MENU
63,610

論語でジャーナル

10,孔子曰く、君子に九思あり。視ることは明を思い、聴くことは聡を思い、色は温を思い、貌(かたち)は恭を思い、言(ことば)は忠を思い、事は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿(いかり)には難を思い、得るを見ては義を思う。

 孔子先生が言われた。「君子には九つ考え方がある。見るときははっきり見たいと考える。聞くときにははっきりと聞きたいと考える。顔つきは温和でありたいと考える。態度は恭しくありたいと考える。言葉は誠実でありたいと考える。仕事は慎重にやりたいと考える。疑わしいことには問い糾したいと考える。怒りにはのちのちのの困難を考える。利益を前にしては取るべき筋合いかどうかと考える」。

※浩→最も箇条書き的な条です。君子の徳目を「九思」という形でまとめたもので、君子たる者がどのようなふるまいや態度を取るべきなのかを直感的にイメージすることができます。
 日本語の「思う」は漠然としていて、「思考」「意志・欲望」「感情」などをすべて「思う」で表現されます。そのためか、常々感情表現が適切でなく、思考を述べることが多いのは周知のことです。英語では「考える」はthinkで、「したい・欲する」はwantやwould like to~で、「感じる」はfeelとはっきり使い分けています。中国語も「思」は「考える」「反省する」「思索する」に限定して用いられる。ここでは、生活の習慣に則して考慮することで、行動の前に、行動しつつ、また行動のあとで「どうだかな?」と考えてみることを指しています。以上は貝塚先生の解説によります。
 日本語で「思います」が乱発されているように“思い”ます。例えば、企業の代表者が会見で謝るような場合、「申し訳ございませんでした。心からお詫び申しあげます」と言えば、きちんと謝っています。こう言わないで、ほとんどの人が「心からお詫び申しあげたいと思います」と言っています。それを聞くたびに強い違和感を覚えます。記者が、「お詫び申しあげたいとお思い(お考え)なんですか。じゃあ、お詫びしてください」と詰めることもありません。「お詫び申しあげます」と「お詫び申しあげたいと思います」は、はっきり意味が違います。「申しあげたい」は「未来への意志」で、まだ未完ですし、「と思います」は精神内界の「思考」で、まだ実行されていないです。お料理番組でも、リポーターがおいしいものを口に近づけて、「では、いただいてみたいと思います」と、同じような言い方をしています。それを見ながら、「じゃあ、食えよ!」と叫んいます。これも、「では、いただきます」と言い切ればいいのに。小さいことが気になる僕の悪い癖です。あれ?(笑)。

引用して返信編集・削除(未編集)

感情とは?

Q0309
 感情とはいったい何でしょう。無意識と関係あるでしょうか?

