チキンスープ
2002年01月09日(水)
Jewish mother(ユダヤ人の母親)という英単語は「過保護ママ」という意味だ。実際、私が知っているユダヤ人の女性は、みんなものすごく過保護でおせっかいだ。そういうユダヤママの息子が風邪をひくと、ママはチキンスープを作る。日本人は「うどん屋くすり」などと言ってウドンを食べる人が多いようだが、同じような感じだ。アメリカにいるとき、実際にあるユダヤ人のおっかさんに作ってもらったことがある。そのときは風邪は引いていなかったんだけれど、そんな話をしていたら、「作ってあげる」と作ってくれたのだ。一杯飲んでだら、すぐに次を注いでくれた。それを飲むと、また注いでくれた。こうして、いくらでもいくらでも飲まされてしまうのだ。ユダヤママはとても怖いので、「もういらない」と言えなくて、苦しくなるまで飲んだ。実際のユダヤボーイも同じ目にあうようだ。
風邪がなかなか治らないので、自分でユダヤママ風チキンスープを作って飲もうと思ったが、レシピがない。あ、そうだ、職場に"How to be a Jewish Mother"(ユダヤママになる本)というすごいものがあって、あれに書いてあったはずだ。しかし、今日はせっかく休暇をとったのに、職場まで出て行ってはなにもならない。ええい、記憶で作ってしまえ。そうして、鳥のササミとカブラとタマネギとセロリとキャベツを、白ワインとチキンブイヨンで煮て、ショウガとニンニクとサフランとたっぷりの黒コショウで味つけした。あまり本物と似ていない気もするが、これはこれで悪くないな。ちょっとチャンコ鍋ふうではあるが、とにかく風邪にはよさそうだ。
貧乏自慢
2002年01月10日(木)
風邪が長びいていて、なんだか陰気な気分だ。折も折、小田原にいる上の娘のホームページのWeb日記に、次のような記事があって、いっそう陰気になってしまった。
寒いです~。昨夜、窓際に飲みかけのお茶を置き忘れて寝たら、ぱっちり凍ってました。
あうあうあー
家の前のよくぬかるむ砂利道もしょっちゅう凍ってます。
あんなところで滑ってこけたら、ものすごーく痛いんだろうなぁ(T-T)
金欠著しい今日この頃、NHKの集金をバックレ、水道の請求をバックレ、そういえば国保もバックレたので保険が切れたにゃあ(笑)。でも現金ないんだもーん。こういう時には事故に遭いたくないもんだとしみじみ思うのであった。
これは復讐しなければと思い、他の用事もあったのでメールを書いた。
貧乏だそうで大変ですね。しかし、貧乏なら負けないぞ、えっへん。競争してどうするんじゃ(^_^ゞ。
(用件があって)
お正月から風邪をひいていたのだけれど、予定がいっぱい入っていて休めず、昨日と今日はようやく休暇がとれたので、できるだけ寝ているようにしていました。熱はないし、全身はそんなにつらくないのですが、何か飲み込むと咽喉がいたいのと、咳をするとき頭が痛いのと、夜中に咳が出るのとで、参っていました。でも、今日の夕方あたりから、だんだん人間みたいになってきました。
あなたも風邪をひいたりしないように気をつけて「たんぱく質」をたくさん食べてくださいね。それと「植物繊維」もね。
そうすると、めずらしくすぐに返事があった。
何故貧乏・・・・あー不思議だなー(遠い目)。
(用件の返事があって)
>お正月から風邪をひいていたのだけれど、予定が一杯入っていて休めず、昨日と今日はようやく休暇がとれたので、できるだけ寝ているようにしていました。
おうおう、この時期の風邪は治りづらいのでしっかり治してください~。
咳き込むと頭がガンガンする風邪ってつらいですよねぃ(T-T)←喉風邪のプロ(笑)
ショウガ&蜂蜜入りの紅茶とか飲むとけっこー早く治るきがします~<ショウガはS&Bとかのチューブいりのやつで(笑)
私は年末にもう風邪をひいたので(笑)今シーズンは大丈夫のような気がします。タンパク質と繊維質……食べたいでーす。鍋への親和性が高まる今日この頃。お豆腐鍋らぶ~~♪材料費安いし。
しかし、現金が極端にない(保存食はそこそこある)状態なので蛋白質摂取はむずかしいのです(笑)ぴーんち。
というわけなのでした(^-^;)。
保存食があるならいいか。それに、蓄積脂肪もそれなりにありそうだし。作家志望なので、すこしは苦労したほうがいいし。
娘とは、ずいぶん前からメールで話をしている。しかし、彼女はなかなか返事をくれない。そりゃそうだろうね、親父からのメールは、そんなにうれしくないだろうから。しかし、最近Web日記をはじめてくれたので、とにかく生きていることだけはわかって安心している。お互いいくら貧乏でも、アフガニスタンの難民じゃないんだから、餓死することもないだろう。
