Q
以前、母が献体したいと言いました。同意しませんでした。今でもはっきりと答えを出すことができません。献体をどうお考えでしょうか。
A
絶対必要ですから、させてあげてください。献体はすごく大事です。私は医学生で2体解剖させていただいた。6人で2体だから、ひとりあたり1/3。ひとりは刑務所で亡くなられた老人。もうひとりはたぶん献体だろうと思う。
阪大医学部解剖室には額があって、「屍は師なり」と書いてある。医者にとって最初の先生は献体された死体で、そこから膨大な量を学びます。1体を解剖するのに3か月。大学に入って3年目の5月から1回目の解剖です。11月から2回目。
今、死体の数が決定的に足りない。行き倒れの方とか身寄りがなくて病院や刑務所で亡くなった人をいただいているが、それでも足りない。一般の方の献体がどうしても必要。一生に2体しか解剖できないんです。手術では全部見られない。病巣の部分だけしかね。人間の体を端から端まで全部見るチャンスは、普通の医者には人生に2体分しかないんです。その2体分がないので困っている。日本はまだマシで、欧米諸国はお猿さんでしている国がだんだん出てきている。ぜひ「白菊会」に電話してください。
僕らの体はみんないろんな人のおかげで一生使えるんです。ご飯食べたのも誰かが作ってくれたから。みんなからたくさん恩をいただいて生きている。死んだらできるだけ返しておいたほうがいい。大変上手な返し方が献体です。次の世代の医者を作るわけですから。看護師さんも薬剤師さんも見学に来る。物療、鍼灸も来る。たくさんの人の役に立ちます。場合によっては骨格標本とかでもっと長い時間役に立ちます。お預かりして解剖に回して、最終的には学部でお葬式してお骨にして返してくれる。おうちのお葬式は空っぽのお棺でやってもらう。棺桶に死体を入れて灰にするのはもったいない。ただ焼くだけよ。それが何人かの医学生の役に立って、さらにその人たちが将来たくさんの人を助けていくなら、もったいなくない使い方です。反対する理由がわからない。
魂は体に宿っているわけではないから。仮に死後に生命があるとしても、仏教でもキリスト教でも、体から抜けていく。体は死後はただのモノですから、できるだけ有効に使ったほうがいいです。(野田俊作)
あらたしき年のはじめ
2002年01月01日(火)
わはははは、とうとう一年書き続けたぞ。ネタが切れて困ったこともあったけれど、困ったことよりも楽しかったことのほうが多かったように思う。今年も一年、楽しんで書いていこう。
話は変わるが、元日は、実家に挨拶に行くことにしている。母と、3人の息子と、その子どもたちが一同に集まるのは、一年でこの日だけだ。といっても、今年は、私の上の娘が来られなかった。1日から仕事なのだそうだ。真ん中の弟の上の娘も、お昼ごろ、仕事に行くといって出て行った。元旦から仕事に行かなければならない時代になったんだ。
むかし、まだ小学生のころ、正月の3日だか4日だかにパンが食べたくなったのだが、パン屋が5日だか6日だかまで休んでいて悲しかった思い出がある。今は1日からコンビニもあいているし、スーパーマーケットでさえあいているところがある。これはいいことなんだか悪いことなんだかわからない。便利だからいいじゃないかとも思うが、「ハレ」としての正月が「ケ」としての日常に犯されている気もする。
ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。あれこれ勝手なことを書きますが、ご愛読いただきますように。
正月早々
2002年01月02日(水)
元日だけは飲んだくれて、今日から論文を書いている。社会構築主義とアドラー心理学の関係の論文なのだが、この社会構築主義(social constructionism)という用語がけっこう面倒くさい。ガーゲンというその筋の権威によると、社会構築主義とそれに類似の名称がたくさんあって、それは次のように区別できるという[1]。
根源的構成主義(radical constructivism):合理主義哲学に深く根をおろした観点で、現実であると考えるものを個人の心が構成する方法に注目する。クロード・レヴィ・ストロースやエルネスト・フォン・グラザーフェルドなどはこの立場だと考えられている。
構成主義(constructivism):より穏健な見方で、心が現実を構成するが、それは外界との系統的な関係の中においてであると考える。ジャン・ピアジェやジョージ・ケリーなどの名前がこの立場と関係づけられている。
社会構成主義(social constructivism):心が現実を自分と世界との関係のなかで構成するとき、精神過程は主に社会的関係に影響された情報をうけとるという議論。レフ・ヴィゴツキーやジェローム・ブルーナーの仕事がこのアプローチの例である。セルゲ・モスコヴィチと共同研究者たちの「社会概念」に関する仕事もしばしばこの立場をとるが、個人が参加しているより大きな社会的慣行に着目点を置く。
