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人権論者は競合的?

Q0410 
 身近な人を見ていると、人権論者の中にいわゆる競合的な生き方が多い(野田:当たり前や。人権主義は競合的なんだもの)。言っていることは協力的な主張なのに、生き方が水平でなく上下に動いている。先生のお考えをお聞かせください。

A0410
 これが人権思想の本質なんです。実際に法律として決まっている、日本国憲法みたいに紙に書いてある法律、実定法という、その実定法によってどこの国も押さえられて治められているけど、謀反を起こしたりしている。謀反を起こしているときに、実定法から見ると違法行為をするわけ。革命です。なんで革命行為が正当化されるかというと、革命を起こす側には、「自然法」という神様から与えられた自然の法律というのがあって、その自然法というのが人権思想なんです。人間というのは天与の人権を持つ。天というのは神。自然法はいつ使われたか。歴史上2回使われた。1回はフランス革命。フランスの貴族や僧侶が作っていた実定法の世界を、自然法である天与の人権で革命を起こして、みなギロチンで殺した。もう1つはアメリカの独立戦争。イギリスの実定法で定められていた植民地だったのを、自然法で戦争をやって、アメリカをイギリスから独立させた。この2回が自然法が実際に使われた場面です。フランスは懲(こ)りました。「これやばいぜ。ギロチンは劇薬やで」と、今のフランス人は自然法を信じてない。アメリカ人はアホですから、今でも信じている。日本を占領したときに、アホのままで日本にこれを押しつけた。だから日本国憲法には「人権」という不思議な自然法が入っている。実定法の憲法の中に無言の原理である自然法が入っているのはおかしい。実定法の中に「人権」と書いてはいけないので、実定法にはただ「権利」と書くべきです。日本国憲法の一番具合が悪いのは、実は、「第9条2項」ではなくて、「基本的人権」に関する条項です。それが一番内部矛盾しているから、謀反を憲法そのものに書き込むとは何事か!。ま、そういうことで、人権思想というのは謀反の思想ですから、当然それを信じている人たちは闘争的です。人権というのは勝ち取るものなんです。戦いそのものです。怒りを集めるものです。初めから競合的なんです。人権思想である限り競合的なんです。その人たちがいつも言っていることとやっていることは違うんです。言っていることを信じるか、やっていることを信じるかというと、アドラーは、「その人の言っていることではなくてしていることを見なさい」と言いました。その人たちは謀反人なんです。(回答・野田俊作先生)

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慢性的虚無感

Q0409
 自分には家族も仕事もありますが、慢性的に虚無感に取り憑かれています。自分は何のために存在しているのか、その意味がよくわかりません。自分に与えられたミッションは何なのか。どういうふうに動けば、この虚無感から抜け出せるでしょうか?ヒントをお願いします。


