Q
わが子は小学校6年生です。今、小学校高学年が大変荒れている状態です。昨年はクラスの担任が1年間持ちきれず、途中で担任が替わりました。今年もそうなりかねない様子です。少し前は中学校が大変なときもあったようですが、子どもたちが荒れるのは何が原因なんでしょうか?
A
わからん。なんでわからんか。例えば、校長が悪いとか、教育委員会が悪いとか、文部科学行政が悪いとか、日本国の基本的なあり方が悪いとか、資本主義経済機構が悪いとかいう説もあります。それから、インスタントラーメンの食べ過ぎが悪いとか、コカコーラが悪いとか、子どもたちにカルシウムが足りないからとか、ビタミンEが足りないからとか、タンパク質が足りないからという言い方もあります。それから、親が子どもたちをちゃんと育ててこなかったからとか。確かにそうなんです。親も無罪ではない。
この間、ここ(アドラーギルド)でメロンを食べました。僕たちの子ども時代には、メロンは一生に一度食えるか食えないかの食べ物だった。臨終のおじいさんに、「おじいさんメロンよ」「おお、これがメロンか!」。今の子どもは「なんだメロンか」。あれは躾けを間違ったね。僕たちの子どもは過剰な贅沢の中で育ってしまって、人間が生産していくこと、生産したものを大事に使っていくことを知らない。おふくろさんは、靴下に電球を突っ込んで縫っていた。今、縫った靴下なんか子どもは絶対履いてくれない。基本的に生活全体が贅沢になった分だけ退廃しているから、子どもたちに我慢したり辛抱したり協力の必要性を学んでもらうチャンスを逃している。
家庭の育児が悪いねえ。父親と母親の協力体制が悪い。だいたい、お父さんがどこに勤めているのか知らない。「お父さん何してるの?」「会社員」「会社員て何?」「さあ」「何て言う会社?」「さあ」。お母さんは立派に主婦として家事しているかというと、レトルト温めて家族に食べさせて、昼間はアドラーギルドへ来ておしゃべりしている(爆笑)。
昔は子どもの社会があった。僕らの子ども時代は、中2から幼稚園まで縦関係の社会があった。子どもたちは自然にその中へ入っているから、その中でさんざん良いことも悪いことも覚えた、このごろ崩壊した。遊び場がなくなった。塾へ行く。学校も、あんまり小学生が中学生とつきあうのは良くないと、介入してくる。それで子ども社会がなくなった。これも原因かもしれない。
太陽黒点が11年周期で増えたり減ったりする。人体精神に影響を及ぼすそうで、それも問題かもしれない。ご先祖供養が足りない。家の方角が悪い方を向いている。そんなのもあるかもしれない。絶対ないとは言えない。ないという証明ができない。
原因というのはまず無数にあって、思いつくものを全部集めても、その他にもまだあるかもしれないでしょう。だから、「今、小学校が荒れています。原因は何か?」と言われても、「知らない」としか言いようがない。無数にあるだろう。担任を替えても駄目だと証明されましたから、担任が悪いと言えない。校長を変えてもたぶん駄目なのかもしれない。
僕たちはだから原因に興味を持つのをやめました。これから先どうして生きていったらいいかを考える上で原因は必要ない。原因についての知識は必要ない。
またO157の話です。面白がってはいけないけど興味を持って見ていた。厚労省はドーッと堺市へ人を送り込んで何をしたかというと、原因調査です。そんな馬鹿なことはあとからしろよ!伝染病をこのごろの医者はあまり知らない。あまり診たことない。癌とかはたくさん診たことあるけど。「大腸菌で食中毒?そんなものは教科書に書いてあったが、実物は……」。診断の仕方とか治療指針を先にお医者さんに周知徹底するとか、子どもたちが入院する場所を教えるとかをすべきです。治療したら腎臓に副作用が残りますから、人工腎臓の手配をすべきです。そんなん全然後回しです。まず原因追及する。その間に子どもはバタバタ死ぬ。あれはわれわれが取り憑かれている“原因追及病”です。別にカイワレでもお肉でもいい。それがわかっても死にかけている子どもは助からない。治療は、原因と関係なしに治療方針は立ちます。
心理学でもそうで、そのクラスを立て直すことは、例えば新しい担任がアドラー心理学学んで立て直そうと思えば、どんな原因であったにしても、担任が本来原因でなかったとしてもそのクラスは立て直せます。あるいは、親がクラスを立て直すわけにはいかないが、自分の子どもがそのクラスにいても、あまり大きな被害を被らないで大人になるように援助しようと決心すれば、あまり原因に興味を持たないでください。時間の無駄です。
Q
勇気づけができる土台に「良い人間関係が必要」とありました。また良い人間関係を持つコツに、「相互尊敬とか相互信頼とがいる」と言われたんですが、尊敬とか信頼とかは具体的にどんなものでしょうか。“尊敬さん”とか“信頼さん”とかがどっかにあるんでしょうか?
