Q
私の学校では、授業が成り立たなければ話し合いをして次はどうするか、原因は?とグジャグジャ言うことになっています。でも一方的で少しも役に立たず、やり直しを10回以上したというスペシャル悪クラスでした。野田先生のお話で、なぜ全体責任があるのかはわかったような気がしますが、今年も居残りがいっぱいあると思うとグッタリです。生徒の私にも何かできることはありますか?
A
授業が成り立たなくなることについて、先生は何ができるか生徒は何ができるかを問うべきで、「なんでそんなことになったのか」原因を問うべきではないと思う。先生は「わかる授業」をすべきです。私はいつもこうやってクラスルームマネージメントの話をしますが、いくらクラスルームマネージメントが上手でも授業がヘタだと何にもならない。それは患者さんの話をとてもよく聞いてやさしいけど、手術が下手な外科医と一緒なんです。何の値打ちもない。まず授業の技術を上げることがすごく大事です。授業の技術については、今まで教育大学で「技術」というところに焦点を当てて研究している学者がすごく少なかった。僕らの世代の人たちから、授業の技術研究ということをやり始めて、黒板(白板)の使い方だとか、パワーポイントの作り方だとか、教科書の使い方だとか、中身じゃなくて「形式」の研究を学者がまじめにやるようになりました。そういうことはすごく大事だと思う。子どもたちが理解をし学問って面白いと思い、それは確かに人生に役に立つと思って学べるような授業があって、その上にクラスルームマネージメントがあるんだと思う。それが先生の仕事です。生徒のほうは、わからないところをどうやって学ぶかとか、騒いでいる子に何をしてあげられるとか、自分たちでクラスの自治というか目的をちゃんと考えて、先生も生徒もみんなが一致した目標を作って、そこへ原因を考えるんじゃなくて解決志向的に最後どうなればいいか、具体的にはどんなイメージに向かっていくのかわかり、それをステップ分けして、まず最初これをやろうとみんなで協力してやっていくべきなのでしょう。(回答・野田俊作先生)
Q
中学校の教員です。この春の新入生の中に小3から不登校の生徒がいます。その生徒の姉2人も不登校でしたが、不登校生徒を受け入れる高校に進学し、大学進学への道も切り開きました。そこで母親は「必ずしも中学へ通う必要はないと思います。中学へ行かなくても進路は何とかなります。だからわが子に中学へ行きなさいと言う気はありません」と言われます。学校としては登校してほしいと願っていますが、このような母親に対してどういう話をしていったらよいでしょうか?循環的話法を使うとどんな対話になるんでしょうか?
A
学校の先生に対しては「諦めなさい」と言うほうがどっちかというといいんですが、昔1980年代には私は再登校に非常に熱心派だったんです。日本の臨床心理の中で、「あいつ再登校ばっかり言ってる」と言われていたけど、90年前後ごろから不登校のままで大人になれるルートが整理されてきたんです。大学へ行く進路もできてきたし、塾もできてきたし、高校もできてきた。その一方で学校側の受け入れ体制はそれほど進歩していない。そうなると、親と子どもの利害だけ考えると、再登校はあまり強く勧められる線ではない。絶対ダメというわけではないけど。親のほうとは話をよくしますが、わりとアナーキーというか、放任的な親が多い。放任的というのはこういうタイプ、「学校行かなくていいわ」というタイプ。結局「最終目標」は何かを考えていない。大人になったときに、この社会、この国にどういう形で貢献するかについて、職業選択、社会の中での暮らし方について、親もあまり考えたことがないし、子どもともあまり話し合ったことがないという親が多い。もっともこれは不登校の親だけでなく、今の親はみんなそうなんです。今の親はみんな、まあ学校だけは出しましょうと、人並みに学校出しましょう。それが高校なのか大学なのか大学院なのか知りませんが、学校さえ出せば何とかなるでしょうという発想で、そこから先のことについてあまりイメージがない。どっかの会社に就職して、あとは会社の言うとおり。人事課がああしろこうしろと言う。子どもが人生を考えてもしょうがないと、そういう捉え方をする。それは問題だと思う。人間の人生というのは、その人個人の人生で、人事課がどう言おうが役所がどう言おうが、自分で決められる裁量権があるでしょう。こういう仕事をしたい、例えばお金を扱う仕事をしたいとか、機械を作る仕事をしたいとか、そういうイメージをはっきり持ってほしいし、そのためにどんなことを準備をしていけばいいかということで初めて学校というものが出てくるわけでしょう。学校というのはどこまでいっても手段なんです。目的は社会です。目的が決まらないと学校をどう扱うかわからない。僕が親と話すときは、「じゃあこの子を結局どんなふうにするんですか?子どもというのは粘土のようなもので、それ自体では何も使い道がない。でも粘土をお茶碗にしたり花瓶にしたりタイルにすると使い道ができます。どんな形に作り上げようとしますか?学校へ行くと、そういうふうに形作ることがとても簡単なんだけど、学校へ行かないんだったら親と子でうんとたくさん話し合って考えないと、粘土のままで大人になってしまいますよ。だからよく話し合って考えましょうよ」とまあ言います。だから学校でも先生が「じゃあ、この子が大人になって何をしていくのか考えましょうや」という話をしていく中で、親が、中学校へ行くことが子どもにとって必要なのかどうかを考え始めると思う。みんな「学校の位置」というものを見失っていると思う。学校というのは社会に所属するための手段です。(回答・野田俊作先生)
