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論語でジャーナル

14,子游曰わく、喪は哀を致して止(や)む。

 子游が言った。「喪(も)は悲哀の情を十分に尽くせばそれでよろしい」。

※浩→「喪」は、親族の死にあったときの儀礼・心理を言う。「致」は「究極」。
 古注では、悲しみのあまりまったく絶食して、自分の生命まで危なくするのは行き過ぎだとします。新注では、悲哀の情が大切で無用の装飾を加える必要はないと。子遊学派も礼を重んじるので、細部にこだわる桂婚があったので、それを戒めたのでしょう。
 このお正月に先立って喪中による年賀の欠礼状を何通かいただきました。私は最近は郵便局で印刷してもらった賀状を送っています。11月中旬くらいにはできあがってきます。宛名はパソコンに頼らず、下手ながらも心を込めて筆ペンで1枚1枚書きます。早めに着手して12月20日ごろまでには何とか投函できていました。そうしていると、書き終えたあとに、「喪中欠礼状」が来ることがよくあります。こんかいも2通ありました。まさか、「欠礼状はもっと早く出せ」とも言えなくて、毎年何枚かの年賀状をある意味無駄にしてしまいます。ちょっと調べてみました。
 近親者が亡くなって一周忌を迎えるまでの期間は喪中となります。そのため、年賀状を出せない理由を伝える「年賀欠礼状」を送ります。相手が年賀状を準備し始める前に知らせるために、12月上旬には投函するのが一般的です(おー、やはり私が年賀状を書くのが早すぎたのか)。年賀欠礼状には、故人の名前や命日、続柄などを記し、喪中のため新年のご挨拶を控える旨を伝えます。
 一般的に、喪中となるのは亡くなった親族が2親等以内である場合です。夫や妻は0親等、父母、義父母、子どもや子どもの配偶者は1親等、祖父母、孫やその配偶者、兄弟・姉妹やその配偶者、義兄弟・義姉妹やその配偶者が2親等です。2親等以内に不幸があった場合は喪中はがきを出します。そして、喪中となった際に毎年年賀状交換を行っている方々に対して、年賀欠礼状を送り、年賀の挨拶を控える旨を伝えます。ただし、故人との関係がご自身より近い方や、同様の理由で喪中である親族に対しては、年賀欠礼状は必要ありません。
 年賀欠礼状は、年賀の挨拶を控えることを伝えるために出します。そのため本来は年内に届けば問題ありません。しかし、年賀欠礼状を受け取ったら年賀状を送らないというのがマナーとなっていますので、相手が年賀状の準備を始める12月初旬には、相手に到着するようにしましょう。年賀状の引受開始の12月15日を過ぎると、相手がすでに年賀状を出してしまっていることもありますので注意しましょう(これだね、私の場合は)。

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支配欲

Q0375
 支配力が強くて人をコントロールすると(野田:ああ、結構ですね)、話をしたあとで「わたくし主義」で話をしていたと気づいて反省するのですが(野田:支配欲と「わたくし」というのが何か関係あるのかな?)、どのポイントで確認して、相手の話を聞いたらよいでしょうか?また、気をつけたらよいでしょうか?

A0375
 わたくし(野田)は支配欲は強いと思います。何しろ、長男ですから。支配欲が強いことが問題ではなくて、それを有益に使っているかどうかが問題だと思う。例えば、会社では超ワンマン社長で、「こうする」言ったらこうするんです。全然人の意見を聞かないです。だって、人の意見を聞いたとき、もしその(相手の)判断が間違っていて、あとで会社の経営が悪くなったときに、その意見を言った人は責任を取れないもの。私が言って具合が悪ければ、私が腹を切ればいいだけだもの。私の責任で言うから、私の権利もある。それが一番有益だとも思う。支配欲はきわめて強いけど、支配欲そのものをどうこうしようとは全然思いません。それを有益に使おうと思います。
 私は、「パセージリーダ-」をしません。あれは支配欲の強い人にはあまり向いていないから。パセージリーダーさんには、テキストさま」という“聖書”があるわけです。「ははあー」って従う。テキストさまには逆らってはいけない。そんなのムカつくわ。テキストに何て書いてあるのか見たら、「これ違う」と言いたいもの、私としては。ま、私が書いたんですけど(笑)。私が書いたものでも、長いことたちますから、意見が変わります。「誰やこんな変なことを書いたのは。出せ-」と言いたくなりますから、あんなのは嫌いなんです。初めから自分の適性ではないと思うので、「パセージ」を作って、そのあとやってないんです。私がやってもうまくできないのは決まっているもの。自分を知って、自分を一番生かせる場所に置いておくとか、自分の性質をどう有益に使うかを工夫すべきであって、性質そのものを替えるとかころすこととかを考えるべきではないと思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

