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仕事の指示を出してくれない上司

Q0365
 職場内の話です。管理責任者は女性で年上で、仕事の話でなかなか方向性を示してくれず、仕事がとどこおることがあります。いろいろと指示を出してもらえる関係を築きたく、こちらも単なる待ちの姿勢でなく、たずねる行動に出ているんですが、そうすると今度は「でもね」と言葉で否定されることが多くあり、たずねる気力も低下します。かといって、勝手に判断して行動をすると、職場組織を乱すことにもつながり、管理者に気持ちを語ってもらうこともできず、でも組織が何となく流れているのに身を任せると、業務上で支障が出る。そんな中で、私は私らしく前向きに仕事をする際の心の持ち方を教えてください。

A0365
 わりと意味不明の質問なんですが、ごめんなさいね。私の読解が悪いのかもしれない。これ、どうしたらいいかというと、「こっちで勝手に決めていいですか」と僕だったら聞きます。だって管理者が決めないなら「下(部下)が決めてもいい、一任する」っという意味じゃないですか。だから指示待ちする必要なんか全然ないし、向こうが決めてくれないなら、「こっちのいいようにしていいですか」と決めて別にかまわないと思うのですけど。向こうが「どうしろ」と言うなら従うけど。この質問者の不満の持ち方がよく理解できない。
 管理職がテキパキ決めるのは確かにいいことですが、管理職にとってどっちでもいい、そんなんあんなの好きなようにしたらいいということもあると思う。そのときはいいように、「良きに計らえ」という上司もいるでしょうし、何も言わない上司もいるでしょう。「じゃあ、こちらの思うようにしていいですか」と聞いて、「いいですよ」と言ったらそれでいいんじゃないかしら。でもね。「でもね」というのがどういう文脈の中で出ているのかよくわからないので、文が読めてないのかもしれません。すみません。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

4,子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致(きわ)めんとすれば泥(なず)まんことを恐る、是(ここ)を以て君子は為さざるなり。

 子夏が言った。「(取るに足りない)小さな技芸の道であっても、見るべき部分はあるものだ。しかし、究極まで極めようとすれば、小さな技芸は邪魔になる。だから、君子はそれをしないのである」。

※浩→「小道」を、道家・法家のような異端の学を指すと古注は解釈しています。しかし、荻生徂徠が指摘するように、子夏の時代はまだ諸子百家の成立以前で、朱子のように「農、医、卜筮(ぼくぜい)」などの技芸を指すと考えるほうがよい、と貝塚先生。子夏の門人の中には、技芸の末にこだわる人が多かったので、注意を与えているのでしょう。「遠きを致めんとすれば泥まん」を、「その技芸をそのままやっていくと泥沼に陥る」と読む説と、「小道」ではなく「大道」つまり究極の知を求める者には「小道」は障害になると読む説があります。吉川先生は前者で、貝塚先生は後者で、解釈が分かれています。悩ましいところです。「大道を歩むには小事にこだわるな」というのも理解できますし、「小事を軽視すると大事を招く」という『老子』のような考えも理解できます。あまり教条的に捉えないで、臨機応変、事態に即して柔軟に考えたいです。
 昨日は、のどかに元日を迎えたと思いきや、夕方には北陸で大地震で、人災ばかりか天災にも油断のならないご時世です。度々引用している「天下の難事は必ず易きより作り、天下の大事は必ず細より作る」を噛みしめて暮らさないといけません。新潟には2016年の、能登には2018年のアドラー心理学会総会で訪れていて、とてもよそ事には思えません。被害の少なからんことを祈る思いでいます。

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人の批判や評価をしないための心構えは?

Q0364
 夫と結婚して30年ほどになります。夫は人の批判や評価をよく口にします。例えば、会社の食堂で人がご飯をつぐ様子を見て、炊飯ジャーの蓋の閉め方がバタンと雑だとか、シャモジにご飯粒をいっぱいつけたままにしているとか。仕事もそんないい加減なことをしているに決まっていると、すべていい加減な人間だと結論づける。(野田:うん、僕もそう思う。)
 最近気がついたことが2つあります。1つ目は、私は夫がよく批判しているようなことはしないと無意識的に心がけていたこと。2つ目は、私自身が人のことを評価の対象として見ることが多くなったこと。夫自身はこれからも変わることはないと思いますが、私自身は夫の話を聞いても、その言葉にむやみに自分の行動を左右されずに、不必要に人の批判や評価をしないでいられるには、どのような心構えがあるでしょうか?

