Q
私は関西に引っ越して1年たちました。『アドラー心理学トーキングセミナー』を読みました。私は10年、20年前、精神的ショックで何となくずっと自分は価値がないと思い続けていました。本を読み、人は思い込みから自由になれないというところが自分にぴったりだと思い、ずっと自分に恥じているところも自分のことを書かれているようでびっくりしました。こんな私が赤ちゃんを産んだら、きっとその子は不幸になるような気がして、一生子どもなんか産めないと思います。どうして妊婦さんはあんなに自信ありげに歩けるのかと思うと、すごく羨ましくもありショックでもあります。引っ越しにめげて、心療内科ににときどき行っているのですが、先生はこちらに来て10人以上も友だちができたそうで、私を見て、「何言っているんですか。あなた、たくさんの友人もできて価値がないなんてことありません」と言います。それでも何となく私が自分を否定しているのを見て、先生も最後に「そんなに価値がないと言うんだったら証拠を見せなさい」と怒りだしました(野田:怖い先生ですね)。私は先生に対して信頼と不安を同時に持って常に接しているんです。また白衣に対して恐怖感を感じてしまうんです。病院にいて先生はすごく誠実に話をしてくださるんですが、絶えず安心と不安を同時に持ってしまいます。眠れなくなりました。なんで病院に行っているのかわからなくなりました。その先生に「アドラー心理学の本がある」と勧められました。その緊張状態は、私と先生の相性が悪いのでしょうか?私の考え方がちょっと違う方向に行っているんでしょうか?病院を替えたほうがいいのでしょうか?
A
あのー、私は自分のことが好きなんです。でもこれは実は妄想なんです。誇大妄想。間違いなんです。ほんとは自分のことを恥じるべきで、嫌いになって罰するべきかもしれないんです。別に嫌いになって罰してもいいんです。それも妄想なんです。間違いなんです。いいですか?私が自分のことを好きであろうと嫌いであろうと、恥じていようと誇りに思っていようと、全部思い込みなんですよ。全部大した根拠はないんです。私、自分のこと好きなんですよ。この先生がもし、「自分のことが好き?それはいけませんね。あなた自分のことが好きな証拠を持ってきなさい」と言っても、証拠なんかないんです。ただ私が勝手に思い込んでいるだけなんです。嫌いなのも同様に私が思い込んでいるだけなんです。この方もだから妄想に凝り固まっているんです。人間はどんな種類の妄想でも持てます。どれも全部根拠はないから。みんな嘘だから。だから、都合のいい妄想を持ったらどう?今の妄想はなぜそんなにしっくりと自然に持ててるか?自分を恥じるとか、自分を罰するとか、自分を嫌いというのは、しっくりと自然に自分に馴染んでいるんです。なんでそんなにしっくり自然に馴染んでいるかというと、お稽古をしたからです。私がアドラー心理学をお勉強するきっかけは、私の先生のバーナード・シャルマンという人が、統合失調症についての本を書いたんです。その本を読んですごく感動したのは、統合失調症者はどうして統合失調症者かというと、小さいときから統合失調症者になるお稽古をしたからだ、と書いてある。おー、すごい!あれはお稽古のせいで、ついに18歳ごろにお稽古が結実して、立派に妄想が出てくる、幻聴が聞こえるんだ、と言うから、おー!これはすごい発想です。それまでは統合失調症という病気が外から来てかどこから来てかは知らんけど、患者さんに取り憑いて、患者さんは被害者で病気が加害者だと思ったんだけど、その本を読んでから、「あれは患者さんが発明したんだ。しかも長い鍛錬の結果ついに身につけた行動なんだ。だからあまり身についているから、患者さん本人にとってはまったく自然なんだ」とわかったんです。それであんまり面白い考え方だから、ひとつアドラー心理学をきっちり勉強してみようと思った。この方も、自己嫌悪というか自分を恥じる心を20年とか30年とかお稽古なさったんですね。