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なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。
●喜太郎さん「恋せよ乙MAN」
喜太郎さん、こんにちは。このタイトルは「いのち短し恋せよ乙女」のパロディですね。でも主人公の「僕」は男子学生で、「乙女」を「乙MAN」としているのがユニークです。
最初の2連は斜め前の席に座る「君」への「僕」の片想いが描かれます。「僕」は「君」と言葉を交わすこともなければ、正面から見つめることさえしません。斜め後ろから「チラ見」するだけという描写に、「僕」の切ない思いが伝わってきます。
3連では「君」のいた席が空席になっています。転校していったのでしょうか。「僕」は「君」のいなくなった寂しさを噛み締めている……と思うまもなく、終連ではその席に座った新しい転校生にときめいている姿が描かれます。
移り気な「僕」の淡い恋心を軽やかなタッチで描きながら、どことなく切ない読後感が残るのは、最後の一行「今を感じてる僕がいる」があるからではないかと思います。この一行から、タイトルでは言及されなかった「いのち短し」のフレーズが私の心には響いてきました。この詩は中高生くらいの若い語り手が設定されていますが、作者は大人になってから青春時代を振り返っているような印象を受けました。タイトルからも、若い世代へのエールのようにも読める作品だと思います。評価は佳作です。
●松本福広さん「バラストの手」
松本さん、こんにちは。船舶が世界中に持ち運ぶバラスト水によってローカルな生態系のバランスが崩されるという、シリアスな主題を扱った詩ですね。参考のリンクも勉強になりました。
この作品では船体から出入りするバラスト水を「手」あるいは「腕」と表現しています。こういう正論を主張する詩はベタに書いてしまうと説教臭くなってかえってインパクトを失ってしまうと思うのですが、この作品は環境問題を隠喩を用いて詩的に表現しているのが素晴らしいです。初連2行目の「油膜をはったようなマーブル柄の腕」という描写は、いかにも汚れていて不吉な感じがしますね。この「手」の比喩は全篇を通して出てきて統一感もあります。
一点だけ、冒頭の「海を泳ぐ船」という表現は再考した方が良いかと思いました。船を擬人化して「泳ぐ」と表現すること自体は良いと思うのですが、その後に「腕」や「手」が出てきますと、読者はこの船がそれらの「腕」や「手」を用いて泳いでいるイメージを持ってしまうのではないかと思います(私もはじめそう読んでしまいました)。けれども全体を読んでいくと、この詩の「腕」や「手」はバラスト水のこととされ、初連最終行にあるようにそれは移動中は使われないとされているので、イメージが混乱してしまいます。
作品全体としてはバラスト水としての「手」のイメージの方が中心にあると思いますので、そちらを活かすべきだと思いますが、そうすると初行の「海を泳ぐ船」は別の表現に変えたほうが良いかと思いました。ご一考ください。評価は「佳作半歩前」になります。
●佐々木礫さん「無理ゲーに黄昏る人に冷たい希望をくれる人」
佐々木さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
この詩は、一見人生の苦難に絶望している人々を励ましているように見えて、実は突き放している、そんな人々を風刺的に描いた作品であると受け止めました。語り手である「私」は社会的にある程度恵まれた特権的な境遇にある人間として描かれているように思います。そのような人々にとって、苦しい生活にあえぎ、絶望をあらわにしている人々は、目障りで居心地の悪い存在に映るのかもしれません。そこで彼らは「絶望しないでくれたまえ」と訴える。しかしそこにはそもそもその絶望を生じさせている社会の矛盾を改革していこうとか、助けの手を差し伸べよういう意思はまったく感じられません。まさにタイトルの示しているように、他人事のような「冷たい希望」ということができるでしょう。
社会問題を独自の切り口で描き出した良い詩だと思いました。またぜひ書いてみてください。
●森山 遼さん「かみなり様の夕べ」
森山さん、こんにちは。今回の作品は情景を掴むのに少々苦労しました。最初に一読した時は、外でかみなりが鳴っている中、その様子を窓から眺めているのかと思いましたが、どうもそうではなさそうです。涙が出そうになって目をぱちくりすると、かみなりのように光が明滅して見えるということですね。目に溜まった涙で外の街灯の光が反射でもしたのでしょうか。
