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支配的な親91歳

Q0407 
 支配的な親91歳に何か話すコツはあるでしょうか?

A0407
 もうすぐ極楽往生なさいますので、ほとんど“ご先祖様”なんですよ。ほとんどご先祖様にどうしますか?やっぱり朝晩拝礼するでしょう。これコツなんです。なんで支配的かというと、こっちが服従しないからです。向こうの支配を拒否しているから。こっちが服従しないということは、向こうを支配しようとしているから。「そんな支配的なやり方はやめなさいよ!」って言っているから。「あしたに拝礼、ゆうべに感謝」。朝は暖かいご飯をさしあげ、夕方は「今日も一日ありがとう」と言って暮らすと、変わるんです。親って、若いときはきれいでね元気だったのに、だんだんボロボロになりましてね、見る影もなく衰えてばあさんになるんです。ああなると、ほんとに仏様です。人間の業(ごう)は残っていますけど、だんだん仏様になられます。だから、仏様になったんやと、まず思う。これがコツなんです。生きているご先祖です。ご先祖様には先祖供養です。先祖供養すると、絶対に御利益があります。死んだご先祖の御利益でなくて、生きてるご先祖の御利益です。だから先祖供養の心構えをまずしっかりする。お好きなものをさしあげて、お話を聞いて、「ああしいや、こうしいや、そんなんしたらあかんで」と言われたら、「ありがとうございます。良い助言をいただいて」とやらないといけない。だって、先祖ですからね。私の父親は、もう亡くなりましたが、まあ親切というかお節介というか、言い方によるんですけど、旧制高等学校を出まして、今の新制高校と違う昔の高等学校を出まして、その時代の学校教育を受けていて、ありがたい助言をいっぱいくれるんです。「英語はこうして勉強したらいい」とか「数学はこうしたらいい」とかくれるんですけど、全然時代遅れなんです。昭和10年代ならそれでいいけど、今の大学はそんなふうになってないもの、と思うから「親父、それは古い」と言うと怒るんです。「何ゆうてんねん。親の言うことが聞けんのか」と言うので、親の言うことを聞くことにしました。「ありがとうー、わかったー」と言って、全然やらないんですけど、見に来ないんです。やってるかどうかは。それはそうでしょう、親も忙しいから。「英語はこんなふうに勉強しろ」「わかりました、そうします」と言って、全然それと違うことをやっている。これコツね。ご先祖様はちゃんと尊敬し、ご先祖様のお告げは聞くけど実行しない。91歳ということは大正13年生まれ?14年生まれ?ということは、戦争が終わったときはもうハタチ以上でしょう。その方々は僕たちとは全然話が通じない。軍国少年とか軍国少女とかやってて、「日本帝国万歳!」で暮らしてこられて、それで国が潰れてしまって「アメリカさん万歳!」になって、わけがわからない中で、食べるものもひょっとしたらなくて、ひどい苦労して育ってこられた人たちで、その体験を僕たちは共有できない。絶対に共有できない。僕ももう年を取りまして、67歳になりますから、いわゆる70年代安保世代で、大学時代に70年安保闘争というのがあって、あれは一生の方向を決めているんです。あの中でいったい自分はどう生きていくか悩まなくてはならなくて、そういう体験は今の若い人と共有できないんです。なんで私がこんなふうに考えるかというのは、説明してもわからない。体験がないから。ということは、91歳の親たちが僕たちに教えてくれることを理解できないのは、ほんとのところです。でも彼らにとってはすごい大事なことなんです。彼らの時代にとっては無茶苦茶大事なことなんですけど、僕らの時代にとってはもはや大事じゃないんです。説明してもわからない。だから、それは善意でやってくださっているから、僕らのためを思って言ってくださっているから、それはしっかり受け取ろう。助言の中身は受け取らんとこう。こういう方針でいきます。コツは2つですね。1つはあしたには礼拝し、1つは、「わかりました」と言ってやらない。その方向でいくとつきあえると思います。支配的な親を支配的でなくする方法はない。反抗的な自分を反抗的でなくする方法はあるけど。(回答・野田俊作先生)

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学校へ行くのは「課題の分離」で家での暮らしは「共同の課題」?

Q0406 
 学校へ行くことは課題を分離して子どもにお任せし、家で暮らすことの共同の課題を同時にするという選肢も可能ですか?

