Q0307
3歳になったばかりの甥がなかなかおしめが取れません。たまに「おしっこ」と言いますが、おしめなしだとしょっちゅう床の間にお漏らしをしています。そういうときあまり怒らないで、「次はする前に知らせてね」と頼んでいるようですが、一向に事態は良くなりません。何かアドバイスはないでしょうか?これ以外のことでは少々甘ったれですが、優しくて穏やかで何の問題もない子どもです。
A0307
不適切な部分に注目しないで適切な部分に注目する。間違ってしちゃったときに、「次はする前に知らせてね」と言わないで、それはもう黙って処理して、ちゃんとお手洗い行けたときに「お手洗い行けるようになったね。ずいぶんお兄ちゃんになったね」と言う。
子どもにとって、歯磨きをするとか、1人で着替えをするとか、自分でおしっこに行けることが喜びにならないといけない。「良かった。こんなのができるようになった。お兄ちゃんになった」と思えないといけない。しなかったときに「それはいけない。次はちゃんとしようね」では喜びにならない。そこで注目関心を引けることをまた学ぶ。
たぶん注目関心を引いているから、こんなところで注目しないで、ちゃんとオシッコできたときとか、お兄ちゃんらしくできたことについてお話をしてあげてください。(回答・野田俊作先生)
7,孔子曰く、君子に三戒(さんかい)あり。少(わか)き時は血気未(いま)だ定まらず、これを戒むること色に在り。その壮なるに及びては、血気方(まさ)に剛なり、これを戒むること闘いに在り。その老ゆるに及びては血気既に衰う、これを戒むること得るに在り。
先生が言われた。「君子には守るべき三つの戒めがある。年少の時にはまだ血気が不安定だから、血気の過剰による色欲の失敗を戒めよ。三十代以後の壮年のときには血気が充実して盛んな絶頂にあるので、闘争(喧嘩)好きを戒めること。老年になると血気は衰え、能動の部分が少なくなるので、貪欲への戒めが大切である」。
※浩→「血気」というのは、今日言われる「血気盛ん」の意味よりもっと、人間の生理の根本を血液の運行によるエネルギーとしていたことを意識しての言葉だと解釈します。
ここは孔子の人間観察の深さを最も良く示していると、吉川先生は解説されます。「色」は「色欲」ですが、これを一概に否定しないまでも、若いときは生理(情緒か)不安定であるから、色欲による失敗を戒めよ、ということです。野田先生の前にカウンセリングを教わっていた、当時、東京理科大(のち筑波大学へ)の国分康孝先生は、「恋愛はハートで、結婚はヘッドで」とおっしゃっていました。結婚はいわばビジネスですから、理性的に損得勘定をして実行するようにというようなことでした。ところが野田先生はむしろ、結婚は、冷静に理性的に考えると、とうていできるものではない。あれは理性が曇っている隙にやる、とおっしゃいました。その理由は、一人の異性を選ぶことで、世界のその他のすべての異性を諦めるという不合理を結婚によって実現するわけですから。
壮年になると、血気盛んで絶頂期にあるので、この時期に警戒すべきは「闘い(喧嘩)」です。私もアドラー心理学に出会う前は、ずいぶん闘争好きというか、負けず嫌いで、よく人と衝突しました。それでは、自分は「礼儀正しく」しているつもりでも、人からは“慇懃無礼”に見えたことでしょう。そのうち、『老子』を読んで、「勝つためにはむしろ負ける」という“逆説的”対応を覚えましたが、アドラー心理学を学ぶにつれて、次第に闘争心は消えていきました。不適切な行動の代表ですから具合が悪いです。
老年になれば、生気が衰え、能動的でなくなるとともに、受動的な利益を欲しがるため、警戒すべきは「貪欲」です。これは私の場合はありがたいことに定年退職後はほぼ不自由なく生活できていて、「物欲」はかなり低減していると思います。むしろ、若い人たちに大胆にふるまうことさえあります。「衣食足りて礼節を知る」というのは真実味があります。
Q0306
「不適切な行動の目的」4番目の「無能力を誇示」する人たちは、生まれつきそういう性質を持った人たちなのでしょうか、それとも育っていく間に勇気をくじかれてそういう状態になったのでしょうか?