13,子夏曰わく、仕(つか)えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う。

 子夏が言った。「官吏として主君に仕えて余力があれば学問をする。学問をして余力があれば仕官をする」。

※浩→「仕」は役人となって奉仕すること。「優」は余裕ができること。「ゆたか」と訓読みできる。役人として奉仕しながら、余裕ができたら学問をせよ。そういえば、「学校」の英語はschoolで、これはギリシャ語のscholēが語源です。「閑暇」「ひま」という意味で、古代ギリシアで自然哲学から始まるギリシャ哲学の形成に寄与した時間的な「ゆとり」のことです。日本でも、戦前の貧しい時代には、子どもはまず家計を支えるために働かされました。経済的に余裕がある家の子が学校で学べたのです。ですから、学校へ行ける子は本気で学んだはずです。今は、学びたくない子が、親の見栄などのために強制的に学校へ行かされていたりします。
 前半の「仕えて優なれば則ち学ぶ」は「学而編」の「行う余力有らば、則ち以て文を学ぶ」にもとづいています。後半は、孔子の言葉にはないので、子夏が付け加えたのでしょう。孔子の言葉が弟子たちによって拡張され敷衍されていく過程がわかります。
 子夏の言葉はここで終わりです。次からは子遊、曽子などの言葉が続きます。
 そういえば、私自身の定年後の生活は、これに近かったように感じます。有り余る時間をアドラー心理学の学習継続に使い、余力を非常勤のお勤めに使ってきました。バランスとしては学習継続のほうが重く、お勤めは軽いようです。これはお勤めの土台がしっかりしているということですから、とても好都合です。現在現職の先生方とは真逆かもしれません。現場の先生方は雑務(と言っては失礼かも)に翻弄されて、ご自分の専門領域はもちろん趣味など余力を活用する暇などないのが現状のようです。これれはゆとりのある教育の実践は難しいでしょう。文部科学行政で真摯に対応しないと、この国の将来は危ういです。昨日のニュースで、自動車の輸出量で中国が日本を抜いて世界一位になったと報道していました。「経済大国」は沈みつつあるのでしょうか?

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発達検査

Q0374
 保護司さんが、「子どもの発達が気になって」とか、「学校で怠惰で困ります」と言って相談に来られます。その際、発達検査を依頼される方もいらっしゃいます。「発達検査をしましょう」と持ちかける心理士もいます。子どもの行動など育児相談に発達検査は必要ですか?その結果をどう活用できますか?

A0374
 発達検査は必要です。心理テストよりもずっと信頼できます。だって、発達検査ってごく簡単なんです。ある年齢の子ができるかどうかを見ているだけですから。発達検査の問題点は、それを価値として判断することです。今10歳の子が8歳のことしかできないとしたら、その子は劣っていると思うことか。逆に、10歳の子が12歳の子にできることをしたらすぐれていると思うことか。違う。ただ早いか遅いかだけのこと。最終的には、みんな大人になります。早くなるかゆっくりなるかだけの問題で、すぐれているとか劣っているとかの価値的な問題じゃないんだけど、世の中の人たちがそう考えないのが問題です。これは発達検査の罪ではない。みんなの偏見の罪です。だから、発達検査はすべきです。なんですべきかというと、クラシフィケーションです。その子に適切な教育を施すためです。体は10歳で発達が8歳の子に、10歳の教育を施したら、差別です。その子がついていけないのがわかりきっているんだから。だから8歳の教育を施すべきで、それが適切な教育だと思います。そこに、「この子は10歳なのになんで8歳の教育なんですか?差別でしょ」と、世の中の人が間違った言葉を使うから、問題が起こっている。これは発達検査の罪ではない。競合的な社会の罪なんです。コンペティティブな社会で、他人とこの子とを比較して、他の子よりもすぐれているか劣っているかを裁きたい。この態度そのものが間違っていて、人間は1人1人特有の人生を生きていて、特有の発達をしますから、早いからといってすぐれているわけでもないし、遅いからといって劣っているわけでもない。それを、早いからすぐれている、遅いから劣っているという、偏見を世の中にばらまいていることの問題です。
 障害児教育については、この偏見が大変なんです。一番正直に言えば、障害のある子を普通のクラスで教育するのは差別です。その子にはその子に合った教育をしてあげるのが、われわれの義務だし、またその子の権利だもの。また、普通のクラスの先生には、障害児を教育する責任はないと思います。それは、障害児についての訓練を受けた、特殊な知識や技能のある先生がすべきです。これが科学的な冷静な理屈ですが、親も教師もそう思っていない。みんなと同じクラスにいるのが平等で、別のクラスに送るのは差別だと言う。その結果、結局子どもたちが不幸になっている。ですから、この話はもう1回頭を冷やして冷静に考え直したほうがいいと思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