だからすごく上手に身についてんですね。上手に身についたけど、この人にとっては自然だけど、でもやっぱり妄想なんですよ。お稽古の結果身についたもんなんです。それは今度また違うお稽古を始めると、結局取れるんです。取れるんですが、違うお稽古を始めた最初のころって大変なんです。そんな体験したことないですか?私あります。合気道というのを習ったことがあるんです。師範が言うんです。「自然に歩くことだ」と。自然に立ち、自然に座り、自然に歩く。「わかりました。歩きます」と歩くと、「お前のは全然自然じゃない」と言うんです。「でも歩いてますよ」「それが全然自然じゃないのだ。このように歩くのだ」と言われて、そのとおり歩いたらすごく不自然なんです。師範の言うとおりに座ったらすごく窮屈なんです。それはそうなんです。今まで不自然な座り方とか歩き方とかが身についているから、それを矯正されたときはすごく変な感じなんです。体全体にね。こんなおかしなことをしていていいのかなと思うけど、でもまあそれでもしばらくやってるんです。半年か1年すると変わるんです、自分の姿勢全部ね。それでもう少し合気道ふうに歩いたり座ったりできるんですね。それまでの期間、すごく不自然だしおかしいんです。何か体が嘘を言っているみたいで、肩も凝るし腰も痛いしどうなんだろうって思います。で、心の問題だってそうなんで、自分を好きだとか、人にはそんなこと言えないけど実は天才なんだよとか、なんて素敵な私なんだろうと鏡を見るたびにナルちゃんになっちゃって、まあなんて素敵なんだろうと思ったりしても、これは嘘だって一方で囁いちゃうし、不自然だしイヤな感じなんです。お稽古だって割り切って自分のカラダを褒めてほしい。この人女性でしょうね、きっと。女性だったら、カラダを受け入れることを最初にしてほしい。男性もそうなんですけどね。顔を受け入れるのは難しいんです。いろいろ注文が多いんです。人間って顔を見分ける力、識別、認知力、細かい特徴まで見分ける力が強いでしょう。だから自分の顔だって、細かいところまで気にしちゃうんです。誰も見てないようなところ。だから、首から下のいいところを探して、そこを素敵だなと思うお稽古をしてほしいんです。それから毎日毎日の一日に自分のやったいいこと、建設的なこととか、他の人への貢献的なこととか、進歩したこととか努力して工夫したこととか、いいことを日記に書いてほしい。日記というのは、自分がどんなに素晴らしい人か、なんて素敵な人かを書くためにある。ニーチェが『この人を見よ』という一種の日記を書いていますが、「私はなぜこんないい文章を書くのか」とか「私はどうしてこんなに頭がいいのか」という題で、自分がどんなに頭がいいか書いている。彼はすごく劣等感の強い人だったから、そうやって自分を受け入れるお稽古をしていました。われわれもやったらいいです。人に見せないですから。「自分はOKだ」という練習を、まあ半年間しっかりやってください。そしたらそっちのほうが自然になっていくから。だって、そのほうが結局やってみると住み心地がいいんです。やるまでは「そんなバカな」と思うけど、まあ初めの数日なんかすごい抵抗があるけど、そこを乗り越えるとだんだん身につきますから。(回答・野田俊作先生)
Q
小学校4年生の男の子がいます。仲良しの友だちと塾へ行っていますが、2人とも基本的には勉強が嫌いなので、いつでもやめたいと思っています。しかしお友だちのお母さんが普通のお母さん、つまりアドラーママじゃないので(野田:そうか、アドラーママは普通じゃないお母さんなんだ)、「勉強をちっともしないんだから塾は絶対やめたらダメ」とその子が言われているので、うちの息子も彼につきあって毎週通っています。2人ともブツブツ言いながらやめずに今まで続いていますが、その子の母親をアドラーに改造しようというのは、2人の子にとって良くないことでしょうか?
