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民主主義とアナーキズム

Q 
 今日はクラスの指導についてのお話だったので民主主義を強調されていたように思います。民主主義とアナーキズムについて、学校現場での対応、違いを教えていただけませんか?

A
 かつて権威主義的だったんです。第二次世界大戦以前の学校を考えると、かなり権威主義的教育をやりました。明治の初めに教育をしなきゃいけないと国が思った。それは、お殿様がいてお百姓さんがいた国から、政府があって、工場で働くとか軍隊に行くとかの暮らしができる人間をつくらなくてはいけなくて、そのためには知識もいるけど、何よりも「集団行動」ができるということ。朝の8時半に全員来てくださいねって、お昼まではみんな机について勉強してくださいねって、お昼休みは1時間の間にちゃんとご飯を食べてくださいねっていうのを、きちんとしないと成り立たなかった。江戸時代はそんなことはなかった。江戸時代は集団行動をしなくても、この国はのんびりと成り立っていたけど、明治になって西洋の植民地主義者たちと争って、この国を占領されないようにするためには、集団行動ができないといけない。集団行動ができることをすごく重視したので、かなり強圧的に集団行動ができるタイプの学校教育を作りました。それでも日本の学校教育は、西洋の学校教育よりもよっぽどマシみたいに思う。西洋には、ペスタロッチという人がいて「体罰をしない教育」を言っているけど、ということは体罰する教育がいっぱいあったわけですよ。「チップス先生さようなら」というイギリスの小説があって映画にもなりましたが、なかなか恐いですね。バチバチ叩くんですよ。そんなのがこの間までごく普通にありました。あれに比べれば日本の学教教育は戦前でもマシだったと思う。それでもそういう教育に対する反省がすごくあって、今度は極端な側に走った。人間って、1つダメだと反対側へ行くんです。それで今度は「躾けない教育」になった。それは「最後どうなるか」というイメージがないからだと思う。最後、この子たちが何をしていけばいいのか?何をしていけばいいのかというときに、家族とか社会とかあって、そのときに「国」を飛ばして「世界」へ行くんです。「日本の国」とか「国家」とか「民族」とかがすごく言いにくい言葉になっていて、そうなるとどうやって教えていいかわからない。「社会」って抽象的です。「人類」も抽象的です。でも「日本国」は具体的です。僕らは日本国をイメージできます。この間、野球の世界選手権がありました。世界選手権があったら皆日本国をイメージするでしょう。でも、人類はイメージしにくい。社会もイメージしくい。イメージしやすい、われわれの、領域で囲まれて何千年か人たちが暮らしてきたこの国の後継者になる子どもたちを育てるんだと思うと、民主主義であれ権威主義であれ、教師が何をやったらいいかわかるけど、そこをなくすと、何をやったらいいかわからない。何を結局教えればいいのか。この国をもっと良い形に守り育てていく、戦前の軍国主義もいけないけど、今の金権政治もいけません。もっとちゃんと国民の利益を思い、国が発展していくような、そういう政治が行われるようなそんな場所に守り育てていく。そのためにみんなが学ばなきゃいけない、みんなが行動しなきゃいけないんだをっていうことを教えたい。それが、今、学校教育がただの多数決民主主義、目標のない民主主義、結局どうしようかわからないで、目標の一致がないままで、ただ目先目先の出来事を「どっちが多いか」で決める民主主義になっている理由だと思う。それは学校だけじゃない。国会がそうです。各都道府県議会もそうです。日本中の議会が全部そうです。会社の重役会議もそうです。会社はまだちょっとマシです。会社は「金儲け」という目標だけははっきりしているから。自分の国というと、一体どこへ行こうとしているかよくわからない、私も。日本国は一体どこへ向かって動いているのかわからない。だから民主主義が機能しない。われわれがどこへ行こうとしているのかをもう1回意識し直すと、それに向かって、権威主義的か民主主義的かの選択ができるんです。そうでない、将来を見渡さない、目標を立てないのは全部放任主義的なんです。目先の快楽だけになりますから。(回答・野田俊作先生)

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授業が成り立たないクラスで生徒は?

