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縦の関係でつきあってくる人には?

Q 
 相手が縦の関係でつきあってくる人と、横の関係になるにはどうしたらいいでしょうか?

A
 横の関係になればいいんです(笑)。すぐに縦の関係を作って、相手より上に立ちたいという人は、横の関係の人に比べれば、勇気の乏しい人です。自分がより上で、より正しくて、より重要人物であるというときだけ、自分は大丈夫だと思っている。われわれ人間は、「自分が大丈夫だ」「私はOKだ」と思うのに条件をつけます。「これこれのときだけ(only if)」ってね。縦関係でないと辛抱できない人は、横関係である人よりはその条件の幅が狭い。つまりそれだけ弱いんです。
 僕らが横関係でその人と接していれば、必ず横関係になります。そんなに威張らなくても、あの人は私とちゃんとつきあってくれるということがわかるから。威張るのは、「ひょっとして相手が自分を尊敬していないんじゃないか」と思うからでしょう。「あなたが威張ろうが威張るまいが、私はあなたを尊敬してますよ」というのが伝わればいいんです。ですから、相手がどうであるかは全然関係ないんです。
 人間は、自分の住んでいる世界を自分の力で作り変えます。これは他の動物よりはるかに大きな能力です。これは人間どうしの関係でもそうで、他の人たちを作り変えます。すごい縦関係の人と僕らが接しても、こちらが横関係でつきあっていれば、その人はまず私に対してだけは横関係で接してくれるようになります。そのうち、他の人に対しても横関係で接していくようになります。だから相手がどうかを最初に気にしないでください。(回答・野田俊作先生)

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子どものきょうだい喧嘩に夫の親から批判

Q
 中学3年の男の子と小学6年の女の子とがよく喧嘩をします。それで、夫の両親から「私が何もしないからだ」と、トバッチリが私のほうに来ます。どうしたらいいでしょうか?

A
 この人はいいお嫁さんでいたいんでしょうか、いいお母さんでありたいのでしょうか、どちらでしょうか?
 これはときどき矛盾するんです。私だったら、いい嫁であるよりはいい母親であるほうをとるべきだと思う。だって、大きな声で言えませんが、お姑さんはもうすぐあの世に行かれますが、子どもはこれからあなたよりも長生きしますよ。だから、子どもの利益になる母親であるほうがいいと思う。悪い嫁である覚悟をまずすること。
 僕たちの親の世代は僕たちより、もっとかわいそうでした。僕たちの親の世代はわれわれに間違った育児をしましたが、それは彼らの責任ではないのです。彼らは僕らよりもっと間違った育児をされましたから、僕たちのおじいちゃん、おばあちゃんは、僕たちの親たちを間違った育児をしましたが、それも彼らの責任ではないのです。それはひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんたちがもっと間違った育児をしたから。だから、お姑さんの世代というのは、僕たちよりもっと気の毒な世代です。僕たちよりも誤った信念をよりたくさん持っているんです。そして、あの人たちにわかってもらうというのはとても難しいんです。
 わかってもらえるたった1つの方法は、僕たちが悪い嫁や悪い婿であることを一度覚悟して、子どもときちんと接してみて、確かに子どもが変わったということをおじいちゃん、おばあちゃんが納得してくれるときに、「ああ、このごろの若い人たちって口だけじゃないのね」って言ってくださるようになる……かもしれない。ならないかもしれない。
 それから、お姑さんやお舅さんにこちらが競争して勝とうという意識がある限り、向こうも競争して勝とうという意識がありますから、われわれがすることに反対なさる。だから負けましょう。「バカな嫁です。バカな嫁ですが、育児に関しては私の思うとおりにさせてください」という線でいかなければしょうがないと思います。
 それから、子どもの喧嘩のことですが、これは子どもの課題です。だから、子どもの責任において解決するしかない。学校でも家庭でも、子どもというのはしょっちゅう喧嘩をします。これはいいことです。喧嘩をするというのは、子どもにとっていいことです。ただ、喧嘩をしていて襖を破られたり、物を壊されたら困りますね。これはお願いするんです。「あなた方が喧嘩をするのは大いに結構なんだけど、家の物を壊さないでください」。
 喧嘩をして大声を出してやかましいのは、それがイヤで迷惑だったら、共同の課題にすることができます。「静かに喧嘩してくださいね。もしも、どうしてもやかましく喧嘩したいんだったら、家の外でやってください」。公園とかでやってくれるんだったら、一向にかまわない。
 「喧嘩をやめてください」とは言わない。「物を壊すのをやめてください」とか、「われわれに迷惑をかけるのをやめてください」という言い方をする。これは子どももわかってくれると思うんです。冷静に頼んでいればね。しかし、そのあたりのことをわれわれは分離できないんですね。われわれの共同の課題になるものとならないものとの分離をしなくてはいけない。(回答・野田俊作先生)

