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非主張的なのを変わるには?

Q0334
 私は内気なタチで、いつも非主張的になってしまいます。どうしたら変われるでしょうか?

A0334
 ひと言で言いますと、トレーニングです。主張的な言い方を、とにかくまず言葉として学ぶこと、そして、今まで非主張的になった場面で、一度でいいからやってみること。人間の心というのは面白いもので、たった一度でもできれば、二度目三度目は簡単にできます。一度もやったことのないことはとても難しいんです。これは、自転車に乗ったり泳いだりすることと同じです。トレーニングする前にはそれはとても難しいことのように感じられるけれど、一旦自転車に乗れるようになってしまうと、しばらく自転車に乗らなくてもまたすぐに乗れるでしょう。同じように、主張的行動というのも、1つの筋肉の運動にすぎず、1つの態度にすぎないのです。一度身につけてしまえば、次からはとても楽にできます。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

19,子曰く、予(われ)言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時(しじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言わんや。

 先生が言われた。「私はもう何も語るまいと思う」。子貢が言った。「先生がもし何も語ってくださらないと、私たち弟子は何にもとづいて語りましょうか」。先生は言われた。「天は何か言うだろうか。天の運行によって四季は自然に運行し、四季の移り変わりによって万物も生育している。天は何を語るだろうか」。

※浩→魯に帰国した晩年の孔子が、ある日突然、「これから君たちに何も話をしてやらないことにした」と言い、弟子たちがびっくり仰天しています。秀才の子貢は慌てて、取り消してほしいと願いました。孔子が何も語らないという理由は、世界の根本原理は、孔子の言葉の中にではなく「天命の示す摂理」にあるからで、孔子はすべての疑問を孔子の言葉に頼って解決しようとする弟子たちの態度を戒めたのです。天は何も語ってはくれないが、規則正しい天候の周期と万物の生成の中には「事物の摂理・本質」が内在している、教育者としての孔子はそのことを弟子たちに伝えたかったのでしょうが、秀才の子貢でさえ、このことがよくわかっていなかったのでしょう。
 『易』に、「言は意を尽くさず」とあるように、言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する、そういうおそれが孔子にあったのでしょう。納得です。アドラー心理学の基本前提(理論)に「認知論(今は“仮想論”)」というのがあります。「認知論」という名称が「仮想論」になったのは、アドラーの原点に戻って表現を変えたのだそうですが、その違いは次のように説明されました。
 まず、「外界」があって、人がそれを「知覚」します。その「知覚像」に「言葉」がくっついて「意味づけ」することを「認知」と言いました。
「仮想」はどう考えるか?まず、漠然とした「外界」(カオスでしょうか)があって、人は「言語」でもって外界の部分部分を切り取って、自分の主観的世界を形成するのだそうです。その世界は「実物」の世界でなく、「仮想」の世界です。そして「言語」でできていますから、「言葉」を正確に使わないと世界が正しく見えないです。「言葉の限界が世界の限界だ」と言ったのは論理実証主義のウイットゲンシュタインでした。主観的世界よりも「外界」のほうが広いですから、当然、人知の及ばない未知の世界が存在するはずです。このことが孔子の言う、「言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する」ということなのでしょう。仮想論のおさらいになりました。感謝です!

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攻撃的・復讐的な相手には?

Q0333
 相手が攻撃的になったり、復讐的になったりしたときにはどうすればいいんでしょうか?

A0333
 われわれがいかに主張的であろうと努めても、相手が攻撃的になり、復讐的になるときがあります。そのときには相手は、権力闘争を仕掛けているのです。相手が権力闘争を仕掛け、こちら同じように攻撃的になりたい気持ちがあるときの対応は、そこから降りることです。その場をとにかく離れて、一旦「非主張的」になって、自分が冷静でいられるように、すべてのコミュニケーションを打ち切ることです。復讐的に打ち切らないで、非主張的に打ち切ってください。そしてしばらく時間をおいて、冷静に話せるかどうか、自分自身に確かめ、また相手にも「さっきのお話について、さっきは感情的になってしまったから、少しお話がしにくかったんだけど、もう一度冷静に聞いていただけますか?」というふうに問いかけてみて、冷静に話ができる状態を作ってから話をするのがいいと思います。
 攻撃的なコミュニケーションを続行すると、最終的には必ずどちらかが復讐的になって、悪い後味を残して、2人の関係全体を悪くします。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

