25,陳子禽(ちんしきん)、子貢に謂(い)いて曰わく、子は恭(きょう)と為すなり。仲尼、豈(あに)子より賢(まさ)らんや。子貢曰わく、君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎しまざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶天の階(かい)して升(のぼ)るべからざるがごときなり。夫子にして邦家(ほうか)を得るならば、所謂(いわゆる)これを立つれば斯(ここ)に立ち、これを導けば斯に行き、これを綏(やす)んずれば斯に来たり、これを動かせば斯に和らぐ、その生くるや栄え、その死するや哀れむ。これを如何(いかん)ぞそれ及ぶべけんや。
陳子禽が子貢に言った。「あなたは謙遜されているだけなのです。仲尼がどうしてあなたより勝れていると言えるのでしょうか?」。子貢は言った。「君子はただ一言で賢いともされるし、ただ一言で愚かともされる。言葉は慎重に話さなければならない。先生に及びもつかないことは、ちょうど天にはしごをかけても上れないようなものです。先生がもし国家を指導する立場につけば、いわゆる『立たせれば立ち、導けば歩き、安らげれば集まり、励ませば応える』ということです。先生が生きていらっしゃれば国家が栄え、先生が死なれれば悲しまれる。どうしてこんな先生に(私ごときが)及ぶことができるのでしょうか?」
※浩→陳子禽は子貢の弟子とされる人物で、「学而篇」にも登場しています。孔子より40歳年下だそうです。子貢は孔子より31歳下で、子路、顔回。仲弓らとともに「年長グループ」を形成していました。子貢は陳子禽にとって大先輩です。
前の章と並んで、「孔子以上の英才である」と賞賛された子貢が、孔子がいかに優れた人物であるか、自分がなぜ孔子にはまるで及ばないのかを答えた部分です。「孔子の神格化」傾向が顕著に見られる表現が随所に使われていて、孔子が生きているだけで国家が富み栄えるというような最上級の賛辞が送られています。
「子張篇」はここまでです。次は『論語』最終章「堯曰篇」になります。
Q0385
アドラー心理学では、他人を幸せにしたら自分も幸せになると勉強してきましたが(野田:この勉強の仕方は間違っている。こう言ってないぞ、誰も)、私はけっこう他人や世の中に尽くしているのに、自分が幸せになりません(野田:それ見なさい)。大地震や災害のたびに義援金を寄付したり、その他いろいろ他人や世の中のために尽くしているつもりですが、そのわりには自分には何も返ってこない気がします。特に経済的な面でそう思います。自分が差し出してから自分に返ってくるのにある程度時間がかかるのでしょうか?それとも自分が差し出した分は自分には返ってこないのでしょうか?何か自分が損ばかりしている気がします。ちなみに私は今事情があって仕事をしていません。野田先生はどう思われますか?
A0385 アドラー心理学の勉強をし直すべきだと思います。「あなたがもし幸せになりたいなら、他の人を先に幸せにしないといけません」とは言います。「他の人を幸せにすればあなたは幸せになるでしょう」とは言っていません。「もしも宝くじに当たりたいなら宝くじを買いなさい」とは言いました。「宝くじを買えば必ず当たるでしょう」とは言っていません。われわれは人間であるなら他人を幸せにしないならば、まわりの人を幸せにすることを一切考えないなら、決して幸せになることはないでしょう。宝くじを買わないなら決して宝くじに当たることはないでしょう。これは科学的です。としたら、宝くじを買えば宝くじに当たるかもしれない、当たらないかもしれない。他人を幸せにすれば自分も幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。でも、もし幸せになりたいなら、他人を幸せにするしかない。これ、科学的だと思わない?