A0406
 意味がよくわかりません。学校へ行くことはどの道子どもの課題です。学校へ行くとか行かないとかは子どもの自由選択です。学校へ行くことについて子どもに「協力してください」と言われたときだけ、共同の課題になると思う。本来自由選択なんです。小さい子が、「お母ちゃんがついて行ってくれんと学校よう行かん。ついて行ってくれる?」と言ったら、それはついて行ってあげる選択はできるけれども、中学生や高校生が学校へ行かないことに決めたら、親にできることは、学校へ行く行かないに関してはないんです。ここは課題の分離も何も、はじめから共同の課題にする根がない。共同の課題にするのは、別の場所にある。どにあるかというと、社会人になるためにできること。「パセージ」の行動面の目標、自立するとか社会と調和して生きられるために、何か手伝えることがあるかな?というところで選べる。別に家事をやってもらうのに限らない。家事というのは、自立するとか社会と調和するために向いていると思ったときはそうなんだけれど、そうでないときもあります。家で勉強するというのもあるかもしれない。学校でできないことをする。ときどき高校生なんかで、「せっかく学校へ行かないんだったら、いつまで学校へ行かないか決めようよ」と言います。今だったら、4月も押し迫ってまいりましたので、7月の20日から夏休みだと、7月18日までは行かないで、19日に行く。終業式にね。それまでは行かないと決める。終業式に行ったら、夏休みに「学校へ行ったぞ」という気持ちで過ごせる。終業式に行かなかったら、1学期行かなかったという気持ちで過ごすじゃない。無理強いしないけど、夏休みに学校行ったぞという気持ちで過ごすほうがいいじゃないかと思うので。では、もっと早く行くとどうか?早く行くと疲れるでしょう。ギリギリいっぱいに行くというのをひとつ提案します。9月の新学期から行くというのは賛成しない。新学期から行ったら3か月もある。そりゃあかんで。行くなら12月20日から。そしたら、冬休みや正月を「学校行ったぞ」という気分で過ごせる。学期の終わり、1週間の終わり、朝から行くと疲れる。金曜日の午後から、お昼ご飯終わってから行くとかして、気分良く週末を過ごすといいかなというようなアイディアは出すかもしれない。話としては、7月末まで学校へ行かないと決まりました。そうすると5月と6月と7月の前半が完全に浮く。その間をどう有益に使うか?その間は学校へ行かないことに決まった。採決して満場一致で。その間を無駄に使うか有益に使うか選べる。自由なんです。親としては有益に使ってほしい。例えば、沖縄へ旅行に行く。もうちょっと遅いと、9月くらいならサトウキビの収穫がある。これは“ドレイ”がたくさん必要なんです。サトウキビは粗放農業で、播いたら播きっぱなしで育つんですけど、収穫のときだけものすごい人手がいる。そのとき農家は、若い人たちに、「宿泊付き飯付き給料ほとんどなし」の援農体験をしてもらう。これがけっこう面白い。行くと、サトウキビを昼間刈って、夜は同じような子がいっぱい来ているから、盛り上がって遊んで、また朝からサトウキビを刈る。あるいは、北海道で昆布の収穫がある。これがまた面白い。これも若い人手がたくさんいるのに人材がいないから、全国から集める。この際ひとつ外国旅行に行くのもいい。マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマーを通ってインドまで行って帰ってくるプランの中で、「頑張って行っておいで」と言って、あまり金もやらないで行ってもらうと、ものすごく強くなって帰ってくるか、完全にボロボロになって帰ってくるかでしょうが、そんなのを話し合って、この数か月を一番有益に使えるにはどうすればいいか、あなたの将来に結局役に立つだろうという、良い不登校をしたい。学校へ行ってないからできたんですごい素敵なことじゃないですか。そういう話し合いを積極的やるという手もある。共同の課題にするって何かというと、結局子どもが育つように、子どもが成長するように、子どもが立派な大人になるように共同の課題にするわけで、あんまり晩飯作ってもらおうとか勉強してもらおうとか、みみっちいことを言わないで。でかいスケールで共同の課題を考えましょう。(回答・野田俊作先生)

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高3息子が傘さし自転車

Q0405
 高3男子の子のことです。学校まで5分くらいの自転車通学ですが、傘さし運転で行こうとします。「さすなら歩いて行く、自転車で行くのならささないで」とか、「事故になったら人に迷惑をかける」とか言っていますが、納得してもらえず、「他の人もやっている」と言って行きます。傘を持っていくのを黙っていると、私が傘さしを認めることになります。何か良い方法を教えていただきたい。

A0405
 育児は何歳までするか?育児の卒業は何歳か?中学を出たら卒業です。そこから先は大人のつきあいです。隣のおかあちゃんが、「傘さしたら危ないよ。傘ささんと行け」言ったら、完全にお節介ばあさんです。それとおんなじなんです。自分の息子が傘さして自転車に乗っていくなら、1回は言ってもいい。「傘ささんと行け」と。それでも行くんだったら、育児は終わっていますから、本人にやってもらいましょ。親の課題じゃないです。親は関係ない。育児というのは一生続くものではないです、どう考えても。いつか終わらないといけないですが、一応15歳というのが目処(めど)だと思う。高校生の間は、まだ大人の“ならし運転”みたいなものですから、ときどき失敗はありますけれども、失敗から学ぶでしょう。失敗して学んでもらうのもよろしかろうと思いますので、こんなふうに選択肢をあげるとかの必要はありません。「傘さしていくなら自転車で行かんといて。自転車で行くなら傘ささんといて」というのは選択肢ですが、これはいくつくらいのとき使えるか?まあ、小学校出るまでです。小学校出てしまった子にこの方法を使っても無駄だし、使いたくなるのは過保護です。(回答・野田俊作先生)

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透析を拒否する患者

Q0403
 透析されている方が、透析の中に毒を入れられているという理由で拒否をされています。病院をいろいろ替えたり、家族が付き添ったりして工夫しましたが、結局、家族と話し合いをして、透析しないことを選択されました。選択の自由であると考えますが、支援する側として、何か支援するとしたらどのようにしたらいいでしょうか?