A0409
 信仰を持ちなさい(爆笑)。人生には3つの根っこがあると思う。1つは科学。科学的にものを考えられるのは、すごくいいことで、科学的にいろんなことを考えていくほうが、迷信的に暮らすよりいいですね。それを学ばないといけない。もう1つは道徳。「すべきことをし、すべきでないことをしない」のも大事です。3番目が宗教です。日本は残念ながら宗教を失いました。だから、この質問に答えられる力のある人はいない。ほんとの宗教家と出会わないといけない。ほんとの宗教家と出会うと、答えはあります。日本では3つの段階を経て宗教がなくなったんです。少し歴史の勉強をしましょう。1つは、徳川家康が仏教を殺しました。室町時代までは日本は仏教国で、全国民が仏教の信者で、すべての考え方が仏教にもとづいていました。それは、謡曲・お能を観ていると、お能の話は仏教のコマーシャルソングなんですね。あるいは、説経節と言って、山椒大夫なんか観ていても、あれも因果応報の仏教の論理で動いているんです。それが江戸時代になると、家康は「仏教は危険思想だから、一向一揆みたいに刀を持って刃向かうから、仏教を骨抜きにする」と言って、いろんなことをされまして、仏教はあっさり骨抜きにされました。次に明治政府は、神道を骨抜きにしました。明治の神道はほんとの神道じゃないです。神道はもっとおどろおどろしいものです。天理教や大本教は神道です。神様を降ろして、降りた神様と対話をするのが神道で、今の神社は神様を降ろさない。あれは神道に似た「神道ふう」なんです。鎌倉、室町、江戸の時期の神道は、かなりおどろおどろしいもので、仏教がおどろおどろしくないように、外側を囲んでいた。神様が暴れないように。それが仏教がなくなったから、凄い神様が出てきて、天理教の神様なんか凄い。「天皇さまより、うちのほうが古いんや。天皇は高天原ゆうて外国から来た人間やないか。あんなものが日本の王様なんておかしい」と言う神様も出てくるわけで、皇室も困った。それで神道が死にまして、戦後は占領軍がいわゆる「神道指令」というのを出して、政教分離という変な原則を出して、一切政治は宗教とかかわってはいけない。こんなアホな話はないです。アメリカの大統領は右手を聖書に置いて大統領になる。イスラムの国ではイスラム教以外の政治家はいない。ヨーロッパでも、社会民主党とかキリスト教民主党とかいくらでもある。みんな宗教に乗っかってやっている。イギリスなんか、女王陛下がイギリス国教会のボスなんです。日本のような政教分離の国は世界中に一個もないんです。でも、なんでか知らんけど日本人はそれを信じまして、宗教は邪悪なもの、オーム真理教みたいに金だけ取って何も御利益はないというデマを信じてしまった。まず本当の宗教家を探すというのが、しばらく大変です。ご苦労様、頑張ってちょうだい。
 私自身はチベット人のお師匠様がいますが、チベット人のお師匠様はあまりお勧めできない。チベット語しかしゃべらないから。日本語に通訳する人があんまり頼りにならないんです。日本語とチベット語と両方上手な通訳はいます。ダライラマさんの通訳なんかは、チベット語も日本語も上手なんですけど、普通のチベットの師匠につく通訳は、チベット人で日本をなんとかしゃべれるとか、日本人でなんとかチベット語をしゃべれる人ですから、チベット語をしゃべっても仏教用語をよく知らない人とかが日本人の場合多いので、そうなるとチベット語の日本語訳が当てにならない。だから英語の翻訳を聞かなくてはいけなくて、英語にはしっかり翻訳できているから、そうなると外国へ行かないといけませんから、あんまりお勧めじゃないんです。よっぽどマニア向きなんです。日本にもちゃんとした宗教家はいます。探すのが面倒なんですけど。大きなお寺、お遍路寺院には絶対いません。山奥のお寺にこそっといます。昔、僕は大学時代に禅宗のお師匠様についたことがあっって、この人は山奥の荒れ寺のお師匠さんで、絶対出世しない曹洞宗のお坊さんでしたが、一生山寺で暮らされていました。これは偉い人です。仏教について深くわかっていて。こういう人は教団の中で絶対出世しないんです。教団は仏教が深くわかっている人はいりません。金儲けのうまい人はいりますから。ちょっと努力して探されたら?キリスト教は気をつければ、当たる確率は仏教よりちょっと高い。キリスト教はカトリックもプロテスタントもええ加減なのが多いので、まあ知り合いのツテを頼って、賢そうな牧師さんや神父さんに当たれば、この問題は解決する。これはスピリチュアルな問題であって、世俗的な答えはないんです。スピリチュアルワークに出るという手もある。(回答・野田俊作先生)

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精神障害者への勇気づけ

Q0408
 障害者の特別支援専門医をしています。精神疾患を見ている人との相談です。本人自身がやってみたいことや自分がこうありたいという気持ちが強く、本人なりに取り組んでいますが、途中でやめてしまい、相談員にも苛つくことがあり、保護者もその傾向に振り回されて疲弊しています。本人を勇気づけたり、保護者に対してもできることがあれば、助言をお願いします。

