はこう考えます。葬儀の仕方は各宗派により異なるのですから、参加される宗派のやり方に従うのが良いと思います。それが釈尊のご意思にかなうものと思います。
それに、宗派は違えども我々日本人にとって死生観は共通です。つまり、人は死後荒魂
(あらみたま)となって、人に危害を加える。これを祟り(たたり)と言いますが、日本人にとっての宗教のルーツは祟りの封じ込めにあります。これを殯(もがり)と言います。結局、現代の各宗派の葬儀もまた死者の祟りの封じ込めなのです。そうすると、訳の分からないお経も悪霊封じの呪文と考えれば納得かいくのではないでしょうか。
No.212主催人2022年7月29日 18:57
明けましておめでとうございます。
どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
先生にはお身体と健康を地元神社にて祈願してきました。
これからも益々、ご活躍期待しております。
アリ
No.205アリ2022年7月29日 18:53
ご子息何歳ですか。大きく見えますね。2020年3月に男子誕生の連絡を受けています。そうすると、本年3月で2歳ですよね。「三つ子の魂百まで」と言います。本年はご子息にとって、大事な時期かも知れません。子育て、大変でしょうが、頑張ってください。陰ながら応援しています。
No.210主催人2022年7月29日 18:56
ボーイさん。新しい年を迎えますます人生充実の様子、当方も嬉しく思います。一歩一歩精進を重ねている貴君の姿が目に浮かびます。
仏は十万億土の遠い彼方に居られるのではありません。貴君が精進を重ねているその場所(職場)に在られます。貴君の精進が仏なのです。努力は仏と心得てますます精進を重ねてください。必ず、正社員というお宝(御利益)が得られるはずです。
それから、酒の飲みすぎには注意しましょう。ただ、当方の感じとしては、飲酒量はうまくコントロールされている気がします。
今後も自由闊達な意見をお待ちしております。
本年も当ホームページを宜しくお願い申し上げます。
No.209主催人2022年7月29日 18:55
今日は親戚一同集まって賑やかですー、先生のお陰で元気に育っていますよ 感謝感謝!
写真間違ってました。すみません、旦那の妹の子供でした。
こちらが、今年の町内祭りの時撮りました。3歳です。
No.208アリ2022年7月29日 18:55
明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になり人生の素晴らしい転換期となりました。今年は大きな目標として正社員を目指して頑張って行く所存で御座います。
先生には大きな夢を頂き感謝しております。
健康に注意して社会、世界の為にご活躍する事を願って挨拶とさせて頂きます。
ボーイ
今日は少しだけ贅沢な時間を楽しんでおります。
No.207ボーイ2022年7月29日 18:54
アリさん。年明け早々、新年のご挨拶いただき痛み入ります。こちらこそ、本年も宜しくお願い申し上げます。
今年で、当ホームページ開設から十年となります。アリさんには、開設当初よりご支援いただき感謝の念に堪えません。ここで、気を抜くことなく、さらなる十年に向けて精進したいと思っています。どうか、今後もご支援のほどお願い申し上げます。
No.206主催人2022年7月29日 18:53
お久しぶりです。ボーイです。
今年は大変お世話になり自分の人生での大きな転換期となりました。
自分にはご住職様の方がしっくりくるのですが、勝手に決め付け、大変ひつれいをいたしました。昨日は会社の仲間と少人数での忘年会を開催して久々にお酒を堪能したしだいです。先ほど起きましてまだ頭がクラクラとしています。
先生もお体には気をつけて頂き、社会に貢献出来る事を祈っております。
No.198ボーイ2022年7月29日 18:48
ボーイちゃん飲み過ぎ良くないよ!健康第一だよ