つまり、実際にかみなりが光っている訳ではなくて、「僕」が窓辺で涙ぐみながら目をしばたたいているだけなのですね。そうすると3連の「かみなり様はまだやまない」は、そのような悲しみが続いていることを表現しているのだと思います。そして「僕」はその状況を諦念をもって受け入れ、「やむのを待つのは/もうあきらめよう」という気持ちになる。悲しみの心情をユニークな方法で表現しておられて素晴らしいと思いました。
この詩でよく分からなかったのは終連です。「かみなり様におへそを取られる」ということは最近では子どもにも言わなくなったのかもしれませんが、「かみなり」ではなく「かみなり様」という表現からは、やはり小さな子どもをイメージします。では作品中の語り手である「僕」は子どもとして設定されているかというと、終連の内容からすると、どうもそうではないようです。そこにまず違和感があります。
また、せっかく3連まで悲しみの感情をうまく伝えてきていたのに、終連ではそのような自分自身から急に距離を取った描き方になっています。一時の悲しみもやがては「いい思い出」になる。だからくよくよせずに「ゆったり暮ら」そう、ということかと思いました。そうすると「詩を書く自分を/思いながら」も、今感じている悲しみを詩に書けば、それを昇華することができる、ということになるでしょうか。
自分の中にあるネガティブな感情を詩に書くことで、それらの感情を乗り越えることができるというのは実際あると思います。これは森山さんのそういった実体験に基づいているのかもしれません。ただ個人的には、このような形でオチをつけてしまうと、3連までしっとり良い感じで悲しみを描いてきた流れにそぐわない気がします。3連で悲しみに身を委ねる諦念が描かれた直後に、終連でその悲しみが簡単に(と私には思えるのですが)解決されてしまい、そのギャップが不自然に感じてしまうのです。ですので私としては、この詩は終連で変にひねらずに、3連までの流れを受けるような形で終わらせた方が良いように思いました。終連も「かみなり様」に絡めた内容にするのも一案だと思います。もし終連を残すなら、3連と終連の間をつなぐ移行部を設けることも考えてみてください。
基本的な着想やイメージはとても良いと思います。終連だけ再考していただけると、素晴らしい詩になると思います。ご一考ください。評価は佳作一歩前です。
●荒木章太郎さん「知の檻と逃走線」
荒木さん、こんにちは。この詩は現代人の生きる状況、それも高度に洗練された管理社会に囚われている状況からいかに自由になるかをテーマとした作品と受け止めました。
現代の国家権力は「鉄の壁」のように分かりやすい暴力や強制によって人々を支配するのではなく、一見蜘蛛の巣のように頼りない「知の檻」によって、人々がすすんでその支配に身を委ねるように仕向けているのかもしれません。権力はまた、それが支配する多様な人々が一致協力することを妨げ、互いに争い合うように仕向けることによって、自らの支配を維持しているとも言えるでしょう。
そのような目に見えない束縛に対抗し、そこから逃れるために必要なのは、自分の頭で考え、多様な人々と協力することである――これがこの作品のメッセージと受け止めました。そしてそのような豊かな思想は、「カビの生えたような歴史」を繙くことによって発見できるのかもしれません。この詩のユニークなところは「身の丈(たけ)で思惟(しい)する」ことを「椎茸(しいたけ)」にひっかけて、そこから豊かなイメージの連鎖を紡ぎ出しているところです。
タイトルにもある「逃走線」はジル・ドゥルーズの概念を指しているのではないかと思います。フランス現代思想の香りがしますが、それを「すき焼き」という、庶民的な和のイメージに落とし込んでいるのが新鮮で面白かったです。また現代日本社会(日本だけではないかもしれませんが)の状況とも関連していろいろと考えさせられる良い詩だと思いました。評価は佳作です。
●温泉郷さん「詩の質量」
温泉郷さん、こんにちは。今回の作品は詩についての詩、いわゆる「メタ詩」ですが、物理的な「モノ」としての詩集について思考をめぐらした興味深い作品だと思いました。
紙の本は一度濡れてしまうと、ふやけてしまって二度と原形には戻りません。豪雨で濡れて紙面が波立ちくすんでしまった詩集を中心にこの詩は展開していきます。この詩で描かれているストーリーは以下のように要約できると思います。
1)語り手は持っていた詩集を雨で濡らしてしまう。
2)汚れてしまった詩集を読んでみても、言葉まで変質したようでうまく心に入ってこない。
3)新しい詩集を買うと言葉がすっと心に入ってくる。
4)汚れた本の詩の言葉が質量を備えたことを知り、もう一度そちらを繰り返し読んでみると、ようやく詩の言葉が飛び立った。