A0408
 なんで精神障害になるか?人はなぜ精神障害になるかというと、2つ理由があって、1つは生理的な理由で、1つは心理的な理由です。生理的な理由というのは、脳の代謝障害です。これは医学の問題で、お医者さんがお薬を処方してくださって、まあある程度なんとかなる。これはお医者さんお任せなんです。もう1つの心理的な問題、こっち側はお医者さん以外の人たちが手伝わないといけない。だいたい精神科の医者にカウンセリングをしてもらおうという太い心がけを、たわけたことを望んでいる人がいるけど、それは無理なんです。精神科の医者はカウンセリングの訓練を受けてないから。精神科の医者は脳の内科医です。精神科の医者の主たる役割は診断をつけてお薬の処方を決めることです。あと、書類を書くとか。それ以外のことは精神科のお医者さんに期待しないでほしい。私なんかちょっと変種で相談しますが、これは道楽でやっているだけですから、本務だと思ってない。本務はお薬の処方をすることです。それと、コ・メディカルスタッフ、外側にいる人たちとが連携していて、外側にいる人たちは生理的じゃない心理的な側面をカバーする。
 じゃ、心理的な側面は何かというと、不可能な理想を直すことです。プラスが実現不可能なんです。だって統合失調症の患者さんが大企業に勤めてバリバリ働く、そんなの実現不可能です。だから、まず実現可能かどうかを最初に話をします。不可能は、言うと勇気くじきになりますから、さしあたって、例えば半年以内にほんとにできそうなものは何だろうか。それができたらまた次のことを考えようや、と言って、半年とか1年とかというレベルで実現可能なことを考える。私も何人か統合失調症の患者さんのお手伝いをしていますが、だいたいこの線で行きます。私のところでは、入院を長いことなさっていて退院してきたアフターケアを、病院でやるのはウザイから、開業クリニックでやってもいいかと思って、まあお薬は病院で処方されたものを出して、あと生活指導をする。病院に長いこと入院されてきた方には、こっちとしては、就職するとか社会適応するとかはあまり目標にせずに、さしあたって家庭内に居場所ができるのが一番いいと思っています。食事とかを自分で作れるようになったら大したもんですけど、家族が作ったものをちゃんと食べて、いくらかお手伝いできるとか、清潔の習慣を保てるとかいうのを、さしあたった目標にしましょう。そうしましょうと決めたら、向こう、医療スタッフも「そんなんでいいんですか?」と言うんですよ。イケイケどんどんで、社会適応しようとか、ソーシャルスキル・トレーニングとかいって、いろんなことができるようにしようって、統合失調症の患者さんに芸を仕込もうという風潮がわりとあるんですけど、僕はあんまり芸を仕込んでまであの人たちに何かしてほしいと思わないんです。われわれの社会は、障害者を養えるだけの経済的ゆとりのある社会なんです。その人たちが、例えば生活保護だとか、他の社会保障でもって暮らせるということは、僕らにとって喜ばしいことで、そんな人にまで働いてもらわなくても、われわれは飢えないで暮らしていけるんだと、あの人たちの食事とかがわれわれの税金とかから出ているのは、喜ばしいことだと基本的思っているんです。アドラーがそう書いています。何がなんでも社会適応させようとか、錫杖的に自立させようと、まずこっちは思ってない。こっちが生半可に、「あんたできるやろ」と言うと、話がややこしくなる。別に「働いたらいかん」とは言わない。働きたいなら働いてもらってもいいけど、まず、実現可能な目標と将来の理想的目標に分けよう。その「実現可能な目標って何やろね?」というのを話し合いたい。それが第一点。
