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論語でジャーナル

5,孔子曰く、益者三楽(さんらく)、損者三楽。礼楽を節するを楽しみ、人の善を道(い)うを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。

 先生が言われた。「ためになる楽しみ三種、損になる楽しみ三種。行動と音楽を節度をもって行う楽しみ、他人の徳性・美点を讃える楽しみ、すぐれた友人をたくさんもつ楽しみ、これらどんなにためになるだろう。驕りたかぶる楽しみ、家に帰らず遊びほうける楽しみ、酒食荒淫の楽しみ、これらどんなに損になることだろう」。

※浩→孔子が「楽しみの種類」を、「有益な三楽・有害な三楽」と箇条書きの形で述べています。現代にも当てはまります。「驕楽」は傲慢、「佚遊」は安惰、「宴楽」は消費生活の贅沢を言います。自分に関して採点すれば、「節度」と「他者への勇気づけ」と「交友」の楽しみはまあまあだと思います。「他者を勇気づけること」はアドレリアン必須の課題ですから、常に心がけている“つもり”です。。「賢友多き」は過去の話になりました。高齢化とともに減少しました。「皆無」でなく、ごく少人数ではありますが、親密な交わりをしています。「傲慢」と「遊びほうける」と「酒食荒淫」は、要注意です。自分の成した成果を奢る気持ちがときどき生じます。「謙虚・寛容さ」はずっと修業が必要です。人間はどこまでも不完全な存在ですから、しょっちゅう過ちます。常に自己点検を忘れないように、心していきます。「学而篇」に「曽子曰く、吾日に三たび吾が身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざると伝えしか」。

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自分の好みに合わない子を好きなるのに、フロムの『愛するということ』は参考になるか?

Q0304
 復讐期まで行った息子、現在18歳がいます。子ども3人の中で確かに私の好みに合わない子どもだったと思います。今まで自分のしてきたことが子どもの勇気をくじいていたとわかったら、何も言えなくなってしまいました(野田:ええことです)。最近息子が話しかけてきても、以前のように私が話に乗らなくなったせいか、「ねえ僕の話聞いてる?」と確認してきます。そのときに、「うん、聞いている」と応えます。自分の好みに合わない子を好きになることはできないでしょうか。フロムの『愛するということ』は参考になるでしょうか?

A0304
 ならないと思う。フロムの本は好きなんですけど、きわめて哲学的な本なんで、面白いから読んでみられたらいいけど、そこから、即、実際に行動につながるヒントがあるとは思えない。
 私のヒントは、「しあわせは心こもらぬ言葉から」です。心こもらなくていいから、いい言葉をかけ始めようと思うんです。子どもをあまり好きになれない心を変えられないでしょう。でも、体の動きとか口で言う言葉とかは変えられるでしょう。心がこもっていなくていいから、教科書に書いてあるような勇気づけの言葉を言っていて、「お母さんそれ嘘だろうが」「ああ、バレた?」てなことを言ってても、それでも傷つける言葉を言ってるよりはマシだと思う。その言葉によって、子どもは少しずつ態度が変わってくるでしょう。子どもの態度が変わってくると、だんだん親のほうの心も変わってくるでしょう。心は頭蓋骨の内側にあるとはあまり思ってない。心が先にあって行動がそこから出てくるというのは原因論であってアドラー心理学的でないと思う。心というのは、人間関係というものが私を通り抜けているときに立てるさざ波のようなものだと思う。だから人間関係が良くなると、相手のことが好きになると思う。愛があるから優しい言葉が出るのではなくて、優しい言葉のやりとりがあるときに愛が生まれてくると思う。愛があとだと思う。まず、いい言葉がけを、心こもらなくていいから、いい言葉がけを始めてみられてはいかがですか。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

4,孔子曰く、益者(えきしゃ)三友。損者三友。直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益なり。便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。