A
良いことなんですけど、改造されないでしょうね、きっと。多くの日本中の全お母さんをアドラーに改造したいものだと私は思っているんですけど、向こうは商品を買わないんですよ。で、押し売りをすると結局ダメなんです。アドラーを押し売りしたことはないですが、学校の先生なんかが変にカウンセリングかなんか勉強して、(学校の先生がカウンセリングを勉強する運動に反対しようと思っているんですが)、望んでないお母さんに、自分で学んだことの押しつけをやるんです。そうするとお母さんはいっそう意固地になって違うことをやったり、あるいは望んでないけど先生に脅されてその方向でやったら、変な中途半端な育児になったりして、かえって具合が悪いように思うんです。アドラー心理学の押し売りをすれば、「あなたの息子さんは、あなたが今アドラーを学んでおかないと、将来きっと非行少年か精神病者になるでしょう」くらいのことを言うて押し売りすれば売れるでしょうけれど、そういう姿勢で学ばれてもあまり身につかないでしょう。身についても中途半端な身につき方をするから、変な母親になるだろうと思う。子どもを殴る親がいるでしょう。「あんたバカね、バチーン」と。それが変に心理学を勉強すると、殴ろうと思ったときに、心理学が止めるんです。「子どもを殴ってはいけない」と。手を振り上げて、子どもを殴ってはいけないと思う。子どものほうは殴られると思っているのに、お母さんの手が止まってしまうんです。子どもにはすごく不気味です。なんで止まっちゃっているんだろうと思うでしょう。その母親は、昔殴っていた母親よりも子どもにとってはもっと扱いにくい。それだったら、いっそ殴ってくれるほうが、私としてもいいと思う。徹底的にアドラーやって、「今までの育児を全部やめます、罰するのをやめます」だと、これはベストなんです。その次に良いのは子どもを殴っている母親で、殴るのやら殴らないのやらわからん中途半端に止まっている、時には殴り時には殴らんとか、殴ろうと思って止まって、怒りながら口先だけ「ごめんね」というようなややこしいコミュニケーションはやめてほしい。そんなことになりそうに思う。もしもどうしてもアドラーの宣伝をしたかったら、お宅の坊ちゃんとしっかりつきあうしか手がないと思う。ブツブツ言いながら塾へ行くとか、友だちが行っているんだから僕も一緒に行ってあげようとかいうのはすごく良いことだと思う。子どもを快適な環境で、快不快の「快」ね、快適な環境で暮らさせようと思ってない、アドラー心理学は。一生にはつらいことがいっぱいあるだろうと思う。僕たちが子どもたちをすごく快適な環境で暮らさせたら、つらいことを乗り越える力がなくなるじゃないですか。だから、塾イヤで学校イヤで先生嫌いというのは、子どもを鍛えて強くするのに良いチャンスです。この子はそれに耐えてくれているから、その耐えてくれていることを勇気づけしたい。「塾嫌いなのに毎日よく行くね。すごい感心しちゃう」と言ってあげたい。「あなた見てるとすごく頼もしいと思うし、あなたのことを誇りに思う」って言ってあげたい。そうすると子どもはもう少し気軽に塾へ行けます。バックアップがあるから、精神的な。そうやって子どもとの関係がほんとの意味で良くなっていけば、お友だちのお母さんも、「あんたとこうまいこと躾けてるね。どうやったらああなるの?」と聞きに来るから、そしたら「実はね…」ってこう教えられます。実績を見せないと、口先だけで「アドラーを」と言っていても、自分の息子とまだちゃんとできてないように思うんです、この話を聞いていて。「スポック博士の育児書」だとか「親業」だとかがアドラーと違う1つの点は、子どもを楽にしてやろうと思っているところです。もちろん僕らは子どもを苦しめようとは思っていない。苦しめようと思わなくても、この世には苦しいことつらいことがいっぱいあります。昨日まで幸せに暮らしていたのに、突然地震が来てみな潰れる世の中なんです。そのときに人間のほうが潰れるか潰れないかは、人間の強さによるでしょう。今までに全然つらい目に遭ってこなかった人は潰れますね。赤ちゃんが生まれて、赤ちゃんをつらい目に遭わさないために保育器で育てます。快適な温度で、お腹が減ったらスッとミルクが出てきて、おしめが濡れたらすぐロボットが取り替えてくれて、何もしないで20歳まで育ったら、その人はどんな人になっていると思う?