Q0355
「望みは夫と仲良く親密な関係を維持できることだと思っているのですが、実際は必要最低限の会話しかしていなくて、相手からの会話に答えるだけで、こちらからの発信はしていない状態が半月ほど続いています。自分の行動が望みの状態に向かっていないことがわかり、自分の思っていることや気持ちを伝えてから仲良くなりたいと決心はしたものの、口に出して言う勇気がなかなか出ない」と言う人に、援助者として、これからどういう関わりができるでしょうか?その一歩を踏み出すために何ができるかを一緒に考えたいと思います。
A0355
話ができないのは、遊びができないからです。「遊ぶ・働く・話し合う」。その話をします。遊ぶのはレベルが3つある。1人で遊ぶ。夫とか家族と関係ない自分の友だちと遊ぶこと。女の人に問題が起こりやすい。夫が転勤して奥さんがついていくと、夫は会社に行っているから友だちがいる。奥さんはお友だちがいなくて、鬱病になったりする。そうじゃなくても結婚して家に入ると女の友だちとのつきあいが疎遠になるかもしれない。子どもがある程度大きくなると、学校とか保育所のお母さんと友だちになるかもしれない。もしも個人の友だちがいないとき、家庭の外の友だちがいないときは、友だちを作る工夫をしてもらいます。何かものを習いに行くのもいいし、いろんなサークルに入るのもいいし、友だち作りするのも1つの条件です。
第二レベルは夫婦2人だけでデートして、2人で楽しい時間を過ごせるかどうかです。これはけっこうみんなやらない。婚約しているときとか、新婚当初はやるが、長く暮らしていると、夫婦2人でわざわざ出かけて何かするということを考えつかない。毎日の炊事洗濯掃除にまみれて、ぬかみそ臭いおばはんになってしまって、男性から見て魅力がなくなってしまう。おっさんのほうは、仕事のことしか考えていない。家まで仕事を持ち込んで、男性としての魅力を失う。昔のあの輝きはどこへ行ったのか、ハゲちょろけになる。これはいかんので、ペンキを塗り直さないといけないので、デートする。デートはデートらしくやる。映画を観に行って食事でもして一緒に仲良くおうちへ帰るというふうに、デートらしくやってほしい。こういうのを月1回でも2回でも、2人だけの時間を特に外で過ごす。喫茶店でおしゃべりすのでもいい。近所の公園に行って2人で座っているのもいい。
昔、結婚7年目の夫婦がいて、何か冷えちゃった。喧嘩しているわけでもなく、意見が合うとか合わないとかでもなく、何か冷え冷えと暮らしている。子どもできなくて。2人とも職業を持っている。家に帰ってきたら疲れ果てていて、型どおりに一緒にご飯食べて、会話もなく食べて、「おやすみ」と寝て、また朝出ていくという暮らしをしていて、これで一生行くのかと、夫も妻も悩んだ。相談に来られたので、「新婚時代や婚約時代ははどうでした?」「楽しかったですね」「どんなことをして過ごされました?」「とても貧しかったので、お金があまりなかったので、大したことはできなかったけど、港の近くに住んでいたので、ホカホカ弁当を買って、日曜日なんかに波止場まで行って、ベンチに座ってホカホカ弁当を食べながら、沖を通る船を見ながら、あれこれ話したのがすごくよかった」と、旦那が言うと、奥さんも「ほんと楽しかったね」。「それしましょうよ。もう7年たったけど、今度の日曜日にホカホカ弁当買って波止場へ行って昔と同じように座ってしゃべってみません?」と言ったら無茶苦茶感動した。それを実行して、その夫婦は仲良くなりました。
夫婦が2人で遊ぶのにもかなり工夫がいる。昔2人が仲良くできた時間を思い出して、それに似たことを、まずとっかかりとしてやってみる。
第三番目が家族全員で遊ぶ。おじいちゃん・おばあちゃんまで入れて、家族全員で、例えばみんながハイキングに行こうかというのもある。ただハイキングに行っても、夫婦が仲良くなるとは限らない。そんな夫婦はいくらでもいる。家族全員だとできるけど、夫と2人なんてとんでもないと。
その3つのレベルの遊びを充実させてください。そうするとおしゃべりできるようになる。それができない状態で、おしゃべりしろと言っても、難しいと思う。(回答・野田俊作先生)