A0364
 なんでこれが問題なのかわからないけど、確かに、雑な暮らしをする人は、雑な仕事をすると私も思います。言うか言わないかは別にして、そのことに気がつくことはいいことだと思いません?だって、夫さんは自分はきっちりした暮らし方をしようと少なくとも思っていらっしゃるわけだし、わざわざそれを聞いてから、私はご飯粒をつけたままシャモジを置いておこうと思う人もいないでしょうし、やめようと思うのもいいことだし、そもそもこれが問題だと、僕は思わない。自分自身は人の批判しないでおこう。批判をするのはいいけど、口にしないでおこうということでしょう。
 というのは、人間はある目標に向かって生きている。目標って何かというと、よいことと悪いことを価値判断をして、そのよいことを目標と言う。人間は価値判断をして生きている。人間はいつも、自分が思う正しいこととか、自分が思う美しいこととか、自分が思うよいことに向かって生きているし、逆に、自分が思う悪いこととか、見にくいこととか、間違ったこととかをしないでおこうと思っている。もしもそれがなかったら、人間は大変不道徳になってしまって、ただ欲望のままに、したいことだけして生きることになってしまうじゃないですか。だからそうやって価値判断があることはいいことだし、別に禁止しなくていいことだと思う。ただ、人に言うかどうかはまた別の問題だと思う。価値判断をやめようと思うのは、あまり意味のない願いで、それを人に向かってむやみに言うのはやめようって思うだけでいいんじゃないですか。
 私は、他人についてとか、自分の境遇についてだとか、悪いところを探してもしょうがないと思っているので、「パセージ」にも書いてあるように、よいとこ探しをしたほうがいいから、「いろいろ問題はあるけど、ここはいいとこね」というのを少なくとも1個は言おうよ。自分もいろいろ問題はあるけど、「ここはできてるよね」って、ポジティブな側を心がけるのがいいことだと思っているので、これどうですか?まあ、ご飯粒つけたまま蓋をバタンと閉めるのはだらしないことかもしれないけど、逆に大らかな人でもあるわけだし、細かいことにこだわらない人だということでもあるし、すべての長所はある種の欠点で、すべての欠点はある種の長所で、みんなポジティブにもネガティブにも読み替えられるわけだから、悪い側だけ見なくていいんじゃないかなと思う。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

3,子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰わく、子夏は何をか云(い)える。対(こた)えて曰わく、子夏曰わく、可なる者はこれに与(くみ)し、その不可なる者はこれを距(こば)めと。子張曰わく、吾が聞ける所に異なり。君子は賢を尊びて衆を容(い)れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむ、我の大賢ならんか、人に於いて何の容れられざる所あらん。我の不賢ならんか、人将(まさ)に我を距まんとす。これを如何(いかん)ぞそれ人を距まんや。

 子夏の門人が、人との交わる心得を子張にたずねた。子張は言った。「子夏は何と言っているのかね?」。子夏の門人はかしこまって答えた。「子夏は、交際していい者とは仲間になるし、交際してはいけない者は拒絶するとおっしゃっています」。子張が言った。「それは私が(これまで)孔先生から聞いた話とは違う。君子は賢者を尊敬するが、同時に多くに人を包容し、善人を賞賛しながら、(善行を行う)能力の足りない者に同情する。仮に自分自身が大賢人であるとするならば、その対人関係は、どこへ行っても不包容ということがあろうか。すべてを包容しすべてから包容される。逆にもし、こちらが不賢者であるならば、相手がまずこちらを拒絶するであろう。こちらから人を拒絶するということが、どうして起ころうか」。