因果性というものについてちゃんと理解してほしい。因果性というのはこういうことです。今あることがあって、例えば私は今不幸だ、それには原因がある。その原因は100パーセント自分の中にある。外にもあるだろうけど、外にある原因は私にはどうしようもない。私は今不幸である。さまざま原因はあるべしと思うけれど、私が何とかできる原因は、私の中にだけある。私の中にあるその原因を取り除いてみたら、その不幸がなくなるとしましょうよ。そしたら、それが原因なんだ。私は今不幸です。考えてみると、他人に何にもいいことをしていません。他人にいいことをしてみるとどうか?幸福になるとは言えないけれど、幸福になる可能性はある。今みたいに、他人に何もいいことをしてないと、絶対幸福になる可能性はない。とすると、リスクテイキング、賭けてみる価値はある。賭けてみたところで返ってこないかもしれない。初めから、返ってくる約束は誰もしていない。じゃあ、方々にお金なんか寄付したりして、どこに問題点があるのか。それは、人間の暮らし方がわかってないことですよ。人間というものは、金出せばいいものではない。もしも100パーセント確実に幸福になりたいのだったら、仕事してないならちょうどいいから、荷物まとめてアフガニスタンかどっか行って、あるいはビアフラかどっか行って、難民キャンプで働いてごらん。絶対に幸福になるから。毎日毎日そこにいる人たちのお世話して、穴掘って井戸作ったりして、彼らと一緒に問題を共有しながら、ものの三月か半年も暮らせば、人間がこの世で味わえる最高の幸福と最高の不幸と、味のある、ぐっと濃い濃厚な生活を送れるでありましょう。与えることが返ってくるんです、きっと。お金しか与えないなら、お金の分だけしか返ってこない。だって、与えたお金というのは、まあ余っているお金でしょう。余っているお金を与えたことは忘れなさい。それはもともとあなたのものじゃなかったんです。僕らのところに余剰にあるお金は本来私が持っているべきでないものが、たまたま僕のところに溜まっているだけなんです。それは水溜まりみたいなもんなんです。だから、水はけよくしてどこかへ流してやったら、それが自然なんです。何かものをあげたわけではない。間違って私のところにいただけなんです。それぐらいに思って、見返りなんか求めないことですね。もしも見返りを求めてどうしても幸福になりたいなら、自分が犠牲になって、体力を使い知恵を使い財産をすり減らしてやったら、幸福になるでしょう。思いません?そんなふうに。(回答・野田俊作先生)
24,叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢曰わく、以て為すこと無かれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり、猶(なお)踰(こ)ゆべきなり。仲尼は日月なり、得て踰ゆること無し。人自ら絶たんと欲すと雖ども、それ何ぞ日月を傷(やぶ)らんや。多(まさ)にその量を知らざるを見るなり。
叔孫武叔が仲尼の悪口を言ったので、子貢は言った。「そんなことはなさらないほうがいい。不可能です。他の賢者は丘陵のようなもので、越えようと思えば越えられます。孔子は日や月のようなもので、人間が越えることなどはできません。人間がいくら縁を切ろうと思っても、日や月にとって何の障りも起こりません。かえって自分の身の程知らずを思い知るだけのことです」。
※浩→前の条では、子貢を比較の媒介として婉曲に孔子の悪口を言いましたが、今度は露骨に悪口を言ったことになります。孔子の悪口を言うなど不可能だ。他の賢者は偉大だといっても丘陵の規模で、人間の足で踏み越えられます。孔子は月や太陽で、隔絶した高さにあります。人は誰もその影響下にありますが、人間のほうから縁を切ろうと思っても、日月のほうには何の損害もない。うーん、前の条で、野田先生より自分の話のほうがわかりやすいなどと放言したことを恥じる番です。偉大な野田先生に対して自分などたとえ“得意技”があるといっても、しょせんは小丘です。野田先生は日月に相当すると言っても過言ではありません。でも先生を“神格化”してしまうと、途端に「土着思想」になってしまいます。子貢のここでの言葉は、孔子の死後に段階的に進んでいった「儒教の創始者・孔子の神格化」を暗喩していると言われます。そういえば、西洋では英雄が神格化されることはなかったようです。カエサルもナポレオンもキリスト教会では“聖人”の座に置かれません。日本は英雄がその死語、神格化されている例が多数あります。徳川家康は“東照権現(ごんげん)様”として日光に祀られ、大石内蔵助は赤穂市の大石神社に祀られ、乃木希典は赤坂の乃木神社に祀られています。これは“八百万の神”を信じる日本独特の文化です。一神教のように独善的にならず、包容力とか寛容さの原点になっているのかもしれません。
Q0384