Q
主人がパソコン依存症です。どうにかやめさせられないでしょうか?家に帰ったら、タブレットとPCと2つずっと寝るまでやっています。
A
本人にやめる気があればね。依存症というのは、本人が「これは良くないね。抜け出さないといけない」と思えばやめられます。本人にやめる気がなければまわりがいくら言ってもやめられません。ご本人が、「パソコンに無駄な時間を使っているよね」って思えばやめられる。まあ、パソコンの使い方にもよります。いけないのは、フェースブックなんかで盛大に人とやりとりをする。朝から晩まで誰かとおしゃべりをしているとか、朝から晩まで自分のやったことを書きまくっているというと、結構依存症なんです。そうじゃなくて、誰かのホームページを見ているとか、ブログを読んでいる程度だとそんなに困ったことにならないはずです。まあ程度問題です。一日中テレビを見ている人もいますが、ずっと見てはいなくて、ただテレビがついているだけだとそんなに問題にならない。ご本人が、「これはいかんな。ここから抜け出さなきゃいけないな」と思えば抜け出せます。(回答・野田俊作先生)
Q
私は学校で働いています。担任ではありませんが、受け持っているクラスの10歳の男子のことです。すぐに殴る蹴る首を絞めるなどの暴力を毎日ふるいます。原因は気に入らないことがあったり、好きな女の子が自分以外の子と手をつないでいたりすることです。手足で殴る。顔面を拳で殴る。腹を蹴る。毎日のように暴力を振るう。その暴力でボコボコにしてしまう。いくら注意してもやめません。何か良い方法はありますか?よろしくお願いします。
A
児童相談所へ行くべきですね。カウンセリング施設と協力体制を作るというのがすごく大事です。これは一応、刑事的な犯罪行為です。たまたま喧嘩して一発殴ったくらいだとそうではないけど、常習的に暴力で自分の要求を通そうとしている子は、特別に援助をしてあげないと、個別的なカウンセリングをしてあげないと、その子の利益にならない。クラスの子たちの利益にもならないけど、その子の利益にならないから、一応児相通告をして、児童相談所へ通ってもらうという方向で考えるほうが子ども自身の利益になると思う。クラスで何もかも抱えようとしないほうがいいと思う。たまたま暴力振るったというんだったら、それはその子と話ができます。その子を引き離して、落ち着いたら、「暴力を振るわないようにするにはどうしたらいい?」と聞けばいい。でも、その子は暴力を主なコミュニケーションの手段に使うということを学んでしまっているから、暴力以外の方法をコミュニケーションの手段として学ぶためには、個別の指導がいると思う。申し訳ないけど、学校にそれだけの力はない。それだけバッチリ心理学を勉強した人はいないから、児童相談所へ相談なさったらどうですか?(回答・野田俊作先生)
Q
今日の講演で、甘やかしの教育が良くないことはわかりました。アドラー心理学で、不適切な行動には注目しないで適切な行動に注目し、勇気を与えることなどを学びました。器物破損や立ち歩きなどは不適切な行動に相当すると思います。またこの他にも学校では不適切な行動がいくつもあると思います。そうしたときには、毅然とした態度でその行為はルールにそぐわないことを指摘して、甘やかさないようにしていくことが大切なのかと思います。そうした場合に不適切な行動に注目することは不可欠だと思いますが、注目してよろしいのですね?どのあたりに注目してどのあたりには注目しないかの線引きのようなものはありますか?
A
不適切な行動に相当に注目するというのは、陰性感情を持つことです。腹を立てたりイヤがったりしていると注目しているんです。言葉も何もかけなくても。だからさっき、「喧嘩した子をニコニコして引き離して」と言ったでしょう。具合の悪い子をニコニコして警察に引き渡すのに、しっかりお説教して渡さなくてよいので、「いけないことをしたので責任を取ってもらいます」と言う。これがコツです。注目してない。陰性感情で相手を動かそうとしてない。ただ結末を体験してもらっているだけです。不適切な行動に注目するというのは、不適切な行動に陰性感情でもって対処するという意味です。適切な行動に注目するというのは、適切な行動に陽性感情でもって対処するという意味です。(回答・野田俊作先生)