植物人間でしょう。何にもできない人になっています。僕たちが成長して賢くなっていって強くなっていくのはどうしてかというと、赤ちゃんの状況というのはつらいんですよ、大人の状況よりも。だって自分でおしめ替えられないし、自分でお腹いっぱいにならないでしょう。つらいもんだから、何とか大きくなってお父さんお母さんみたいに歩けて、自分でご飯食べられて自分でトイレ行きたいと願うわけです。子どもには劣等感があるわけです。その劣等感を克服する力でもって賢くなっていく。子どもを快適にしちゃうと劣等感が小さくなって、それを克服しなくてよくなるから成長しなくなります。今塾へ行くのはすごく大変だと思うけど、こんなのはチャンスなんです。子どもが成長するチャンスですから、たくさん勇気づけてあげてほしい。お勉強することも大事ですけど、友だちと一緒にいることもすごく大事です。友だちがつらいときに一緒につらい目に遭ってあげるというのがほんとの友だちで、雨の日の友だちがほんとの友だちで、晴れて天気の良いときには誰でも一緒にいられますが、つらくなったときに一緒にいないと何にもならない。遠藤周作さんの「沈黙」というものすごい怖い小説があります。読むと夜寝られなくなる。キリシタン迫害の話です。そこに1人のキリシタンの男の人が出てきます。この人はすごく心の弱い人で、主人公のポルトガル人の神父さんを何度も何度も何度も裏切るんです。「俺だってキリシタンが認められて迫害されていないときだったら良い信者でいられて、ちゃんと天国まで行けただろう。今みたいに迫害されているから裏切らないとしょうがない」と言うんです。でも僕は思う。天気の良いときに、国がキリスト教を認めているときキリスト教徒でいられる人は、ほんとのキリスト教徒かどうかわからないので、キリスト教徒か死ぬかどっちか選ぶ、生き残りたかったらキリスト教をやめる、キリスト教でいるなら死ぬという状況でキリスト教徒でいる人はキリスト教徒だと思うんです。これは別に踏み絵もないし死刑もないですが、友だちが苦しい目に遭っているときに自分だけ逃げ出して、自分は楽をしようというのは友だちじゃなくて、苦しいのに一緒にいるのはほんとに良い友だちですから、「あんたすごい良い友だちよね。尊敬できる」と言ってあげないといけない。で、子どもがどれだけちゃんと大人になれるかというのは、勇気づけの力による。勇気づけが褒めるのと違うのは、子どもがつらがっているとき苦しんでいるときに勇気づけできる。そのときこそ勇気づけしないといけない。子どもが喜んでいるとき、学校で良い点を取ったとか、お友だちと楽しく遊べているときは、別に勇気づけしなくていいんです。もうそのことで勇気づけられているから。子どもの点数がすごく悪かったとか、お勉強嫌いなのにやっているとか、子どもの気分の悪いとき、これが勇気づけをしてあげる場面なんですよ。だから工夫していつも勇気づけしてあげてください。(回答・野田俊作先生)
Q
17歳の息子のことです。中2の3学期より不登校で、高校へも行かず3年目です。出かけるところは本屋とローソンと映画をたまに観に行くくらいで昼夜逆転してます。友だちはいません。「ずーっとこの家でこのままでいるつもりはない」と言います。母親として、将来どうなるのだろうかと思うこともありますが、家にいることに何の違和感もなく普通の生活をしています。
A
まあ、もうちょっと何かしてあげたいと私は思います。もしこんな子がうちにいたらね。人間関係、この世と人間のつきあい方は、4つのレベルがあると思います。第1番目は「遊び」。第二番目が「仕事」です。3番目が「友だち」で4番目が「愛」です。この子は今、遊びのレベルであまりうまくいかない。そうなると友だちもできない。遊べない人は仕事ができない。恋人もできない。結婚もできない。今彼にやってあげられることは「遊びなさい」と言うこと。せっかく若いんだし、学校行かなくていいんだし、親はしばらく、5年でも10年でも養ってあげようと思う。その間できるだけ思いっきり遊んでほしい。何でもいいから遊びを見つけて、やってごらんなさいよ。オートバイで走りまわるのもいいし、テント担いで日本一周するのもいいし、山に登るのもいいし、映画を片っ端から観まくるのもいいし、いろんな種類の雑誌をいっぱい読むのもいいし、何かのコレクションをしてみるのもいいし、何でもいいからやってみたいことをやってみるなら、親というよりは経済的なパトロンとしてバックアップしてあげるから、「遊んだらどう?」