A
あのね、尊敬というのはどんなものかわからないんです。私はそう考えることにしています。ドライカースの本には、「あなたは誰かを尊敬しているでしょう。自分の子どもとつきあうときに、一番尊敬している人とつきあうようにつきあってください。そしたら子どもを尊敬していることになります」と書いてある。あれはわりとわかりやすい。
日本語の場合には敬語がある。英語は敬語があまりない。だから、「わりと丁寧語を使ってください」と言っている、子どもに対して。ぞんざいな表現をすると親しみがあるように思い、「丁寧語を使うとよそよそしいからイヤだ」と言う人がいます。まあ尊敬している人なんだから、尊敬している人に向かって言うような口のきき方を心がけてください。「この馬鹿!」と尊敬している人に言わないでしょう。丁寧に「この愚か者」でもおかしい。やっぱり、そんなことは言わない。今まで「この馬鹿!ほんとにあなたって馬鹿ね」と言っていたけど、もうちょっと丁寧に尊敬している人に対する口のきき方はないか絶えず考えてほしい。
信頼についてもそうです。「自分のほんとに信じている人に対してふるまうようにふるまってください」と、ドライカースは書いている。それもわかりやすいと思うけど、何かこう、「これが尊敬しているときの、信頼しているときの物言いだ」と言ってしまうと、みんな真似をするでしょう。落語にあります。全然お作法を知らない人が法事に行った。大家さんのするとおりにすればいいというので、大家さんがジャガイモを転がしたら店子(タナコ)も真似をする。形だけ真似してもしょうがない。
いつも考えることですが、尊敬するつきあい方と尊敬しないつきあい方がある。それはまだ何かまだよくわからない。なぜなら、私たちはこれまで、子どもを親や配偶者を尊敬しないで生きてきたから、あんまりやったことがない。これから学ばなければならないと、まず思う。いつも注意して、尊敬している信頼している口のきき方をし続けようと思う。ムカッとしてもやはり尊敬している口のきき方でムカッとしよう。張り倒してやりたくなっても、尊敬している人へのやり方で張り倒すにはどうするか。ちょっと無理だなあ。
いつも課題としてずっとぶら下げて暮らしたい。それが私の尊敬を教えるやり方なんです。ちょっとしんどいですけど。ひと月くらい、この人を尊敬しているかな、忘れちゃっているんじゃないかなとチェックしてほしい。そうするとだんだん身につくだろうと思っています。
Q
契約の関係について。日常生活の中で、子どもたちとどんな契約があるか、具体的に教えてください。今まで考えていなかったので。
A
それはそうでしょう。日本人には契約の発想がないから。
まずはどんな契約もないんです。放っといたらゼロ。何となく暗黙のうちにそうだろうと思っていることはたくさんあるでしょうけど、それを日本人は普通はっきり言葉にしないから、契約ゼロ。
子どもたちと話し合って、「こうしようね、ああしようね」と話し合って、ちゃんと言葉で決まったことが契約です。いわゆるお約束ですね。子どもが合意してないとお約束じゃない。しかもそのお約束は、親もそれにちゃんとよって拘束されないとお約束じゃない。そんな種類の、はっきり言葉で契約したことです。
子どもが「宿題手伝って」と言って、親が「手伝いましょう」と言った。そのとき、契約成立です。どれくらいの期間成立しているか。たぶん1時間くらい手伝って、「はい終わった」と言ったら契約解消ではなかろうか、その契約はね。
言葉で合意していること。アドラー心理学用語で言うと、「共同の課題」にすること。だから、本来はゼロで、作ればできます。仕事が終われば消えます。
Q
中学校の教師です。最近いじめへの取り組みがさかんですが、人間関係のちょっとしたトラブルも自分で解決したほうがこの子のためになると思うことも、もし自さつしたら教師が知っていなかったことが新聞種になるので、プレッシャーを感じます。
いじめはないのですが、「ないという学級が危ない」と校長が言う。いじめについてどう考えますか。
A
いわゆる「いじめ」というものはないと考えます。そもそも。「いじめ」というのは、「言葉」があって「もの」がない。「歩き」と同じ。「歩く」という“こと”はあるが、「歩き」という“もの”はない。