A0309
 感情とは自律神経の反応です。「怒り」って何か。脈がどきどきして、頭がのぼせて汗が出て、筋肉がこわばることでしょう。感情は心のものじゃなくて体のものだと思う。体の「ある反応」のことです。
 その体の反応は何をしようとしているか。アドラーは2つの目的があると言った。1つはそれで他人を動かそうとしている。怒りを使って人を支配しようとしているとか、不安を使って人にやさしくしてもらおうとしているとか、憂鬱を使って仕事をさぼって、みんなに許してもらおうとしているとか、他人を動かそうとしている。もう1つは、自分が動くためのかけ声。腹が立つので「クソー、バカたれ!」と言って、何かある行動、例えば離婚に踏み切るとか、冷静だとなかなかエネルギーが出ないことに、「エイ!」というかけ声の代わりに感情を使う。
 感情はそういう意味では合理的です。目的のために作り出されて使われている点では合理的です。ただ人間は愚かですから、ときどき目的を見誤っている場合がある。子どもに「勉強しなさい」と言って、「勉強なんかしない」「何!どうして親の言うことを聞かないの!勉強しなさい!勉強しなさい!」「絶対勉強なんかするか!」と喧嘩しているときに、やがて勉強なんかどうでもよくなる。子どもを従わせる、子どもに言うことを聞かせることが目的になる。「昨日子どもと大喧嘩したのよ」「テーマは何?」「何だったかねえ…」。夫婦喧嘩もそう。「昨日すごい喧嘩をして、私が鰺のフライを投げたら向こうはお皿を投げようとしたから、お皿やめて、割れるからと言ったら、向こうもしょうがないからその辺にあったマヨネーズを投げた」「結局なんで喧嘩をしたの?」「さあ何だったんだろうねえ…」。あれは途中で目標を見失っている。何の話かわからないけど初め合理的な目標があった。喧嘩が始まったとたんに勝つという目標に変わった。何でもいいから相手を屈服させる。初めの本来の合理的な目標は飛んじゃった。勝つという目標に向かって感情がさかんに使われたから、その点では合理的なんです。勝つという目標自体に向かっているという点では。でもそこで勝たなくていい。
 喧嘩した人にたずねるんです。「何が決まった?」と。夫婦喧嘩なんかほとんど何も決まっていない。どっちが勝ちか決まった。だいたい女の勝ちです。女のほうが汚い手が使えるから。泣くとか、ヒステリックになってわけがわからなくなるとか、「元の20歳に返して!」と叫ぶとかいう手が使える。男は泣くのはもひとつでしょう。「元の25に返して」も不細工でしょう。使えるレパートリーが少ない。殴ると負け。女性を殴ると殴った男も「しまった」と思う。殴らんといかん女房もいるけど、殴ったら、プロレスの反則と同じで、あと言いつのられるから。「うちの亭主はすぐ手を出す」とか。友だちみんなに電話をかけまくって、実家へも電話かけまくって言いまくるから負け。それくらいしか思いつかないほど、男は使える手が制限されている。男が友だちに電話して「女房と喧嘩して…」と言えないでしょう。使える手が制限されているから、だいたい女の勝ちです。
 でもそこで勝っても意味がない。何かを取り決めることが大事です。ときどき結果的に不合理に動くことはあります。でも、さしあたっての目的に向かっては、常に感情は合理的だと思っています。(回答・野田俊作先生)

引用して返信編集・削除(未編集)

論語でジャーナル

9,孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知るものは次ぎなり。困(くるし)みてこれを学ぶは又た其の次ぎなり。困みて而も学ばざるは、民にして斯(こ)れを下(しも)と為す。

 孔先生が言われた。「生まれながらにして知性豊かなる者は最上の人間である。学問をして知性を備える者はその次である。(生活に困難を感じて)学問をして知性を備える者は、それはその次である。生活に障害を感じながら学問をしない者、それは凡民であって、それこそ最下の人間である。

※浩→孔子は、天才の存在を認め、それを尊重する態度があったのでしょう。このあとの篇「陽貨篇」に「上知と下愚は移らず」とある「上知」がそれです。孔子自身は、「述而篇」で「我は生まれながらにして之を知る者にあらず」と謙遜しています。
 「学んで之を知る者」は、学問をすることに障害を感じない人間を言います。「困しみて之を学ぶ者」は、学問に対する興味を本来は持っていなくて、「困」つまり生活に困難を感じて、初めて学問におもむく者のことです。アドラー心理学を学び実践する人の多くは、子どもの不登校や問題行動がキッカケで、育児講座や野田先生の講演を聞いたりしたことからスタートしています。そういう人の中から、やがて、育児講座のリーダーやさらに学んでカウンセラーになられた人も多くいらっしゃいます。私の場合は、授業で心理学のパートをやっているとき、ある女子生徒が、「うちのお母さんがアドラー心理学というのをやっていて、本とか講演会の録音テープとかがあるので、貸してあげようか」と言ってくれたのに、即「お願い」と頼んだことがキッカケです。そのころ、岡山市内の蓮昌寺で毎月、野田先生のオープンカウンセリングが行われていて、毎回、かぶりつきで見学しました。それほど生活に困難を感じてはいませんでしたが、不思議な魅力に取り憑かれたようです。ところで、現在、毎月2回も開いているT工業高校の「研修会」にはかなり多くの先生方が参加されていますが、2018年の開講以来、一度も参加されない先生もたくさんいらっしゃいます。そういう方とはご縁がないのですね。
 古代中国の春秋時代は、封建主義的な身分制が絶対と考えられていた時代で、一般の人民が学問や書籍に接することのできる機会はほとんどありませんでした。そのため、孔子は一般庶民は志学の精神を持つことが不可能と考えていた節がありますが、これは春秋時代に生きた孔子の認識のある種の限界を示したものと言えます。儒学は学問によって人間性を陶冶し知性を高めることを重視していましたが、この条では大衆蔑視的なところが見られます。これは古代という時代の制約です。孔子は最も学問に適性のない人以外はやはり「教育の機会」によって変われると信じていた人でもありました。それでも地元・岡山には閑谷学校と言って、藩主が庶民のために創建した学校があります。これは誇らしいです。

引用して返信編集・削除(未編集)

親の無気力の子どもへの影響

Q0308
 親の無気力は子どもにどういう影響を与えるでしょうか?明るい親と暗い親で与える影響はどう違いますか?