このようなストーリー展開を経て、終連の結論に至るわけですが、この流れで考えると、この詩で言われている、雨で汚れたことによって言葉に付与された「質量」は否定的に捉えられていると思ったのですが、この解釈で合っていますでしょうか。語り手は、汚されて質量を与えられてしまった詩であっても、純粋にその言葉に集中して読んでいくならば、そのような「質量」から解放されて味わうことができるようになった、と言っているように思えました。
ここからはごく個人的な感想になります。私はネット上で詩を読み書きしてはいますが、モノとしての詩集にも大きな愛着を持っています。雨で濡れたりと言ったアクシデントに見舞われなかったとしても、長く所蔵していたり古書として入手したりした詩集は、紙も古びてそれなりの物理的状態になっていきます。でも私は、そのような本のヒストリーも含めて詩の味わいというのはあるのではないか、と考えています。そういう意味で、私としてはこの詩で言われている詩の「質量」は、もう少し肯定的に見てみたい気もしています。
上記の点、温泉郷さんとは見解が異なるかもしれませんので、スルーしていただいてまったく構いませんが、いずれにしても、詩の言葉と物理的な本の関係についていろいろなことを考えさせてくれる、とても興味深い詩でした。評価は佳作です。
●愛繕夢久さん「風鈴」
愛繕さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
季節外れの風鈴の音というのは、想像するだけで何か物悲しい風情が漂いますね。この詩は最初は近所迷惑にしか思っていなかった風鈴の音から、アパートの隣人の死について知らされるという意外な展開になります。最終行の「爺さん、あんまり鳴らすなよ」は、一見ぞんざいな物言いの中に、亡くなった「爺さん」に対する語り手の温かい思いがにじみ出ていて良かったです。
とても味わい深い詩をありがとうございました。またぜひ書いてみてください。
*
以上、7篇でした。今回もありがとうございます。異常に長かった夏もようやく終わり、朝夕はぐっと気温が下がってきていますが、皆さまどうぞご自愛ください。
島 秀生様 遅くなって、申し訳ございません。評をいただきまして、ありがとうございました。また、秀作の評価をいただき、うれしく思っております。この作品は、実在する店をモデルにしておりますが、正直、取り柄のない店でして、味はイマイチ、値段もそれほど安くなく、アットホームでもないという三重苦で、入ったことに後悔しきりといった感じだったんです。それなのに、悪びれず営業をしているので、よく生き残れてるなあと感心して見ているうちに、何か特殊な魔法でも使っているのではと、半ば妄想が湧いて作品化してみました。かなり中途半端になってしまいました。そこで、いただいたアイデアを使わせてもらい、いくつかのバージョンに書き直して見ております。近く、取材のためにまた食べてきます(笑)。
評価をありがとうございます。
三浦先生もラジオを聴かれているのですね。
拝聴しながら、身近に思えたり、リスナーさんのメッセージに心打たれたりして、楽しいですよね。
始発電車に乗車の経験があるのですね。
確かに、乗る場所や、顔を合わせるメンバーは同じで、最近は会釈しています。
人それぞれ目的地までの時間を過ごしているので詩にしてみようと思いましたが、詩
として、まだまだですね。
あと、埼玉県の電車の路線が36あったのには驚きました。
調べていただきありがとうございます。
次回も評価をお願い致します。
長々と失礼しました。
九十二歳で他界した父が
長い間日記をつけていたのを 知っていたので
私はそれを読んでみた
若い頃から何十年も欠かさずに
毎晩机に向かう姿を見ていたのだが
残されていたのは五年日記二冊のみ
父が七十歳から八十歳までで その後は無かった
八十七歳でアルツハイマー型認知症と診断されたが
その数年前から日記が書けなくなっていたのだろうか
その日にあったことが思い出せなくなっていたのかも知れない
父の日記は
農作業の内容 外出先 買った物 来客
家族の動向 贈答品のあれこれ
ごく普通のありふれた日常で
事実のみを記し 感情は一切書かれていない
達筆ではないし、度々誤字もあったが
内容を読み取るには困らなかった
日々の記録は
父がいかに 家族 友人 隣人のために
時間と手間を惜しまずに働いたかを表していた
妻の通院や外出の送迎 時には孫を学校に送り
親戚の病気見舞い 自治会の仕事 老人会の行事
すべて父は自分で車を運転して行く
手ずからとろろ汁を作ると
妻の姪に鍋ごと届けることもあった
お寺に嫁ぎ障害を持った子を育てている姪が
忙しいだろうと察するからだ