小学校相談員をしています。その小学校では毎日何かしら怒りながら学校へ来ているようです。○○ちゃんが何々した、腹立つ、無視された、私も無視し返した。ムカついたし、靴隠した(あ、競合的なんだ)。エネルギーをもっと何かに使いませんかと思いながら、現時点ではその話を聞いているのみです。不登校までとはいかず、毎日怒りの中で過ごして、それにイヤになり、休む子どももいます。相談員としてひとまずどうすれば、怒りの毎日、まわりはみんな敵だらけから抜け出してもらえるでしょうか?皆平和に過ごしたいとは言っていますが。
A0384
怒りについてアドラーはどう書いていますか?怒りというのは、要するに、不適切な行動の4つの目標、注目関心を引く、権力争いをする、復讐をする、無能力を誇示する、の中の第2段階=権力争いをするとカップリングした感情です。その子たちは権力争いをしていて、勝つか負けるかの世界に暮らしている。勝つか負けるかの世界を競合的世界と言う。ということは、その学校は競合的雰囲気の中にある。この競合的雰囲気が子どもたちに、勝つか負けるかどっちかしないといけないと言っている。今日負けた子は明日勝とうとする。明日勝った子は、あさって負けるわけだ。そうやっていつも誰かが勝ち、誰かが負ける世界に暮らしている。
なんでそんなことになっているか?子どもたちがゲームかコミックか何かで学んでいるということもあろうけれど、やっぱり教師のせいだと思う。教師ははっきりと協力的な世界とか、みんなが問題を共有し合う世界とか、分かち合う世界とか、尊敬し合う世界とかに対するイメージを明確に持っていないことですね。アドラー心理学が理想とするような、ほんとの意味での横の関係の世界、問題をみんなで協力して解決することが一番大事だと思っている世界をイメージしていなくて、個人の問題は個人の問題、まず自分で解決しましょうよ。ちゃんと自分で解決できた人は偉くて、解決できなかった人はダメですよという、間違った自立モデルを、競合とくっつけて考える間違った自立モデルをたぶん教師が持っているんだと思う。それは違うと思う。自立というのは、みんなが自分の力を出し合うことを言う。国のことを考えてもらうとわかる。自立indipendentは国家の独立と同じ言葉です。独立というのは、国と国が競争して相手の国を負かし、自分の国が勝つことを言うのではない。みんなが力を出し合って、足りないものを分かち合って、全員がやっていけるようにするのが独立です。でも“学校的自立”のイメージは、「自分のことは自分でしましょう」で、自分のことを自分でしたらエゴイズム社会です。違う。人のことをみんなでしましょうの世界なんです。アドラー心理学が持っているイメージは絶えずそうなんです。課題を共有したいんです。共同の課題をいっぱい作りたいんです。そのために、お節介にならないように、何が共同の課題かをはっきりしたい。『パセージ』なんかで、「まず課題の分離をしましょう。それから共同の課題を作りましょう」とうるさく言うのは、「共同の課題だ」とごまかしながら、親が自分の欲望を子どもをねじ曲げることで遂げようとするから、それは違うでしょうと言っている。一度バラバラにしておいてから、話し合って共同の課題を作ってくださいと言っている。アドラー心理学が強調したいのは、みんなで問題を分かち合って、共有し合って、力を出し合って、知恵を出し合って協力しましょうね、問題を解決しましょうねということです。その社会では競争が起こらない。競争が起こらない社会では、誰が偉いも誰が劣っているもないし、誰がボスで誰が家来もない。私が出張なんかして、講演が終わって、さあ帰ろうということになると、会場の原状復帰をしないといけない。「はい、誰か仕切ってくださいね」と言うと、誰かが仕切って、「はい、あんたこっちやって、あんたこっちやって」と言う。あれ、良い姿だと思わない?あれは別に縦関係でもなく、支配服従でもなく、協力なんです。誰か決める人がいて、残りがそれに従って動くことが、最も問題解決のためにふさわしければそうすべきだし、そうしないでみんなが自分の力で動いてそうなるならそうすべきだし、そのときの状況に応じて、問題解決のために一番良い方法をとればいいと思うじゃない。「誰か仕切ってください」と言って、「はい、仕切ります」と言った人は偉い。この人大将、残り家来というわけではない。僕らは文明社会の住人ですから。でも、学校はそうじゃない。学校はいつも何かの形で序列をつけ、何かの形で上下関係をつけ、何かの形で優劣を比較したいという心があって、それが結局イライラした子どもたちを作り、いつも怒っている子どもを作ってしまうと思う。