 孔先生が言われた。「ためになる三種の友人、損になる三種の友人。正直な人を友とし、誠実な人を友とし、博学な人を友とするのはためになる。見かけだけが良い人を友とし、人当たりが良いだけ(あるいは、難しいこと・イヤなことを避ける便宜主義者)の人を友とし、口先のうまい人を友とするのは損である」。

※浩→「益友」「損友」という言葉は今でも使われると、貝塚先生はおっしゃっていましたが、私は使ったことはありません。無学でした。ここのような孔子の言葉がどうしてできかたを、貝塚先生は次のように解説されます。
 孔子の学園で、孔子の言葉が次第に教条化され(浩→これは“土着化”と言ってもいいかもしれません)。教訓を箇条書きにして暗記する学習法がとられてきたあらわれである。孔子と弟子たちとの人格的な接触から生まれる会話の生き生きとした味はなくなってくる。
 師弟の人格的接触による学びというと、プラトンの「アカデメイア」を連想します。あそこでも、教師が生徒たちに一方的に講義する教育法ではなく、互いの対話による「問答法(対話法)」が用いられていました。アドラー心理学においても、親や教師からの1度や2度の「言葉がけ」で子どもを“操作”するのではなく、繰り返し“問いかける”ことで次第に両者ともの納得できる解決を導き出すという方法が提唱されています。
 幸いにして私は子どものころから「良い友」には恵まれてきました。小学校から中学校までは、広瀬のやっちゃん(広瀬康久さん=中学生のころすでに映画ツウで、東映時代劇などを筆者に紹介してくれました。彼の家はリッチで、母親どうしも親しくて、そのご縁でよくお泊まりさせていただいていました。高校を出てからは次第に遠のき、今では消息不明です。ご存命かどうかもわかりません)。中学から高校では、池田秀彦君(高校卒業後は岡山から宝塚市へ転居されて、お泊まりに行ったこともたびたびでしたが、やがて遠ざかりました)。中学では吉原正明さん(京都学芸(教育)大学へ進まれ、私は岡大ボート部で琵琶湖に遠征に行った帰りにはよく彼の下宿に泊めてもらいました。妙心寺の隣にありました)、岡村鉄夫さん(九州出身で中学から岡山に下宿されていて、よく泊まり込んで一緒に勉強していました。彼の家もリッチで、当時から熟へも行っていました)。高校での近間章さん(演劇部で一緒になり、おうちが富田町なので、帰宅時によく寄せてもらっておしゃべりをしていました)。大学では何と言っても行司伸吾君(ボート部の仲間。卒業前は彼の家に下宿させていただいていました)……。
 友を選ぶと言えば、ボート部のコンパでの愛唱歌に、与謝野鉄幹の「人を恋うるの歌」というのがありました。歌詞を完全に暗記して合唱した歌の1つです。久しぶりに思い出しました。↓

 妻をめとらば才たけて みめうるわしく情(なさけ)ある 友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分の熱

 恋のいのちをたずぬれば 名を惜しむかな男(お)の子ゆえ 友の情をたずぬれば 義のあるところ火をも踏む

 あーわれダンテの奇才(きさい)なく バイロン ハイネの熱なきも 石をいだきて野にうたう 芭蕉(ばしょう)のさびをよろこばん

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高校養護教諭として薬物対策は?

Q0303
 高校の養護教諭をしています。小中高校でタバコやシンナーに関する教育をしていますが、これからは薬物等の教育も必要だと数年前から言われています。数年前から大都市で中高校生に薬物が出回るようになってきています。そういう子どもたちはいわゆる勉強のできない子、不良と言われているような子どもたちのようです。学校においてどんな教育をすれば、子どもたちに薬物が悪いということが理解でき、そんなことをしないようなるのでしょうか?薬物の怖さをビデオで見せたり話したりするだけでは、不良と言われる子どもたちが理解はしないのではないかと思うのですが。

