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論語でジャーナル

15,子游曰わく、吾が友張(ちょう)は、能くし難(がた)きを為すなり。然れども未だ仁ならず。

 子游が言った。「私の友人の子張は、他人がなかなかできないことをやり遂げる。しかし、まだ仁とは言えない」。

※浩→その人にはできても、他の者はついて行けない行為は、必ずしも人道的でない。誰にでもできそうでできない、その平凡にして非凡なのが本当の人間らしさであると考えているようです。他人がなかなかできないことをやり遂げる人がたくさんいます。そういう人たちの凄さにいつも感動していますが、時に強い劣等感を感じることがあります。特にスポーツや芸能で。ですが、その人たちが必ずしも最高の人格者でもないという子遊の言葉で救われます。有名人が犯罪を犯したり、禁止薬物を摂取して逮捕されたりしています。誰も完璧な人間ではありえないですが、かなり配慮が足りないように思います。
 技術や行為での優秀性(徳)とその人の人格そのものの優秀性(徳)とを区別するとわかりやすいです。「徳」というのは一般的に言えば、人間が単なる動物的存在から脱して,動物的でもあるが同時に理性的でもあるという真の人間らしさ、人間としての優秀性を体得している状態のことをですが、ギリシア語のアレテaretēは元来、「優秀性一般」を意味しました。のちには人間に特有の精神的・道徳的優秀性を特に意味するようになります。ソクラテスは「徳は知である」と考えました。プラトンは「四元徳」で「知恵」「勇気」「節制」「正義」でした。アリストテレスは、「知性的徳」と「習性的徳」でした。だんだん、「人間としての優秀性」を表すようになったのですね。ところで、アドラー心理学では「多重人格モデル」というのを野田先生が提唱されたことがあります。えー!?ライフスタイルはひとつのはずなのに。???そうなんです。ライフスタイルは下の図で「無意識的自己」につながる「自我」の部分です。ところが「無意識的自己」から複数の「ペルソナ」が出ていて、これらが「人生目標を追求する」ライフスタイルとは別人格に見えるのです。同一人物がさまざまな場面、対人関係に応じて、多様の行為をすることがこれで説明できます。催眠療法では、催眠誘導をして「ペルソナ」を呼び出すんだそうです。

          自我
    ペルソナ  |   ペルソナ  ペルソナ
     |    |    |    |
  ~~~|~~~~|~~~~|~~~~|~~~
     |    |    |    |
  -----------------------
       無意識的自己(無意識さん)
  -----------------------

 治療・援助で「代替案」を導くとき、この理論を用いるとうまくいくことが多いです。例えば、「行為と人格しっかり区別 人格裁かず行為に注目、してほしいことほしくないこと 感情交えず伝えよう」と『勇気づけの歌』(野田俊作・作)にもあります。この場合は、子遊の言葉と逆で、もしも子どもが不適切な行為をしていても、その子の人格まで良くないとは考えないことです。「悪いことをしていも悪い子ではない」と考えると、援助しやすくなります。学校の生徒指導が応用すればいいのに、全然採用されないのが残念です。

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「北朝鮮」

Q0376
 韓国と北朝鮮のことです。なんで日本の政治が「北朝鮮」と言うのでしょうか?「朝鮮」ではいけないのでしょうか?