A0404
 死んでもらおう。人間は死ぬ権利がある。生きる権利があるなら死ぬ権利がある。それをご本人に説明します。透析をやめるとあなたは早晩尿毒症になって死にます。それでもおやめになるのはOKです。あなたの選択の自由です。あなたの体にはもはや自然治癒力はないんです。自然治癒力がないのを透析で延ばしてきましたが、拒否なさるならば死んでもらいます。その結末を引き受けてもらえますか?OKならOk。
 私たちは間違った思想・哲学の中で暮らしている。人間が自分の死を自分で選べる権利があると思ってない。何が何でも生かしてやることが良いことだと思い込んでいる。私自身は、ある状況のときに自分が死ぬのを選ぶ権利を絶対主張します。ある状況というのもいろいろあって、例えば末期癌で手術して、このままではかなり痛みがするやろうねというのがはっきりしているときに、何かの方法で自さつする権利を確保しておきたい。するかどうかは別として。というようなことは認めてほしい。ただ生きてることが幸福だと思わない。幸福に生きることが幸福なんです。幸福に生きてることができないから幸福に死ぬというのはありうるんです。だから、ご本人が死ぬ側を選ばれるなら、それはみんなで機嫌良く送り出してあげよう。医療も積極的に人をころすと犯罪ですけれども、ご本人が死ぬ側を選ばれたときに死ぬことを支援するのは、医療の正しい役割だと思います。だからホスピスというものがあるわけです。ホスピスも若干問題はあるにしても、そのへんの思想的な医学の哲学的なところで、本人の死ぬ権利をカチッと押さえて考えると、家族と本人が選ばれたのなら、「透析するかそれとも尿毒症になって死ぬかどっちを選びますか?」と言って支援します。完治はギブアップです。(回答・野田俊作先生)

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イライラする相手とは?

Q0402
 一緒にいるととてもイライラしてしまう相手とはなるべく関わらないようにしているのですが、どうしても関わらないといけないときにはどのようにすればいいですか?

A0402
 向こうが何をしてイライラするのかわからないけど、向こうがある行動をするわけです。その行動をなんですかというと、私がさせているんです。私と相手との相互作用の中で、向こうが私をイライラさせるような行動を私がするように私が仕向けているんです。それは何なのか研究しないといけない。「パセージプラス」を受けられますと、「三つの劇薬」というのがあって、その中にちょろっと書いてある。相手のエピソード分析をするんです。相手がなんでそんな行動をするのかを考える。実は私が向こうにとって不愉快なことをしているからなんですよ。でなかったら向こうがこっちに不愉快なことをしないです。いったい何を私は向こうが不愉快に思うことをしているのかわかると、それをやめると向こうは不愉快なことをしない。個別のケースで全部違います。問題は私自身にある。向こうが私をイライラさせているんじゃなくて、私が向こうにイライラさせる行動をさせていると考えないと、問題が解けない。われわれは自分自身を変えることはできるけど、相手を変えることはできない。どんな技術を使っても相手は変わらない。でも自分は変えられる。自分を変えるために科学的に考えないと、無駄なエネルギーを使う。科学的に考えるというのは、相手もある行動をしている、ある対処行動をしている、例えばイライラするというのは、こっちの気に入らんことを言うとか、こっちがやってほしいことをしてくれないとか、こっちがしてほしくないことをやるとかでしょう。なぜするかというと、こっちが相手にイヤなことをするからです。「これ、いついつまでにやっといてね」と言うと、「えー!」とか言うわけです。なぜ「えー!」と言うかというと、こっちの言い方がぞんざいなからです。だからこっちの言い方を工夫すれば言わない。相手の対処行動をこちらが引っ張り出していて、ああ、これが相手にこういう反応をさせているんだなと思う。そうかどうかは、その人を客観的にしばらく観察しているとわかります。人間って、人によって顔が違う。私にはあんなにイヤだけど、あの人とはあんなにうまくやっているというのがあるんです。なんでかというと、その人は相手のイヤなところを引き出す刺激を与えていないからです。私はイヤなところを引き出すのを、わざわざ選んでやっている。そこがわかると、答えが出る。こんなことを言うから、アドラー心理学ははやらない。(回答・野田俊作先生)

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