22,子曰く、飽(あ)くまで食らいて日を終え、心を用うる所なきは、難(かた)いかな。博奕(はくえき)なる者あらずや。これを為すは猶(なお)已(や)むに賢(まさ)れり。
先生が言われた。「腹いっぱいに食べて一日を終わり、何事にも頭を働かせない、そんなのは困ったことだね。双六(すごろく)や、囲碁というのがあるではないか。それでもやるほうが、何もしないよりはまだましではないか」。
※浩→儒家は“無為”を嫌う「有為(人為)の思想」で、道家は“有為(人為)”を嫌う「無為の思想」です。孔子は、一日中何も頭を使わずに飽食をしている人を批判していて、何もしない無為よりも、まだ囲碁や双六などの遊びをしているほうがましだと言っています。特に孔子は、体力にも優れた活動家で、いつも何か働いたり考えたりしていないとい気がすまないのでしょう。ごろごろしている弟子を叱ったときの言葉でしょう。
アドラー心理学で昔、性格(ライフスタイル)を知る手がかりとしていくつかのタイプをも受けていたことがあります。その当時は結構流行りましたが、そもそも人はそれぞれ“違う”ので、タイプ分けはナンセンスだということで、その後は言われなくなりました。ただ、何も手がかりのない状態からその人のライフスタイルを知るのは至難の業だということで、“手がかり”だということを忘れないで、その分類を参照すると便利なことはあります。孔子が「体力にも優れた活動家で、いつも何か働いたり考えたりしていないとい気がすまないのでしょう」と書かれていることから、「ドライバー」というタイプを思い出しました。「何かを達成しているとき自分はOKだ」というようなライフスタイルです。こういう人は、「無意味な時間」を過ごすことは苦痛なのでしょう。いつも何かをしていないといけない。私にもかつてはそういう傾向があったかもしれません。その後、『荘子』などを読んで、「無用の用」ということを学びました。一見何の役に立っていないような存在が意外なところで役立っているということです。「余白」とか「行間」とかの意味に通じるところがあるようです。最近、テレビのCSでアニメの「おいしんぼ」の再放送があって、録画してはちびちび見直しています。新聞社につとめる主人公の「山岡さん」は日頃はぐーたらしていて、勤務時間中でもしょっちゅう居眠りをしています。それが料理や食物のことになると、まさに天才的な才能を発揮します。あのぐーたらの時間にしんかりと「脳」を休ませているのかもしれません。「無用の長物」などと批判しないで、「無用の有用性」を活用できると、生活にゆとりができそうです。今、学校の先生方にはそれが許されない厳しい現状があります。良い教育ができるわけがない!
Q0336
学校の勉強は子どもの課題だとわかったのですが、放っておくとちっともしないのですが……。
A0336
学習は子どもの課題です。学校で勉強しないのは子どもの課題。子どもがまったく勉強しないというような場合、どのようなことができるか?
共同の課題にすることができる。勇気づけることもできる。勉強しないからといって罰することはできない。命令したり強制したりできない。それは攻撃的な自己主張だから。相手の課題であってもそれを共同の課題にするよう提案することができれば、こちらの願うことを上手に伝えることはできる。
たまたま勉強しているときに、「そういう姿を見るのは好きよ」と言うことはできる。「勇気づけ」や「共同の課題」という別の方法で解決できる。(回答・野田俊作先生)
21,宰我(さいが)問う、三年の喪は期にして已(すで)に久し。君子三年礼を為さざれば、礼必ず壊(やぶ)れん。三年楽(がく)を為さざれば、楽必ず崩れん。旧穀(きゅうこく)既に没(つ)きて新穀(しんこく)既に升(みの)る、燧(すい)を鑚(き)り火を改む。期にして可なり。子曰く、夫(か)の稲を食らい、夫の錦を衣(き)る、女(なんじ)に於いて安きか。曰く、安し。女安ければ則ちこれを為せ。夫(そ)れ君子の喪に居るや、旨(うま)きを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しからず、居処(きょしょ)安からず、故に為さざるなり。今女安ければ則ちこれを為せ。宰我出ず。子曰く、予の不仁なるや、子(こ)生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免(まぬが)る。夫れ三年の喪は天下の通喪(つうそう)なり。予(よ:宰我の名)やその父母に三年の愛あらんか。
(弟子の)宰我がおたずねした。「三年の喪は満一年にしても十分です。君子が三年間も礼を実践しないと、礼は崩壊するでしょう。三年間、音楽を演奏しないと、音楽も崩壊するでしょう。一年経過すれば旧年にとれた穀物は食べ尽くされ、新しい年の穀物は既に実っていますし、年のはじまりに、木をこすり合わせて新たな神火を灯すのです。喪は満一年で十分だと考えます」。先生が言われた。「一年たってすぐ普通の生活に戻り、あの米を食べ、あの錦の衣服を着ることは、お前にとって安楽なのであろうか(痛みを感じないか)?」。宰我が答えた。「心地良いです」。先生が言われた。「本当に心地良いのであれば、思いどおりにすればよかろう。君子が喪に服している間は、美味しいご馳走を食べても甘くはなく、音楽を聴いても楽しくはなく、家に居ても落ち着かないものだから、こういったことはしないものなのである。しかし、お前は心地良いと言ういうのなら、やりたいようにやりなさい」。宰我が退席すると、先生は言われた。「宰我は非人情なやつだ。子どもは生まれて三年経ってようやく父母の懐から離れる。だからこそ、あの三年間の服喪は、一般的な喪の服し方なんだ。宰我にしても、父母から三年の愛を受けたはずであるのに(その三年を惜しむのか)」。