5,楚の狂・接輿(せつよ)、歌いて孔子を過ぎて曰く、鳳(ほう)よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来たる者は猶追うべし。已(や)みなん已みなん。今の政に従う者は殆(あやう)し。孔子下(お)りてこれと言(かた)らんと欲す。趨(はし)りてこれを辟(さ)く。これを言(かた)るを得ず。
楚の狂人(のフリをした隠者か)・接輿が歌いながら孔子の側を通り過ぎた。その歌詞はこうだった。「鳳よ、鳳よ、お前の徳はどうして衰えてしまったのか。過去は是正できない。けれども未来はなお追っかけて是正できる。よした、よした。今の世の中で政治家になるのは、あぶないぞ。」孔子は車から降りて彼と語ろうとしたが、彼は速歩で逃げていったので、彼と語り合うことはできなかった。
※浩→ 乱世のことですから、狂人といっても精神病者ではなく、狂人のふりをして身をくらませている隠者です。戦乱の世で生き延びる智恵の一つが、頭がおかしい人物の演技をすることであり、暴君から命を狙われた賢臣の中にも正気を失ったふりをする人が少なくなかったのです。『史記』の「孔子世家」では、この条を、孔子六十三歳、楚の昭王が孔子を任用しようとして、家臣にはばまれ、昭王も間もなく亡くなったあとに繰り入れています。「今の政に従う者は殆うし」は、そういう状態にある孔子への警告のようです。
この逸話は『荘子』(人間世篇)にもあります。以下に紹介する『荘子』が元か『論語』が元か、論争があるようですが、吉川先生は『論語』が先で、こちらの文のほうが美しいとも述べられています。私は『荘子』贔屓ですから、ここは譲れません(笑)。↓
孔子、楚に適(ゆ)く。楚の狂接輿、其の門に遊びて曰く、「鳳や鳳や、如何ぞ徳の衰えたるや。来たらん世は待つべからず、往(い)にし世は追うべからざるなり。天下に道あらば聖人は成し、天下に道なければ聖人は生く。今の時に方(あた)りては、僅(た)だ刑せらるるを免れんのみ。福(さいわい)は羽よりも軽きに之を載するを知る莫(な)く、禍(わざわい)は地よりも重きに之を避くるを知る莫し。已(や)みなんかな、已みなんかな、人に臨むに徳を以てす。殆(あやう)いかな、殆ういかな、地を画(くぎ)りて趨(はし)る。迷陽、迷陽、吾が行(あゆ)みを傷つくること無からん。吾が行みの、郤(あとず)さりし曲(とおまわ)りすれば、吾が足を傷つくること無からん。山の木は自ら寇(そこな)うなり、膏火(ともしび)は自ら煎(や)くなり。桂(にくけい)は食らうべきが故に之を伐(き)り、漆は用うべきが故に之を割(さ)く。人は皆有用の用を知りて無用の用を知ること莫きなり」と。
福永光司先生は次のように解説されます。要するに荘子にとっては、現在の自己を生きることが人生の第一義であった。この自己はいかなる目的の手段とされることもないそれ自体絶対の存在であり、この現在は未来で償うことも過去で代えることもできない絶対の所与であった。彼にとっては与えられた自己を、与えられた現在のなかでいかに生きるかということがすべてなのである。そこでは現在を歴史の進歩のなかで因果づけたり、自己が人類の理想の前に手段化されることは許されない。荘子が有用の用に対する無用の用を強調しつつ、孔子的理想主義に強い批判的態度を取るのも当然であろう。ただしかし、荘子の孔子に対するこの批判的態度の根底には、すべての理想主義者の痛ましい悲劇的運命に対する深い共感と、人間と、人間の社会の暗さ険しさに対する声なき慟哭がある。荘子はこの慟哭と共感のなかで孔子を理解し、狂接輿を理解しているのである。
こんなに解説長いと、私の出る幕はなさそうです。
Q0355
私は会社を経営しています。その場面でも、良い人間関係を築くための基本的な考え方は同じだろうと思いながら、野田先生の話を聞いています。会社の人間関係において特に気をつけることはありますか?
A0355
会社の人間関係へ応用できるけど、すごく限られていると思う。親子や夫婦は、お互いどうし注意し合えるというか、相手のやっていることを「ちょっと変えてくれる?」と言える範囲が広い。会社は基本的に他人だから、「そんな服を着て会社へ来るのをやめて」と言えない。家だと「その服どうかと思う」と言えるけど。お互いどうしが相手を制限する程度がうんと低いから、アドラー心理学がフルに応用できるとあまり思わない。アドラーは、そもそもそのことにあまり関心がなかった。
なぜ、アドラー心理学が、親子関係、夫婦関係、教師と生徒の関係に注目するか?
