Q0394
「何のために勉強するのかわからない。やっても無駄で」と言う小5の子に何と言えばよいでしょう。
A0394
そりゃあ、あんたが無駄飯を食わないためよ!世の中のゴミにならないためよ。勉強もしないで、食べたいだけ食べて、やりたいことだけして暮らすのは、害虫です。何の役にも立ってない。ゴキブリと一緒、ウンカと一緒ですよ。そんなものは存在する価値はない。僕たちは、自分の力を世の中のために使い、人から必要とされ、みんなが私を求めている存在にならないといけない。全員。それしか僕たちが生きていく道はないんです。それが人間の一番楽しい、ワクワクする暮らし方なんです。僕らは楽して暮らしてはいけない。楽して暮らす暮らし方は地獄なんです。生まれてすぐに保育器に入るとしましょう。その保育器は暑からず寒からず、ちょうど良い湿度で、お腹が減ると食べ物がどこからか出てき、排泄物はどこかへきれいに流され、何にもしなくても快適に暮らせる場所で、それでそのままずっと一生送ったとしましょう。この人は幸福か不幸か。最高に不幸だと思いません? やっぱり、恋をして破れてみたり、財布を落としてクヨクヨしてみたり、お母さんに怒られて家出してやろうかと思ってみたりするほうが、ずっと幸せだと思いません?だから、僕たちは、身体的な快楽・安楽と、幸福とをいつか混同したんです。僕はいつも保育器の中で育てられているのをイメージして、それだけはやめたいって。そこは人間の最も地獄な場所で、 勉強を何のためにするのかわからないと言っている不登校児の、何となくイメージする幸福って、そういうのです。保育器の中で、自分が何にもしなくても、欲しいものが手に入る暮らしね。それは人間の最高の不幸です。人間の幸福というのは苦労の中にあるんです。人間の幸福というのは、苦楽相半ばする、ないまぜたところにあるんです。その味は子どもにはなかなかわからないかもしれないけれど、でも僕たちがちゃんとイメージしているべきだと思う。子どもに楽させようとか、子どもが苦労しないようにとか考えるべきではないと思います。(回答・野田俊作先生)
Q0393
子どもを勇気づける以前に、私が勇気づけられないと日々しんどくてたまりません。私は私をどう勇気づけられたらいいでしょうか?
A0393
さっきの続きなんでしょうかね。人生の意味ってなーに?大人にとって。僕らはなんでこの世に生きているんでしょう。アドラーはずっとそのことを問い続けていたんです。僕らは世のため人のために生きているんですよ。僕らが存在することで誰かが助かっているんです。僕たちは、朝起きたとき、「あー、今日一日人々が私を必要としているな」と思うから、元気に起きられる。朝起きたときに、「誰も私を呼んでいない。誰も私を必要としていない」と思うと、元気に起きられない。だから、僕らの勇気、勇気というのは「チャレンジする心」ね。勇気というのは、リスクを引き受ける心ね。勇気というのは、人からけなされたり嫌われたりすることを恐れない心ね。勇気というのは、自分の安全だけを求めない心ね。でしょ。「私は必要とされている」という信念から出てくる。誰が何と言おうが、私が暮らし、私が働き、私が生きていくことが、ある人々から求められているんだって。私がいないと困る人が出てくるんだと思うから、勇気が出てくる。だから、そういう暮らし方をしてよ。人から好かれ、苦しいことは避け、自分の欲しいものだけ手に入れ、イヤなことはやめ、それで勇気溢れる暮らしをしようというのは、初めから矛盾している。言ってることが。食べたいだけ食べて痩せたいと一緒なんで、無理よ、そんなの。(回答・野田俊作先生)
Q0392
1年生(7歳)と引っ越ししたばっかりのマンションで2人暮らしで、息が詰まりそうです。楽しく過ごすコツを知りたいです。
A0392
うーん。細かくはわからないんですが、子どもの相手をしなよ。子どもとそっと向かい合っている必要はないじゃないですか。(回答・野田俊作先生)
Q0391
小学校1年生です。4月に入って学校へ行きません。せめてあと数か月してから決めてほしいです。どうしたら行かせることができるか?