 第二点は、実現可能な目標に向かって動き始めたら、できてるところは評価し、できていないところは何もしない。「これはできたね」、「これはできませんか」と、例えば半年「何かしよう」と言って、三月(みつき)目に挫折して仕事を辞めたら、「み月も働けたね」とこう言おう。「この次は四月(よつき)働けるかもしれんね。まあ二月(ふたつき)かもしれんけど、み月は働けたね」という話をしよう。それを何とか一生働けるようにしよう、なんてことを言うから、話がややこしくなる。だから、向こうの実現不可能な理想にこっちも巻き込まれているんです。特に家族が結構実現不可能な理想の手伝いをするんです。「なんとかこの子を結婚させろ」と言うんですよ。やめてよ。こんなん結婚させてどうするのよ。患者さんは男の人であれ女の人であれ、やっとこさ私とはなんとか話ができていて、デイケアセンターなんかにも行っていて、デイケアの人とも話ができている人を、「ちょっと結婚させたら落ち着くんでは」なんて言うんだけど、こんなんさせたら配偶者が迷惑を被るがね。障害者同士が結婚するのを、自分たちが望むんだったらいいけど、望まないのに、「なんとかまあいっぺん一緒に暮らしたらよーなるんと違うか」と親が思うんです。親が、なんとかこの子を就職させたいと言うんですよ。少し頭冷やして考えて。「この子、ほんまに結婚できると思う?」「あきませんかー」。あかんでよろしいがね。今の状態で、部屋の中で暴れもせず、お薬も自分できちんと飲んで、状態が悪くなったら、「入院してくるわ」と言って自分で行くようになったらこれは最高や。統合失調症者の状態としては理想像です。自分で服薬をし、食事なんかも与えられたらちゃんと食べ、逸脱行動せず、ムードが悪くなるときは、まわりに無理やり入院させられるんじゃなくて、自分で自主的に入院して、あるいは入院までしなくても、「先生に薬をもらうわ」と言えるようになったら、これは理想的なコントロール状態です。それを家族が、「これやれるんだったら、次、働けるんと違いますか」「これできるようにになったら、もっと人づきあい上手になりませんか」と言うから、話がややこしくなる。本人の勇気づけをするために、まわりの人の勇気をくじくんです。障害者というのは、みんなで支えて、医者は医者の役割としてきちんと薬を処方し、必要に応じて入院してもらい、もし必要なら退院してもらい、ある支えをし、コ・メディカルワーカーは生活支援をし、訪問看護師さんはその仕事をし、家族は家族でその仕事をし、みんなが協力しておくことね。この人にとってはどういうのが最終的な望ましい状態なのか。なんでこの人が非現実的な理想を持つかというと、まわりに非現実的な理想を持っている人がいるからです。それに応えているから。いろんな人といろんな話し合いをして、この人はさしあたって、永久にとは言いません、一生のことは人間誰にもわかりませんから、ここ1年や2年はこんなところで維持できるととてもいいと思います、とまわりが意見を言う。精神神経学会、精神科医の学会に行っても、意見の相違があって、積極的に社会復帰プログラムをガンガン進めているお医者さんもいるし、そんなことをする必要があるのかねって、そんなことをしてもほんとに本人・患者さんが幸福になるのかねって、社会が家族がそういうことをほんとに必要なんかねって、それって医者の自己満足ではなかろうかという意見もある。僕はどっちかというと、後者派なんです。そこまですることないんちゃうかと、いろんなあり方があって、しかも平等なんです。働かない障害者というのもひとつのあり方でひとつの平等なんです。バリバリ働く健常人もひとつのあり方でひとつの平等で、どっちが優れているわけでもない。どっちが劣っているわけもない。人生の選択で、おのおの選択をお互い同士大事にし合おうや。健常人と同じように働けるようになったら自由だと思わない。
 医学というのは背後に哲学がないと暴走する。医学というのはまあ技術。技術は包丁で、包丁は凶器にもなるし、お料理を作るのにも使える。凶器になるかどうかは、背後に哲学があるかどうかです。今や医学はほとんど凶器です。新しいお薬がどんどんできてきて、新しい治療法ができてきて、われわれは何をしているだろうって、思想なしに道徳観念なしに、これ使うって、それ薬屋がただ稼いでいるだけじゃないか。ちょっと間違った方向へ走っている。患者さんに利益になる、ほんとに社会の利益になる医療って何だろうって、医者ひとりひとりが考えないといけない。また、話し合わないといけない。(回答・野田俊作先生)