アドラーは若いとき、30歳台には、社会主義革命が起こって良い政府ができれば、人々は幸せになるだろうと信じていた。実際、オーストリアの社会民主党の党員さんで、機関誌に政治的な論文を投稿していたりした。ところが1918年にロシア革命が起こりました。実際に政治革命が起こってみると、全然良くない、むしろ革命によって悲惨な生活が始まってしまったと気がついた。多くの人は気がつかなかった。レーニンやスターリンは、自分たちのやっていることを隠して、西洋から見学に来る人たちに良いところだけ見せたし、その人たちと会うロシア人を制限していた。良いことを言う人しか会わせないようにしていたから、西洋社会では長いこと、ソビエトは理想の国だと、そこでは人間は幸福に暮らしていると思っていた。アドラーの奥さんはロシア人で、しかも共産主義者で、しかもトロツキーの親友で、ロシアのネタをすごく初期から知っていた。そこでレーニンがどんなひどいことをしているとか、みんな貨車に乗せられてシベリアへ送られているとか、即、銃殺されているとか、現実を知っていたので、大変失望した。1918年にすでに共産主義を批判する論文を書いた。翻訳が初期の『アドレリアン』に載っている。そのとき外側の共産主義も批判したけど、彼自身のそれまでの考え方も批判した。それまでの、社会変革をすれば幸せな世界が来ると思っていたけど、違う。精神の変革をしないといけない。精神はどうやったら変革できるのか考えたら、結局、精神が作られるときに変革しておかないといけない。できてしまってからではなかなか変わらない。それで、育児とか学校教育で、より横の関係、相互尊敬・相互信頼とか協力、目標の一致とか、たくさん話を聞くとか、葛藤解決するとかを、子どもに体験しておいてもらうと、大人になったときに別にアドラー心理学の話を聞かなくても、アドラー心理学ふうに暮らす大人になるだろうと、彼は思った。実際日本でも、私がアドラー心理学を持って帰ったのが1983年ですから、最初のころ教えた子どもたちが今大人になって、お父さんお母さんになって子どもを育てている。その子たちを見てると、ほんとにうまく育ったと思う。教えなくてもアドラー心理学が身についていて、自分の親たちがやったように自分の子どもたちを育てている。叱るとか強制するとかなしに、ちゃんと責任を取って育っている。こうやって未来の社会を作っていくのが、アドラー心理学の大きなテーマです。
今われわれが住んでいる世界の中で、今暮らしている個別の子ども、自分自身とか、配偶者とかが幸せになるようにというのは、一種のエゴイズムです。自分たちさえ良ければそれでいい。そうじゃないだろう。人類が今後もずっと良い状態で存続していけるように、あるいは、今までの間違いを正していけるように、どすればいいか考えないといけない。アドラーはまだ20世紀の初めの人ですから、われわれの世代ほど深刻に考えていなかった。第二次世界大戦が終わってから生まれた人間は、近代文明は間違っていると思う。端的な話をすると、日本国は今のような暮らし方を始めて2000年になる。弥生時代というのがあって、そのときに狩猟生活から水田稲作で暮らすようになった。水田稲作にともなって、天皇家が中心にいて、天武天皇、天智天皇のように天皇が直接政治をなさることもあったし、藤原氏の摂政関白の時代もあったし、源氏から徳川までの武士が幕府を開く時代もあったし、明治以後の議会制民主主義の時代もあったし、いろんな時代があったけれども、一貫して水田稲作があって、天皇が中心にいて、日本人の祭りがあり、年中行事がある暮らしが一貫してあった。この暮らしは2000年できる暮らしです。では、これから先2000年、今やっている暮らしを続けられるか?絶対無理です。そんなに永続感のある暮らしじゃなくなった。なんでか?資源のものすごい浪費。原子力であれ、石油であれ、天然ガスであれ、本来地球のバランスの中に入っていないエネルギーです。地球のバランスというのは、現在降りそそいでいる太陽と、現在宇宙へ出ていく熱対流輻射とがバランスを取っていて、そこに昔降りそそいだ太陽のエネルギーでできた石油や石炭や天然ガスを持ち込んだり、本来太陽エネルギーと関係ない原子力を持ち込んだりすると、エネルギーの収支バランスが崩れている。会計学的に見れば、どこかからお金が湧き出している不思議な帳簿を書いている。変なことをやっていて、これって永続できない。石油や石炭や天然ガスはそういつまでも保たないし、またそれらを使ったら廃棄物が出る。