※浩→「三年間の服喪期間」を長すぎると実用主義者の宰我は反論します。伝統・道徳を重んじる孔子がそれを批判します。孔子は父母に対する忠孝の徳と服喪の精神が統合されることこそが理想だと考えていますが、実用主義者の宰我はいたずらに三年間もの時を喪に服すのは無駄だと言っています。孔子は君子が三年間の喪に服すべき理由を、「乳幼児が父母から受けた無償の愛」に求めています。老人になった自分も共感すると、貝塚先生。生まれてから三年間は父母から無償の愛情を貰ったはずであるのに、父母がいざ亡くなってしまうと薄情なものだという孔子の皮肉な口調が込められているようです。
喪中には、うまいものを食べてもうまいと感じないし、音楽を聴いても楽しくなかったです。立ち居振る舞いも不安定でした。そうしたやむにやまれぬ人情の自然としてそうですと、吉川先生。私もすでに二親を亡くしていますから実感できます。特に、母を失ったあとは、少なくとも半年くらいは、お腹の底の力が抜けたようで、声にも勢いがありませんでした。それでも一周忌のころにはほとんど回復していました。人間の生命力には驚きます。現代は「喪中」は一年になっていますから、宰我の考えどおりになっています。合理主義の現代では、失われたものを長く悔やみ惜しむよりも、ある時点で区切りをつけて、前へ進むプラス指向のほうがふさわしいのでしょう。
Q0335
中学生になると論理的結末(個別の問題について双方話し合い、約束を作って、次に同じ問題が発生したとき、約束を実行する)が使えないということですが、子どもが何をしていても見ているしかないのでしょうか?
A0335
何をしていても見ているということではない。共同の課題にすることができる。今日、自然の結末・論理的結末・社会的結末と言ったのは、個人の課題にしないで相手の課題のままで冷静な話し合いができるということです。論理的結末は、罰になりやすいからといって、まったく使えないのではない。感情的にならず、タテの関係にならず、権力闘争構造にならず使うなら使うことができるんです。(回答・野田俊作先生)
20,孺悲(じゅひ)、孔子に見(まみ)えんと欲す。孔子辞するに疾(やまい)を以てす。命を将(おこ)なう者、戸を出(い)ず。瑟(しつ)を取りて歌い、これをして聞かしむ。
孺悲が孔子にお会いしたいと言って来た。しかし、孔子は病気を理由に面会を断られた。孔子の言葉の取り次ぎ役の人が戸口を出て行った。これを見すました孔子は瑟をとって歌って、孺悲に聞こえるようにされた(仮病だということを孺悲に知らせた)」。
※浩→「孺悲」は魯の哀公の命で、孔子について喪礼を学んだ臣です。詳しいことはわからないそうです。「命をおこなう者」は「返答を取り次ぐ者」。前の条と同じく、孔子は「言葉」を通じてではなくて、心と心とが通じることに重きを置いています。道の本質は言葉だけによらず、心と心の間で伝わるという考え方が、当時広く行われていました。またまた『老子』に通じそうです。『老子』の冒頭には次のようにあります。
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず。
無名は天地の始めにして、有名は万物の母。
故に、常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼〔きょう〕を観る。
此の両者は同じく出でても名を異にし、同じく之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。
これこそが理想の“道”です、と言っているような“道”(=世間一般に言っている道)は、恒久不変の本来の「道」ではありません。これこそが確かな“名”だと言い表わすことのできるような“名”(=世間一般に言っている名)は、普遍的な真実の「名」ではありません。天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉でな名づけ用のないエトヴァスであるが、万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。だから人は常に無欲であるとき、名を持たぬ道のかそけき実相を観るが、常に欲望を持ち続ける限り、あからさまな差別と対立の相を持つ名の世界を観る。この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、根源的には一つであるが、名の世界では二つに分かれ、いずれも不可思議なるものという意味で玄と呼ばれる。そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用になる一切万物はそこを門として出て来るのである。(←福永光司先生訳より)
野田先生のおっしゃったように、「万物の根源」としての「道」を言っていますから「土着思想」ですか。『老子』は「道徳経」と呼ばれていて、前篇が「道」についての哲学で、後篇が「徳」の実践編になっています。まるで、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』のようです。さいわいアドラー心理学では、理論の折衷は認められませんが、技法の折衷というか借用はいっぱい行われています。後篇から「人生哲学実践」のアイディアを拝借するのは許されるのではなかろうかと、私は勝手に解釈することにします。『老子』の逆接的な道徳実践は、アドラー心理学が好む「パラドキシカル」な技法にも通じそうな気がします。「千里の道も一歩から」などはよく知られていますが、あの出所は『老子』で、「千里の道も足下に始まる」が原文です。「老子」全体のキーワードは、もちろん、“無為自然”です。