※浩→明けましておめでとうございます。辰年がスタートしました。新年にふさわしく(?)交友関係についての問答です。
 子夏の朋友に対する態度は、孔子の「忠信に主(した)しみ、己れに如(し)かざるものを友とするなかれ」の趣旨に従っていますが、もし人が自分より優れた人を友としようとすると、相手もまた自分より優れた人を友とするでしょうから、その関係は成立しえないことになります。人が内省的で自分への評価が控え目で、他人の長所を見て高く評価する。他人の中に自分より優れた点を見出してその美点を学び、その人を友とするということではじめていわゆる「君子の交わり」が成立すると言えるでしょう。子夏の「可なる者はこれを与し、不可なる者はこれを拒め」という単純な是々非々主義では、友人関係を社会関係として成立することは難しい、と貝塚先生は述べられます。子夏はただ理性的に朋友関係を求める説で、子張は心情に根拠を置いていて、両者の説は対立します。創始者が没して弟子の時代になって学派の対立が生じています。どの思想にもあります。キリスト教も仏教もそうでした。わがアドラー心理学もそうなるのでしょうか。私たちのは創始者アドラーからルドルフ・ドライカース~バーナード・シャルマン~野田俊作先生という流れで学んでいます。ドライカースがアメリカへ亡命して、アメリカ学派ができましたが、ドイツ学派はもっともっとフロイト心理学に近いそうです。アメリカでもドライカースやシャルマンのシカゴとニューヨークは違うそうです。他派はともかく、私たちは野田先生から伝えられた教えを「純正アドラー心理学」としてとらえて学び実践しています。が、他派への寛容さも忘れてはいけないと思います。そうでないと、昨日の「土着思想」に陥っていまいます。フロムの「創造的精神は常に批判的である」というフレーズを忘れないようにしないといけません。

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面白い話ができるには?

 辰年の新年、明けましておめでとうございます。今年も元気に投稿を続けます。スタートは新年にふさわしい「人生を楽しむ」お話です。

Q0363
 面白い話ができるようになるにはどうしたらいいでしょうか?すみません。

A0363
 「すみません」ことはないですが。人生に関心を持つこと。その中で特に「あること」に関心を持つ。関心を持ったことについて学ぶ。子ども時代に学びませんでした?くだらないことを。
 私はいろんなつまらないことを学びました。恐竜さんについて一時学びました。小学校の中学年か高学年かのときに、恐竜の本を1冊親が買ってくれたのか自分で買ったのか、字で書いたものに挿絵も付いていて、恐竜の歴史というか、いつごろできて、どんなのがいてという発達史を書いた本で、ボロボロになるまで何度も読んだ。恐竜についてよく知っている子でした。今はみんな忘れました。そのあと、軍艦について学びました。なぜか、大阪港の南のほうに船を解体する工場があるんです。アメリカの中古品の軍艦がよく売られてきて、解体してたんです。そんなのを小学生のときみんなで見に行っていたので、軍艦てかっこいいよねと思っていた。戦艦大和の写真とか載った本をね。やたら詳しくなって、「日本海軍の船なら全部当てられる」と。みな忘れましたけど。その都度その都度いろんなものに凝って、「何でも聞いて」になるんです。このあいだまで沢登りに凝ってて、「山の中での登山技術なら、ロープ使って山に登る方法なら……」と言っていた。みな忘れましたが。そのあと釣りに凝って、「ブラックバスを釣る方法なら、汚い手、きれいな手、何でも知ってますよ」となって、これも忘れて、今はチベット仏教に凝って、こうやって一生暮らすんです。
 だから、いつも夢中になれるものを1つ持っていることです。夢中になれるものがあれば、それは自然に面白い話になるんです。他人にとっては面白くないんだけど、話をしているとある人たちは聞いてくれます。それで十分。別に吉本の芸人になるわけではないから、相手を面白がらせるという視点で考えないで、自分が面白がるというところから始めてほしいんです。だから、自分が夢中になって面白がれるものを探してください。そうすれば、その話は、ある人にとっては面白く、ある人にとっては面白くないでしょう。それでいいです。そういうもんです。(回答・野田俊作先生)

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