Q0405
高3男子の子のことです。学校まで5分くらいの自転車通学ですが、傘さし運転で行こうとします。「さすなら歩いて行く、自転車で行くのならささないで」とか、「事故になったら人に迷惑をかける」とか言っていますが、納得してもらえず、「他の人もやっている」と言って行きます。傘を持っていくのを黙っていると、私が傘さしを認めることになります。何か良い方法を教えていただきたい。
A0405
育児は何歳までするか?育児の卒業は何歳か?中学を出たら卒業です。そこから先は大人のつきあいです。隣のおかあちゃんが、「傘さしたら危ないよ。傘ささんと行け」言ったら、完全にお節介ばあさんです。それとおんなじなんです。自分の息子が傘さして自転車に乗っていくなら、1回は言ってもいい。「傘ささんと行け」と。それでも行くんだったら、育児は終わっていますから、本人にやってもらいましょ。親の課題じゃないです。親は関係ない。育児というのは一生続くものではないです、どう考えても。いつか終わらないといけないですが、一応15歳というのが目処(めど)だと思う。高校生の間は、まだ大人の“ならし運転”みたいなものですから、ときどき失敗はありますけれども、失敗から学ぶでしょう。失敗して学んでもらうのもよろしかろうと思いますので、こんなふうに選択肢をあげるとかの必要はありません。「傘さしていくなら自転車で行かんといて。自転車で行くなら傘ささんといて」というのは選択肢ですが、これはいくつくらいのとき使えるか?まあ、小学校出るまでです。小学校出てしまった子にこの方法を使っても無駄だし、使いたくなるのは過保護です。(回答・野田俊作先生)
Q0403
透析されている方が、透析の中に毒を入れられているという理由で拒否をされています。病院をいろいろ替えたり、家族が付き添ったりして工夫しましたが、結局、家族と話し合いをして、透析しないことを選択されました。選択の自由であると考えますが、支援する側として、何か支援するとしたらどのようにしたらいいでしょうか?
A0404
死んでもらおう。人間は死ぬ権利がある。生きる権利があるなら死ぬ権利がある。それをご本人に説明します。透析をやめるとあなたは早晩尿毒症になって死にます。それでもおやめになるのはOKです。あなたの選択の自由です。あなたの体にはもはや自然治癒力はないんです。自然治癒力がないのを透析で延ばしてきましたが、拒否なさるならば死んでもらいます。その結末を引き受けてもらえますか?OKならOk。
私たちは間違った思想・哲学の中で暮らしている。人間が自分の死を自分で選べる権利があると思ってない。何が何でも生かしてやることが良いことだと思い込んでいる。私自身は、ある状況のときに自分が死ぬのを選ぶ権利を絶対主張します。ある状況というのもいろいろあって、例えば末期癌で手術して、このままではかなり痛みがするやろうねというのがはっきりしているときに、何かの方法で自さつする権利を確保しておきたい。するかどうかは別として。というようなことは認めてほしい。ただ生きてることが幸福だと思わない。幸福に生きることが幸福なんです。幸福に生きてることができないから幸福に死ぬというのはありうるんです。だから、ご本人が死ぬ側を選ばれるなら、それはみんなで機嫌良く送り出してあげよう。医療も積極的に人をころすと犯罪ですけれども、ご本人が死ぬ側を選ばれたときに死ぬことを支援するのは、医療の正しい役割だと思います。だからホスピスというものがあるわけです。ホスピスも若干問題はあるにしても、そのへんの思想的な医学の哲学的なところで、本人の死ぬ権利をカチッと押さえて考えると、家族と本人が選ばれたのなら、「透析するかそれとも尿毒症になって死ぬかどっちを選びますか?」と言って支援します。完治はギブアップです。(回答・野田俊作先生)
Q0402
一緒にいるととてもイライラしてしまう相手とはなるべく関わらないようにしているのですが、どうしても関わらないといけないときにはどのようにすればいいですか?