A0306
わからないです。アドラーもわからないと言っている。遺伝と環境は両方ともライフスタイルの形成に影響を与えるだろう。どっちがどの程度関わっているかわからない。実験のしようもない。全然わからないけど、もし生まれつきだったとしても、親が注意して育てれば、その人たちの勇気をくじかないようにして育てれば、「無能力を誇示する」という感じにはならなかったと思う。例えば、統合失調症的な資質が遺伝としてあるかもしれない。ないかもしれない。あったとしても、親がその人たちに侵入的・支配的育児をしなかったら統合失調症にならなかったと思う。それは例えば、糖尿病とか高血圧症も遺伝ですが、糖尿病的食事とか高血圧的食事とかをしなかったら一生ならない。それが塩分や糖分をたくさん食べるとかするとなるわけでしょう。それと同じように、たとえ遺伝であったとしても、小さいときからアドラー心理学を学んで勇気づけながら育てれば、まっとうな人に、まっとうな人というのはおかしいけど、無能力を誇示する段階かで行かなくてすむだろうと思う。(回答・野田俊作先生)
6,孔子曰く、君子に侍するに三愆(さんけん)あり。言(げん)未だこれに及ばずして而も言う、これを躁(そう)と謂う。言これに及びて而も言わざる、これを隠(いん)と謂う。未だ顔色を見ずして而も言う、これを瞽(こ)と謂う。
先生が言われた。「君子(吉川先生;目上の人)の側にいるにあたっての「三種の過ち」。まだ発言すべきでないのに発言する、これを「躁=せっかち、がさつ」という。話題がそこへ来て発言すべきときなのに発言しない、これを「隠=かくしだて」と言う。顔色を見ないで一方的に発言してしまう、これを「瞽=めしい」と言う」。
※浩→「君子」を吉川先生も貝塚先生も「目上の人」と訳されています。解説は貝塚先生のが詳しいです。
君主を補佐する家臣の心得であり、同時に、目上の人に対する礼儀でもあるようです。孔子の学園で教習する弟子たちへの心得書でしょう。現代のあらゆる会合における会話の作法としても通用します。外国では社交会話の厳重な作法があって、他人の発言を遮ってはいけないし、他人と意見がかち合うと、必ず謝って相手に先を譲る。こういう作法は中国でも日本でも古くから家庭や塾の中では守られてきました。この社交の作法を身につけていない現代日本人が、外国旅行に出かけると、あるいは無作法者と笑われ、あるいは手も足もでなくなって惨めになるそうです。会話に限らず、もう一度、新しい時代に生きる作法を復活しなければならない。「お行儀」という言葉が“死語”になってしまった現代においては、至難のワザです。現状は、言うべきときでなくても平気で発言するし、言わないといけないときには黙っているし、相手の反応がどうあろうと関係なく、自説をごり押ししています。
かつて、大阪のアドラーギルド(当時のアドラー心理学の本拠地)で、カウンセリングの事例検討会というのがありました。毎週金曜日の夜7時から9時まででした。私も自分のケースを持参したり、録音テープを送ったりして、野田先生や先輩方のスーパービジョンを受けました。会に参加したときは、参加者がいろいろアドバイスしてくれました。その場で、発言のタイミングの大切さを学びました。タイミング良く口をはさまないと、場がしらけたり、野田先生から一喝されて、ずいぶん鍛えられました。自分のケースを録音テープで送ってアドバイスをいただいた1つのケースに、野田先生が「とても良い流れでカウンセリングが進んでいます。クライエントの発言とカウンセラーの発言が、重なったりずれたりしないで、まるで一人のナレーターが通して語っているようです」と絶賛してくださったことがあります。身に余る嬉しいお言葉でした。発話のタイミングは、カウンセリングの現場でもとても重要です。アドラー心理学のカウンセリングでは、ただクライエントの発言を受容と共感で聞くのではなくて、場合によってはカウンセラーが積極的に発言しますが、クライエントの発言を遮ったり、無意味な“間”が長く続いたりしないように、100%配慮しています。日常会話においてもお稽古しています。
Q0305
職場の上司でかなり頭の切れる女性がいます。ドンくさい私は彼女にとって目障りな存在のようです。朝の挨拶以外はものをしゃべってくれません。もちろん私も心が縮んでしまって話ができません。他の人たちには楽しそうにしゃべる彼女を見て、情けないやら悔しいやらで悩んでします。勇気づけてください。
A0305
困りますか?私を嫌いな人はいるんですよ。いますねえ、思い出してしまった。絶対に私に口をきかない人がいるんですよ。某有名アドレリアンでね。道で会っても、総会なんかでも。大阪の人じゃない。大阪にはそんなのはいない。全部撲滅しましたから(笑)。その人なんか目も合わさないし、口もきいてくれないけど、それでいいと思う。あの人の言うことを聞いたら耳が腐るから。別に気にしないでいいんじゃないですか。よく言うけど、10人の人が周囲にいたら、2人の人は私が何をしてても許してくれる人で、ずっと私を好きでいてくれるだろうと思う。1人の人は私が何をやっても許してくれない人で、一生私のことを嫌いだと思う。残り7人はケースバイケースで私の出方で好きになったり嫌いになったりする。どうやらこの上司は運命の1人みたいで、何やっても許してくれないでしょうから、許されないままで暮らしましょう。そういう人が1人くらいは絶対いるんです。10人いたら。まあそこに1人いて、残りに友だちがいますから、その友だちのほうを見る。適切なな部分に注目するんです。人生には明るい世界と暗い世界とが必ずあって、明るい側をしっかりと確保していくと、暗い側を悩むよりはエネルギーの使い方が上手になります。(回答・野田俊作先生)