非行グループが1人の子を呼び出して、短刀を突きつけて「お前10万円持ってこい。持ってこないと顔中に傷つけるぞ」と言うのもいじめと言います。「ちょっと鉛筆貸して。今日忘れたから」「イヤよ」と言うのもいじめ。みんながワーッと話しているところへ入ってきて「ねえねえ何、何?」と聞いたら、「僕たちが話しているんだから入ってこないで」と言うのもいじめ。トイレへ連れ出して便器に顔を突っ込むのもいじめ。こんなものを全部同じ単語で呼んでいいと思う?ムチャクチャな命名法だと思う。
かつて堺市でO157が流行った。あるおうちの子がO157で入院した。退院してきた。自分のうちに小さい子がいるとすると、「あそこの子と夏休みの間は遊んでは駄目よ。O157にかかっているから。まだバイ菌がいるかもしれないから、もうひと月もしたらいなくなるから遊ぼうね」と言うと、「いじめだ」と言う。こんなのは世間の常識ですよ。うちに子どもがいたらそう言います。かかった子どもの親も「しばらく友だちと遊んじゃ駄目よ。あんたまだバイ菌がいるかもしれないから」と言うのが、保健衛生の常識です。
われわれの子ども時代の親、まだこの国に伝染病のあった時代の親はそんなのを知っていたから、「お多福風邪になったらしばらく友だちと遊んだら駄目よ」と言うし、友だちのほうも「あの子お多福風邪になったみたいだから、あそこへ行かんほうがいいよ」と言う。そうやってお互いどうし共存共栄的に守り合っていく適応的な合理的なシステムなのに、新聞はそんなのを「いじめだ、いじめだ」と言う。
いじめという言葉が、実体なしに、実にさまざまなものを、要するに新聞が取り上げたいものに付けられが、あんまり意味のない名前として使われている。そういうふうに使わないでおこう。非行グループが同級生を呼び出して10万円盗るのは、「恐喝」と言いましょう。トイレに連れていって顔を突っ込むのは、「暴行」と言いましょう。それに相応する正しい日本語があるんだから。恐喝をどうするかは簡単。恐喝事件というのは、最近急に発生したわけではなくて、明治時代よりもっと前からあったことで、僕たちは対処法をいくつか知っている。警察へ行くとか裁判所へ行くとかできる。暴行なら暴行で対処できる。鉛筆貸してくれないなら、もしも誰かが言ってくればそれなりに相談に乗れる。「いじめられた」と言われたら困る。何のことかわからないから。
子どもが「いじめられた」と言ったら、そのことについて詳しく聞きましょう。「いじめられるって何?」と聞いてみる。するとたいてい、いじめられるということじゃないです。
カウンセリングに来た子どもだと、「私はAちゃんが好き。遊ぼうと言ったらイヤよと言われた。いじめられた」と言う。そんなん「いじめられた」と言うなよ。要するに、あなたが面白くない子だから遊んでくれなかっただけ。あなたがしなきゃならないことは、遊んでもらえる面白い子になる練習をすること。「いじめられた」と言うと、「悪いあの人・かわいそうな私」になって、向こうが変わらなきゃならないことになる。でも、私は遊び方が下手なんだと思ったら、自分が変わらないといけないことになる。自分の問題としてとらえてほしい。
「いじめ」というのはとてもナンセンスな言葉です。いじめという単語そのものをやめたほうがいい。もっと詳しく実情を見て話したほうがいい。
クラスに対しても「いじめはやめましょうね」と言ったらおかしい。法に触れることはやめたい。相手を傷つける、自分を傷つける、ものを壊す、ものを盗むとかはやめてもらいたい。これは言います。
みんな仲良く遊んでほしい。できたらね。仲良く遊べないときは、ちゃんと丁寧に「あなたと遊ばない」と言う。「イヤよ」と言わないで、美しく、主張的に断る方法を教えてあげてください。
いじめを話題にしても、意味のない単語だから、意味のない葛藤が続くだけだと思います。
Q
小学校のスポーツ少年団にいますが、さまざまなタイプの母親と子どもがいます。私にとって見ていてつらいのは、子どもを怒鳴りつける母親です。チーム全体に関わる場合、少し行動の遅い子どもを怒鳴りつけています。また親によっては蹴飛ばしたりしています。暴力的な躾には困惑していますが、それが正しいと信じているようです。子どもの教育は大切なことですが、高圧的な大人が子どもを支配する集団の中で、私が子どもたちと接するとき、どのような態度が望ましいでしょうか?
