Q
最近、スピリチュアルに関する話や本が多くなりましたが、アドラー心理学で言うスピリチュアルとはどのようなものなのでしょうか?共同体感覚を作っていくために、今後はスピリチュアルが大切になってくるのでしょうか?
A
ここで「スピリチュアルワークに出てよ」と言うと儲かっていいんだけど、まあ出てほしいのは出てほしいんです。今年は5月に熊野でやって、そのあと9月だったかに島根県でやるんです。スピリチュアリティーというのは悪い言葉です。悪い言葉というのは、実態を言い表していない言葉だから。スピリチュアルというのはもともとキリスト教の、「父と子と精霊」の「精霊」を表す言葉ですから、何かそのある霊的なものを表す言葉で、全然良くないと思う。実態を表さないけど、西洋の言葉にはあれしかないんです、それを表す単語が。それでアメリカ人やイギリス人が「スピリチュアリティー」という言葉を使っています。もっとも日本語にも言い表す言葉がないんです。その概念が新しすぎるから。ではその新しすぎる概念の中身は何かというと、これがよくわかってないんです。だって、わかってたらそれについてワークショップする必要ないもん。今までのデカルト・パラダイムが言っている、私と世界が別々のものだとか、物と心が別々のものだとか、世界というのは死んだ物質の集合だということね。今の科学の考え方では、世界というのは分子の集まりなんです。その分子の集まりというのは、究極的には死んでるわけね、分子の一個一個は。たまたまある形に組み上がってある運動をしているのを、僕らがたまたま生きていると思い込んでいるんです。生きていると思い込んでいるけど、実態は単なる分子の離合集散なんです。これがデカルト・パラダイムの考え方だと思うんです。その考え方が結局、この世界が生きたものとして、意味あるものとして、価値あるものとして見ることをできなくしていっていると思う。海があって、海というのは水とか砂とかのいう死んだものの集まりだから、そこを埋め立てて工業団地を作ればいいじゃないかと考えるんです。でも海というのは生き物なんで、生き物の一部を僕らが改変すると、生き物の命が変わるんです、ほんとはね。海の中に住んでいる動物や植物が変わるだけじゃなくて、海というものそのものが生物なんですよ。あるいは川を堰き止めてダムを造ったら水源にもなるし水力発電もできるけど、そんなことしたらダメなんで、いわゆる生態系も壊れるけど、川そのものも生命なんです。そんな考え方は、日本人は凄く馴染みがあるんです。昔から神道はそんなふうに考えてきたわけです。石とか山とか川とかを神様だと思ってきた。その考え方をスピリチュアリティーと言うんだと思う。生きた世界。分子の集合の死んだ世界じゃなくて世界そのものが生命を持った全体だということが1つ。それから、物と心とは分けられないんだということ。あるいは、科学と価値は分けられないんだということ。やること全部について価値観がついているんだということ。それから、私と世界は分けられないんだということ。世界を変えるのは私を変えるということだし、私とまったく関係なしに世界を変えることはできないんだということ。そういう有機体的なというか生物学的なというか、生態学的なというか、ある意味では詩的なpoeticな、ある意味ではドラマティックな世界観ね。それをスピリチュアリティーという言葉で言い表していると思うんです。でもそれは中世以前の宗教的な世界とは本質的に違うと思うんです。というのは、宗教的な世界は、見えないある力があって、それが神であれ仏であれ運命であれ、見えない力があって世界を動かしていると思っていたんです。でも、今スピリチュアリティーを語る人たち、ほんとにまじめに語っている思想家たちは、その見えない力を信じてないんです。神とか霊とかが僕らの世界を動かしているとは思わない。僕らの世界は僕らの世界自身として生命活動を営んで有機的に動いていると思う。ですから昔へ戻る気は全然ないんです。多くの人たちがスピリチュアリティーについてだいたい1970年ごろから語り始めました、いろんな分野で。当然こういうのはまわりにインチキの人をいっぱいくっつけるんです、いつもそうですけど。霊媒師みたいな人とか、占い師みたいな人とかがまわりにくっついてお商売して儲けるんです。しょうがないです、そんなもんです。でも中核にあるアイディアはそういうこと。デカルト・パラダイムを乗り越えようということ。生きた世界を見つけ出そうということ。世界は、一体として自分を含んだ一体として生きている世界を見出そうということ。その中での暮らし方を考えようということ。今までみたいに、結局のところ、自分自身もよくわからないんですよ。僕、医学部に行きまして、「命って何ですか?」と教授に訊いたら、「そんなことを考えてはいけない。それは生気論(アニミズム)と言って否定されたんだ」って。西洋ではかつて、生気・霊気・アニマというものがあって、それが取り憑いている状態が生きてるのであって、アニマが取り憑いてない状態は生きてないということになっていたんだけど、科学が発達して、すべての存在には重さがあるということがわかった。それで、死にかけている人を秤にかけて、死んだ瞬間にアニマが抜けるはずだから急に体重が軽くなるだろうと、本気で実験した学者がいるんです。死んだ途端に軽くならないんです。だからアニマはないということが証明されてしまって、生命について科学者は問うてはいけないんです。(つづく)
Q
性犯罪者などの犯罪者に認知療法で更生させるという動きがありますが、どう思われますか?