No.204アリ2022年7月29日 18:52
ネットで検索してたらこちらのホームページにたどり着きました。次郎と申します。
早速ですが、質問させて下さい
なぜ日本ではキリスト教は流行らないのでしょうか?気になっていたのでご回答よろしくお願いいたします。
No.199次郎2022年7月29日 18:49
大変素晴らしい解答に感謝いたします。
またお二人方様の説明も解りやすく納得出来ました。
他のサイトではこの様な的確な解答は無かったと思います。
ご解答頂きありがとうございました。このサイトが縁となり益々繁栄する事を心から祈っております。
No.203次郎2022年7月29日 18:52
次郎さん。既に、お二方より、的確な回答が為されています。その上で、主催人の考え方を記させていただきます。
一神教と多神教という区分の仕方は貴君も御存じのことと思います。日本は多神教の国です。八百万の神と言って、あらゆる所に神が宿ると考えます。山の神。川の神。田の神。火の神。かまどの神。自然だけでなく、生活空間のあらゆる所に神が存在しています。
一方、一神教であるキリスト教では、この世界は人間を含め神の創造物だと教えています。多神教である日本の民族宗教ではこの世界、つまり、周りの環境はすでにあるものとして考えられています。
このような世界観を持った日本人に対し、この世界は神が創ったと言っても容易に信じられるもではなかったと思います。山の神は山を創ったわけではありません。元々、山は山で神そのものであったわけです。
しかも、八百万の神には教祖はいません。神社があり、氏子という信者がいますが、世話人は家々の持ち回りが多いようです。
多くの人々に新興宗教に対する抵抗感があるのも、同じ理由と考えられます。
室町から戦国にかけて浄土真宗や法華(日蓮)宗が伸長しましたが、地域の基礎集団つまり神祭り組織をうまく取り入れたのではないでしょうか。
次郎さん。あまり、上手く説明出来たようなには感じられません。一つの考え方として、受け取ってください。
No.202主催人2022年7月29日 18:51
バプテストのクリスチャンです。
大体において、良いものだと思います。
しかし、クリスチャンでない多くの日本人にとって、キリスト教というと異端のキリスト教のイメージが強いため(日本では異端の方が布教活動が活発です)、ただでさえ宗教アレルギーの人がほとんどな日本において、さらに伝道を難しくしています。
日本には「日本教」が確実にあります。社会学者の山本七平と小室直樹がその名をつけています。内容は、神よりも人間の都合が優先、シンクレティズム、唯一の神という神概念の排斥などです。日本にキリスト教が広まるには、日本教とは何かをしっかり理解し、日本教を脱する必要があります。
しかし、イエス・キリストの父なる神はは不可能を可能にすることのできるお方です。いつか必ず、日本人にも救いが訪れます。
No.201TTM2022年7月29日 18:51
日本で覇権?を取れた宗教はないですので、キリスト教に限らずですね。
キリスト教がはいってきた当時(ザビエルか)、「キリスト教を信じれば天国に行ける」に対して、「自分らのご先祖さまは天国に行けないのか、あんたんとこの神様はそんなに了見が狭いのか」と反論され答えられず、本国に泣きついたという記録があるようです。
特定の宗教は広まっていなくても、日本人には「お天道様が見ている」「八百万の神」にも表される様な強い宗教観がありますので、特定の宗教不要とも言えますね。
No.200おおば2022年7月29日 18:50
お久しぶりに投稿させていただきます。
私事ですが、最近父がなくなりました。そのときに、浄土真宗は法名というものを付けることで、生まれ変わること、転生することができると聞きました。しかし、信じてはいません。主催者様のような仏教に通ずる人は本当に生まれ変わることが出来ると思っているのですか?