A0402
向こうが何をしてイライラするのかわからないけど、向こうがある行動をするわけです。その行動をなんですかというと、私がさせているんです。私と相手との相互作用の中で、向こうが私をイライラさせるような行動を私がするように私が仕向けているんです。それは何なのか研究しないといけない。「パセージプラス」を受けられますと、「三つの劇薬」というのがあって、その中にちょろっと書いてある。相手のエピソード分析をするんです。相手がなんでそんな行動をするのかを考える。実は私が向こうにとって不愉快なことをしているからなんですよ。でなかったら向こうがこっちに不愉快なことをしないです。いったい何を私は向こうが不愉快に思うことをしているのかわかると、それをやめると向こうは不愉快なことをしない。個別のケースで全部違います。問題は私自身にある。向こうが私をイライラさせているんじゃなくて、私が向こうにイライラさせる行動をさせていると考えないと、問題が解けない。われわれは自分自身を変えることはできるけど、相手を変えることはできない。どんな技術を使っても相手は変わらない。でも自分は変えられる。自分を変えるために科学的に考えないと、無駄なエネルギーを使う。科学的に考えるというのは、相手もある行動をしている、ある対処行動をしている、例えばイライラするというのは、こっちの気に入らんことを言うとか、こっちがやってほしいことをしてくれないとか、こっちがしてほしくないことをやるとかでしょう。なぜするかというと、こっちが相手にイヤなことをするからです。「これ、いついつまでにやっといてね」と言うと、「えー!」とか言うわけです。なぜ「えー!」と言うかというと、こっちの言い方がぞんざいなからです。だからこっちの言い方を工夫すれば言わない。相手の対処行動をこちらが引っ張り出していて、ああ、これが相手にこういう反応をさせているんだなと思う。そうかどうかは、その人を客観的にしばらく観察しているとわかります。人間って、人によって顔が違う。私にはあんなにイヤだけど、あの人とはあんなにうまくやっているというのがあるんです。なんでかというと、その人は相手のイヤなところを引き出す刺激を与えていないからです。私はイヤなところを引き出すのを、わざわざ選んでやっている。そこがわかると、答えが出る。こんなことを言うから、アドラー心理学ははやらない。(回答・野田俊作先生)
Q0401
大学1年生の息子がサッカー部の練習でいつも4年生の先輩から叱られている。息子は、「いつも僕ばっかり怒られている」と言ってきます。私は「4年生は神みたいな存在だから、さからえないよ」と言ってしまいました。これって縦関係ですね。横関係になるようにはどのように助言したらいいでしょうか?
A0401
助言してほしいの?息子は。「学校で僕ばっかりいじめられる」とゆうて、母ちゃんになんか助言してほしんやろか。もしも助言してほしいんだったら、この子、ライフスタイルに問題あるんです。大学生でしょ。自分で決めるでしょう。「ああ、大変やね」と言ったら終わりやんか。
親子であれ夫婦であれ、話し合いというのは3つのレベルがある。第一レベルは「おしゃべり」。何であれ人間はいろんなことをしゃべり合って、僕たちは仲間だよね、友だちだよねと確認したい。女の人たちがどうでもいいことをしゃべって、世の中なんも変わらんことを何のためにやっているかというと、「私たち友だちだよね、敵じゃない仲間だよね」ということをやっている。男はわりとしゃべらなくて味方か敵かもわかる。女は顔と腹と違う。顔はニコニコしていて、腹は何考えているかわからない。しゃべり合って「味方よね」と言っておかないと危ない。だから女性はたくさんしゃべる。それは合目的的です。理由がある。おしゃべりは親子間でも大事で、おしゃべりできない関係になっているのは病的です。まあ、高校生や大学生の息子がお母ちゃんとしゃべるネタってそんなにないけど、仲良かったらこうやってよくおしゃべりをしてくれる。これは病的でない親子関係の証拠ですから、「ああ、大変やね」と言っておいたらいい。
二番目は大事な「相談」。「サッカー部辞めようかな。お母さんどう思う?」と言ってくれば、これは相談を持ちかけられているから、何か言います。「なんで辞めよう思うの?」と聞いてみたら、「いじめてくるから」とか言います。息子がサッカー部を辞めるかどうかは、たとえ相談されても子どもの課題です。結末は全部子どもの身に降りかかりますから、こっちが決めるわけにはいかない。「ああしなさいこうしなさい」と言えない。話を聞いているうちに自分で決めるでしょうと思って、「なんで辞めようと思うの?」「辞めたらどうなるの?」「やめないで続けたらどうなるの?」と話を聞いてあげることで相談したことになると思う。
三番目は2人が感情的になって喧嘩している状態から抜け出す訓練をする「葛藤の解決」。人間一緒に暮らしているとどうしてもカチンとくる。みんな違いますからね。そのときに、喧嘩をするのは動物レベルです。そこから人間レベルになって、喧嘩するのを「おっとストップ!」と抜け出す特殊な練習をしないといけない。葛藤解決をやらないといけない。この3つのレベルで人間の話を考えます。
このサッカー部で先輩にいじめられたというのは、どう考えても第一レベル、雑談レベルです。ということは雑談レベルで答えればいい。向こうは何も答えを欲しがってないと思う。答え出せないし、「ああそう」と言ったらそれで十分です。今この人は私に何か深刻な相談をしているのかな?そうじゃないのかな?と考えないといけない。もしわからなかったら、「それは深刻な相談?それとも雑談?」と聞いてみればいい。「雑談」と言うと思う。(回答・野田俊作先生)
Q0400
今高2の息子が新学期が始まって学校へ1回行っただけで、その後行っていません。いっさい喋らないので、返事は首を縦か横に振ることで応答します。高1の夏休みから喋らなくなりました。ご飯は食べています。担任の先生が家庭訪問をしたいとおっしゃってくれていますが、しても何にもならない気がしますが、していただいたほうがいいのか。数日前に父親が出席日数、高校退学のシステムの話をした上で、ずっと休んでいます。学校をやめた場合は、先ほどのお話にありましたように、家でできることを話し合ったほうがいいのでしょうか?ゴールデンウィークは、息子の好きなうどんを香川に食べに行きたいと思っていますが、これも気晴らしになるのでしょうか、やめたほうがいいのでしょうか?