12,子游曰わく、子夏の門人小子(しょうし)、酒掃(さいそう)応対進退に当たりては則ち可なり。抑(そもそ)も末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し、これを如何(いかん)。子夏これを聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は孰(いず)れをか先ず伝え、孰れをか後に倦(う)まん(/倦えん=つたえん)。諸(これ)を草木の区して以て別あるに譬(たと)うべし。君子の道は焉んぞ誣(し)うべけんや。始め有り卒(お)わり有る者は、それ唯(た)だ聖人か。

 子游が言った、「子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や客の応対、儀式の動作については優れている。しかし、それらは末梢的なことで、根本的なことは何もできない。これは、どんなものだろうか?」。子夏はそれを伝え聞いて言った。「ああ(嘆息)、子游は間違っている。君子の道は何を先に教えて何を後に(いやというほど)教えるか、ちゃんと順序がある(見分けることだ)。それは、ちょうど草木の種類によって育て方が違うようなものである。君子の道もどうして同じ教え方をすべての人に押し付けられようか。始めから終わりまで同じ一つのやり方ができるのは、(君子を越える)聖人だけだろうね(初歩は教育の課程として必須なのである)」。

※浩→「酒掃(さいそう)」は拭き掃除。「言遊」は子遊、本名・言偃。「倦」を吉川先生は「うまん」(いやというほど教える)、貝塚先生は「つたえん」と読まれる。「誣(し)う」は吉川先生は「ごまかす」と、貝塚先生は「同じことを押しつける」と読まれる。
 子游と子夏の学派の対立から生まれる相互の批判がここに現れています。孔子の教えは偉大で、いろいろな方向を抱擁していました。孔子の死後、弟子たちは、師のいずれかの方向を一方的に延長したために、早くも摩擦が起こります。それがのちに知識と経験を重んずる漢唐学派と、実践と直観を重んずる宋明学派とに分岐するきっかけであったと言われます。
 偉大なリーダーが亡くなって弟子の時代になると、学派の分裂や対立がどこでも生じます。キリスト教では、「正統」と「異端」などと呼ばれました。これはローマ帝国末期の教父時代のことでした。私は大学の卒業論文に「アウグスティヌス」を選びましたので、そのあたりのことを自力で少し学びました。もちろんカトリック教会に大いに依存しましたが。1960年の大学1年生のとき、縁があって洗礼を受けました。洗礼名はなんと「アントニオ」なんですよ。パドヴァの聖アントニオが由来です。この聖人の祝日が6月13日で私の誕生日の19日に近いこともあって、とても親しみを感じまていした。洗礼を施してくださったのはヴァン・デ・ワーレ神父様で、ベルギー出身の包容力の大きい温かみのあふれる神父様でした。日本語がとてもお上手でした。でも、当時、祈禱文はすべてラテン語のままで、私たちは意味もよくわからないまま、祈禱書のルビをそのまま読んでいました。今でも覚えています。ドミヌス・ヴォビスクム。エト・クム・スピリト・トゥオ。意味は、「主はあたたとともに」「また司祭とともに」という、司祭と信者の応答です。大学卒業後は各地を歴任したため教会から遠ざかり、次第に信仰からも離れていきました。 アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アフラース)に生まれました。キリスト教に回心する前は、一時期、善悪二元論のマニ教を信奉していました。キケロの『ホルテンシウス』を読んで哲学に関心を持ち、マニ教と距離を置くようになります。その後、ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知って、ますますマニ教に幻滅を感じます。ローマ帝国の首都・ローマに383年に行き、384年には、宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をしているうち、ミラノの司教アンブロジウスと母モニカの影響で、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受けて、キリスト教徒となります。それまで頽廃的な生活にも陥っていましたが、受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(取って読め)」という声を聞いて、近くにあったパウロの書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したと言われます。387年、母モニカがオスティアで没したのちアフリカに帰って、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送りました。このとき彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなりました(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同してできた修道会)。391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、さらに396年には司教に選出され、そのとき初めて聖職者としての叙階を受けます。410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対して、天地創造以来の「神の国」と「地の国」の二つの国の歴史による普遍史の大著『神の国』によって応えます。これはアウグスティヌスの後期を代表する著作です。430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人は8月28日にこの世を去ります。彼の思想は、その後のローマ・カトリック教の発展の礎となりました。
 アドラー心理学でも派閥があるようですが、近年は偉大なリーダー・野田俊作先生のご逝去により、今後アドラー心理学会などで分裂対立が起こらないことを祈りつつ、日々の学びと実践につとめていきます。

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