風邪薬
2002年01月11日(金)
これは昨日のことだが、パートナーさんが仕事から帰ってきて、「京の都より、ありがた~いお薬が届きましたぞよ。いざ、召し上がれ」と、へんな抑揚をつけて言うや、ビンに入った水薬を出してきた。「なんですか、これは?」というと、共通の友人がくれたのだそうだ。その知り合いの彼女は漢方薬フリークで、この日記の風邪の記事を読んで、「咳が出るんだったら、葛根湯は効かないわ」と、懇意の漢方薬店で生薬を買って、それを煎じて、パートナーさんの職場まで届けてくれたのだという。ありがたくいただくことにしたが、しかし、医者に薬をくれるとは奇特な人だ。
「ところで、『京の都』ってなあに?あの人は、京都の人じゃなくて、大阪の人ですよ」とパートナーさんに尋ねると、「ただ言ってみただけよ。『京の都』より、漢方薬だから『唐の国』のほうがもっとよかったかな」などと言っている。
薬はたしかに効いた。しかし、残念なことに効果は一時的だ。この薬だけじゃない、風邪の薬はみんなそうだ。漢方薬も西洋薬も、その点では同じだ。飲んで、体内に薬がある間だけは、症状はおさまっている。しかし、数時間して排泄してしまうと、またぶり返してくる。病原体と身体とのやりとりが一通り滞りなく終わるまで、風邪は治らない。薬は症状をいくらかやわらげるだけだ。
それでも、飲んでいれば、その間だけは楽だ。今日は、カウンセリングの予約が入っていたし、その後、夕方は新年会だったので、とにかく薬の力で生き延びた。新年会も、アルコールは飲まず、一次会だけで失礼した。明日から広島と福岡へ出張だしね。
Q
罰を与えることと責任を取らせることの違いを教えてください。
A
責任という言葉は日本では間違って使われている。
あるお医者さんが講演で、「登校拒否は親が悪い。全部親の責任だ」と言った。それを聞いてたお母さんが、あとで私に「そうなんですか?」と訊いた。「全部とは言わないが、親に責任あります」「えー、親に責任あるんですか?」。それはあるよ。
アドラー心理学で責任というのは“仕事”という意味だから。親にすべき仕事はある。子どもが登校拒否になったら、親の仕事は山ほどある。勇気づけなきゃいけないから。もちろん子どもにも、教師にも、カウンセラーにも、みんなに責任はある。「私にすべき仕事がある」ということを「責任がある」と言うんです。子どもに責任を取ってもらうというのは、子どものすべき仕事を子どもにしてもらうこと。それは罰とは何も関係ない。罰と責任と並列されるのは、責任ということがわかっていないから。責任というのは、「子どもが本来しなければならないことを子どもにしてもらうこと」を言う。ご飯食べててお茶碗ひっくり返してご飯をこぼしたら、子どものすべきことは何か。掃除してもらうこと。こぼさないように気をつけてもらうこと。「掃除しておいてね」「食べ方に気をつけないとこぼすから、どうしたらいいか考えてね」。罰を与えて「あんたバカね」と言っても、子どもに何も責任を取ってもらってない。子どもは仕事をしてないから。責任を取るとは、仕事をすることです。(野田俊作)
Q
小学校6年生を担任しています。5年生から受け持っています。アドラー的に子どもと接してきましたが、子どもたちとの関係がなかなかスムーズにいきません。
クラスに反抗的な子どもがいて、授業しようとすると大声出したりして邪魔します。その場は、「静かに勉強したいから少し静かにしてくれませんか。協力してほしい」とお願いするのですが、受け入れてくれません。たまに静かなときには「みんなが協力してくれて勉強がよくできました。ありがとう」と言うようにしています。あんまりうるさく言うときは、まわりの子どもが「ほっとけや。遊ばせときや」と言います。初めはひとりで勝手にしていたが、最近はまわりの子どもたちも一緒のようなことをしたがります。クラス全体がざわざわしています。何か都合の悪いことがあれば、「先生がしっかりしろ」とまわりの子どもたちが言います。反抗的な子どもは平気で「センコー」とか「アホ違うか」と言います。「そう言われるとイヤなのでやめてくれない?」と言うが、聞いてくれません。できるだけ怒らないようしていますが、怒らせよう怒らせようとあの手この手でかかわってきます。卒業まであと少しです。気持ち良く別れたいと思っていますが、どうすればいいでしょうか。