No.196にたまご2022年7月29日 18:47
にたまごさん。当ホームページの初回を見てください。それぞれの宗教の背景には必ずそれを生みだした民族なり社会の死生観(宗教観)があります。仏教のそれは、業と輪廻です。悪因悪果。善因善果。生ける者(衆生)はすべて(一切)今生の行為(業)によって、生き変わり、死に変わり永遠に苦しみの人生(輪廻転生)を繰りり返します。
釈尊時代のインド社会では、このような死生観は社会共通の考え方でした。勿論、釈尊も業と輪廻という死生観を前提に教えを説かれました。だから、「業と輪廻」を否定した仏教は仏教ではありません。それは仏教思想です。
ご質問の件ですが、主催人も勿論「業と輪廻」を信じています。道元禅師は因果の道理と教えています。人生には不条理はつきものです。主催人も例外ではありません。つまづくたんびに因果の道理を思い出しました。過去世まで思い至れば必ずそうなった原因があるはずです。決して、他人のせいには出来ません。仏教は自己責任です。
法名の件ですが、日本人の死生観からすれば、死は黄泉というもう一つの世界に生まれ変わるということです。この意味で、法名はもう一つの世界の新しい名前だと思います。正確には、当方は分かりかねます。どなたか、わかる方がおられたら、お教え願います。
No.197主催人2022年7月29日 18:48
仏教では欲望を否定し、貪り・怒り・無知の煩悩をセーブし、厭離し消滅させていく道だと思います。 そして、日常生活も、自制を心がけ、悪を為さず煩悩に振り回されないような生活を心がけ煩悩を無くすように努めるのが一般的だと思います。
しかし一方で、
『あえて煩悩を肯定し、煩悩の赴くままに行動し、煩悩の追及に飽き飽きした所で、自然と深い悟りに向かう道もある。』
というとある覚者の方の意見を目にしそれが気になっているのですが、そのような方向性も正しいのでしょうか?
例えば女性の肉体に執着のある方の場合、仏教では、女性との触れ合いを抑制し、不浄観・骨相観などをして煩悩を消滅させるよう努力すると思います。
しかし、その覚者さんの言うところによると、
『あえてその煩悩を肯定し、女性と触れ合いたいならその欲に正直に行動する。そうすることで満足し、煩悩が落ち着き、そうした方が深い悟りに到達しやすいのだ。この方法の方がよっぽど確実で簡単だ。』
といいます。
そして、出家僧侶たちに深い悟り(浅い悟りも含めて)に到達するものがとても少ないのは、このあたり(厳しい禁欲)に原因があるといいます。
自分としては「ブッダの言ってる事と違うんじゃないかなぁ。」と思うのですが、この覚者さんはおそらくかなり深い悟りに到達しているであろうと個人的には思っています。
この事についてアドバイス的なものをいただけたら幸いです。
No.188お地蔵さん2022年7月29日 18:42
先生は10年もこのサイトを運営している方ですよ、確かに住職に間違えちゃうかも?
No.195アリ2022年7月29日 18:47
的確な説明に感謝いたします。
ここで訂正ですが、皆さまはご住職様と勘違いされている方が多く見られますが、正確には宗教研究者の一人です。先生の著作本を読めば分かりますが、そこら辺の住職より知識は豊富で素晴らしい人格の持ち主です。
ご住職に間違えるのも致し方ないかな?
No.194ごん米2022年7月29日 18:46
お地蔵さん。あなたの考える本物の仏教とは釈尊の説かれた仏教でしょうか。主催人も陥った間違いでしたが、釈尊は出家者に向かって法を説かれたのであって、在家者には別の説き方をされています。出家者の在り方を在家者が実践することは容易ではありません。あなたの言う通り、それはある種禁欲主義だからです。それは出家してのみ可能です。
それに対し、煩悩を肯定し云々とありますが、親鸞聖人のことを指しているのでしょうか。親鸞聖人は比叡山で出家し世間から隔離された環境で修行をされました。しかし、どうしても、俗欲を克服することが、出来ませんでした。
歎異抄の冒頭「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とあります。
ここでの肝心は「往生をばとぐるなりと信じて」の”信じて”という箇所です。自力と他力といいますが、自力の親鸞を他力の親鸞に変化させたのは「信心」です。
つまり、釈尊当時の、或いは、比叡山の修行は自らの努力で煩悩を克服する自力の修行です。対して、親鸞聖人の到達された修行は、念仏しないではいられない「信心の念仏」です。
確かに、釈尊は「信心」は説かれていません。しかし、一方で、「こころを清めよ」とも説かれました。信心は自我を排し、仏に一切合切まかせる生き方です。それは「こころを清める」ことに他なりません。このように、信心他力の道も決して釈尊の説かれた道に違うものではありません。
No.189主催人2022年7月29日 18:43
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