A
あのー、私たちは「本人が望まない治療はしない」ことにしているんです。性犯罪者が自ら「性犯罪をやめたい、にもかかわらず自分はつい性犯罪をしてしまう傾向があるので治療を受けたい」と言えば、喜んで引き受けます。でも、そうじゃないのに国が心理学を使って彼らの思想改造しようとしているとしたら、それは国家の暴力のとても洗練された使い方だと思う。だからあんまり賛成じゃないんですよ。性というものについて、われわれがもう1回ちゃんと考え直さないといけないと思う。社会のシステムそのものが根本的に問題があるんだけど、一方で性的な刺激を今、山ほど公開しているんですよ。インターネットポルノ画像なんか、これでもかこれでもかで、映倫カットも何もあったもんじゃなくて、もの凄いものが出回っている。そんなの誰でも観られるんです、一方でね。で、一方で表面上、売春防止法を堅持いたしまして、それで「売春なんかありません」と言って、売春・風俗へ行って女の子と遊ぶというのは非常に恥ずべきことで、とうてい人前で言えることじゃないという社会風土を作っているんです。これ大事よ。江戸時代や明治路時代に遊郭へ遊びに行ったってなんら恥ずべきことじゃなかったんです。男たちが、ちょうどそのへんの居酒屋へ飲みに行くように、「ちょっと遊郭へ行こうや」って行ったんですよ。だからそこの思想の変化って凄いんです。別に遊郭が良いと言っているんじゃない。一方で性的な素材をバンバン開放しておきながら、一方でそれを、モテない男だって世の中にいるじゃないですか、正常な形で女の人たちと交際して性的な関係に入れない人たちの性欲の処理を一方で禁じておいてね、一方でどんどん煽ってね、それで変な形で性欲の処理をすると逮捕して、あるいは拘置してみたり、あるいは認知療法をしてみたり、なんか社会の根本的な問題点を覆い隠して、そういう心の弱い人に全部責任を押しつけていると言えば言えないことはないと思いませんか。もう少し性的なことについても、それから職業についても学問についても、人間と人間の関係についても自然との関係についても、冷静に考え直してみると、犯罪というのは社会全体のひずみの中で増えるんだと思う。犯罪心理学者もみなそう思っている。神経症だって社会全体のバランスが崩れているから増えるんだと思う。健康な社会ではそんなにないと思う。もちろん犯罪者はいるんです、どんな時代にも。どんな時代にいるけど、今みたいに奇妙なというかグロテスクな犯罪がたくさんあった時代って少ないんです。それはやっぱり社会の変態さ、社会の奇形が個人個人に反映しているんだと思うから、犯罪者を責めるよりも社会のシステムを変えていくほうを考えたほうが賢いのではないかと、まあ思います。「うちの家から性犯罪する子を出さないでおこう」とみんなが思うしかさしあたってはしょうがない。よその犯罪者に対してその人たちが僕らに治療を求めていない状況で何もすることはできないから、たった今僕たちが何かするという話ではなかったけど、時間をかけて新しい時代に向かってアドラー心理学ができることを、アドラー心理学を学んでいる人たちができることを考えていきたいと思う。
物騒な話題のため、この掲示板に投稿を拒否されました。↓でご覧ください。
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-05-01.html
Q
キレやすい子が増えたと言われますが、全国的に増えたり減ったりするものでしょうか?そんなに増えているということは、世の中が悪くなっていっているんでしょうか?