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生徒に「もっとほめて」と言われる:「ほめる」と「勇気づける」の違い

Q 
 高校の教員です。生徒にもっとほめてほしいと言われたんですが、どう対応したらいいんでしょうか?

A
 アドラー心理学では「ほめないほうがいい」と言われています。もちろん、叱るのは絶対に禁止です。感情的に怒るのも良くないし、相手の問題点や欠点を指摘するのもやめたほうがいい。いろんな意味でそう言われています。
 どうしてかというと、まず対人関係を悪くします。「あなたのここが問題だよ」と冷静に言えて、相手もそれを冷静に受け止めることができるだけのコミュニケーションが成り立っていればいいかもしれないけれど、でも普通はそういうコミュニケーションを持てていないはずです。だから対人関係が悪くなって憎まれます。憎まれると相手を助ける力が減っちゃうんです。だから、ここで正しいことを教えなくてはということと、相手と仲良くしなくてはということとの二者択一になる。正しいことを教えることと仲良くすることはどちらがいいかというと、仲良くするほうがいいんです、いつでも。
 それから叱ったり、「これがいけない」と言って育てると、いけないことはたくさん覚えるんですが、良いことは覚えない。してはいけないことばかりで、頭の中が「べからず、べからず」ばかりになります。そうすると消極的になります。臆病になって勇気がなくなってしまう。これもとてもまずいですね。
 大阪に、ある芸者さんの踊りがあって、地味な踊りなんですが、そのお師匠さんはもう70いくつになる人間国宝です。そのおばあちゃんがいつも言っている。「私は一度も弟子を叱ったことがありません。いつでも上手だ、上手だと言っているんです」。なぜ叱ったことがないのかというと、「叱って育てた踊りは小さい」と言われる。「最初はムチャクチャなんだけど、それでも伸び伸びとやっていて、そのうちだんだんと本人がわかってできあがった踊りでなければ、お座敷に出せない。叱ってオドオドとできた踊りは小さく固まってしまって面白くない」と言うのね。本当にそうなんだろうと私も思います。
 最近日本人の音楽家が増えましてね。外国のオーケストラにもたくさん日本人が入っています。でもよく言われるんだそうです。「日本人の音楽家の音楽は面白くない。とても上手だけど何にも面白くない」。叱って育てられていますから。メチャメチャお行儀がいいだけで、とても消極的で、すごく臆病です。より創造的で新しいやり方を覚えないですね。
 それから第3番目に、叱って育てると、叱ってくれる人がいないところではやってもいいと思うでしょう。罰せられなかったらいいと思う。非行少年たちはみんなそうです。泥棒をしてはいけないなんて、みんな知っているんです。「君たちは泥棒というのはいいことだと思うかい?」と聞くと、「そりゃ悪いと思うよ」と言う。「じゃあ、どうしてしたんだい?」「見つからないと思ったから」と答える。見つからなかったらしてもいいと思う。これは叱って育てられた証拠です。心の中に正しいとか間違っているという善悪の判断基準がなくて、外側にある。怒られるからこれはやめておこうとか、見つかったら困るからやめておこうとか、自分の内側に道徳がない。子どもに聞いてみてください。きっと、「そんなことをしたら叱られる」とか、「怒られるからやめとこう」などというものの言い方をします。
