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(あのーー、私が言うことでもないんですけど、詩は自由を旨としていますから、どこにでも投稿しようと思えば、投稿できないところはないんですけど、いきなり大きなところに挑戦しても、世の多くのものがそうであるように、ポッと書いて、ポッと通用する、ポッと賞が取れる、なんてことは、まずありえないことというか、相当に稀有な話なのです。
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タイトルは破れかぶれに勢いでつけてしまったので、分かりにくかったかもしれません。タイトルはずーっと課題のままです……。
パンダの箸置きのしっぽの黒が気になる自分を他所では言えないから、詩で書いている自分。
匿名の皮でしか言えないけど、白は白だと言えたらなぁと思いでつけました。
詩のテーマと距離があるとは思います。「白は白」思いついたことがことがあるので、
他の評者の方になりますが、来週か再来週あたりに書いてみたいと思います。
佳作の評ありがとうございます。
評で特に重く受け止めたい部分は……
> たとえば特定の人種の人々の身体的特徴をデフォルメしてその「野蛮さ」や「他者性」を強調するような表現は決して許されるものではないでしょう。
ここですね。MY DEARでも差別的な表現はアウトと明文化されていますし、自分自身でも書きたくない内容ではあります。
差別に映る偏った考え方が無自覚に出てしまい、それが叩かれるのはネットを見ていると常々あるように思います。
匿名性の分厚い皮と、エコチェンバーの偏った肯定の皮に覆われ尽くさないよう、バランスを保っていきたいと思います。
詩というか、人としての振り返りになりましたが、
ありがとうございます!
十三歳。
あなたの声は、空に浮かぶ風船のように、軽やかで儚かった。
「大好き」
僕より二つ上の彼女は、きゃあきゃあ騒いで、
ウサギのように跳ね回り、
「可愛いね、ほんと可愛い」としきりに言った。
僕は少しだけ愛されていた。
卒業と共に彼女は去った。
あなたの瞳に、僕が映っていたこと。
それが誇らしくて、恥ずかしかった。
僕は、あなたのように人を愛したい。
その頃、僕には好きな人がいた。
「何読んでるの?」
彼女は、窓際で本を読む僕に、そう話しかける。
「学級文庫」
「面白い?」
「別に、普通」
君は一瞬だけ眉をひそめて、「そう」と呟くと、そっけなく歩き去った。
その背中に揺れる長い黒髪のツインテール。
似合っていないと伝えたかった。
ある日、廊下で掲示板を見ている僕に、
彼女は「ねぇ」と呼びかけた。
そして、「あのね」と耳元で囁く。
「××ちゃんが、君のこと好きなんだって。
それで、付き合って欲しいって」
僕はその場にへたり込んだ。
「伝えたからね」と言って、彼女は去った。
××ちゃんとは、うまく行かなかった。
僕は理由を言わずに別れを告げて、
××ちゃんを遠巻きにして胡麻化した。
十四歳。
ツインテールの彼女とも、××ちゃんとも別のクラスで、特に何もない平和な日々が過ぎた。
昼の学校、夕方の部活、夜のスポーツクラブ。
僕は本も読まなくなった。
それでも心の奥には、来年のクラス替えに期待する自分がいた。
十五歳。
ツインテールだった彼女はショートカットに変わり、僕らは同じクラスになった。その変化は、僕の自意識よりも鮮明に、彼女がどこか新しい段階に移ったように感じさせた。その後、同じアニメを好きだと分かり、僕と彼女の距離は縮んだ。
秋ごろ、二人きりの廊下で、僕は、
「好きです」と彼女に言った。
「考えさせて」と彼女は言った。
それから、彼女は返事をくれなかった。
ある日、彼女は教室で、
「どうするの」と言う友達に、