原子力もとんでもない廃棄物が出る。あの廃棄物は最終的に処理できない。福島の原子炉が壊れて、ごく少量の放射性物質が出ただけで、あれなんです。もっと大規模な壊れ方だと、地震ではしなくても、テロではするかもしれない。あの上にミサイルを撃ち込まれたりしたら、中身全部はみ出したりしたら、もう収拾がつかない。毒性物質、農薬とか公害の汚染物質は、解毒できるかもしれない。別の薬物を使うと毒ではなくなるかもしれないけれど、放射性物質は何をやったって解毒できない。時間が来るまで待つしかしょうがない。洗い流しても、洗い流れた先には溜まる。海の底であれどこであれ。溜まったものを何かの生物が食べて、生物濃縮して、僕らが食べる魚とか植物の中へまた現れる。完全に崩壊するまでこの地上にあり、大変呪われた物質。ああいうものを使いながら、今後2000年3000年とかのスケールで考えると、それは無理です。100年くらいなら保つかもしれないけど、100年くらいで亡びるような文明の営み方って、子孫に対して申し訳ない。だからまず最低2000年3000年のレベルで、物事を考える。そうするとわれわれの国では、やったことがあるのは水田稲作で、水田稲作中心の産業にしたほうがいい。西洋世界では西洋世界の暮らし方が、その土地風土に応じてあるだろう。中国では中国の土地風土に応じたやり方があるだろう。それをやらないからだんだん砂漠化していって、変なことになるのだろう。ちょっと深呼吸して、1000年2000年のレベルで持続できる文明を営めるために今何をしなければいかないか、考えます。考えた上で、子育てと学校教育をする。今の子育ても学校教育も全然そのほうを向いていない。ただわれわれの一生というスケールで、一生までいかなくてほんの目先のことだけで話をしている。それってすごく問題を起こしていくだろう。アドラー心理学は人類の未来の中で今何をすべきかを考えます。ただ省エネして、太陽光発電に切り替えたらいいというのは、短絡的な話です。太陽光発電はナンセンスです。だって「太陽光素子」をあとどうするの?あんなもの、永久には保たない。30年とかしたら廃物になる。廃物になった素子をどうやって処理する?あれはシリコンが入っていて有毒です。そんなものを処理するのは大変です。風力発電でもあのデカイ風車をどうやって処理する?燃やしたらものすごいガスが出るよ。そもそも発電というものを濫用している。われわれが許されている以上に、今、エネルギーを使っている。電気を消すのがたぶん答えです。新幹線なんて大阪の地下鉄と同じ頻度で走っているから、ふらっと行って乗ったらすぐ東京に着く。ときどき徳島県へ行くと、JR四国があって、1本乗り逃すともう絶望的。極端な格差がある。いったい東京と大阪とか、東京と福岡とか、あんなに行ったり来たりしないといけないの?そういう文明の設計そのものにミスがある。別に、東京と大阪、東京と福岡を行ったり来たりしなくても暮らせるタイプの文明は築ける。そうすると電気をどんどん使わなくてすむ。全国から宅急便でいろんな物を運んできて暮らさないといけないの?自分の地元でできたものを食べて暮らせないんですか?ほんとはできるんです。経済学というとても間違った学問があって、経済学というのはよくわかりません。大学の教養部で、「経済学」を取りました。大阪大学は、マルクス経済学でなくて近代経済学でした。ケインズの近代経済学を習って、そのときわからないなと思った。バラバラの、他の人と関係ない1人の個人がいて、その個人は無限に欲望する。なんぼでも欲しがる。企業家というのがいる。これは無限に売りたがる。売れるならいくらでも売る。できるだけ高い値段でなんぼでも売るでと言っていて、個人(消費者)はできるだけ安い値段で、なんぼでも買うでと言っていて、その両者がぶつかって市場ができて、ちょうどバランスのところで値段が決まり、生産量が決まり、消費量が決まる。そんな無限に欲しがる個人なんていないよ。個人というのは、あくまで社会に組み込まれていて、例えば今、アドラー心理学の本を書きます。無限に個人が欲しがるなら、無限に売れるはずですが、そんなことない。「チベット語入門」を書くと、もっと売れる。ある個人があるものを欲しがるか欲しがらないか、その個人が社会的にどういう人とつきあって、どういうグループに属しているかによる。そんなに抽象的な、社会から孤立していて、何でもかんでも欲しがる個人なんて、経済学者が作った抽象なんだ。無限に売りたがる企業家もいない。無限に売ったら無限に費用がかかる。あるところで手を打つ。「まあこれくらいでいいわ」と商売している。それとぶつかって市場が決まるというほど単純でもない。先行投資もあるし、投機もあるし、いろんなことがありますから。それを極端に抽象化して、まるで物理学みたいに、社会経済を言ったのが経済学で、その経済学によれば、新幹線をボンボン走らせて、どんどん工業製品を作って輸出して、というのが正しい見方。その経済学さえ忘れて、もう少し常識に立ち返れば、そんな暮らし方をしなくてもいけると思います。長い未来を見て、われわれの知らない時代に向かって、良い遺産を残したい。