Q 
 私の学校では、授業が成り立たなければ話し合いをして次はどうするか、原因は?とグジャグジャ言うことになっています。でも一方的で少しも役に立たず、やり直しを10回以上したというスペシャル悪クラスでした。野田先生のお話で、なぜ全体責任があるのかはわかったような気がしますが、今年も居残りがいっぱいあると思うとグッタリです。生徒の私にも何かできることはありますか?

A
  授業が成り立たなくなることについて、先生は何ができるか生徒は何ができるかを問うべきで、「なんでそんなことになったのか」原因を問うべきではないと思う。先生は「わかる授業」をすべきです。私はいつもこうやってクラスルームマネージメントの話をしますが、いくらクラスルームマネージメントが上手でも授業がヘタだと何にもならない。それは患者さんの話をとてもよく聞いてやさしいけど、手術が下手な外科医と一緒なんです。何の値打ちもない。まず授業の技術を上げることがすごく大事です。授業の技術については、今まで教育大学で「技術」というところに焦点を当てて研究している学者がすごく少なかった。僕らの世代の人たちから、授業の技術研究ということをやり始めて、黒板(白板)の使い方だとか、パワーポイントの作り方だとか、教科書の使い方だとか、中身じゃなくて「形式」の研究を学者がまじめにやるようになりました。そういうことはすごく大事だと思う。子どもたちが理解をし学問って面白いと思い、それは確かに人生に役に立つと思って学べるような授業があって、その上にクラスルームマネージメントがあるんだと思う。それが先生の仕事です。生徒のほうは、わからないところをどうやって学ぶかとか、騒いでいる子に何をしてあげられるとか、自分たちでクラスの自治というか目的をちゃんと考えて、先生も生徒もみんなが一致した目標を作って、そこへ原因を考えるんじゃなくて解決志向的に最後どうなればいいか、具体的にはどんなイメージに向かっていくのかわかり、それをステップ分けして、まず最初これをやろうとみんなで協力してやっていくべきなのでしょう。(回答・野田俊作先生)

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子どもを学校へ行かせる必要はないと言う母親に

Q 
 中学校の教員です。この春の新入生の中に小3から不登校の生徒がいます。その生徒の姉2人も不登校でしたが、不登校生徒を受け入れる高校に進学し、大学進学への道も切り開きました。そこで母親は「必ずしも中学へ通う必要はないと思います。中学へ行かなくても進路は何とかなります。だからわが子に中学へ行きなさいと言う気はありません」と言われます。学校としては登校してほしいと願っていますが、このような母親に対してどういう話をしていったらよいでしょうか?循環的話法を使うとどんな対話になるんでしょうか?

A
 学校の先生に対しては「諦めなさい」と言うほうがどっちかというといいんですが、昔1980年代には私は再登校に非常に熱心派だったんです。日本の臨床心理の中で、「あいつ再登校ばっかり言ってる」と言われていたけど、90年前後ごろから不登校のままで大人になれるルートが整理されてきたんです。大学へ行く進路もできてきたし、塾もできてきたし、高校もできてきた。その一方で学校側の受け入れ体制はそれほど進歩していない。そうなると、親と子どもの利害だけ考えると、再登校はあまり強く勧められる線ではない。絶対ダメというわけではないけど。親のほうとは話をよくしますが、わりとアナーキーというか、放任的な親が多い。放任的というのはこういうタイプ、「学校行かなくていいわ」というタイプ。結局「最終目標」は何かを考えていない。大人になったときに、この社会、この国にどういう形で貢献するかについて、職業選択、社会の中での暮らし方について、親もあまり考えたことがないし、子どもともあまり話し合ったことがないという親が多い。もっともこれは不登校の親だけでなく、今の親はみんなそうなんです。今の親はみんな、まあ学校だけは出しましょうと、人並みに学校出しましょう。それが高校なのか大学なのか大学院なのか知りませんが、学校さえ出せば何とかなるでしょうという発想で、そこから先のことについてあまりイメージがない。どっかの会社に就職して、あとは会社の言うとおり。人事課がああしろこうしろと言う。子どもが人生を考えてもしょうがないと、そういう捉え方をする。それは問題だと思う。人間の人生というのは、その人個人の人生で、人事課がどう言おうが役所がどう言おうが、自分で決められる裁量権があるでしょう。こういう仕事をしたい、例えばお金を扱う仕事をしたいとか、機械を作る仕事をしたいとか、そういうイメージをはっきり持ってほしいし、そのためにどんなことを準備をしていけばいいかということで初めて学校というものが出てくるわけでしょう。学校というのはどこまでいっても手段なんです。目的は社会です。目的が決まらないと学校をどう扱うかわからない。僕が親と話すときは、「じゃあこの子を結局どんなふうにするんですか?子どもというのは粘土のようなもので、それ自体では何も使い道がない。でも粘土をお茶碗にしたり花瓶にしたりタイルにすると使い道ができます。どんな形に作り上げようとしますか?学校へ行くと、そういうふうに形作ることがとても簡単なんだけど、学校へ行かないんだったら親と子でうんとたくさん話し合って考えないと、粘土のままで大人になってしまいますよ。だからよく話し合って考えましょうよ」とまあ言います。だから学校でも先生が「じゃあ、この子が大人になって何をしていくのか考えましょうや」という話をしていく中で、親が、中学校へ行くことが子どもにとって必要なのかどうかを考え始めると思う。みんな「学校の位置」というものを見失っていると思う。学校というのは社会に所属するための手段です。(回答・野田俊作先生)