「なんかもう、面倒くさい」と口走った。彼女は、教室の入り口前に、僕がいると知らなかった。
僕は行く当てもなく図書室へ行った。
本を手に取り読み始めたが、すぐ面倒になって止めた。僕は二度と彼女に話し掛けず、時々何事もなかったのかのように話し掛けてくる彼女に応じるだけだった。
冬、部活動の送別会の後、一つ下の後輩が、僕にお菓子と手紙をくれた。その手紙は恋文だった。想いのつづられた最後には「また部活に来てください」と書いてあった。
人間関係のいざこざがあり、僕は引退したら二度と部活に行かないと決めていた。渡す機会もない手紙の返事を書くこともなく、ただ無言のまま卒業までの日々は過ぎた。
今になって、涙が出る。
君に会いたくない訳ではなかった。
僕は、君のように奥ゆかしくありたい。
十六歳。
高校で、春から夏まで勉強に打ち込んだ。
大学進学、その先の将来のことも考えていた。
しかし、それから、またどうでもよくなった。
そして、学校を辞めようかと考え始めた頃、
クラスメイトの女子の一人が、僕に視線を送っていることに気が付いた。
不安定な均衡が始まった。
僕は高揚と恐怖を覚えた。すっかり白々しい心で、様変わりする一貫性のない心象を往復した。相手を見透かしてほくそ笑んでは、自分がなんて浅ましい男なのかと震えた。
十七歳。
僕は夏になる前に、学校を辞めることを教師に伝えた。両親は僕の自己責任を尊重した。
クラスメイトには伝えていなかったが、終業式の日に、僕は彼女に呼び出された。夕方、四階の端の空き教室で、彼女は僕に告白をした。
僕はへらりと笑って、
「ごめん」と言った。
なぜ笑ったのか、なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。笑う必要はない、謝る必要もない。なぜ、せめてもう一言「ありがとう」と言えなかったのか。
それから僕は学校の人たちと連絡を絶ち、二度と会わない人間を増やした。
今思えば、僕はあの時、
孤独から抜け出るための、最後の機会を逃したのだ。
僕は、あの子のように、勇気のある人間になりたい。 もっと素直な人間に、人から逃げない人間に、 過去を受け入れる人間に、なりたい。
十八歳。
何も言わず、初めて女と手を繋いだ日に思った。
(君は僕から何を奪うの?)
「幸せ」と、彼女は言った。僕は幸せだろうか。
「緊張するね」と、照れて笑う君に心が冷えた。
「ねぇ、こっち見て」これ以上、僕を見ないで。
僕は彼女と何度か夜を明かした。寂しげに、「待ってるから」と言った彼女に、僕は決して手を出さなかった。まるで呪いだと思った。
そして最後はすぐに来た。
「もう限界。別れよ」
と、彼女からLINEが来た。僕は怒りが湧いてきた。そして真夜中のぼやけた頭で、一気に文字を打ち込んだ。
「僕はあなたが嫌いです。他人に甘えた態度が気に入りません。君がそうやって生きるのはある種の美徳 かもしれません。でも僕は君の責任なんて負いたくありません。僕のぎこちない態度は君を傷つけたと思います。すみませんでした。」
こんなことしか言えない人間になる前に、僕は他人を愛するべきだった。もっと踏み込むべきだった。人に愛される幸福も、誰かを愛する勇気の女神も、充血した目で睨む僕を見て、すっと目をそらした。
お待たせいたしました。12/10~12ご投稿分の評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。
●松本福広さん「パンダの皮をかぶりたい」
松本さん、こんにちは。パンダのしっぽは本当は白だということを、私も初めて知りました。日常のちょっとした気付きや疑問、「ひっかかり」にこだわるというのは、詩人の特徴の一つではないかと思います。私自身、詩を書くようになってから、それ以前よりずっと身の回りの世界の細部に注意を払うようになったと思います。ですからこの詩はまず着眼点が良いと思いました。