 そういうわけで、叱るというのは絶対に禁止です。そして、ほめるというのも良くないんです。まず最初に、人をほめるためには相手のやっていることを良いとか悪いとか、こっちが判断しなければならない。次にそれにご褒美をつけて伝えますね。「君はいいことをした。偉い」と言います。これを「ほめる」と言います。相手のやったことの善悪を判断する資格が私たちにありますか?私たちは裁判官か神様か?
 子どもが育っていく過程で、たぶん大人から一番たくさん聞く言葉は、「それは良い」とか「それは悪い」とかに関係する言葉だろうと思う。ずっとそればっかり聞かされている。だから子どもはいいかげん知っていますよ。そして、「それは良い」とか、「それは悪い」とか、ずっとこっちが判断してあげていると、自分に自信が持てなくなる。「はたしてこれでいいのだろうか」自分で自信がなくて、結局、「これでいい?」と絶えず聞きに来る子どもになってしまう。ほめてもらえるかどうか気にするわけです。
 ほめるということは、相手が良いか悪いかの判断を、上から下へすることです。私が上でないとほめることはできません。すごく尊敬する人物に対して、その人をほめたりなんかしないです。名医がいて、その人に例えば、「先生は偉いですね。大したものじゃないですか。ちゃんと患者さんを治せますね」なんて言わない。
 つまり、ほめるということは、人をバカにしていることです。相手をバカにしているからほめることができる。あなた方の子どもから、「お母さんよく頑張ったねぇ、偉いね」と言われるとイヤでしょう。晩ご飯のときに、「今日のおかずは立派だね。お母さんもやればできるんだねぇ」と言われるとバカにされていると思うでしょう。ほめるというのは人をバカにしているということなんです。僕たちが子どもに向かってほめるというのは、子どもたちをバカにしているということなんです。「テストで100点を取ったの。偉いね」と言うのもバカにしている。相手を本当に尊敬していたら、そんなことは口が腐っても言えないはずです。ほめるというのは、だから縦関係の中で相手をバカにしたときはじめて言える言葉なんだと言うことを知らなければならない。
 ほめられたい、もっとほめてほしいという子どもは、バカにされたい子どもです。つまり先生の家来(けらい)になりたい。何のために先生の家来になりたいんでしょうか。この子どもの目的は何でしょうか。それは、ほめられない子どもに対して優越感を持ちたいからでしょう。つまり、先生の家来になることで、もっと下にいる先生の家来になれない子を見下したいんです。
 ですから、この子にそれを教えてあげましょう。「君は僕にバカにされたいのかなぁ。ほめられるというのは、実はバカにされるということで、僕にバカにされて家来になって、僕にほめられない子をバカにしたいのかなぁ」と、全部教えてあげればいい。そう言われると、もう「ほめてほしい」なんて言わないでしょう。
 何度も繰り返して言いますが、われわれは間違った育児と間違った教育を受けてしまった被害者なんです。だからわれわれの中にも人からほめてほしいという気持ちがある。それに対して、絶えず、「私は相手にバカにされたいのか?」と問い返してほしいんです。人からほめられること、人をほめること、あるいは人を叱ったり叱られたりすることで動くことをやめてほしいんです。そして、ほんとに良いコミュニケーションを人との間に持つこと、ほんとに人と協力し合うこと、ほんとに勇気づけ合うこと、そういう別の形のつながり方を学ばなければならないんです。