A
ドライカースは「不適切な行動をする人は勇気がくじかれている」と言いました。ということは、怒鳴りつける母親は勇気がくじかれているんです。普通人間はまず最初に理性的にやさしく説得するとか教えるとかきっとします。それがうまくいかないときに、だんだん勇気をくじかれて、怒鳴っちゃったりするんです。「PASSAGE」の課題シートを見てもそうですね。最初、「ねえ、もうそろそろ宿題しない?」と言っているんです。そのうち、「何してるのよ、こら!」と怒鳴るんです。なんで勇気をくじかれるかというと、もちろん子どもが反抗するということもあるけど、適切な対処法をまだ学んでいないからです。だから、まずその人たちは勇気をくじかれている人なんだと思ってほしい。どうしたらその人たちが勇気づけられるかというと、その場合には適切な対処法を学べばいい。どうやったら学べるか。人間には3つの学び方があります。1つは、試行錯誤で発見するという原始的な動物的な方法があります。1つは、本とか人の話から学ぶという方法があります。1つは、人のやっているのを見てモデルを見て学ぶという方法があります。この勇気をくじかれている人が、一番抵抗なく受け入れられそうなのは3番目です。モデルを見ることだと思います。アドラー心理学式の接し方をやっていてそれが子どもに対してうまく成功している場所を見せれば、「そうか、ああやればいいんだな」とそのうち学びます。2番目の「あなた、そのやり方よりもこっちのほうがいいわよ」と言うのは、たぶん勇気を余計くじくと思う。「あなたはダメだ」と言っているんだもの。勇気をくじかれている人に対して援助にならない。試行錯誤は、今までさんざん試行錯誤した結論がこれですから、これ以上試行錯誤してもらってもしょうがない。だから答えは、その人にかまわず、ちゃんとした対応を見せることね。きっと学ぶと思う。それから、その人が間違ったことをしているとか、よくないことをしているとかいう側に注目しないこと。アドラーはいつも、「正義というものが最も危険な思想だ」と言いました。「私は正しくあなたは間違っている」というのが人の勇気をくじき、共同体感覚なく振る舞うというのが一番ありそうなんです。アメリカ人の問題点は「自分が正義だ」と思っていることで、その被害たるや大変ですからね。「私は正しくあなたは間違っている」というポジションから降りること。「どうやったらこの人を勇気づけることができるかな?」と思うこと。ご本人に対してはまず尊敬すること。一生懸命やろうとしているけれど、目標は正しいんだけれど、手段はまだ知らない。だから、子どもをちゃんと躾けて良い方向に向かわせようという熱意は、その人のパーソナル・ストレングス。そこにはコメントしよう。「一生懸命躾けてくださってありがとうございます」と言おう。「何してんのよ、あんた!」から始めないでおこう。その人のプラスの面から話を始めよう。一方で自分がちゃんとやっていることを見せていると、その人との関係が良くなれば、その人は私のやっていることを学ぶだろう。関係が悪ければ、「私が正しくてあなたは間違っている」と見下げていると、関係が悪いから、どんなに私のやっていることが良くても、プラーベートセンスで、「あれは甘やかしだとか放任だ」としか見えないから、学ばない。