A0376
 「北朝鮮」と呼ぶ理由は、North Koreaだからさ。世界的にあの国はNorth Koreaと呼ばれているからよ。「韓国」は世界ではSouth Koreaと呼ばれていますが、日本では言いません。なんでか?韓国が怒るからです。昔は言っていました。昭和20年代くらいまでの新聞は「南朝鮮」と言っていましたけど、あれは韓国人の側からクレームがあって、言わないことにしました。北朝鮮は長い名前を言えと言うんですけど、あれは世界的にNorth Koreaと呼ばれているし、日本は北朝鮮の“存在”は認めているんですね。私が最初にパスポートをもらったときには、「North Koreaには行けません」と書いてあった。認めていなかったから。ただ国際的な慣習に従っているだけだと思います。
 あの国とのつきあいは難しいですね。日本は変な位置にあります。中国とも何か難しいし、朝鮮半島とのつきあいも難しいし、日本列島にエンジンをつけて、もう千キロか二千キロほど沖へ出たほうがいいと思う。この位置に泊まって錨を降ろしていて動けないから、しょうがない。今後ともどうつきあっていけばいいか考えないといけないから大変ですけど、もう少し、韓国人・朝鮮人問題とか中国人問題とかを、冷静になって、日本国アイデンティティーとか日本国民の幸福という立場から考え直したほうがいいと思います。
 われわれはわれわれ国民の幸福でもってものを考える権利がある。だって韓国人は韓国人の基準で日本とつきあおうとしているじゃないですか。中国人は中国人の基準でつきあおうとしている。なんで私たちが韓国人や中国人の基準でつきあわないといけないのかわかりません。われわれは日本人の基準で彼らとつきあって、ちっともかまわないと思います。もう少し、胸に日の丸をつけてもいいのじゃないか。明日からしっかりつけてきますのでご期待ください。オランダ人もしっかり撃破してきます。私としては、国際化というかグローバリゼーションに賛成じゃないです。国際派というのは嫌いです。トランスカルチャラル派でクロスカルチャラル派で、外国人とつきあうタイプの人で、外国人といっぱい話もし、いっぱい仕事も一緒にするんですけど、全日本人が外国人並にというか、外国人ペースで生きるようになったら幸福になると思わない。どちらかというと、私としては、日本国全体の方針としては、“尊皇攘夷”です。皇室を中心に国を作って、内閣総理大臣を中心に暮らす。外国人にはなるべくこの国に住んでもらわないで、外国との取り引きとかつきあいを最小限にして、自給自足したほうが、われわれの幸福につながるだろうと思っているので、基本的に尊皇攘夷主義者です。韓国や中国とも基本的に尊皇攘夷路線でつきあったほうがいいのではないかと思っています。ちょっとへりくだりすぎじゃないですか。別に傲慢になる必要は全然ないけれど、日本人の幸福、日本人の利益からものを考えてちっともかまわないと思っています。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

14,子游曰わく、喪は哀を致して止(や)む。

 子游が言った。「喪(も)は悲哀の情を十分に尽くせばそれでよろしい」。

※浩→「喪」は、親族の死にあったときの儀礼・心理を言う。「致」は「究極」。
 古注では、悲しみのあまりまったく絶食して、自分の生命まで危なくするのは行き過ぎだとします。新注では、悲哀の情が大切で無用の装飾を加える必要はないと。子遊学派も礼を重んじるので、細部にこだわる桂婚があったので、それを戒めたのでしょう。
 このお正月に先立って喪中による年賀の欠礼状を何通かいただきました。私は最近は郵便局で印刷してもらった賀状を送っています。11月中旬くらいにはできあがってきます。宛名はパソコンに頼らず、下手ながらも心を込めて筆ペンで1枚1枚書きます。早めに着手して12月20日ごろまでには何とか投函できていました。そうしていると、書き終えたあとに、「喪中欠礼状」が来ることがよくあります。こんかいも2通ありました。まさか、「欠礼状はもっと早く出せ」とも言えなくて、毎年何枚かの年賀状をある意味無駄にしてしまいます。ちょっと調べてみました。
 近親者が亡くなって一周忌を迎えるまでの期間は喪中となります。そのため、年賀状を出せない理由を伝える「年賀欠礼状」を送ります。相手が年賀状を準備し始める前に知らせるために、12月上旬には投函するのが一般的です(おー、やはり私が年賀状を書くのが早すぎたのか)。年賀欠礼状には、故人の名前や命日、続柄などを記し、喪中のため新年のご挨拶を控える旨を伝えます。
 一般的に、喪中となるのは亡くなった親族が2親等以内である場合です。夫や妻は0親等、父母、義父母、子どもや子どもの配偶者は1親等、祖父母、孫やその配偶者、兄弟・姉妹やその配偶者、義兄弟・義姉妹やその配偶者が2親等です。2親等以内に不幸があった場合は喪中はがきを出します。そして、喪中となった際に毎年年賀状交換を行っている方々に対して、年賀欠礼状を送り、年賀の挨拶を控える旨を伝えます。ただし、故人との関係がご自身より近い方や、同様の理由で喪中である親族に対しては、年賀欠礼状は必要ありません。
 年賀欠礼状は、年賀の挨拶を控えることを伝えるために出します。そのため本来は年内に届けば問題ありません。しかし、年賀欠礼状を受け取ったら年賀状を送らないというのがマナーとなっていますので、相手が年賀状の準備を始める12月初旬には、相手に到着するようにしましょう。年賀状の引受開始の12月15日を過ぎると、相手がすでに年賀状を出してしまっていることもありますので注意しましょう(これだね、私の場合は)。

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支配欲

Q0375
 支配力が強くて人をコントロールすると(野田:ああ、結構ですね)、話をしたあとで「わたくし主義」で話をしていたと気づいて反省するのですが(野田:支配欲と「わたくし」というのが何か関係あるのかな?)、どのポイントで確認して、相手の話を聞いたらよいでしょうか?また、気をつけたらよいでしょうか?