ですから、まず基本的に教師が悔い改めるべきだと思う。相談員が教師に「悔い改めろ」と言うわけにいかないから、子どもたちと一緒に、何怒っているのか考えてみよう。そんなに怒るべきことなのかどうなのか。この世にそんなに腹を立てなきゃいけないことはないです。昔の人は、公的な怒りと私的な怒り、公怨と私怨の区別をした。これは大変良い考えです。世のため人のために怒るということはあるかもしれない。「これは許せない!」と。でも、自分の利害のために怒るべきではないと思う。自分の利害は怒りでもって解決することではないから。それは、話し合いでもって、知恵でもって解決すべきことです。でも、とんでもない悪い奴がいて、電車の中で大声で暴れているなら、これは何とかしないといけないと思うかもしれない。「あなたが今怒っているのは、それはあなた自身のためなのか、みんなのためなのか、どっち?」と聞けばいい。みんなのために怒っている子はめったにいない。「あなた自身のために怒っているんだ。じゃあ、そうやって腹立ったり、ムカついたり、悲しかったりするのは、結局自分が問題解決したいからなんだ。じゃあ、どうしたいの?で、結局どうなればいいの?」と聞いて、そのそうなればいい目標は、実際に達成できることなのか、できないことなのか。もしできるとしたら、それは怒ることでもって達成できるのか?怒ることでもって達成できないのなら、それ以外の達成法はないかどうかを、何度も何度も何度も話し合っていくと、子どもたちは学んでいく。初めは全然言っていることがわからないだろうけど。
ですから、僕たちがまず怒りというものの病理学をちゃんと持とうよ。これは権力争いなんだと。権力争いというのは、結局、勝とうか負けようか、上か下か、正しいか間違っているかを決めようとしている。そのことはほんとはたいていの場合決めなくていいんだ。もしどうしても決めたいとしても、怒り以外の方法で決めることもできる。そういうことについてこっちがちゃんと理解します。それから、子どもたちとお話したらどうですか?(回答・野田俊作先生)
23,叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝(ちょう)に語りて曰わく、子貢は仲尼より賢(まさ)れり。子服景伯(しふくけいはく)以て子貢に告ぐ。子貢曰わく、諸(これ)を宮牆(きゅうしょう)に譬(たと)うれば、賜(し)の牆(かき)や肩に及ぶのみ。室家(しつか)の好(よ)きを窺(うかが)い見るべし。夫子の牆や数仭(すうじん)、その門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ず。その門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云えるも、亦(また)宜(うべ)ならずや。
叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫に(悪口を)言った。「子貢は仲尼よりも優れている」。子服景伯はそのことを子貢に知らせると、子貢は言った。「先生と私とを屋敷の塀に喩えましょう。私の塀の方はやっと肩の高さくらいですから、屋敷の中の良いところがすっかり覗けます。しかし、先生の塀の高さは10メートルほどもあります。門から入らないと、宗廟の立派さや役人たちがたくさん立ち並んでいる様子は見えません。先生の門の中に入った人は少なく、あの方(叔孫)がそう言われるのももっともですが、そんなものではございません(私は孔先生の境地にまったく及びません)」。
※浩→「叔孫武叔」は魯の名家・叔孫氏、名は州仇(しゅうきゅう)、諡が武。魯の大夫としてかつて孔子の同僚でした。「子服景伯」は魯の大夫、子服は名は何忌(かき)、諡は景。叔孫武叔は孔子よりやや年の若い同僚でしたが、孔子に好感を持っていなかったようです。次の条でも孔子を謗っています。
子貢が、自分と孔子の思想家・為政者としての『器の大きさ(格の高さ)』の違いについて、「塀の高さの比喩」を用いてわかりやすく解説しています。孔子の実際の人格(徳性)や知性の素晴らしさは、孔子の門下に入った人間でないとなかなか理解することができないが、長年孔子のもとで教えを受けた子貢にとっては、自分と孔子の実力を比較されること自体が畏れ多いことでもあったのでしょう。とてもうまい比喩だと、吉川先生。
私は、カリスマ的な野田俊作先生から現在の智慧・知識の蓄えのほとんどを得ました。そして、私が講義する内容もそっくりそのまま、「学はまねぶ」でやっています。あるとき私たちの講座のすぐあとで、地元で野田先生の講座があり、私たちの講座の参加者お一人(Yさんとしましょう)とK先生と私とで参加しました。野田先生の講義を聞いたYさんは密かに、「大森先生からすでに聞いているし-」とおっしゃいました。「そんな畏れ多いことを!」と、K先生と大爆笑でした。最高に善意に解釈すると、ご宗家の野田先生が教えられるよりも、弟子筋で凡人の私が教えるほうが、学ばれる側からはわかりやすいのかもしれません。私の話はわかりやすいと、これまでにも多くの方から言われていますから、まんざら“おべんちゃら”でもないのでしょう。慢心しないように要注意です。