A0303
 理解はするでしょうよ。僕は昔、裁判所でシンナーを吸って捕まった初犯の子どもたちの講習会をしました。何のことははない。シンナーの効果について、体の中でどうなるか、きちっと教えただけです。ついでに実物教育で、豚のレバーを血抜きして話を始める前に目の前でシンナーをかけておく。終わりころに溶けてくるから、「あんた方の肝臓もこんなんよ」とみんなに回す。子どもはすごく気持ち悪がりました。理解はするでしょう。
 薬物を使うというのは、薬物そのものの魅力も一方ではあるけど、注目関心を引くとか、特に権力争いをするとか復讐をするとかいう、人間関係の構造の中で薬物を使うことに意味があるときのほうが多い。シンナーを吸っていると、先生が「やめろやめろ」と言う。やめたら先生の勝ち、続けたら私の勝ちというゲームの構造になっていることがわりとある。そっち側の処置をしないといけない。
 友だちどうしの間でみんなが薬物を使っていて、自分だけ使わないとつきあえないということもある。シンナーで捕まった子たちの話を聞いた。男の子と女の子と何人か集まる。夜に非行グループが。あの人たちはほとんど話題がない。集まってちょっと話をすると、すぐ話することがなくなるのでエッチする。エッチしていると話しなくてすむから。エッチも終わっちゃう。終わっちゃうとまた話のない時間がいっそう空しく広がる。そこで「まあまあ一杯」とシンナーやると、一応そこから逃げられる。みんなモワーとして話をしなくていい状態になるから。そういう理由でシンナーやっているみたい。シンナーがなくなったら困っちゃう。何していいかわからないから。全然話題がないし。
 だから、話を別にしなくていいんだとか、面白い話、こんなことをしたらどうかとか、そんなふうな教育をしてあげることのほうが大事だと思う。とにかく、みんなを笑わせてないと、自分が話し手になってみんなを楽しませていないとダメだという感じを、今の子どもたちは強く強迫観念として持っている。別にそんなこともないから、5人とか6人とか集まって、何も言わないでボーッと暮らしているのも瞑想的でいいじゃないですか。シンナーに逃げなくていいんじゃないかという話もしています。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

3,孔子曰く、禄(ろく)の公室を去ること五世なり。政の大夫に逮(およ)ぶ)こと四世なり。故(ゆえ)に夫(か)の三桓(さんかん)の子孫は微なり。

 先生が言われた。「俸禄を与える権限が魯の公室を離れてから、五代の時が流れた。政権が大夫の手に渡ってから、四代の時が流れた。あの孟孫・叔孫・季孫の三桓の子孫も衰えたものだ」。

※浩→臣下が主君を打倒する下剋上を嫌った孔子ですが、魯の君主に代わって政権を掌握した三桓(孟孫・叔孫・季孫)も季孫氏の家臣であった陽虎のクーデターによってすっかり力を失ってしまいます。実力主義で政権を奪い取った者は、さらに自分よりも強力な相手が出てくると政権を奪い取られてしまう。陽虎の政権も間もなく没落します。三桓つまり仲孫氏・叔孫氏・季孫氏は魯の家老職の家ですが、彼らは皆、魯の桓公の後裔です。日本で、源氏が清和天皇の、平氏が桓武天皇の後胤であるというのと似ているようです。その三桓の政権にひびが入って、もとの権威を回復できませんでした。この魯国の現実の政権の転移、下剋上の具体相を感慨深く述べていて、前章と違って、これは孔子自身の言葉だとみられています。前章は、ここをもとにして後代に付加されたのでしょう。貝塚先生の解説です。
 衰えて滅び行くものへの哀愁、これは日本人好みです。典型は『平家物語』です。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす。
 祇園精舎の鐘の音には,この世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は,どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
 中国ものでは、『三国志』の終わりのほうを思い出します。「秋風五丈原」というと、横山光輝のコミック版『三国志』に詳しく描かれていました。全50巻ありましたが、私はそれを在職当時通っていたスポーツジム「オリンピア」のコーチから譲り受けて、学校の教育相談室に置きました。来室する生徒たちが喜んで読みあさってくれました。もう1つ、ずいぶん前にNHKのアニメに『三国志』があって、これもかなり詳しく描かれていました。クライマックスの「赤壁」と、そのあと逃亡する曹操を情け深い関羽が見逃すシーンまでは、一気に読めますが、そのあとの長い部分をラストまで読むのは大変です。私は、諸葛孔明が「五丈原」に惜しくも敗れて、「天は我を見捨てたかー」のシーンに深い感慨を覚えました。ネットに珍しい歌が載っていました。拝借します。↓