 では、ほめることと勇気づけることとはどう違うか?
 ほめるということはさっき言ったように、相手が良いのか悪いのかを判断すること(つまり裁いている)で、勇気づけというのは、自分が良いのか悪いのか、自分の状態がどうなのかを判断することです。相手がしてくれたことで、それが自分にとって気持ち良いのか気持ち悪いのか、それを縦の関係でなくて横の関係で伝えます。「偉いね」とか「立派だねぇ」とか相手を判断するんじゃなくて、「ありがとう」とか「嬉しい」とか自分の気持ちを伝えることですね。同じような言葉みたいだけど、基本的な態度が全然違います。
 子どもに、「お母さん、こんなにおいしいご飯を作ってくれて大変だったでしょう。僕嬉しいよ」と言われたらジーンときたりしますね。それが、「お母さんも頑張ったらできるね。これからも頑張るんだよ」と言われたら、もう二度と作ってやりたくないと思うでしょう。
 これは表面に出てきた言葉尻の問題じゃないんです。対人関係に対する基本的な構え方の違いです。相手を支配しようとしているかいないか。相手を良いとか悪いとか判断するのは、相手を支配して相手を変えようとしている態度です。自分がそれで嬉しかったか嬉しくなかったかという態度は、別に相手を支配しようと思ってない。「嬉しかったから、もっとやってちょうだい」と思っているわけではない。「もっとやってちょうだい」と思っていたら、それは勇気づけじゃなくてほめることになります。どんな言葉を使っていても。
 だから、「もっとほめてちょうだい」と言われる先生は、きっと勇気づけのやり方が下手なんでしょうね。勇気づけの言葉をちょっと工夫してみてください。例えば、こんな話を聞きました。ある先生が教室の掃除をしている生徒を見て、「おお、きれいになったな。先生は嬉しいよ」と言ったら、生徒は、「先生のために掃除をしたんじゃねぇよ」と答えたんだって。そこで先生は勇気づけの仕方を間違えた。彼は、「うーん」と黙ってしまった。僕(野田)が先生だったら、そこで、「なるほど!賢い生徒を持って僕は幸せだ」と言います。教室を掃除するという課題は、別に共同の課題でもなければ、教師に対する課題でもない。こんなもので勇気づけられないですね。そういうのを学校の先生は、間違って変なときに勇気づけして失敗する。そのとき教えてもらえるわけです。これは勇気づけてはいけないことだと学ぶことができる。子どもはいつもわれわれの先生です。
 僕が出た大学の医学部では、死体解剖というのをやるんですが、死体解剖室に額がありまして、「屍は師なり」と書いてあったんです。「死体というのはあなた方の先生だ」という意味ですね。これは本当にそうで、先生から習うことよりも、解剖させていただく遺体から学ぶことのほうがずっと多いんですよ。あるいは、先生よりも患者さんから学ぶことのほうがずっと多いです。親もそうで、自分の子どもから学ぶことがすごく多いですね。自分のやっていることが適切であるか、不適切であるかは子どもに聞けば一番よくわかる。「お母さんはちゃんとした母親だと思う?それともダメな母親だと思う?」と聞いて、「ダメな母親だと思うね」と言われれば、ダメな母親なんですよ。自分でどう思っていようがね。
 勇気づけるというのは、こちらがどんなつもりで言ったって、向こうは別な受け取り方をする可能性があります。コミュニケーションというのは、こちらがどんなつもりで言ったって、向こうが別なつもりで受け取ることがありますから、どっち側が決めるかというと、向こう(相手)側で決めるんです。ある言葉が勇気づけになっているかどうかというのは、「向こう側が勇気づけられているかどうか」で決まるんであって、こっちが勇気づけるつもりで言っているかどうかでは、残念ながら決まらない。だから、子どもたちに教えてもらうしかないです。(回答・野田俊作先生)