そして、この詩では「白と黒」が鍵となるイメージになっているようです。最初は文字通りパンダの毛色について語られているのですが、いつのまにかそれは抽象的な価値判断を伴った意味を持ち始め、最終行の「私は・・・白ではないようだ」に行き着きます。このような全体的な構成、展開も自然で巧みですね。
この詩のタイトルの意味はよく分かりませんでした。本文に「パンダの皮」は登場せず、代わりに「常識の皮」について語られていますが、後者については日常に潜む小さな真実から目を背ける妥協的な生き方として否定的に捉えられているようですので、語り手である「私」がそれをかぶりたい訳ではないと思います。もしかしたら「私」は今かぶっている「常識の皮」を脱ぎ捨てて、ちゃんと白いしっぽのついた真実なパンダの皮をかぶりたいのだろうか、と思いました。
箸置きの写真もありがとうございました。ここからは蛇足ですが、調べてみますと、昔パンダのイラストやキャラクターデザインを手掛けた人々が、しっぽが黒い方が可愛く見えるということで、黒いしっぽのパンダを描くようになったことから広がったようです。でも確かにしっぽが黒いほうが何となく可愛いと感じてしまうのは不思議ですね。そして多くの人々のイメージの中では、しっぽの黒いパンダのほうが「リアル」な存在なのかもしれません。
それが良いことなのか悪いことかはよく分かりません。たとえば特定の人種の人々の身体的特徴をデフォルメしてその「野蛮さ」や「他者性」を強調するような表現は決して許されるものではないでしょう。しかし同時に、客観的事実の正確な描写だけが「リアル」ではない、ということもまた言えるのかもしれません。詩という世界においては、しっぽの黒いパンダもまた、ある意味ではしっぽの白いパンダ以上にリアルな存在でもありうるのではないか・・そんなことを考えました。
日常のちょっとした気付きから読者を様々な思索にいざなう、興味深い作品でした。評価は佳作です。
●温泉郷さん「守り神」
温泉郷さん、こんにちは。子どもにとって、夜の家というのはいろいろな想像をかき立てる未知の世界ですね。私自身、布団の中から薄暗い豆電球に照らされた天井を眺めていると、羽目板の木目が得体のしれない怪物の顔のように見えてきて恐ろしかったのを覚えています。
この作品はそんな子どもの心理を巧みに描いた詩ですね。でもこの詩では、天井裏に潜む「何か」は実は恐ろしい存在ではなく、「子ども」を見守り助ける「守り神」だったという展開が意外でもあり、心を和ませる内容になっています。しかも、その「何か」が良い存在なのか悪い存在なのかは最終連に至るまで明かされず、サスペンスが持続する構成になっているのが効果的です。「守り神」というタイトルで最初に種明かしがされているとも言えますが、逆にこれがないとどういうことなのかわからずに終わってしまう可能性もありますので、このタイトルはこれで良いと思います。
子どもは成長するにつれて、かつてその実在を信じていた幻想的な世界に興味を失い、恐怖も感じなくなる。けれどもその「何か」は子どもの心の中に生き続け、しかも成人した後も人生の中で時々助けを与えてくれる・・。その「守り神」が実在する何かであれ、子どもの心の中だけに存在する想像上のものであれ、そういうことはあるのかもしれませんね。だれの心の中にも、そういった「守り神」はいるのかもしれません。
一つだけコメントさせていただきますと、最終連で突如「君」が登場します。これが前の連まで一貫して言及されてきた「子ども」であるのはすぐ分かるのですが、やや唐突な感じがしますので、この行「成長した君を」を「かつて子どもだった君を」としてはどうかと思いました。もちろん「成長した」でも同じことを言っているのですが、「かつて子どもだった」の方がややつながりが自然かと思います。ご一考ください。