A0308
 親の無気力は子どものモデルになります。親は子どものモデルですから、親がやったようにするか、親のようにしないかどちらかです。だから、親みたいな無気力がいいと思えば親のようになるし、あんな親のようには絶対なるまいと思ったら、これは活発になります。
 親の影響であれきょうだいの影響であれ、それが子どものライフスタイルを決定するわけではない。子どもはそういう無気力な親という試練に直面して、どうするか態度決定する。親が何もしてくれないから、全部自分でする人になるかもしれないし、親が何もしないから一緒に寝ている人になるかもしれない。子どもの態度決定で決まる。別に親は無気力でもいい子に育つかもしれない。まあ無気力でないほうがいいけど。(回答・野田俊作先生)

引用して返信編集・削除(未編集)

論語でジャーナル

8,孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮(あなど)る。

 先生が言われた、「君子には三種の敬虔さが要求される。天命に対して敬虔であり、大人(たいじん)に対して敬虔であり、聖人の言葉に対して敬虔であるということである。小人は天命を解しないのでこれに敬虔でなく、大人(たいじん)に馴れ馴れしくずうずうしくなり、聖人の言葉を軽視する」。

※浩→「畏」はここでは「恐怖」でなく「敬虔の情をもって対すること」です。的確には、敬虔の感情を伴った「憚りの意識」と、貝塚先生。
 第一は、「天命」に対して敬虔。この世界には、合理的な法則が流れていて、それは合理的であるゆえに統一を保ち、人間にとって可解です。その意味では天の与える使命として理解されます。それとともに、人間の世界には、統一した法則からはずれたような、不可解なことがらが起こるが、それをも結局、人間は天の与えるものとして受け取る。その意味では天の与える運命です。それらを総合した観念が天命です。君子はまず、こうした「天命」を意識して、それに対して敬虔でなければならない。
 第二は「大人」に対して、第三は「聖人の言」に対して敬虔にということです。「大人」は『易経』にはよく出る言葉だそうですが、『論語』ではここだけに登場します。解釈は二通りあって、古注は「優れた道徳者」、新注は「高位の人」だそうです。
 君子が上のようであるのに対して、小人はその逆です。天命を意識しないから、それに対して敬虔でなく、大人に対しても馴れ馴れしくぞんざいな態度をとり、聖人の教えを侮辱します。以上は吉川先生の解説です。貝塚先生は、現代の支配者を批判されます。すなわち、日本人は無宗教であると言われる。そのことは、人間を超越するものを信ぜず、敬虔の感情を持たないということである。中国のかつての支配者は、天に対して敬虔であった。西洋の支配者は神に対して敬虔であった。日本の現代の支配者は自分より強い権力者は恐れるが、私(貝塚先生)はこういう権力者の感情と行動とに対してあわれみを感じる。
 貝塚先生、鋭いです。「天皇」とか「天子」とかは中国の天命思想にもとづく敬称ですが、現代ではスピリチュアルな面がすっかり廃れてしまいました。今や皇室は芸能人なみにメディアや国民によって扱われているようです。他の国々では、その国古来の文化が若者たちによってもしっかり継承されているのに、この国では「古典芸能」などはごく一部の人に受け入れられているだけで、お芝居も歌もまるで「国籍不明」です。第一、歌なんかスピードが速すぎて、歌詞を理解することすら困難な有様です。そして、いくら流行しても、3か月か半年もすればすでに忘れ去られています。「ユーエスエー!カモンベイビー、アメリカ──」があれほどヒットしたのに、今はまったく耳にしません。あれは、コロナ前でした。

引用して返信編集・削除(未編集)
合計663件 (投稿657, 返信6)

ロケットBBS

Page Top