「秋風五丈原」土井 晩翠 作

一、祁山(ぎざん)悲愁の風更けて 陣雲暗し五丈原
   令露(れいろ)の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
   蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

二、清渭の流れ水やせて むせぶ非情の秋の声
   夜や関山の風泣いて 暗に迷ふか雁がねは
   令風霜の威もすごく 守る諸堂の垣の外
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

三、帳中眠りかすかにて 短檠(たんけい)光薄ければ
   こゝにも見ゆる秋の色 銀甲堅くよろへども
   見よや侍衛の面かげに 無限の愁(うれい)溢るゝを
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

四、風塵遠し三尺の 剣は光曇らねど
   秋に傷めば松柏の 色もおのづとうつろふを
   漢騎十万今更に 見るや故郷の夢いかに
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

五、夢寝に忘れぬ君王の いまはの御こと畏みて
   心を焦し身をつくす 暴露のつとめ幾とせか
   今落葉の雨の音 大樹ひとたび倒れなば
     漢室の運はたいかに 丞相病あつかりき

六、四海の波瀾収まりて 民は苦み天は泣き
   いつかは見なん太平の 心のどけき春の夢
   群雄立ちてことごとく 中原鹿を争ふも
     たれか王者の師を学ぶ 丞相病あつかりき

七、末は黄河の水濁る 三代の源遠くして
   伊周の跡は今いづこ 道は衰へ文弊たおれ
   管仲去りて九百年 楽毅らっき滅びて四百年
     誰か王者の治を思ふ 丞相病あつかりき

 これは土井晩翠の名詩です。「桃園義盟」に始まり、孔明の苦心孤忠を画く「三国志」は、隣邦中国を想う本学の学生たちの心を痛くゆすぶったに違いありません。何時のころから校庭を「五丈原」と称し、学堂を「臥竜窟」と名づけ、そしてこの晩翠の詩を愛唱したのです。拓殖大学の校祖として初代校長桂太郎公は、明治四十五年七月、後藤新平氏等を随え渡欧露都にて、明治大帝崩御の報に接し、急拠帰国、直ちに内大臣兼侍従長を拝命、新帝を輔弼(ほひつ)申し上げました。この大任を受くると、校長を辞し、これを小松原英太郎氏に譲りました。越えて十二月組閣の大命を拝し、三たび首相の印緩を帯びましたが、翌大正二年総辞職し、病を得て帳中深く引こもりました。
 劉備玄徳の遺嘱を受け、幼帝を扶けて、天下三分の計をめぐらし、五丈原頭に馬を進め、遂いに病んで再び起たなかった諸葛孔明の心事は、そのまま桂公の胸中であったのでしょう。病に倒れた桂公の胸中を去来したものは、大正日本の前途と、東亜の形勢であったでしょう。孫文の中国革命に深い理解を持ち、アジアの回復を希念していた公の経論も、天、遂に時をかさず、これをすべて白玉楼中に送ってしまいました。
 もしも私が大学のボート部にいたころに、この歌を知っていたら、率先して歌い、先輩に知らしめ、後輩にわがもの顔で伝授したかもしれません。

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