A0400
原理に遡って考えようね、いつも。これはやっていいでしょうか、これはやめたほうがいいでしょうかという発想をやめましょう。病気の治療をするときに、温めたほうがいいでしょうか、冷やしたほうがいいでしょうか、ご飯食べたほうがいいでしょうか、食べないほうがいいでしょうか、寝たほうがいいでしょうか、運動したほうがいいでしょうか、原理をわからないでそこだけやったってしょうがないでしょう。そもそも病理は何やねんということを、まずわかっていたい。親と話をしないということは、これは別の理屈がある。その理屈は、不適切な行動をなぜするかというと、賞賛を求める、注目関心を引く、権力争いをする、復讐をする、無能力を誇示する、という5段階があるということで、このうちのどれかをまず診断したい。最後からいくと、無能力を誇示するというのは普通出くわしません。精神病院や刑務所へ行くと出くわします。「もう人間やめます」という人たち。「私にまともな人間であることを期待しないでください」という暮らし方をしている人たちで、その人たちが無能力を誇示する。この息子さんは、ひょっとしたらこれかもしれない。ちょろっとだけね。あともっと華やかに幻覚妄想状態とかがあるとよくわかる。低い確率ですけど、これでないとは言えない。復讐というのは、直接話をしてももうしょうがない、この親は、この教師は、もう相手にできない。だから裏で、できるだけ相手が困るように傷つくように動いてやろうと思って、例えば非行化しているとか、例えば引きこもって親と口をきかないとかいう作戦をとっている人たち。それが復讐で、この確率はちょっとあります。わりとこれに一票入れたい。権力争いというのは派手に喧嘩している状態です。口開くと腹が立って、両方が言い合いをしている状態を権力争いと言います。注目関心を引く行動は、一応不適切な行動をするけれども、言ったらすぐやめる。で、しばらくしたらまたやる、というのが注目関心を引く行動です。この子、言ったらすぐやめないから注目関心を引く行動ではないです。権力争いでもたぶんない。もちろん賞賛を求めて学校へ行かないというのはないから、復讐かもしれないと思う。ということは、よっぽどこれまで親が子どもを傷つけたんだ。もちろん、子どもを傷つけようと思って傷つける親はいない。子どもに良かれと思って傷つける。マキアベリでしたか、「地獄への道には善意が敷き詰められている」と言いまして、子どものためにと思ってやる善意が一番怖い。子どものためを思って子どもを追い詰めている。地獄への道には善意が敷き詰められているので、今までだいぶ傷つけたんだなと、まず自分がどんな美しい心から、どんな美しい子どもへの愛からひどいことを言ったか、どういう思いやりから子どもを追い詰めたかを思い出してほしいんです。懺悔、厳しく自分の行動を問い詰めてからでないと、次の行動ができない。
せめて子どもに無害な親になろう。子どもに有益な親はさしあたっては無理です。有益な親になろうと思ってやったのに、有害な親になってしまいました。だから有益な親になるのをやめて、無害な親になりましょう。しばらくは学校のこととか何とかでなくて、気楽なお話ができる関係を築く。朝起きてきたら、「お早う」と言い、ご飯一緒に食べ、ご飯食べているときに何かつまんない話題ができ、そういうのが当面の理想です。これが10点だとしたら、今何点か。気楽におしゃべりができる関係を10点としたら、今2点とかだったら、2点から10点には上がらない。でも2点から3点には上がる。2点から3点に上げるためには、自分に何ができるか。まあ、いらんこと言うのはやめようとか、いつもこっちはニコニコと明るく接しようとか、「ああしなさい、こうしなさい」と指図するのはやめようとか、おいしいご飯作って「ご飯できたよ」と言おうとか、2点を3点に上げる手を決める。あとこれをコツコツやりますと3点になる。3点になったら次は4点に上げることを考える。それをコツコツやると4点になる。それをやって親子間が復讐、向こうがこっちを恨んでいる状態から抜け出さないと、「あれしてよろしいか、これしてよろしいか」の段階ではありません。まず親子間が協力的関係が持てるようにならないといけません。この状態で、「学校?それは子どもの課題でしょ。知りません。あなた自分で決めなさい」では完全向こうは否定するでしょう。この状態で「手伝いますよ」と言うと、子どもにとってすごい迷惑でしょう。どっちとってもアウトです。もし復讐ならね。どっちとってもアウトだから、その前に基礎体力をつけないといけません。話し合える関係を再建するというのを目標にする。学校の話を深刻にできるようになると思わない。さしあたってはアホみたいな、「今年野球どこ勝つんやろね」というような話ができるようになったら大正解です。そこまで行こうよで、しばらく頑張られてはいかがでしょうか。(回答・野田俊作先生)