という助言をする。学校のこととか仕事のこととかはしばらく考えないほうがいいだろう。遊んでいるうちに思いつくことがいっぱいある。出会いがいっぱいあるから。そこからきっと未来が開けてくると思うよって、私だったら言います。この子もきっと考えている。中学生くらいから不登校やって高校行かなくてうちにいると、いっぱい考えるんです。いつも考えは保守的です。考えは自分を消極的な場所へ縛るための道具です。考えれば考えるほど動けなくなる。どうやったら動けるか?動いたら動ける。動くのも難しいほうへ動くとしんどいから、できるだけ安易なほうへ動くといい。遊びというのは動きやすい。仕事をするという動きよりも友だちを作るという動きよりも、自分の一番好きな趣味道楽にのめり込むというのは動きやすい。動くとい考えないんです。動くとチャンスが広がるんです。ですから、まずまず遊んでごらんね。音楽やるのもよかろうし、絵を描くのもよかろうし、この子が遊びだと思うものにいっぺん入れ込んでみたらどうでしょう。(回答・野田俊作先生)
Q
最近アルバイトを始めましたが、その職場に近所の人も勤めていました。その方ととは別に仲が悪いわけでもなく仲が良いわけでもなく、今までおつきあいはほとんどなったのですが、何となく気詰まりです。ご近所の関わりと職場でも関わりは別なのかと考えるほうが無難かなといろいろ考えてしまいます。仕事自身は楽しくやっているんです。
A
考えるというのは、頭の中でいろいろ考えるでしょう。何のために考えるかというと、大体人間はマイナス向きに考えるんです。そもそも「考えの役割」がそうなんです。何か新しいことを始めるとか一歩踏み出すとか、違う展開に持って行くとかのためには考えないので、保守的に今までのやり方を続けるとか、元に戻るとか、逃げるとかのために考えるんです。それが悪いとは言わないのですが、考えるという人間の心の働きの役割は、大体保守的なんです。逆に、感情というのはある場合には大変革命的です。結婚なんてそうです。結婚なんて、理性的に考えたらできないよ。どう考えても。1人の女の人と結婚したら、残りの女の人全部ダメなんでしょう。どんなにおっぱいが大きくてウエスト細くても、子どもの2,3人も産んでごらんよ。全部垂れ下がってウエスト太くなるに決まっている。若い男の子がじっくりと冷静に考えれば、絶対に結婚できない。それを恋愛だとかで目がくらんで、感情でもってついうっかり結婚する。それで人間は今日まで種族を保存してきたわけじゃないですか。いつも感情的なこととそれから理性的なこととが、車の両輪のようにバランスを取っているんです。ここで、近所の人と職場が一緒になってイヤだなと考え始めると、きっと消極的な結論になって、例えば仕事を辞めるとか、その人とお友だちにならないようにするとかいうふうにいくに決まっている。だから、考えるという力をつまらない使い方をしていると思う。別に考えなくてもいいんじゃない?なるようにしかならないから。なるようにしかならないのを、皆さん方はどうやって考えるんでしょう?僕はあまり消極的に考えたくないので、神様仏様のお計らいだと思うことにしているんです。僕は神も仏も実は信じてないんですけど、神様仏様のお計らいだと思うと、何となく自分で自分を説得できるんです。ああそうなんだと。近所の人と同じ職場に勤めたのは、これは神様仏様のお計らいなんだ、これはきっといいことなんだ、ここでこうやって働いていると自分のお勉強になるとか、成長するとか、お友だちが増えるとか、何か得することがあるからこういうことになっているはずだから、ひとつどんな得するかを見てみようと思う。そうしたらあまり臆病にならないで勇気を持って新しい状況に入っていけるんです、私の場合は。この質問をされた方が、「これも神様仏様のお計らいなんだ」と思うと元気になるかどうかわかりません。でも、自分が自己勇気づけをして元気になって、新しいことを引き受けていくほうが、きっと面白いことが起こっていくと思います。この方が歳いくつか知りませんが、歳を取ると新しいことを始めるのが億劫になるんです。何となくやってて今まで暮らしてこられたんだから、別に今更やったことのないことを始めなくてもいいんじゃないかって思います。