Q
私は現在中学校に勤務する教師ですが、学校ではとにかく「忍耐」ということを強調します。そのことについてどう思われますか?
A
人間は本当は忍耐をしない動物だと思うんです。私はすごい働き者です。自分で言うのも変だけど。でも、辛抱しているんじゃない。楽しいからやっているんです。楽しくないことは絶対にしないんです。大人になるとみんなそうです。子どもも実はそうです。「つらい、つらい」ではやらないですよ。「つらい、つらい」とやるのが好きな人がいますが、あれは「つらい、つらい」と言って頑張ってやっている自分に快感を覚えてやっているんです。「なんて私は立派なんだろう」と思ってやっている。それは一種のマゾヒズムです。とても変な心理で、あんまり健康じゃない。学校が子どもたちに身につけさせようとしているのは、そういうちょっと歪んだ精神です。自分を苛(さいな)むことを喜ぶ精神です。あれは健康ではない。
この世には、僕たちがあまり「したくないけれど、しなければならない」こともたくさんあります。それが、どうしてもしなければならないのか、しなくてもやっていけるのか、まず考えてみる。しないでもいいと思ったことは、僕は全部パスすることにしている。しないんです。
いくら逃げたって、しなければいけないということがはっきりした場合には、2つの方法があります。1つは、それをイヤイヤする。もう1つはそれを楽しんでする。どっちかです。そうしたら僕は楽しんですることを選ぶ。辛抱しながらイヤイヤするほうは絶対に選ばない。子どもたちに僕たちが教えてあげたいことは、そのことです。どうしてもしなくてはならないことがあれば、それは楽しくやろう。どうやったら楽しくやれるか工夫しよう。イヤなことを耐えてやるというのは絶対にやめたほうがいい。だって同じことをするんだったら、イヤイヤやるのと、楽しんでやるのと結果はどっちがいいと思う?
だから忍耐というのは、とても間違った考え方です。とても変態的な考え方です。そんな変態的な考え方を子どもに押しつけてはいけないと思うんです。(回答・野田俊作先生)
Q
何を信じたらいいでしょうか?
A
信じてはいけないです、まず。アドラー心理学なんて信じないように(笑)。そうですよ、僕が今しゃべっていることなんて、およそ信じるべき内容ではない。そうではなくて試してみるべきなんです。僕はね、提案しているんですよ。僕は、自分が体験して非常に良かったから話しているんであって、信じているから話しているんじゃない。これよりもっといい方法をどっかで学んだら、「そっちにしなさい」って、きっと言いますわ。
信じないようにね。今日言ったことを理屈だと思わないように。あるいは信念だと思わないようにしましょう。あるいは宇宙の真理だと思わないようにしましょう。これはただの“便利”です。「やってみたら良かったですよ」ということ。お鍋を売ってるみたいだね。「このお鍋良かったですよ」って。(回答・野田俊作先生)
Q
息子23歳です。昨年4月大卒で就職しました。お金を貯めて単車を買いたいと言っていますが、親は危ないのでやめさせたいのです。どうしたらいいでしょうか?
A
話になりませんね、これは。23歳の人間がすることにかまったりするもんではありません。過保護というのは、子どもが苦労しないように、危ない目に遭わないように、親があらかじめ危険をなくしてあげることを言うんです。その方法が、優しくても厳しくても一緒です。「将来子どもが苦労しないように」という発想があったら、過保護です。何でも、全部です。殴ってでも、ほめてでも。どんな方法でも過保護です。これなんて過保護の典型ですね。
3歳の子が「バイクに乗る」と言ったら、そりゃあ、「やめたほうがいい」と言います。だって、自分がバイクに乗ることについて、その結末を予測する能力がないから。子どもの能力というものを、われわれはきちんと考えないといけませんね。5歳くらいの子どもというのは、自分の行動の結末を予測する力が十分ありません。ですから道路へ平気で飛び出したりする。車に轢かれて死ぬということが予測できないから。あるいは歯を磨かないと虫歯になることを予測できない。だから、そのくらいの子どもたちは、例えば歯磨きを手伝ってあげるとか、道路に飛び出さないように気をつけてあげるとかというのは、親の仕事なんです。ところが、小学校へ入るころになると、ちょっと言ってあげると、自分で予測するようになる。そうなると、「ちょっと言ってあげるだけ」というのが親の仕事になります。「今やっていることをずっと続けるとどうなりますか、考えてください」と言うだけでいいんです。「そのままだったら虫歯になりますよ」と言うと、それは過保護です。だって、子どもは自分で予測できる能力があるから。
だいたい学校へ入るころになると、言われなくても予測する能力があります。だから育児はもう終わりです。親が子どもにしてあげなければならないことは、もう結末がどうこうの話じゃなくて、ただ毎日毎日勇気づけて、仲良く生きていくことだけです。23歳にもなりますと、彼が良いことをしようが悪いことをしようが、親が判断して「それは良い」とか「それは悪い」とか言うべき年齢ではありませんから、バイクを買おうが、飛行機を買おうが、ダンプカーを買おうが、好きに買えばいいんです。彼の「責任」においてね。(回答・野田俊作先生)
Q
不安も目的があって起こるとのことですが、私は体のちょっとした不調、例えば頭がちょっとクラッとしたり、心臓がドキドキしたり、気分が少し悪かったりすると、生命の危機を感じるような不安に襲われ、パニックに陥ることがあります。どうしたらよいでしょうか?