A0391
行かせることはできますが、どうか私に聞かないでください。親が行かせようとすること自体にこの家の育児の問題点がある。「パセージ」に出てください。病気の根は深い。小学校1年生の子が学校へ行かないのと、中学校1年生の子が学校へ行かないのとは、今でもやっぱり問題の根が違うと思う。小学校へ入ったときの不登校児と、5年生以上の不登校児とは性質が違うと僕が言ってきた。母子分離不安とは言わないけど、昔はそう言う人がいた。そうは言わないけど、やっぱり家庭育児の失敗だと思う。小学生の場合は。大きな要因は。だから育児の失敗をちゃんと修復しないといけない。良いチャンスだから。「パセージ」に出て、「課題シート」を書いて、リーダーさんによく相談して、不登校から頭を離して。育児に欠陥があるんだと思って。その欠陥を修復するチャンスだと思ってください。早い時期にこうなってよかったよ。育児の欠陥を修復しておきさえすれば、学校へ行く行かないかは小さな問題だと思う。良い家庭があって、良い親子関係があれば、その子はもっと自由に決断できるようになるでしょう。今は、何かわからないけど、どっかに問題があるんだと思ってください。小学校5年生以上の子が初めて学校へ行かない、それまで機嫌良く学校へ行ったのに行かないのは、これは思春期的問題であって、親子関係の問題よりも友人関係とかそっちのほうの問題だろうと思うから、カウンセリングするんだったら子どものほうをやってもいいと思う。小学校1年生なら、子ども自身の人格的問題ではないと思う。子どものカウンセリングをしてもしょうがないと思う。教師のカウンセリングは意味がある。教師が子どもを学校へウエルカムできるようにするには、子どもを歓迎するようにできるのは意味があるかもしれないけど、家庭がそういう試練のある場、ちょっとしんどい場へ子どもが出て行けるように準備をしてあげなかったことにあると思う。子どもが、世の中、楽なことだけして暮らせるんだと思ってしまったということにあると思う。つまり子どもが家事に一緒に参加してこなかった。親と苦楽をともにしてこなかった。楽だけともにして苦はともにしてこなかったことにあると思う。そのあたりを学び直したほうがいいと思う。(回答・野田俊作先生)
第1章のつづき
道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。名無し、天地の始めには、名有り、万物の母には。故に常に無欲にして以てその妙を観、常に有欲にして以てその徼(きょう)を観る。この両者は、同じく出でて名を異にし、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。
※浩→「天地の始め」は「道」で、「万物の母」は「天地」です。天地の始めすなわち天地の始原としてこの世界の開闢以前から実在する形而上的な根源の真理(道)には名がなく、それは人間の言葉では名づけようのない混沌とした存在ですが、天地が開闢して万物が生成され、形而下的な世界が成立してくると、あるいは天と呼ばれあるいは地と呼ばれ、そこに名が存在するようになる。その深淵幽微な実相を諦観しようとするならば、形にとらわれる人間的な欲望から離れなければならない。人間的な欲望から離れて常に無欲の境地に身を置くとき、その「妙」すなわち道の深淵幽微な実相をあるがままに眺められるのであり、形あるものの根源にある形なきもの、名を持つものの根源にある名なきもの、要するに人間を含む一切万物がそこから生まれ、そこにまた帰っていく究極根源の実在=「道」に目覚めることができるのです。
「玄のまた玄、衆妙の門」─実在世界のかそけきあり方すなわち「妙」も、減少世界の顕わなあり方すなわち「徼」も、なぜそうあるのか、人間の言知では理由づけることのできない不可思議なるもの「玄」です。それでもなお不十分で、玄なるが上にもまた玄なるもの、要するに人間のいかなる言葉をもってしても形容しつくすことのできないもの、そこからさまざまな現象、一切万物がそこを門として出てくるのです。
「万物の根源」を想定すると“土着思想”になると教わってから、『老子』を遠ざけていましたが、その理論はともかく、後半の「実践」篇からは、逆説的な処方術をたくさん学ぶことができます。心理学の世界でも、理論の折衷・借用はなくても、技法の借用は現に行われています。治世向きのお行儀の良い「儒家」と較べて、乱世向きの「逆説」を説く「道家」の思想を現代に生かせそうで、読み返していくことにしました。
「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」というのは「新約聖書」~ヨハネによる福音書冒頭の言葉ですが、聖書では言葉は光であり、秩序の原理であり、あらゆる明晰なものの象徴でした。「老子」でははじめに言葉はなく、言葉は神でも神とともにあるものでもなかった。「老子」においては、はじめに「道」があり、その「道」は言葉もなく名もなく、あらゆる秩序と明晰なるものを拒んで、暗くかすかに静まりかえる非合理な混沌でした。この現象世界にあらゆる存在は、この暗く定かならぬ混沌の中から生じ、やがてまたその混沌の中に帰っていく。どのような言葉も栄光も、そのような文明も栄華も、それが人間によって作られたものである限り、いつかは崩れ去り滅び失せ、「道」の混沌の中に呑み込まれていく。老子の哲学は、ロゴスを越えたもの、カオスを問題にする哲学であり、聖書の教説に深く培われたヨーロッパ的な理性の哲学の対局に立つ哲学です。
光よりも闇を、形あるものよりも形なきもの、有より無を根源的なものとして凝視する。明るく華やかな世界よりも暗く沈んだ世界を、先鋭なるものよりも鈍重なるもの、激しく変動するものよりもどっしりと安定したものを重視し、喧噪よりも寂寞を、文明よりも素朴を、前進よりも復帰を強調する。
老子の哲学は中国の歴史の泥濘の中に腰を据えた哲学です。それは踏みつけられた者の強靱さ、大地に密着する者の粘り強さ、重心を下に落とした者の逞しさを己れの生き方にする哲学であり、それ以上に崩れようのないもの、一切の人間的な行為が崩れ落ち無に帰するところから己れの生き方を考える、不敵な乱世の哲学であります。(さらにつづきます)