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夫がパソコン依存症

Q
 主人がパソコン依存症です。どうにかやめさせられないでしょうか?家に帰ったら、タブレットとPCと2つずっと寝るまでやっています。

A
 本人にやめる気があればね。依存症というのは、本人が「これは良くないね。抜け出さないといけない」と思えばやめられます。本人にやめる気がなければまわりがいくら言ってもやめられません。ご本人が、「パソコンに無駄な時間を使っているよね」って思えばやめられる。まあ、パソコンの使い方にもよります。いけないのは、フェースブックなんかで盛大に人とやりとりをする。朝から晩まで誰かとおしゃべりをしているとか、朝から晩まで自分のやったことを書きまくっているというと、結構依存症なんです。そうじゃなくて、誰かのホームページを見ているとか、ブログを読んでいる程度だとそんなに困ったことにならないはずです。まあ程度問題です。一日中テレビを見ている人もいますが、ずっと見てはいなくて、ただテレビがついているだけだとそんなに問題にならない。ご本人が、「これはいかんな。ここから抜け出さなきゃいけないな」と思えば抜け出せます。(回答・野田俊作先生)

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クラスで10歳男子が常習的に暴力

Q
 私は学校で働いています。担任ではありませんが、受け持っているクラスの10歳の男子のことです。すぐに殴る蹴る首を絞めるなどの暴力を毎日ふるいます。原因は気に入らないことがあったり、好きな女の子が自分以外の子と手をつないでいたりすることです。手足で殴る。顔面を拳で殴る。腹を蹴る。毎日のように暴力を振るう。その暴力でボコボコにしてしまう。いくら注意してもやめません。何か良い方法はありますか?よろしくお願いします。

A
 児童相談所へ行くべきですね。カウンセリング施設と協力体制を作るというのがすごく大事です。これは一応、刑事的な犯罪行為です。たまたま喧嘩して一発殴ったくらいだとそうではないけど、常習的に暴力で自分の要求を通そうとしている子は、特別に援助をしてあげないと、個別的なカウンセリングをしてあげないと、その子の利益にならない。クラスの子たちの利益にもならないけど、その子の利益にならないから、一応児相通告をして、児童相談所へ通ってもらうという方向で考えるほうが子ども自身の利益になると思う。クラスで何もかも抱えようとしないほうがいいと思う。たまたま暴力振るったというんだったら、それはその子と話ができます。その子を引き離して、落ち着いたら、「暴力を振るわないようにするにはどうしたらいい?」と聞けばいい。でも、その子は暴力を主なコミュニケーションの手段に使うということを学んでしまっているから、暴力以外の方法をコミュニケーションの手段として学ぶためには、個別の指導がいると思う。申し訳ないけど、学校にそれだけの力はない。それだけバッチリ心理学を勉強した人はいないから、児童相談所へ相談なさったらどうですか?(回答・野田俊作先生)

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