そんなことをしたらボケますよ。いつも新しいことに挑戦したほうがいいし、それから危険(リスク)を引き受けていったほうがいい。勇気づけの「勇気」とは何かというと、危険(リスク)を引き受けるということで、賭けをしてみることで、絶対安全路線をとらないことね。安全確実有利というのは進歩もないし喜びもないから、この人といっぺんつきあってみてくださいな。そしたら、すごくイヤなことが起こるかもしれない。何しろ賭けですから。損することもあるんです。でもたぶんいいことのほうが起こりそうに思います。だから初めから臆病になってたくさん考えないでね。考えは臆病のしるしです。(回答・野田俊作先生)
Q
実の母親と同居しています。姑となら「心にもない優しい言葉がけ」ができるのに、実母は毎日の姿を見てイヤになります(野田:そうでしょう)。勤めから帰り玄関を開けただけで、至るところに母親の介入が目につきムカッとします。夫婦喧嘩にも割り込んでくるし、イライラすることばかりです。別居をしようと夫に言いますが、「自分にとっては良い親だし、子どもを思ってのことだから感謝せよ。わがままだ」と言われて、それなら独り暮らしをしようと私だけ家探しをしています(野田:過激やなあ)。
A
実のお母さん、お父さんもそうですが、実の親はこの世で一番難しい相手で、この人と付き合えるようになると、あと夫婦円満、子どもともOK、孫ともOKで、とても良い自分の老後が保障できますから、だから課題が難しいからと投げ出さないほうがいいと思う。せっかくこれだけ難しい問題があるんだったら、ちょっとチャレンジして何とか解いてみたらどうでしょう。「心にもない優しい言葉がけ」がなぜできないか?あれは要するに口先だけですから、口というのは要するに「あー」とか「いー」とか「うー」とか動くだけで、それでもって「ありがとうねー」とか「いつもすみませんねー」と言えばいいだけで、お腹の中で「べー」って舌を出していていいですから、できるはずでしょう。できるはずなのになぜできないかというと、それは権力闘争で、人間関係がどっちが上でどっちが下か、どっちが正しくてどっちが間違っているか、どっちがボスでどっちが家来かを決めようというルールで動いているからです。家族関係の中で、正しいとか正しくないとか、上とか下とか、筋が通っているとか通ってないとか、新しいとか古いとか、競争してもしょうがないのと違う?それよりも、協力できる準備を何かしていったほうがいいと思う。そのために最初にしないといけないことは何かというと、「負ける勇気を持つこと」ですね。だから、お母さんに負けます。負けると向こうはつけあがってますますひどくなるかというと、ならないんです。なんでならないか?今さかんに介入してきたりいろいろするのは、向こうも権力闘争に入っているわけです。こっちが入っているから。こっちが「余計なお世話よ!」と言うから、「ここで引っ込んだら私の負けよ。娘がわかるまで絶対言おう」と決心しているからいっぱい言いつのる。こっちが「ありがとう、そうしてみる」と、せんでよろしいから、口先だけ言えば、あっちもおとなしくなります。権力闘争に入っているだとまずわかってください。権力闘争から降りる方法は、1つしかない。負けるという最も悔しい方法です。こっちが負けると、向こうも「私が悪かった」ときっと思ってくれます。思うまでの期間がちょっとつらい。あっちは「最近おとなしいけど、これは作戦だな」としばらく思います。ちょっとの間辛抱しないといけないけど、人間関係って面白いので、自動車のギアチェンジみたいにあるとき切り替わるんです。切り替わったら切り替わったまんまなんです。悪い人間関係から良い人間関係に切り替わったら、あとは良い人間関係が続きますから、切り替わる途中だけちょっとだけ努力してください。悔しいでしょう、自分から折れるとか優しい言葉をかけるとか感謝するとかはすごく悔しいんです。でも、お母さんのほうも、助言しないで引っ込むとか、娘に世話してもらっているのに感謝するとかするのはきっと同じように悔しいんですよ。こちらが変わるのは悔しいのと同じように、向こうも変わるのが悔しいんです。親に悔しい目をさせたらいけない。親不孝だぜ。まず自分が悔しい目をしてあげたら、向こうも悔しい目をしてくれるでしょう。(回答・野田俊作先生)