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論語でジャーナル’24

 子曰く、唯(ただ)仁者能(よ)く人を好(よみ)し、能く人を悪(にく)む。

 先生が言われた。「仁者だけが、他人を愛し、他人を憎むことができる」。

※浩→人は感情によって他人を愛し憎むのであるが、孔子は、盲目的な好悪の感情を理性によって抑制するのではなく、感情が最も自由に発露すると、自然に節度を超えないと信じ、仁者にそれが可能であると考えたそうです。おや?感情を自由に発露というと、「カタルシス」かな?それだと、アドラー心理学の立場とは相容れないのですが、「節度を超えない」というところに注目します。
 フロイトの説に、「イドあるところにエゴあらしめよ」というのがありますが、これは情動を理性で制御せよと言っているようです。アドラー心理学では、感情は目的のために使用されると考えます。感情はライフスタイル(信念)から出てきます。「競合的」でなくて「協力的」なライフスタイルであれば、陰性感情で人を操作することはないです。でも、ライフスタイルは幼少期から形成されているので、大人になってからの改善はかなり困難でしょう。不可能ではありませんが。
 それよりも、愛も憎しみも「相手に関心があるからこそ」で、まったく「無関心」な相手には愛も憎しみも感じないでしょう。アドラーは感情(情動)を「結びつける感情」と「切り離す感情」と2分しました。相手に接近しようとする場合は「親愛の情」「喜び」とかコンジャンクティブな感情を使い、相手と離れたいときは「憎しみ」「嫌悪」とかディスジャンクティブな感情を使います。人間関係が協力的で個人が成熟したライフスタイルであれば、まず陰性感情を使う必要はないでしょう。「怒り」や「イライラ」や「憎しみ」で、人をどうこうしようとする必要はありませんから。「為政篇」にあった「七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)を踰(こ)えず」という境地でしょうか。

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しごとの基礎英語11/9

<ジョブキソ22>
#テーマ
 工場を案内してもらっていたら、外国人の同行者が飲食禁止の場所で食事を始めた。ランチまで待ってもらうには?
We are not supposed to eat here. Can you wait until lunch?
「ここでは食べないことになっていますよ。ランチまで待ってもらえますか?」
 @ be not supposed to ~ = ~しないことになっています
 @be supposed to ~ = ~することになっています
 @ Could you ~としなかったのは「少し強く表現したいから」

#相手の応答
Oops, sorry! I started eating withou realizing! Only a few minutes until lunch, so I can wait.
おっと失礼。無意識に食べちゃった。ランチまで少しだし待てるよ。

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論語でジャーナル’24

 子曰く、不仁者はもって久しく約に処(お)るべからず、もって長く楽しきに処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。

 先生が言われた。「仁の徳を体得していない人、つまり不仁者は、長期にわたって困難な生活を続けることはできないし、逆に安楽な生活を続けることもできないものだ。これに対して、仁を体得した人、つまり仁者は、仁の徳自体に落ち着いているし、知者は仁の徳を手段として用いているのだ。

※浩→「約」は「節約」という熟語があるように、「乏しい(窮乏の)生活のこと」。不仁者は貧乏な生活に耐えきれず、罪を犯すようになるし、安楽な生活に慣れて驕り高ぶるようになる。そのように不仁者は外界の支配を受けるが、仁者は仁を人生の最高の目的として、これに安住しているので、外界の影響など受けることがない。
 知者は、仁を行えば自己にとって有利であるから、手段として仁を行う。知者ははたして境遇の影響から無関係に、仁を守れるかどうかは問題でしょう(←「世界の名著」の貝塚茂樹先生の解説から)。
 知者と仁者はしばしば対比して述べられています。あとの章に出ます。例えば、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」(「雍也篇」)。要するに、「動」と「静」の二項対立のようです。組織で言うと、下っ端はこちょこちょ動き回っていて、上層部はどっしり構えているということに通じるのでしょうか。刑事物ドラマを見ていると、現場で刑事たちが捜査のために足を使って動き回ります。本庁では“お偉いさん”たちが、テーブルに着いて、マイクであれこれ現場に指示を出しています。『踊る大捜査線』では、現場の青島刑事が叫びます。「事件は現場で起こっている!」と。偉そうな女性監察官(真矢ミキさん熱演)が、「事件は会議室で起こっているのよ」と反論して、ちぐはぐな指示を出して、事件は迷路に入っていきました。考えさせられました。リーダーがアホだと組織は潰れます。別にうろちょろ動けという意味ではありません。東日本大震災で福島の原子力発電所がやられたときに、当時の総理大臣は自らまっさきに現場へ駆けつけました。あれはトップがうろちょろした好例です。現場へ行くのは、下役に任せて、「トップは会議室にいろよ」と言いたくなりました。野田先生はいち早く、そのことをおっしゃっていました。野田先生がお元気なころは、毎年夏のカウンセラー養成講座を見学してきました。そこでは必ず、アドラー心理学を「知っている」のと「わかっている」のと「(実践)できる」のとの違いを教えられました。自分がどれだけ「わかって」「実践」できているか、日々の自己点検を怠らないようにします。あるテレビ番組で、夜間中学を取り上げていました。そこには、日本へ避難してきた外国人も学んでいました。学校の方針は、「わかるまで」「できるまで」教えるということでした。日本中の学校が、生徒さんたちにがわかるまで、できるまで教えてくれるようだと、どんなに素敵なことでしょう。