A
諦めてください。今からでは無理です、時間的に。今年のクラスは失敗だった。失敗要因はきっと権力闘争でしょう。なんで権力闘争になっているか。きっと喧嘩を売っているんでしょう。先生のほうもいろんなところで。権力闘争とか復讐については、『クラスはよみがえる』に書いてある。
子どもだけが教師に仕掛けているわけじゃない。教師も子どもに仕掛けている。同じことを。ですから、自分がどんなに子どもを怒らせているか、どんなに子どもを傷つけているかに目が行かないと、ここから抜け出せない。いっぺん冷静に考えてみて、なんて上手に子どもを怒らせているんだろうかとか、自分がどんなに上手に子どもに劣等感を与えているのか、そこが見つかるといっぺんに解決できる。
「うちの子ども(生徒)が具合が悪いからなんとかしよう」と思っている限りうまくいかない。「私、あんまり上手な親(教師)でないから上達しよう」と思いだすとうまくいく。自分のやっていること、自分の子どもに対する接し方が、子どもの目で見た自分が見えてくるようにならないと抜け出せない。
きっと、問題を起こす子どもたちに対して、何かの方法で不快感を与えているんでしょう。クラスにいることを楽しくなくさせている要素がある。そういう不快感のことを専門語で劣等感と言う。劣等感が大きいと、子どもはそれを克服するために、あまり大きすぎる場合にはこんなこと、つまり暴れたりします。そうやって先生より強いことを示そうとします。だから、「この子たちはなんでこんなんだろう」と思わないで、「私はなんでこんな教師なんだろう」と思って、しかも暗くならないこと。反省はイチモンの得にもならないから。自分を点検しているだけなんです、これは。感情的に反省しても何もプラスはない。いったい何が子どもたちを怒らせているのか冷静に検討して、それをやめて、子どもたちを勇気づける方法を考えてほしい。
勇気づけるというのは、ただ「ありがとう」「嬉しい」と言っても勇気づけたことにほんとはならない。勇気づけるというのは、勇気づけようと思って暮らすこと。あることが起こったら、今いったい何をしたら勇気づけになるのかなと考えて、そのつど一生懸命に見つけ出すこと。
昔、知恵遅れのおばさんのお産に付き添ったことがあります。婦人科のお医者さんが不安がった。「こんな人はきっと分娩台でパニックに陥るから、先生付き添って」と言われた。案の定パニックに陥った。「恐い恐い」と言う。で、おばさんのほっぺたをパチンと叩いて、「黙れ。お前のおっかさんだっておばあさんだってひいばあさんだって子どもを産んだし、犬だって産むし猫だって産む。動物は子どもを産むようにできているんだ。ガタガタするんじゃない」。おばさんはスッと落ち着いて子どもを産んだ。私、そのおばさんを勇気づけた。「そうか、勇気づけってほっぺたをパチンと殴ることか」と思わないように(爆笑)。
勇気づけというのは、「この人をいったいどうして勇気づけたらいいか」問題意識を持っていくと、そこから答えが出る。答えから勇気づけは出てこない。干魃で雨が降らなくて、やっと降ったから喜んで踊った。「そうか、踊ったら雨が降るんだ」と思って、次に雨乞いの踊りをするのと同じ理屈です。ほっぺた殴ったら勇気づけだと思ったりする。たくさんの種類の勇気づけの中に、場合によってはそんなのもあるけど、それだけが勇気づけではない。
子どもたちを勇気づけるというのは答えがない。正解がない。劣等感を与えないように、不快感を与えないように、くじかないように、怒らせないように、傷つけないように、勇気を与えるにはどうすればいいかずっと考え続けること。あるときうまくいったと思う。次の日うまくいかないかもしれない。そしたらまた考えること。そうやって成長するんです。(野田俊作)
原稿の書き方
2002年01月03日(木)
論文はほぼ書きあがった。とりかかると速いのだ。2日で四百字詰め45枚相当分書いた。まだだいぶ手を入れなければならないが、骨子は完全にできている。後1日か2日あれば完成するだろう。おかげで飲んだくれなくて済んだ。少々運動不足になった気はするが。
もっとも、2日で書いたと言っているが、下調べに数ヶ月かかっている。何十冊か本を読んだのだけれど、メモをとりながら読むというわけでもなく、ただなんとなく読んでいる。重要な箇所だけ黄色のマーカーペンで線を引いておく。後で無駄になった本もあったが、面白い本もあった。