A
悪くなっていっていると思います。われわれは間違った教育をしているから。キレるって何かといったら、自分の直接的な欲求・欲望があって、それがすぐに満たされないと辛抱できないということじゃないですか。つまり、辛抱するとか我慢するとか堪えるとかいう理由を何も思いつかないんですよ。僕たちは辛抱する理由をいくらか思いついたのでキレないですんだんですけど、今の子どもたちは「なんで辛抱せなアカンのか」わからないんです。親とか教師とかも、彼らに納得できるように辛抱せなアカン理由を言えないんですよ。だって僕らは蕩尽(とうじん=贅沢)し尽くしているもの。贅沢し尽くしていて全然辛抱してないもん。欲しいもの皆買っているもん、結局。それで子どもたちに「我慢しなさい」は何も意味がない。言っていることに意味がないじゃないですか。だから辛抱する理由が何にもない。
彼らに人生の意味をまったく教えてないと思う。人生の意味というのは、歴史の中にあるか、空間の中にあるか、私の中にはないんです。私だけを歴史とか社会とかから切り離して、ポンと取り出して、「あなたなんで生きてるの?」と言ったら、誰もわからないんです。例えば昔のお侍は人生の意味を持っていたと思うんです。家というものがあって、家というのは凄い抽象的なある存在なんです。この間読んだ小説は、十八代か前のご先祖が徳川家康さんの影武者で、その徳川家康さんのところへ真田幸村が来てころそうと思ったときに、家康になりすまして死んだんです。その功績でその子孫は代々旗本として、影武者の鎧の掃除をする係になって、江戸城へ午前10時に行って午後1時に退署してくる、良い商売ですね、1日に3時間しか働いてない。その鎧を磨いていればいいわけだ。十八代、ずっと鎧を磨くだけで暮らしているんです。この人たちは生きる意味はある、何はともあれ。十八代前のご先祖様の名を汚さなず、将来将軍がまた戦争に鎧を着て行くことがあれば、自分も影武者となって立派に死ぬということのために一生を生きて、誰も死なず。いよいよ明治維新になれば、誰も鎧なんか着ず、影武者もいらず、この人たちは意味なくなっていくんだけど、そういう家とか歴史とかいうものの中に意味を見出した時代もありました。それから国家とか社会とかの中に意味を見出した時代もありました。それからついこの間まで、会社とかの中に意味を見出した人もありました。妻や子どものために意味を見出した人もありました。「今は何よね?」というと、今は何もないんです。今僕たちが命を捧げるべき国もなく、誇りに思う家もなく、そんなら辛抱する理由は何もないじゃないですか。だからわれわれのもっと大きなもの、この世界全体、アドラーの言う共同体というものを小さいときから子どもたちに教え、あなた方に役割があって意味があることを伝えていかないと、そりゃキレるわ。
Q
仏教で言われている輪廻転生説(個人にもある)と野田先生が主張されている輪廻転生説についてもう少し詳しく教えてください。キリスト者の復活とはまったく違うように思われますが、いかがですか?
A
あのねえ、仏教の輪廻転生説がわかっている人はほとんどいないんですよ。輪廻転生説についても、インド仏教で7、800年ずーっと議論があったんです。というのは、ヒンドゥー教の輪廻転生説はもの凄いわかりやすいんです。ヒンドゥー教は「アートマン(我)」という自我の存在を認めますので、死にますと体からアートマンが抜け出して、それで次の体へ宿るんです。ところが仏教はアートマンの存在を認めないんです。アートマンの存在を認めないと、いったい何が輪廻転生するのかということが大問題になるじゃないですか。体が輪廻転生しないことはきわめてはっきりしているんです。アートマンがないからいったい何が輪廻転生する?説は「カルマ」が輪廻転生するんです。「カルマ」というのはつまり「私のしたこと=業 ごう」が輪廻転生するんです。私のしたことが輪廻転生するなら、私がさっき言ったこととまったく一緒なんです。私の体も私の心も輪廻転生しないけれど、この世界に対して私の行った仕事が、次またどこかで誰かに引き継がれて仕事をしていくわけで、カルマが転生するんです。だから僕が言ったのはまったく仏教の説と一緒なんです。キリスト教のは肉体の復活を言っていますから、ヒンドゥー教よりもまだレベルが低いと思う。ヒンドゥー教徒は「体は変わる」と言う。アートマンはあっちへ行く。肉体はだから滅びるものです。これはインド人の共通認識なんです。だからインド人は死んだら体は焼いちゃうんです。もう意味はなくなったから。体は単なる容器にすぎないから、置いておいてもしょうがないので、焼いて、日本人は「骨」はちょっと残しますが、インド人は全部ガンジス川へ流しますから、あと何も残さないんです。だからキリスト教徒は全然違うと思いますね。