A0375
 わたくし(野田)は支配欲は強いと思います。何しろ、長男ですから。支配欲が強いことが問題ではなくて、それを有益に使っているかどうかが問題だと思う。例えば、会社では超ワンマン社長で、「こうする」言ったらこうするんです。全然人の意見を聞かないです。だって、人の意見を聞いたとき、もしその(相手の)判断が間違っていて、あとで会社の経営が悪くなったときに、その意見を言った人は責任を取れないもの。私が言って具合が悪ければ、私が腹を切ればいいだけだもの。私の責任で言うから、私の権利もある。それが一番有益だとも思う。支配欲はきわめて強いけど、支配欲そのものをどうこうしようとは全然思いません。それを有益に使おうと思います。
 私は、「パセージリーダ-」をしません。あれは支配欲の強い人にはあまり向いていないから。パセージリーダーさんには、テキストさま」という“聖書”があるわけです。「ははあー」って従う。テキストさまには逆らってはいけない。そんなのムカつくわ。テキストに何て書いてあるのか見たら、「これ違う」と言いたいもの、私としては。ま、私が書いたんですけど(笑)。私が書いたものでも、長いことたちますから、意見が変わります。「誰やこんな変なことを書いたのは。出せ-」と言いたくなりますから、あんなのは嫌いなんです。初めから自分の適性ではないと思うので、「パセージ」を作って、そのあとやってないんです。私がやってもうまくできないのは決まっているもの。自分を知って、自分を一番生かせる場所に置いておくとか、自分の性質をどう有益に使うかを工夫すべきであって、性質そのものを替えるとかころすこととかを考えるべきではないと思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

13,子夏曰わく、仕(つか)えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う。

 子夏が言った。「官吏として主君に仕えて余力があれば学問をする。学問をして余力があれば仕官をする」。

※浩→「仕」は役人となって奉仕すること。「優」は余裕ができること。「ゆたか」と訓読みできる。役人として奉仕しながら、余裕ができたら学問をせよ。そういえば、「学校」の英語はschoolで、これはギリシャ語のscholēが語源です。「閑暇」「ひま」という意味で、古代ギリシアで自然哲学から始まるギリシャ哲学の形成に寄与した時間的な「ゆとり」のことです。日本でも、戦前の貧しい時代には、子どもはまず家計を支えるために働かされました。経済的に余裕がある家の子が学校で学べたのです。ですから、学校へ行ける子は本気で学んだはずです。今は、学びたくない子が、親の見栄などのために強制的に学校へ行かされていたりします。
 前半の「仕えて優なれば則ち学ぶ」は「学而編」の「行う余力有らば、則ち以て文を学ぶ」にもとづいています。後半は、孔子の言葉にはないので、子夏が付け加えたのでしょう。孔子の言葉が弟子たちによって拡張され敷衍されていく過程がわかります。
 子夏の言葉はここで終わりです。次からは子遊、曽子などの言葉が続きます。
 そういえば、私自身の定年後の生活は、これに近かったように感じます。有り余る時間をアドラー心理学の学習継続に使い、余力を非常勤のお勤めに使ってきました。バランスとしては学習継続のほうが重く、お勤めは軽いようです。これはお勤めの土台がしっかりしているということですから、とても好都合です。現在現職の先生方とは真逆かもしれません。現場の先生方は雑務(と言っては失礼かも)に翻弄されて、ご自分の専門領域はもちろん趣味など余力を活用する暇などないのが現状のようです。これれはゆとりのある教育の実践は難しいでしょう。文部科学行政で真摯に対応しないと、この国の将来は危ういです。昨日のニュースで、自動車の輸出量で中国が日本を抜いて世界一位になったと報道していました。「経済大国」は沈みつつあるのでしょうか?

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