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2番目の子どもが気持ちを表現しない

Q
 長女は11歳です。2番目の男の子が自分の気持ちを表現しないんです。

A
 ということは、きっと一番上のお姉ちゃんは、自分の気持ちをよく表現している子なんですわ。どうしてそういうことが言えるかというと、きょうだいというものは、そういうものだからです。
 一番上の子が活発で、大変ハキハキとものを言う子であって、それでもって親たちとつながりをつけているとしたら、下の子は、お姉ちゃんと同じだけちゃんとはっきりものを表現できる自信があればいいんですが、ない場合にはうんとものを言わない子になります。そうすると、こういうふうにお母さんが心配するわけですね。心配すると子どもはお母さんとつながりが持てるわけです。これが、この子が自分の気持ちをちゃんと表現しない目的で、そうやって心配してほしいんです。
 それでお母さんは、「きっとこの子はこんなふうにしてほしいんだろうなぁ、こういうことを望んでいるんだろうなぁ」と推し量って動いている限り、この子はずーっと言いませんよ。だって、それが目的なんだから。
 ほんとはね、別に自分の気持ちを表現しなくてもいいんです。だってそれは母親の課題じゃなくて、子どもの課題なんだから。
 人間には言いたいことを言う権利があります。私は自分の言いたいことを言いますが、しかし、言った以上自分の言葉には責任を取らなければいけない。だから私が言ったことで、相手から攻撃されるかもしれない。その責任さえはっきり取るならば言いたいことを言う権利があるんです。反撃されることがイヤだったら反撃されるようなことは言わなかったらいい。
 逆にね、一切何も言わない権利もある。その代わり、相手に自分の気持ちが伝わらないという責任を取らなければならない。人に誤解されてもいいということを覚悟しておかなければならないんです。だから何にも言わなくてもかまわないですが、何にも言わないということは、他の人たちにどう思われようがかまわないということを認めていることになるから、こっちが勝手にいろいろ誤解してもいいわけです。あるいは全然気にしなくて放っておいてもいいわけです。みんなでおいしいものを食べていてね、向こうが「欲しい」と言わなかったら、あげなくてもいいわけです。そのうち「どうして僕にくれなかったの?」と言ったら、「あなたは頼まなかったもの」と言えば、頼むようになります。
 このお母さんはね、黙って素振りを示すタイプの子どもに弱いんですよ。世の中には、鈍感でそういうのを気がつかないタイプのお母さんもいます。子どもが黙って何かをしてほしいという素振りをするけれど、それに全然気がつかないんですね。すると子どもは死活問題だから、ものを言うようになります。このお母さんはとても敏感で、子どもにたくさん愛情があるものだから、子どもが黙っていても、素振りを示すだけで敏感に反応を示してくれるんです。だから子どもは何も言わなくてもすむ。素振りさえ示せばお母さんは動いてくれるから。そりゃ、その子にすれば便利ですよ。一々口で言わなくても、もの欲しそうな顔をすれば、「あれが欲しいの?これ?それともあれ?」って聞いてくれるわけだもの。お姫様ですね。お姫様がご不快そうな顔をしていると、ご家老は、「お腹がお空きでございましょうか?それとも……」と聞くでしょう。だから、こういうのは「ナニナニしたい」と口ではっきり言うよりもずっと偉い人のやることです。それで、この子はとても偉い人になって、とても快適に暮らしているわけです。
 これはやっぱり具合が悪いと思います。彼の課題ではあるけれどね。彼はものを言わないという権利を主張していて、それに伴う責任を取ろうとしていないと思う。そんなふうにしていると誤解されるとか、わかってもらえないとかいう責任をちゃんと取ろうとしていなくて、黙っていながらわからせようとしている。わからないまま放っておくと、きっとこの子は怒ると思います。やっぱり、はっきり言ってくれるようにしてもらったほうがいいと思います。
 方針はこうです。はっきり言ってくれない限り絶対に動かない。アドラー心理学の育児というのは、ある面でとても厳しい育児です。絶対に叱らない代わりに、絶対に無責任なことをさせないという育児です。「この子がはっきりとお願いしない限り、絶対に動かない」と、お母さんが決心をしなければならない。それはお母さんにとって、とても勇気がいることだろうと思います。でもね、もう11歳にもなっていれば、餓死はしませんから。放っておいても、ご飯くらい自分で何とかしますからね。しばらくそういう目に遭わせたほうがいいです。
 それから、今が最後のチャンスです。この子は小学校5年生か6年生でしょう。今、性格が最終的に固まろうとしているところです。これを逃しますと、性格を変えることはすごく難しくなりますよ。今だったら辛うじて間に合うかもしれない。だから、今、家族全員で、この子本人も交えて話し合ってください。「ちゃんと言葉で、はっきり頼まれないことには動かないようにしよう」。そして、これはこの子だけではなく、家族全員、他の人に対してもそうです。大人どうしでもそうです。「気の利かない人に1回なりましょう。はっきりと口で言うことだけ聞こう」。そうやって暮らしてみるだけの価値はあると思います。
 そうすると、だいたい3か月くらいで相当変わってくる。その間に、家族が感情的になることがあるかもしれない。怒りながらとか、あるいは泣きながら訴えるということがあるかもしれない。おそらく、一時そうなると思います。おとなしくて何も言えないというタイプの子は、ものを言えるようになるという途中で、感情の力で、かけ声をかけながらでなければものを言えないから、泣きながらとか怒りながらとかでものを言う。だからそれはいいことです。そのときに、「できたら泣かないで言ってくれたら、もっとよく聞こえるんですが」と言ってあげてください。そうやって、こちらが冷静に勇気づけてあげてください。(回答・野田俊作先生)