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ハングル講座11/7

第32課 逆説、願望の表現
<逆説の表現>
#キーフレーズ
죄송하지만 모두 거짓말이에요.
チェソンハジマン モドゥ コジンマリエヨ
申し訳ないですが、全部うそです。
 @うそ=거짓말  → 鼻音化;[거진말]
キムチは辛いけどおいしいです。
김치는 맵지만 맛있어요.
キムチ’ヌン メpチマン マシッソヨ

#公式:「~(する)けれど」「~(だ)が」
「語幹 + 지만  (直結型)」
 @申し訳ない=죄송하다   申し訳ないですが=죄송히지만
いちごは高いですがりんごは安いです。
딸기는 비싸지만 사과는 싸요.
ッタルギヌン ピッサジマン サゴアヌン ッサヨ

<願望の表現>
#キーフレーズ
良太さんをスターにしたいです(作りたいです)。
료타 씨를 스타로 만글고 싶어요.
リョタ’ ッシヌン スタ’ロ マンドゥrゴ シッポヨ
#公式:「~(し)たいです」
「語幹 + 고 싶어요(直結型)」
 @作る=만들다  作りたいです=만들고 싶어요
 @飲む=마시다  飲みたいです=마시고 싶어요
 @受け取る=받다  受け取りたいです=받고 싶어요
 @習う=배우다  習いたいです=배우고 싶어요
 @わかる、知る=알다  知りたいです=알고 싶어요
 @着る=압다  着たいです=입고 싶어요

<問題>
1,コーヒーはありますが紅茶はありません。
커피는 있지만 홍차는 없어요.
2,お腹が痛いですが食べたいです。
배가 아프지만 먹고 싶어요.

<ワンポイント>
もう一度言ってください。
タシ ハンボン マレ ジュセヨ
다시 한번 말해 주세요.
ゆっくり言ってください。
천천히 말해 주세요.
速く言ってください。
빨리 말해 주세요.

<発音> 特殊な濃音化
@絶対=절대  [절때] チョrデでなくてチョrッテ
※漢字語ではㄹの後ろのㄷ,ㅅ,ㅈは濃音になる。
@決心=결심 [결씸]
@出張=출장 [출짱]
@出身=출신 [출씬]

<フィナーレ>
一緒にカラオケに行きたいです。
같이 노래방에 가고 싶어요.
jisongさんの歌を聞きたいです。
jisong 씨 노래를 듣고 싶어요.
いいですよ。行きましょう。
좋아요! 가요!

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論語でジャーナル’24

第四 里仁篇

 子曰く、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択(えら)びて仁に処(お)らず、焉(いずく)んぞ知たるを得ん。

 先生が言われた。「仁の徳に住み着いていることは立派なことである。他の何よりも、仁の徳を取り出して、その上に居所を定めることができない人は、とても知者とは言えない。

※浩→具体的に物を考える古注派の鄭玄は、ここの「仁」を、抽象的な概念でなく、仁を体現する人、仁者と考え、「仁者の住んでいる里に住み着いていることは良いことだ」と解しました。荻生徂徠は、「仁」を学者でなく「仁の徳」としていて、こちらのほうが孔子の本来の意味であろうと貝塚茂樹先生は解説されます。
 仁の徳を選ぶこと、それは知者の立場です。知者とは孔子の門下に集まる弟子たちの立場です。ここは知者としての弟子たちに対して、仁の現れ方を説明しようとしていると、こう解釈すると、次の条の「仁者は仁に安んじ、知者は知を利とす」とつながります。
 知者は「現状」(相対的マイナス)で仁者は「目標」(相対的プラス)でしょうか。仁は抽象的概念(理想像)で、何となくアドラー心理学の「共同体感覚」を思わせます。似ているなんて言うと、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」と野田先生に叱られそうです。でも連想だけなら許されるかもしれません。ずっと昔、アドラーのお弟子さんが、「共同体感覚はどうやったら教えることができるか?」とたずねて、アドラーは「Live it.」と応えたそうです。「あなたがそれを生きろ」ということです。孔子の「仁」は内面的で、それが行為として現れたのが「礼」だそうです。心のともなわない形式だけの礼を批判して、真心から出た礼こそ真の礼だと教えたのでしょう。それでも、「仁」を一言で説明することはできないので、様々な場面で様々な言い方をしています。共同体感覚も同じです。そういえば、「愛」の定義も一言では言えないです。まず思い出すのは、「新約聖書・コリント人への第一の手紙」の使徒・パウロの言葉です。↓
 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 これではうっかり「愛しています」とは言えなくなります。これだけの条件を満たした行動など現実にはありえないでしょうから。アドラー博士が「愛」という語を使うのに慎重であったというのがよく理解できます。でも、これはあくまで「理想」「目標」ですから、それを目ざすというプロセスを大事にしていけばいいのだと思います。宗教でなく心理学では、やはりエーリッヒ・フロムの『愛するということ』に限ります。アドラーが「愛のタスク」と言うときは、これは別に胸キュンの愛を言っていなくて、「対人距離の近さ」を言っています。他の「遊び」「仕事」「交友」のタスクに較べて、永続する近い距離の運命をともにする対人関係を言っています。すなわち、「家族」と「恋人」と言えばいいでしょう。フロムは新フロイト派ですが、アドラーにとても近い考えで魅力的です。

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