社会構築主義(social constructionism):自己と世界を分節するための媒体としての言説と、そのような言説が社会的関係性の中で機能する方法とに第一義的な着目点がある。
社会学的構築主義(sociological constructionism):社会的構造物(たとえば学校や科学や政府)が人々の上に行使する権力が自己と世界の理解に及ぼす影響を強調する。アンリ・ジルーやニコラス・ローズの仕事が例である。
また、次のようにも説明している[2]。
「構成主義」という言葉と「構築主義」という言葉を多くの学者は相互に変換可能なものとして使う。しかしながら、本質的な違いがあることも理解していただきたいのだが、構成主義者にとって世界構築の過程は心理学的なものであって、「頭の中で」起こるのである。これに対して、社会構築主義者にとっては、われわれが現実だとうけとるものは社会的な関係の産物なのだ。これは知的にも政治的にも小さな違いではない。構成主義は西洋の個人主義の伝統と同盟して、個人の心が関心の中心になる。しかし、多くの構築主義者は個人主義的伝統に対して批判的であり、理解や行為の関係主義的な代替案を探求している。
ううむ、わかったような気もするが、よくわかっていない気もする。ともあれ、私はいったいどれなんだろう。ピアジェやケラーの構成主義は認知主義の一種だから、コミュニケーションを重視する私の考えとは似ていない。ガーゲンは、フーコー風の権力の分析を社会学的構築主義と呼んで、社会構成主義から分離しているが、もしそうなら私は社会構築主義に近い。しかし、社会構築主義者は、単一の、統合された固定的自己をもつ人々の代わりに、おそらくわれわれは、断片化されていて、お互いに必ずしも調和しない、多数の潜在的諸自己を持つのだ。
と言うが[3]、私は複数の自己(ペルソナ)は認めるが、それらの背後に単一の、しかも合目的的な無意識を想定しているので(そうでなければアドレリアンでなくなる)、そうなると合理主義者でかつ個人主義者あって、ポストモダンとはいえず、構成主義者に近いことになる。ううむ、なかなか複雑だな。そんなことを正月早々考えなければならないので、酒びたりというわけにもいかない。
[1] Gergen, K.J.,: An Invitation to Social Construction. Sage, London, 1999, p.60.
[2] ibid., p.237.
[3] ヴィヴィアン・バー著,田中一彦訳『社会的構築主義への招待』川島書店.
浩→野田先生のお正月は凄い!
Q
ボケ老人との上手なつきあい方はどうしたらいいでしょうか。夜中に押し入れをガサガサ引き出し、物がなくなったと騒ぎます。
A
一緒に探すのを手伝ってあげてください。
僕たちはどんな場所に住んでいるか。思い込みの世界に住んでいるんです。『人生の意味の心理学』の冒頭に、「われわれ人間は意味づけの世界に生きている」と書いてある。
ボケた老人はボケた老人の思い込みの世界に住んでいて、それ以外の世界はない。ほんとは僕らも思い込みの世界に住んでいて、僕らの思い込みから見るとボケ老人の世界は変だけど、ボケ老人から見ると僕らの世界が変なんです。お互い様よ。動物園でチンパンジーを見て「こいつらバカだな」と思うが、向こうも人間を見て「バカだな」と思っている。どっちがより正しいか。正しいということはない。「あなたのやっていることは間違っているから」と言って訂正しようとしても無駄です。ボケ老人はボケ老人の体験しかないから、訂正のしようがない。それを無理やり訂正しようとすると彼らのメンツをつぶします。老人は体面・体裁・メンツが大事。若い人はイロ・ヨク・メンツと、性欲も金銭欲も他の諸欲煩悩がある。老人は体面しか欲がなくなってくる。老人のメンツをつぶすと全人格を否定することになるから、体面をつぶしてはいけない。
それでも一生懸命に老人の妄想を否定すると権力闘争になる。そのうち復讐になると、しっかり復讐してくれる。夜中に抜け出して変なことをしたり、親戚中に電話して「うちの嫁は飯を食わしてくれん」と言う。妄想を否定しないこと。どうするか。信じてつきあうこと。「物がなくなった」「おお、えらいこっちゃ」と一緒に探す。2,30分すると「ないなあ。もう寝ようか」と言う。「なかったねえ。また明日探そう」と寝たら、明日には忘れる。
老人と同じレベルに立って、同じようにものを見て協力してつきあうとうまくいく。実例がいっぱいある。かなりボケがひどくていろんな行動があった人も、そうやって家族がつきあっていくことで、うんとつきあいやすくなる。ボケが治りはしませんけど、無害なボケになります。(野田俊作)