そのためにじゃあ今何をすればいいかというと、さしあたって、子育てと学校教育にエネルギーを注ぐのがいい。そうすれば、企業で起こっている問題も、やがて自然解決するでしょう。今、企業で問題が起こるのは、育ちが悪いから。社長も社員も育ちが悪くて、間違った育児を受けてきたから、間違った暮らし方をしてしまうので、育ちが良くなれば良くなる。
で、そういう根本的な解決でなく、さしあたって、目先でいろんな小さなトラブルを解決するのは、役には立ちます。役には立ちますが、過去百何年間か、アドラー心理学ができてから、会社での人間関係にあまりエネルギーを注いでこなかった。できないわけじゃない。ただ制限されたやり方しか使えないと思います。(回答・野田俊作先生)
4,斉人(せいひと)、女楽(じょがく)を帰(おく)る。季桓子(きかんし)これを受く。三日朝(ちょう)せず。孔子行(さ)る。
斉国が魯国に女性の歌舞楽団を贈った。(家老の)季桓氏はこれを受け容れて、(その美しさと素晴らしさに魅了されて)三日間朝会に出席しなかった(政務を行わなかった)。孔子は絶望して魯国を去った。
※浩→魯の定公十四年、五十六歳の孔子は、司法担当の国務大臣として、一番家老の季孫斯(きそんし)などと国政にたずさわっていました。隣国の斉国は、孔子によって魯の国政が振るうのを妬んで、女歌舞伎八十人に飾り馬三十駟(くみ)を添えて魯に贈りました。それに魅了されて政治を忘れてしまった季桓氏を見て、孔子は魯国の将来を見限ってしまったのです。このエピソードが史実であるか否かはわからないそうですが、孔子は為政者が色(女性)や欲(金銭)に溺れて政務をおざなりにすることを最大の不徳と考えていたことを、この伝説が説いています。
「女歌舞伎」というと、日本では「出雲の阿国(おくに)」です。出雲の阿国は生没年未詳ですが、1603(慶長8)年、京都四条河原で歌舞伎踊りを演じ、歌舞伎を始めた人物だと言われています。出雲大社の巫女(みこ)だと称していたそうですが、詳しいことはわかりません。当時の芸能の多くは、河原や寺社の境内に作られた仮設舞台で演じられて、興行が終わると舞台は取り壊されていました。阿国は、京都の北野神社境内に自分専用の舞台を作って踊ったそうです。1607(慶長12)年には、江戸城で踊ったという記録も残っているそうです。「歌舞伎を始めた人物」として数々の伝説が生まれました。阿国のような女性芸人が歌舞伎踊りを始めて女歌舞伎が生まれ、それが現在の歌舞伎につながっています。その後、女歌舞伎は幕府によって禁止されて、男性の役者が演じるようになり、今日のような“女形”役者ができます。現在の男女同権の世の中で、お相撲と歌舞伎はいまだに“女人禁制”のままです。もっとも、宝塚歌劇は男子禁制ですが。その宝塚歌劇は、目下大騒動です。夢を売るはずのこの歌劇団であらまじき悪習が存在したなんて、ファンへの裏切り行動だと思います。一方、歌舞伎のほうは、昭和の名優がほとんど去り、若手の躍進がめざましいですが、こちらもやはり猿之助事件でもやもやしています。ここでもアドラー心理学の教えにより、ネガティブな面でなくポジティブな面に注目していきたいです。大事な日本の文化ですから、絶滅させるわけにはいきません。
Q0354
先週の「葛藤解決」(野田:神戸かな?)と今回で初めてアドラー心理学に触れた初心者です。喩えで、夫と妻、親と子、教師と生徒がよく出てきますが、それはなぜですか?(野田:いい質問ですね)「葛藤解決」において夫と妻が喩えに出る理由を説明されていましたが。
A0354
どうしてかというと、人生で一番近い関係だからです。親子って結構秘密がある。夫と妻は秘密の作りようが、まったくないことはないが、ほとんどない。パンツの色まで知っているからね。最も近いだけに最も傷つけ合いやすい。だから夫と妻が一番激しい葛藤をします。(回答・野田俊作先生)