A
ある人がカウンセリングに来ました。彼は難病なんです。20歳代の男の人で、脊髄の神経の炎症なんです。で、手足がとても不自由になって、杖をついて辛うじて歩けるという状態です。視力もだんだんと衰えてくる。彼が今一番恐れていることは、失明することです。失明することを考えると、居ても立ってもいられない。それで結婚もできなくて、年を取ったお母さんと2人暮らしということもあり、「このまま失明したら、どう暮らしていったらいいかわからない」って言うんです。失明という言葉を聞いただけでもうパニックになってしまう。
こういう人がカウンセリングに来ると、私はできるだけ、「失明、失明、盲目、盲目……」って言い続けてあげるんです。この人は、失明のことを恐れるあまり、もし失明したら、どうやって暮らしていけばいいかを考えたことがない。
まぁ、失明するとしましょうよ。失明したらどんなふうに暮らせるでしょうか。まず、生活の経済的な面は、生活保護を受けることになりますね。身体障害者第1級ですから。それでどの程度の経済的な補助が受けられるか、役所で聞いておけばいいですね。それから家の中の暮らしも、ちょっと考えなきゃいけません。目が見えなくなった状態でも暮らしていけるようにするために、家の中の整理をしなければいけない。どこに何があるのかを、目が見えなくてもわかるようにするために。それから外出に関しても、例えば保健所なんかに行って、保健士さんやボランティア活動で、どの程度援助や指導をしてもらえるのか聞いていたほうがいいですね。そうやって十分用意する。
われわれの不安というのは、いつも「起こりうる最悪の事態」を見ないことから起こるんです。そっちから目をそらせるために、なるべくそっちのことを考えないようにしている。それは、われわれの臆病さの現れなんです。その最悪の状態を全部つぶさに見てしまうと、不安になる材料なんてないんです。
例えば極端ですが、死ぬという恐怖も、死ぬという事態をつぶさに見てしまえば、どうっていうことないんです。「息が止まるだけ」だから。われわれはどうせ死にますしね。私も死にますし、あなた方も死にます。「100年後にここでもう1回同窓会をやろう」と言っても、絶対無理ですね。死は早く来るか遅く来るかの違いだけです。本当は恐くも何ともない。それは、友だちとお別れしなくてはいけないという淋しさはあるかもしれないけれど、死ぬということ自体は恐いもんではない。
私も職業柄、若い時代に癌で死んでいく人たちをたくさん見ました。パニックに陥るんですね、これから死んでいく人たちは。ちゃんと死ぬときの用意をして、無事に送り届けてあげるのも医者の役割で、私はそこで精神科医としてその仕事をしたんです。それでパニックさえなくなれば、癌で死ぬのであってもそんなに苦しくはない。癌そのものの痛みはありますがね。でもそれは耐えられる範囲なんです。患者さんが、耐えられなくなるのは、その後を無限に心配し始めるからです。今このくらい痛かったら明日はどうなるだろうか、明後日はどうなるだろうか、死ぬときはどんなに痛いだろうかと。そんなことを考えるからどんどん苦しくなる。僕らでもそうでしょう。お腹がちょっと痛いときに、ひょっとしたら癌じゃないかと考えたらどんどん痛くなるよ。
そうやって、起こりうる最悪の事態をきちんと考えておくこと、死ぬんだったら死ぬということを本当に冷静に考えてみる。そのとき何が起こるのか。心臓が止まってね、呼吸が止まって、意識がなくなって終わりです。もしも生まれ変わるものならば生まれ変わる。生まれ変わったら今と同じですよ、あの世に生まれ変わるか、この世に生まれ変わるか。あの世だったら、あの世でまた今の友だちと同窓会ですし、この世だったらまた繰り返しだし、いずれにしても何も変わらないし、今と同じ。何も問題ない。意識がなくなって、土に帰って何もなくなるのなら、やはり何もない。いずれにしても何も問題はないんですから。死ぬという一瞬の出来事だけ、ちょっと辛抱する。まぁ歯を抜く程度ですよ。あとは幸せに暮らせばいいじゃないですか。生きていることが恐れるようなことじゃないとしたら、死ぬこともきっと恐れることじゃないと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