論文の内容に関係のあることは、なるべく人と話をしないことにしている。話をすると、その場の思いつきであれこれ言って、まとまりがなくなる気がするのだ。論文は海兵隊の上陸作戦みたいなもので、一気に攻め込まなければならないと思っているのだが、あまりあちこちで事前に話をすると、締りがなくなって、でき上がりがあれもこれも盛り込んだ散漫なものになってしまうように思う。そういうわけで、誰も聞いたことのないような内容の論文をいきなり発表することになって、人をびっくりさせている。
この間、ある大学の先生の話を聞いていたら、毎日2~3枚相当分コツコツと書いていくのだそうだ。私のように、構想がまとまるまでは頭の中においておいて一気に書き上げるのとどちらがいいかというと、コツコツ書き溜めるほうがいいのではないかと思う。コンスタントなペースで論文が製作できるじゃないか。私のやり方だと、生産性の高いときと低いときとで極端なムラがある。
そう思うのなら、毎日コツコツと書き溜めることにすればいいではないかということになるが、そうはいかない。そのやり方だと、すぐに気が変わるのだ。気が変わらないうちに書き終わってしまわないと、最初の一字から書き直したくなる。それと、数日中断すると、次がとりかかれない。中断なしに一気に書かないと、最後までたどり着かないままで捨ててしまう。そう言えば、昨年はそういう論文が2つもあったな。
論文の場合は、なにしろ2日で45枚書くほどだから、一気に書き上げるのでいいのだが、単行本になると、この性格は困る。いくら急いでも1月ぐらいかかるが、1月間中断なしで書くということは、今の生活ペースではとても無理だ。まあ、そんなことを言っていてはいつまでも書けないので、今年はぜひ1冊書こうと思っているのだが。
依存症
2002年01月04日(金)
今日は町へ外出した。論文書きでずっと座っていたので、久しぶりに歩けてうれしかったし、なんといっても繁華街の空気がよかった。明日から山へ行くので、スーパーマーケットで必要物資をちょっと買い物してから、ちょうど通りかかった映画館で「ハリーポッターと賢者の石」をしていたので見ちゃおうかなと思ったら、時間が合わなかった。あきらめて、ちょっと本屋をのぞいたり、昼食を食べにラーメン屋に入ったりして、楽しい時間をすごした。帰って、また論文書きだ。ほとんど仕上がっているが、細かい手直しをしている。
ところで、長谷川芳典さんという岡山の大学の心理学の先生が、日記ホームページに、「家族や親戚の行動を綿密に観察した結果、正月には次の7つの依存があることが明らかになった」と書かれていた。
外出依存→家の中に居てもすることが無いのでどこかへ出かけたがる
買い物依存→何も楽しみが無いので、不必要に物を買いたがる
テレビ依存→家の中に居てもすることが無いので一日中ダラダラとテレビばかり見る
アルコール依存
過食依存→一日中、冷蔵庫にあるものを手当たり次第に食べる
コタツ依存→いったんコタツにもぐると出てこなくなる
仕事依存→テレビ番組も外出もクダラナイと考え、他にすることが無いので別室に籠もって仕事や勉強に励む
1番の外出依存はあるな。今日は町へ行ったし、明日から山へ出かけるし。2番は、スーパーマーケットへは行ったが、依存症というほどのことはない。3番は、家族がいるとテレビがかかっているが、ひとりだと滅多にかけない。音楽を聴くことはあるかもしれないが。4番はしっかりあるな。いつもはウィスキーだが正月は日本酒ということにしていて、30日から今日までに一升瓶が4本あいたんじゃないかな。論文書きがあったので、これでも少ないんだよ。5番はあまりない。6番は、そもそもコタツがないし、あっても入らないほうだ。7番は、籠もろうにも別室がないし、別室があってもそこで勉強しないで居間ですると思う。結局、私の病気は、外出依存とアルコール依存みたいだ。
鮒鮨
2002年01月05日(土)
論文の最終的な仕上げをして、午後から、滋賀県大津市へでかけた。山仲間と宿泊して宴会して、明日はその近辺の低山歩きだ。
宴会では地元在住の友人が、琵琶湖名物「鮒鮨」を持ってきてくれた。鮒を米飯に漬け込んで何年か寝かせたもので、いわゆる熟れ鮨だ。ぜったいに食べない人と、喜んで食べる人の2種類にはっきりと分かれる。私は、大阪人にはまったくめずらしく、喜んで食べる人なのだが、困ったことにこの珍味は塩分が多い。塩分をとりすぎると血圧があがるのだ。塩分さえ気をつけておれば、そう高くならないので、普段は注意している。でも、こんなおいしいものがあっては、そんなことは言っていられない。明日から節制するさ。