18,子曰く、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽を乱るを悪む。利口の邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すを悪む。

 先生が言われた。「混合色の紫が、原色の朱の美しさを圧倒することを私は憎む。扇情的な鄭の音楽が調和の取れた古典音楽を混乱させることを私は憎む。まことしやか(小利口)な表面だけの弁舌が、国家を転覆させることを私は憎む」。

※浩→中国の古代では、赤などの原色を「正色」、紫などの混合色を「間色」とし、正色を尊びました。孔子は、移りゆく時代を感覚的に捉えて、さびしく挽歌を奏でています。新しいだけのまやかしが、厳格な調和を持った古典の世界をつぶしていくのを見るに堪えなかったのでしょう。過去への復帰を唱えると、『老子』になっていまいますが、孔子も「温故知新」と言っています。老子の場合はもっと極端に「原始」まで遡り原初に復帰することが「道」の実践であると考えました。私は、公私苦難の時節に『老子』を読み耽り、その逆説的人生観を試みることで救われた体験があります。『老子』に出会うきっかけを与えてくれたのは、備前高校時代に親交のあった窯業科(のちセラミック科)の若手教師・藤井良勝先生です。大阪出身の方で、やがて大阪府に転出されましたが、その後どうなさっているでしょう。もちろん、現在は定年退職されているはずです。当時、備前高校は普通科5クラスと工業科4クラスが合体する大規模校でした。ただ、普通科は全県学区で、隣町の邑久町(現・瀬戸内市)の邑久高校が学区制で、大学進学にはこちらのほうが向いていて、備前市からも進学希望者の多くが邑久高校へ行き、備前高校普通科は一段下に見られていました。いくつか事件もありましたが、前にも言いましたように職員の結束は強く、和気藹々とした職場でしたから勤め心地は抜群でした。窯業科(現・セラミック科)にはいわゆる“猛者(もさ)”とされそうな連中もけっこういて、授業にも一苦労しました。その窯業科の若き教師・藤井先生は、春風駘蕩という四字熟語がぴったりの好男子でした。校長がときどき全教室を巡視していました。やさしい藤井先生の授業は生徒たちもリラックスしていてか、けっこう騒がしかったようです。あるとき、廊下を校長が近づいてくるのに気づいた藤井先生は、生徒に改まって言いました。「頼む、静かにしてくれ。校長に見られたらわしがクビになる」と。すると、それまで騒がしかった教室が、瞬く間にシーンと鎮まりました。この先生が、生徒たちに愛されていることはこれでよくわかります。この先生が、『老子』を愛読されていて、私にも紹介してくれました。それ以後、私の愛読書になりました。ところが、ずーーーっとのちになって、野田先生から、老荘思想は土着思想だと教わって、ガーンとショックを受けました。孔子の思想はクリエイティブで、その土着化したものが老荘だとおっしゃるのです。その論拠は、「万物の根源」を認めているからです。老子は「万物の根源は道である」と説きます。それで、不本意ながらずっと遠ざけていましたが、「道」の解釈はさておいて、後編の「徳」の側には学ぶべきことが多々あります。その逆接的な“したたかな”生き方が、乱世を生き抜くには向いているのです。今の世の中は、どう見ても「乱世」です。

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主張的だと要求が通るか?

Q0332
 主張的に表現すると、どんな要求でも通るのですか?

A0332
残念ながらそうではありません。主張的に要求すると、自分の要求が通る可能性は、攻撃的に要求する場合よりもたぶん増えます。
 多くの人は誤解していて、攻撃的に要求したほうが要求が通るだろうというふうに思っていますが、実際にやってみると、主張的に要求したほうが、相手の側はその要求を聞いてあげたいという気持ちが増えて、かえってその要求は通りやすくなることがあります。それでも百パーセント通るわけではありません。なぜならば、人間の利害関係というものは、どこか対立するところがどうしても残ってしまうからです。
 あらゆる努力をして、主張的であって、かつ要求を通すことができなかった場合には、攻撃的になるよりはその主張を一旦引っ込めて、のちほどまた工夫をして、別の言い方を考えてみて要求することをお勧めします。(回答・野田俊作先生)

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