懐かしさを感じるとともにどこか心温まる、素敵な詩でした。評価は佳作です。
*
以上、2篇でした。2024年もあとわずかですね。今年もたくさんの素敵な詩に出会うことができて感謝しています。島様はじめ、皆様には大変お世話になりました。どうぞ良いお年をお迎えください。
お忙しい中ご講評下さりありがとうございます。
ご指摘頂いたように私は何か一つ面白い描写が出てくるとそこで満足してしまう傾向、そしてそういうパーツを集めて書けたらすぐに投稿してしまう癖があり、物語性のある作品を作る際にはまあまあ弊害となっております。できたと思っても一晩以上寝かせて添削する努力が必要かもしれません、、、
頂いた貴重なアドバイスを基に良い作品を作り直したいと思います。また、次に批評して頂ける際もどうぞよろしくお願いいたします。
島様、評をありがとうございます。
迷いながら言葉を書き出しているので、ディテールや文体を魅力的と言っていただけて嬉しいです。
しばらくセリフ調の表現の勉強を続けていこうと思います。
ご指導よろしくお願い致します。
評をありがとうございます。
面白いとおっしゃって頂き、大変嬉しく思います。
本田宗一郎や山葉寅楠など、遠州の創業者達は、きっと「ねえたらくわず」を憎んでいたのではないかなと勝手に思いますが、遠州の「やらまいか」精神に対して、駿河は「やめまいか」になってしまうとか。「やらまいか」も否定ではなく、やってみようよのようなチャレンジ精神。「やめまいか」はやめようよという消極的な考えです。
最後のジューンブライドは強引かとは思いましたが、どんでん返しになっていますでしょうか。
お疲れ様です。上田です。
養母はクラシックファンで若い頃はオペラが大好きでした。今も母と食事をするときなどスマホからカラヤンのアダージョなどを流してあげるとたいそう喜びます。
ご指摘のように私は個人史的な風合のものを書いておりますが、一つの作品のなかでは言い尽くせないところがままあります。この度もそこの説明部分が不足しているようです。
この一年は詩作に明け暮れました。島さんはじめ評者の先生方には様々なご指摘を頂戴しました。厚く御礼申し上げます。皆様にとって新しい年がよき年とならんことを祈っております。
いつもお忙しい中、評を頂きありがとうございます。
毎回伝えておりますがその度に感謝の気持ちが増しております。
今回の評は私にとってのクリスマスプレゼントでした。
内容は島さまに読み取っていただいた通りで、救われた気持ちにもなりました。
ご指摘いただいた部分はフィクション部分のため伝わりづらくギクシャクしてしまいました(実際は祖母の送迎でした)
ご提案いただいた方向で推敲したいと思います。
最終連も最後を柘榴の印象で終わらせた方が確かに良いですね!そちらに順番を入れ替えたいと思います。
本年も大変お世話になりました。
来年も宜しくお願いいたします。
中途半端な詩は何編かできていますがそれをいつ仕上げられるかが問題です汗
日ごと空気が張り詰めていくようで、今日もとても寒いです。
風邪などにはお気をつけて、
みなさま良いお年をお迎えください。
地元詩人会の役員をするについては、MY DEARのみんなには、絶対迷惑をかけんようにと誓ってやっているのだけど、いかんせん今年はちょっとMY DEAR本誌の更新が遅れたり、掲示板の評も遅れたりと、迷惑をかけてしまい、すみませんでした。わたし自身ちょっと不本意な年でした。、
来年は迷惑かけんように、したいと思います。
インフルが流行ってますから、お気を付けて、年末を楽しんで下さい。
メリークリスマス!!
●白猫の夜さん「星の焦がれ」
あのね、
屋根に登って、星に話しかけるというセッティング自体は、別段珍しいものではないですし、話の内容もまあまあフツウなんですよ。
でも、星の語らせ方がすごく表情があっていい。これが独特。感性なのかしら???