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支配的な親91歳

Q0407 
 支配的な親91歳に何か話すコツはあるでしょうか?

A0407
 もうすぐ極楽往生なさいますので、ほとんど“ご先祖様”なんですよ。ほとんどご先祖様にどうしますか?やっぱり朝晩拝礼するでしょう。これコツなんです。なんで支配的かというと、こっちが服従しないからです。向こうの支配を拒否しているから。こっちが服従しないということは、向こうを支配しようとしているから。「そんな支配的なやり方はやめなさいよ!」って言っているから。「あしたに拝礼、ゆうべに感謝」。朝は暖かいご飯をさしあげ、夕方は「今日も一日ありがとう」と言って暮らすと、変わるんです。親って、若いときはきれいでね元気だったのに、だんだんボロボロになりましてね、見る影もなく衰えてばあさんになるんです。ああなると、ほんとに仏様です。人間の業(ごう)は残っていますけど、だんだん仏様になられます。だから、仏様になったんやと、まず思う。これがコツなんです。生きているご先祖です。ご先祖様には先祖供養です。先祖供養すると、絶対に御利益があります。死んだご先祖の御利益でなくて、生きてるご先祖の御利益です。だから先祖供養の心構えをまずしっかりする。お好きなものをさしあげて、お話を聞いて、「ああしいや、こうしいや、そんなんしたらあかんで」と言われたら、「ありがとうございます。良い助言をいただいて」とやらないといけない。だって、先祖ですからね。私の父親は、もう亡くなりましたが、まあ親切というかお節介というか、言い方によるんですけど、旧制高等学校を出まして、今の新制高校と違う昔の高等学校を出まして、その時代の学校教育を受けていて、ありがたい助言をいっぱいくれるんです。「英語はこうして勉強したらいい」とか「数学はこうしたらいい」とかくれるんですけど、全然時代遅れなんです。昭和10年代ならそれでいいけど、今の大学はそんなふうになってないもの、と思うから「親父、それは古い」と言うと怒るんです。「何ゆうてんねん。親の言うことが聞けんのか」と言うので、親の言うことを聞くことにしました。「ありがとうー、わかったー」と言って、全然やらないんですけど、見に来ないんです。やってるかどうかは。それはそうでしょう、親も忙しいから。「英語はこんなふうに勉強しろ」「わかりました、そうします」と言って、全然それと違うことをやっている。これコツね。ご先祖様はちゃんと尊敬し、ご先祖様のお告げは聞くけど実行しない。91歳ということは大正13年生まれ?14年生まれ?ということは、戦争が終わったときはもうハタチ以上でしょう。その方々は僕たちとは全然話が通じない。軍国少年とか軍国少女とかやってて、「日本帝国万歳!」で暮らしてこられて、それで国が潰れてしまって「アメリカさん万歳!」になって、わけがわからない中で、食べるものもひょっとしたらなくて、ひどい苦労して育ってこられた人たちで、その体験を僕たちは共有できない。絶対に共有できない。僕ももう年を取りまして、67歳になりますから、いわゆる70年代安保世代で、大学時代に70年安保闘争というのがあって、あれは一生の方向を決めているんです。あの中でいったい自分はどう生きていくか悩まなくてはならなくて、そういう体験は今の若い人と共有できないんです。なんで私がこんなふうに考えるかというのは、説明してもわからない。体験がないから。ということは、91歳の親たちが僕たちに教えてくれることを理解できないのは、ほんとのところです。でも彼らにとってはすごい大事なことなんです。彼らの時代にとっては無茶苦茶大事なことなんですけど、僕らの時代にとってはもはや大事じゃないんです。説明してもわからない。だから、それは善意でやってくださっているから、僕らのためを思って言ってくださっているから、それはしっかり受け取ろう。助言の中身は受け取らんとこう。こういう方針でいきます。コツは2つですね。1つはあしたには礼拝し、1つは、「わかりました」と言ってやらない。その方向でいくとつきあえると思います。支配的な親を支配的でなくする方法はない。反抗的な自分を反抗的でなくする方法はあるけど。(回答・野田俊作先生)

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学校へ行くのは「課題の分離」で家での暮らしは「共同の課題」?

Q0406 
 学校へ行くことは課題を分離して子どもにお任せし、家で暮らすことの共同の課題を同時にするという選肢も可能ですか?