長男20歳のことです。中1から不登校を続け、勉強から遠ざかっていました。2年前からアルバイトをし、次の行動を考えていたようです。
2、3日前、「お母さん、勉強をすることに決めたよ。通信、大検という道じゃなく、僕は中学3年間の勉強から始めたい」と言いだしました。あまり時間もないし、本人も焦りがあるようだし、親としてどのような対応をするのが望ましいでしょうか?
A
思春期の最大の間違いは、焦ることです。60歳にもなりますと焦りませんがね。若いと時間はたくさんあるんです。
子どもはいつごろまでに大人になればいいと思いますか?男の子だと35歳くらいですよ。今のこの世の中だったらね。だんだん大人になる年が上がってきまして、昔だったら18歳くらいで経済的にも精神的にも自立するというのが普通だったけど、今はどうでしょうね。経済的にも精神的にも完全に親から自立するというと、30歳を越えないと駄目でしょうね。そうすると彼もまだ10年以上あるでしょう。結婚しても親のところへすぐ行くからね。「ちょっと金貸して」とか。だからあと10年から15年以上あるということを、親ははっきり意識することです。
それから2番目に、勉強のことね。何の目的で勉強するのかを、ちょっと考えてみよう。一旦アルバイトをしたりして社会へ出て、もう1回勉強をしたいと思うことはいいことなんですけど、その勉強を一体何のためにするのか。例えばある資格を取りたいとする。その資格を取るためには、高校の卒業証書がいるとする。そうしたら勉強の目的は単純明快で、高校の卒業証書を手に入れることです。ただそれだけです。賢くなるというのは関係ない。その高校の卒業証書を取るためにはどうしたらいいかということで、今後を設計する。「勉強したら賢くなる」という誤解を取り除いてもらわなければならない。勉強しても賢くならないよ。学校で勉強して、実社会で役に立っていますか?二次方程式を誰か毎日解いている人がいますか?学校を卒業したとたんに、あんなものはきれいに忘れてしまうでしょう。学校で教えることなんて、所詮その程度のことなんですよ。だから学校の役割というものは、多くの人にとっては卒業証書をくれることくらいなんです。このことを割り切って話しておくといいです。「一体何のために勉強したいのか」ということを。
だいたい中学からやり直すなんて、かなりナンセンスだと思う。中身は何でも良くて、ただ卒業証書を手に入れればいいんだったら、そんなにきっちり基礎からやらなくてもいい。きっとこういうタイプの子は完全主義なんですね。100でなければ0がまし。やるなら100でなければイヤ。これが勇気のない人間の特徴です。勇気があるというのは、中途半端さ・不完全さを受け入れられること。自分は完璧じゃないということがわかっていて、ちゃんそれを正面から認められることです。
だから、いい加減でいいんです。どうせね、人生なんて継ぎはぎのゴマカシでしょう。自分でそう思いませんか?今まで完璧に成し遂げられたことなんてありますか?僕、ないよ。いい加減なところで手を打って、まあまあそこそこに生きて、そのうちにアッチからお迎えが来るんでしょうから、それまでごまかしとけばいい。そんなふうに思ってなければ、きっと躓くよ。
情報を集めてあげるということは可能ですけれど、中学校からやり直すというアイデアについては、そもそも何のために勉強をするのかということを話してあげて、「賢くなるためだ」と言ったら、「お母さんの経験では、勉強したけれど賢くならなかった」と言ってあげたらいいと思うんです。(回答・野田俊作先生)