また、星と自分との関係性を突き詰めていく感じに、話が一本、筋が通っている。ストーリーの芯がある。
また、屋根から降りて、の終連の雨の描写もいい。
まあストーリーの芯の話はあるけれど、この詩の良さは主にディティールの描き方の魅力ですね。文体自体の感性豊かさと言っていいでしょう。それが魅力的です。
秀作あげましょう。
今後もセリフ調の箇所を挟んだものを書かれるといいと思います。
●津田古星さん「ねえたらくわず」
おもしろいね。
「ねえたらくわず」の、まず方言の意味。
次に、決断と行動の美学の地域性。
言うならば、遠州人が一般的に相対する時に適用する、理念の話から入っておきながら、
話はだんだん具体例に降りてくる。
私の出会った人①の話と、私の出会った人②の話となる。
なんの具体例かと思いきや、これは結婚対象となった人の話。
②の人と、見事ゴールインとなる。
私は②の人が出てきたあたりで気づいたけど、なかなかのどんでん返しでした。
理念の説明の硬い話から、よもや最後、ここに来るとは。
また理念の解説もしっかり書けていたし(「気づいた自分を喜べばいい」の考えには、ちょっと感動した)、①、②の人物それぞれとの心理戦に深く入ってるとこも良かった。
ただ紋切り型に対応するのでなく、これは甘えと読んで、背中を押すようなやさしさもあったので、なお良かった。
よく書けてましたし、構成も良かった。秀作プラスあげましょう。
●上田一眞さん「ゆっくりおやすみ」
子供の時に、さんざん軋轢があり、悩みの種だった継母さんですね。
6連の、
修羅の道を歩んだわれらだけど
もう 悪態はつかないし
もう どこへも行かないから
安心して
は、その時のことを言っているのでしょう。
今は和解ができてるんですね。継母の側にしても、高齢になってから頼れるのは、結局、作者しかいなかったのでしょう。
親を見離す子も多い中で、喧嘩別れした相手であろう継母の面倒を見てるのはエライです。
意外にも、クラシックに趣味がある継母さんなんだろうか。それともこの2曲にかぎり好きなのか、わかりませんが、全くふつうに認知症の親の面倒を見てる感じで、今はなんのわだかまりもなくなっているようです。至れり尽くせりの心からの呼びかけをしています。
認知症の人に限らず、「テキトーに忘れる」のが人間で、だからツライこともだんだん和らいでくれます。人間は、忘れられるから生きられるんだという説すらあります。
認知症の悪化した状態は、死の恐怖やこの世の辛苦から解放するため、というのも一理ありますね。幸せに逝くための準備なんでしょうね。
後ろから2連目。継母にとっての「懐かしい故郷」は、先に書かれた詩によると、戦前の釜山(いわゆる「外地」の時代)の町なんですね。
一個だけ引っ掛かるのは、4連後半、
そのときは ぼくが
手をとって
黄泉の路を明るい光で照らすから
で、
これはしかし、お父さんなり、先人に任せるべきことでしょう。
作者にできるのは(生きてる人ができるのは)黄泉へ向かう道の入口までかと思います。
うーーん、これは上田さんの人生を辿るシリーズ、とりわけ実母が亡くなられたあたりからずっと続くシリーズの中で読むと、この詩の位置づけがわかり、この詩の良さがぐっと増すことと思います。
反面、この詩だけを読むと、過去の反目の歴史がわからないので、ふつうに親孝行な子の介護の詩としか読めないかもしれないです。単独でこの詩だけ読んだ時に、6連だけでは意味がわからないだろうと思われ、その不利があります。
単独でもざくっと関係性がわかるように、もう一連くらい書いた方がベターです。
確執が浄化された、すばらしい心の境地が書かれた詩であるのですが、その意味で、少しおまけの名作とします。
●秋さやかさん「柘榴」
序盤の柘榴の描写がまず見事ですね。
柘榴は、夕焼けを吸って満ちていくんですね。だから、あの赤なんだ。
また柘榴の果肉は、自身の脈とも共鳴しあうという。