2001年の五大ニュース
2001年12月31日(月)
パートナーさんは、毎年「今年の十大ニュース」というものを発行する。今年は、写真入りで8ページ、なかなか充実した内容だ。それに習って、私個人の十大ニュースを考えてみたが、十はないな。五大ニュースで勘弁してもらおう。
まず第1は、エリクソン催眠を「解禁」したことだ。研究室時代、日本にエリクソン催眠をはじめて紹介された高石昇先生のゼミにいた。その後、アドラー心理学にかぶれて、エリクソン催眠を封印した。あれこれ事情があって、封印を解くことにした。今まではボクシングでパンチしか許されていなかったのが、キックもあり投げ技もありの総合格闘技になった感じで、とても自由だ。
第2は、論文がまったく書けなかったことかな。年に3報は論文を書こうと、なんとなく思っているが、今年は忙しすぎた。書くのは速い方だが、今年ほど忙しいとさすがに書けない。来年は、和文3報、英文1報、本1冊はがんばりたいな。
第3は、コンピュータまわりのさまざまの出来事だろう。年頭にこの「補正項」をはじめた。「ムキになっているだろう」と何人もの人から言われながら、とにかく1年間、毎日書いたな。これはちょっとスゴいぜ。Perl言語でCGIを書くことができるようになった。JavaScriptは去年から使えたのだが、これでイタズラの能力があがったわけだ、うふふ。10月の日本アドラー心理学会総会では、Power Pointでスライドを作って面白かったな。これは、味をしめちゃったな。年末にはウィルス退治で悩んだよ、ほんとにもう。
第4は貧乏。今までの人生でいちばん貧乏じゃないかな。父が死んで葬儀費用も要ったし、母の面倒をみなければならなくなったし、その他にもあれこれ事情があって、収入が少なく支出が多いことになってしまった。しかし、仏さまが私を生かしておこうと思っていらっしゃるなら生きていれるだろうし、ころそうと思われるなら何をしても死ぬだろうと思って、あまり気にしないで暮らしている。来年もまあそういうことになるだろう。こんな風だから、当分、貧乏は続くと思う。
第5は、貧乏のわりには遊びが充実していたことかな。パラオ諸島に2回行ったし、沖縄も3回も行った。沢登りも、滝を登るだけじゃなくて、滝壷を泳ぐことにして、ずいぶん冒険性が高まった。来年は泳ぎのある沢登りをいくつも計画している。釣りも、北は新潟のイワナ釣り、南は西表島の川釣り、さらにはパラオの南洋アジ釣りと、あれこれ面白かった。来年は沖縄県与那国島での大物釣りを予定している。
Q
最近世界的に、内面的の美しさよりも外面的な美を大事にする傾向がありますが、これについて意見はありますか?
A
別に意見はない(笑)。きれいなお姉ちゃんは素敵なことだと思う。個人的なことはともかくとして、アドラー心理学の立場から考えると、現在の状態が具合が悪くて、将来の状態が具合良くて、相対的プラスに到達しようとする。現在が相対的マイナス。「人間というのは相対的マイナスから相対的プラスへ行こうとするんだ」とアドラーは言った。アドラー心理学はいつも到達の方法・手段にかかわっている。例えば育児の問題を取りあげると、子どもを最終的に学校の成績を良くしたいとか、運動を上手にしたいとか、友だちとちゃんとつきあえる子にしたいとかいうふうに親が願っているとして、僕たちはそれに反対しない。いいことですから。ただその方法として、強圧的な方法、賞や罰を使う方法、子どもの意志を無視した方法は困ると言うんです。
究極的な価値観、何がいいことか悪いことかは個人の哲学だから、アドラー心理学がかかわれる問題ではないだろうと思う。お仕着せで「これは良いことです。これは悪いことです」という言い方はやめたいと思う。価値観というのは、善い悪いの判断、美しい醜いの判断など。学校でお勉強ができるのはよいことだと親が思っていたら、それは親にとってよいことで、僕らがそれに反対する筋合いはない。お勉強なんかどうでもいい、運動さえできればいいというのも、それはそれでいいことで、反対する筋合いはない。
同じように、外面が美しいのはいいことだと誰かが思っていたら、それに賛成する筋合いも反対する筋合いもないので、それはそれで結構。ただ、そういう目標を達成するための手段が適切な方法であってほしい。まわりの人に迷惑かけない方法であってほしいと思う。
この話題は、個人的な価値判断の問題で、別段そう一生懸命にみんなで考えなくてもいいんじゃないか。内側のことは放ったらかしてでも、心の中はドロドロでも、見かけさえ良ければそれでいいと主張している人がいたところで、社会問題ではないだろう。ただ、私の好みではない。内側さえきれいなら外側はばっちくてもというのもあんまり好みじゃない。(野田俊作)