A0406
 意味がよくわかりません。学校へ行くことはどの道子どもの課題です。学校へ行くとか行かないとかは子どもの自由選択です。学校へ行くことについて子どもに「協力してください」と言われたときだけ、共同の課題になると思う。本来自由選択なんです。小さい子が、「お母ちゃんがついて行ってくれんと学校よう行かん。ついて行ってくれる?」と言ったら、それはついて行ってあげる選択はできるけれども、中学生や高校生が学校へ行かないことに決めたら、親にできることは、学校へ行く行かないに関してはないんです。ここは課題の分離も何も、はじめから共同の課題にする根がない。共同の課題にするのは、別の場所にある。どにあるかというと、社会人になるためにできること。「パセージ」の行動面の目標、自立するとか社会と調和して生きられるために、何か手伝えることがあるかな?というところで選べる。別に家事をやってもらうのに限らない。家事というのは、自立するとか社会と調和するために向いていると思ったときはそうなんだけれど、そうでないときもあります。家で勉強するというのもあるかもしれない。学校でできないことをする。ときどき高校生なんかで、「せっかく学校へ行かないんだったら、いつまで学校へ行かないか決めようよ」と言います。今だったら、4月も押し迫ってまいりましたので、7月の20日から夏休みだと、7月18日までは行かないで、19日に行く。終業式にね。それまでは行かないと決める。終業式に行ったら、夏休みに「学校へ行ったぞ」という気持ちで過ごせる。終業式に行かなかったら、1学期行かなかったという気持ちで過ごすじゃない。無理強いしないけど、夏休みに学校行ったぞという気持ちで過ごすほうがいいじゃないかと思うので。では、もっと早く行くとどうか?早く行くと疲れるでしょう。ギリギリいっぱいに行くというのをひとつ提案します。9月の新学期から行くというのは賛成しない。新学期から行ったら3か月もある。そりゃあかんで。行くなら12月20日から。そしたら、冬休みや正月を「学校行ったぞ」という気分で過ごせる。学期の終わり、1週間の終わり、朝から行くと疲れる。金曜日の午後から、お昼ご飯終わってから行くとかして、気分良く週末を過ごすといいかなというようなアイディアは出すかもしれない。話としては、7月末まで学校へ行かないと決まりました。そうすると5月と6月と7月の前半が完全に浮く。その間をどう有益に使うか?その間は学校へ行かないことに決まった。採決して満場一致で。その間を無駄に使うか有益に使うか選べる。自由なんです。親としては有益に使ってほしい。例えば、沖縄へ旅行に行く。もうちょっと遅いと、9月くらいならサトウキビの収穫がある。これは“ドレイ”がたくさん必要なんです。サトウキビは粗放農業で、播いたら播きっぱなしで育つんですけど、収穫のときだけものすごい人手がいる。そのとき農家は、若い人たちに、「宿泊付き飯付き給料ほとんどなし」の援農体験をしてもらう。これがけっこう面白い。行くと、サトウキビを昼間刈って、夜は同じような子がいっぱい来ているから、盛り上がって遊んで、また朝からサトウキビを刈る。あるいは、北海道で昆布の収穫がある。これがまた面白い。これも若い人手がたくさんいるのに人材がいないから、全国から集める。この際ひとつ外国旅行に行くのもいい。マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマーを通ってインドまで行って帰ってくるプランの中で、「頑張って行っておいで」と言って、あまり金もやらないで行ってもらうと、ものすごく強くなって帰ってくるか、完全にボロボロになって帰ってくるかでしょうが、そんなのを話し合って、この数か月を一番有益に使えるにはどうすればいいか、あなたの将来に結局役に立つだろうという、良い不登校をしたい。学校へ行ってないからできたんですごい素敵なことじゃないですか。そういう話し合いを積極的やるという手もある。共同の課題にするって何かというと、結局子どもが育つように、子どもが成長するように、子どもが立派な大人になるように共同の課題にするわけで、あんまり晩飯作ってもらおうとか勉強してもらおうとか、みみっちいことを言わないで。でかいスケールで共同の課題を考えましょう。(回答・野田俊作先生)

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