詩は、小学校低学年の時に抑えていた衝動があふれ出したのも、この果肉を口にした時だったと思い出します。
たぶん親に言われて小学校低学年から個人塾に通っていたのでしょう。学校の友達と遊びたい盛り。それを抑えて通っていた。
「遊びたい」と訴えたいけれど、小学校低学年であれば、親の言いつけにNOと言うこともできず、ただただ、暗い声でただいまと言っていた。けれど、本当はその言葉の中にある影に気づいてほしかった。
そういう内容の詩かと思います。
小さい子供ゆえに、親にはっきり言えないつらさを抱え募らせてゆく、そういう哀しさ、もどかしさを感じる詩でした。
また、柘榴の一粒を盗み食い(きっと誰も叱らないと思うけど)して罪悪感に襲われるところ、その一粒を飲んでしまうところ、抑えていた感情が溢れて走り出すところなど、読んでて没入する詩行の連続でしたし、柘榴を描きつつ、柘榴を介した自身の情感の描写がステキでした。名作を。
一点気になったのが、
さっきまで
無邪気に駆け回るためだった靴を履き
逃げるようにその家を後にした
の連で、
靴の描き方がギクシャクのと、ここがちょっとはっきりしないせいで、私は初見で、これ、脱走して走ってる(遊びに行った)のかな? どっちかな? と迷うところがありました。
で、案ですが、
その前の連の「チャイムの音」を受けて、
耳を塞ぐようにしてその家を出た
無邪気に駆け回るはずだった靴を履き
逃げるように駆けた
こんな案はどうでしょう?
そこだけ一考してもらったら、代表作入りでいいと思う。
あと、ラストの4連、
今のままでもよいけれど、並びを変える手もあります
その日から幾度
ただいま、と言っただろう
渇望を押し殺した
その声の翳りに
母が早く気づいてくれることを
ただ願った
腑の底で
あの柘榴の種が発芽して
血のような花が開いてしまう
前に
まあ、これはどちらでも。いちおう提示。
●佐々木礫さん「空転するパレード」
部分、部分の比喩は悪くないですよ。おもしろいです。
ただ全体を見た時にどうにも不明なのは、終連で王子様を出したことですね。
4連で作者は十畳のリビングの安楽椅子に座っています。
ところが終連でバルコニーの電気椅子に座る王子様が出てきます。まずもってこの両者の関係がわからない。場所も別々ですからね。もう一人、別のキャラクターが、ここで登場してきたとしか読めない。また、ここで王子様が出てきてしまったものだから、5行目の「視線の先」も、王子様の視線の先ということになってしまうし、それ以降も王子様が見ているものということになってしまう。
言いたいのは、王子様は不要だったのではないか、ということ。
「作者」の視線のまま、「作者」が主語のままで、終連後半を見れば良かったのではないか、ということ。終連の2~4行目は削除した方がいいと私は感じます。
あと、3連の「砂漠の処刑場」もちょっと違うんじゃないかと感じる。
3連というのは、祝い事や「喜ばしい一日の終わり」を描いてる連だと思う。そうした内容のもので固められてしかるべきで、「砂漠の処刑場」だけが、連の趣旨に合わないものを置いていると感じる。
なんといいますか、言葉としておもしろいものを溜めておくのは良い事だと思うけれど、それは部分のものであるので、
詩には全体のストーリーがあり、そちらが優先であるから、ストーリーの場面、場面に合ったものを選んで持ってくることが肝要です。そのへんをもうちょっと意識してみて下さい。
言葉のセンス自体は悪くなかったです。
秀作一歩前としましょう。
こんばんは、寒くなりましたね。上田です。
この度は拙作「緋連雀」に上席佳作を頂戴しまして、ありがとうございました。大変うれしく、一人で祝杯をあげました。
舞台のきらら浜は自宅から車で20分ほどのところにあり、いつもウォーキングに来ています。また、バードウォッチングのメッカで駐車場で休んでいると小鳥の声が聴こえ、実に爽やかです。
また、きらら浜で詩作し、投稿したいと思います。宜しくお願い致します。