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学習障害児

Q 
 学習障害児について教えてください。

A
 あのね、僕はこういう病名づけは嫌いなんです。この前、あるお母さんが僕(野田)のところへ来て、そのお母さんの一人息子さんが、大学の保健室で統合失調症ではないかと言われたんです。すごく心配されて、「あの子は統合失調症でしょうか、どうでしょうか?」と聞かれる。僕は本人と会ったこともないんでわかるわけないんですが、まずこのおばさんはいかんと思う。そんなのはどうでもいいじゃないですか。僕は20年近くも精神科医をやっていますが、いまだかつて1人の統合失調症者にも会ったことがなければ、1人の神経症患者にも会ったことがないし、1人の非行少年にも会ったことがない。会ったことがあるのは、あの患者さん、この患者さん、この人、あの人であって、統合失調症者という人が「こんにちは」と言って来たことは1回もない。
 自分の息子とどうつきあうかが問題なのであって、統合失調症者とどうつきあうかが問題ではないんです。統合失調症だからとか統合失調症でないからといって、つきあい方が変わるんだったら、その人は自分の息子とつきあってないんです。そういう人は、もしも今、会社の部長さんと結婚していたとして、会社がつぶれたりクビになったりして、ご主人が部長さんをやめたとたんに離婚したりするんです。その人はご主人と結婚してたのでなく、部長さんと結婚していたんだ。
 それは良くないでしょう。あの男と結婚しているのであって、どっかの会社の部長さんと結婚しているわけではないですね。この子どもと一緒に暮らしているのであって、学習障害児と暮らしているわけではないですね。学習障害児であろうが、知恵遅れであろうか、統合失調症であろうが、不登校児であろうが、何も関係ない。この子と一緒にどう暮らすかだけが問題です。
 「これは何病か?」と気にするのは医者だけです。なんで気にするかというと、保険の請求をしなければいけないからです。病名をつけておかかないと、保険がおりないんですよ。まぁお薬のことはありますがね。僕は薬を出さない精神科医なので、全然気にしない。
 「えっ!学習障害児、えらいことや」と、学習障害児の本を読みあさろうというのは、やめたほうがいい。もうやられていると思うけど(笑)。
 本なんか読んだって、勇気づけてくれる本なんて滅多にないです。僕が精神科医になったころ、大学の教授と雑談しているときに、「君はどんなことしたいか」って聞くから、「本を書きたいです」って答えた。専門が不登校とか非行だからそんな本を書いてみたかったんです。「それはいいことだけども、それは親たちが読むんだから、読んだ親たちが安心するような本を書けよ」って言われた。それからずっとそのことは心がけているんです。でも、たいていのお医者さんたちは、そんなことは心がけていない。ますます親を不安にさせ、パニックに陥れるような本を書いている。新聞もそうです。あんなもの読まないほうがどれだけいいか。知識があるということは、時に助けにならない。それよりも、「何も知らないけど、この子と暮らそう、この子と今日1日楽しく暮らそう。この子がこの子でいられるようにしよう」と思っている親が一番いい親です。だから学習障害児のことなんて知ろうとしないで、この子と一緒に楽しく暮らそうと思ってください。(回答・野田俊作先生)

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