ただひたすらに野良に生き
名も地位も求めず
日々の暮らしを丁寧に紡いだ父は
人のために
自分の時間と労力を使う事こそが
愛なのだということを
日記で教えてくれた
こんにちは。上田です。
ひとり旅の詩はいつか書きたいと思いながら思ったようなものが表現できずにいました。作品を北陸トンネルを越え、福井県に入った頃から芦原までの間に限定して、旅で一番印象に残った風景を切り取りました。佳作を頂戴できたのですから目論見は成功ですね。ありがとうございました。
また、旅の詩を書きたいと思いますのでお読み下さるようお願い致します。
読んで頂きありがとうございます。
私は書いたものが面白いと言われるのが、とても嬉しいです。
「他山の石」の部分は、私もどうかなと思ったのですが、息子の文章では傷ついた事と、間違っているのは揶揄う方だという事、自分はそういう人間にならないという決意だったのをまとめてしまいました。
その後、中学生になった息子は友人から「枕草子」の作者の子孫かと問われたとか。大人でも時々、そういう質問をする方が居ますが、少納言に子供は居なかったのではないかと思うし、清原が姓なので違いますが、たどっていけば、どこかで繋がっているかも知れません。
長い間、使ってきて、人から呼ばれていると、自分の姓に愛着が湧きますし、旧姓も懐かしく、結婚によって姓を変えた人にはそれぞれの思いがあるようです。どちらも大切にしていきたいと思います。
ありがとうございます。とても嬉しいです。
最近、詩をどうつくったらいいか、わからなくなっていました。
ちょっと、トンネルから抜け出た感じです。
これからも、よろしくお願いいたします。
今回も私の詩にお目を通していただき、誠にありがとうございます。佳作
との評をくださり、とても励みになります。
「細やかに、思いを込めて綴られている」と仰っていただき、嬉しく
存じます。
今後とも、どうかよろしくお願い致します。
1 津田古星さん 「姓」 10/18
姓というのは奥深く話題の尽きないもので、面白いモチーフです。目のつけどころがいいですね。
それがひとつ。次に自分という具体性を挙げて、そこから詩世界を広げてゆく。まず初連は興味深いという意味で面白いのです。
どちらも両極端ながら、すんなりと読んでもらえないという点で一致する。2連はお子さんを交えたエピソード。しっかりしたお子さんで実に頼もしい。軽く指摘すると「他山の石」です。ここは実際お子さんが言ったと取れなくもない。小学生はまだ言わないでしょう。気にする人は気にするかもしれない。念の為「世間でいう いわゆる”他山の石“の感覚で」みたいにするか、あるいは、
ここだけお子さんの生なセリフ調で「 」で表現しても、変化がついて面白いかも?僕は割と使ったりします。軽い参考程度に。
そして深いのはやはり3連。4行目までは名前の持つ両面性が語られ、5行目から9行目はひとひねりある考え方で、はっとさせられます。なぜならば、僕もそういう人間だからです。誰もが行き当たるテーマであり、それを実体験と思考で立体的に仕上げています。これは間違いなく佳作。どうぞ、両方の姓を大事にして頂きたいと思います。誇りと感謝と責任を。両方の姓を聞きたい気がしますが、それはこらえておきます(笑)。
2 上田一眞さん 「ひとり旅」 10/19
またまた地図を観ながら楽しみました。福井と石川の県境を越えたのですね。途中、大聖寺がありました。小松。歴史と工業と空港の街ですね。詩の読みどころはやはり北陸の風景描写にありそうです。荒涼たる烈風、単色で粗削りな風景。それだけに鋭く磨かれる。「日本なのだろうか」は頷ける気もします。幼い頃から聞いていた満州あたりをイメージしたのかもしれません。「時をとり崩すこころの砂時計」―どこか風景に見合った詩情があります。「この地に生を得ていたなら/どんな人生を歩むのだろう」―ここですけど、旅人はけっこうそう思うものですが、この風景の中では、よけい響くものがありますねえ。父上の企図が面白いです。「可愛い子には旅~」だったのでしょう。この詩の真価は風景の屹立と終わりを飾った詩の優しさ、その際立った対照の中にありそうです。
佳作を。
アフターアワーズ。
上田さんに触発されて私事を。僕が初めてひとり旅をしたのは高校1年の時でした。
関ケ原~長浜~佐和山~彦根に行きました。お寺に泊まったことがありました(もちろん予約して)。夕食前に住職さんの長い法話があって、まいった、まいった。ところが食事はめっぽう旨かったのは今でも憶えています。
3 秋乃 夕陽さん 「挨拶」 10/19
コンパクトさに応じて、情景や主題を絞り込んでいるのがいいです。詩とはそういったものでしょう。
逆に素材を絞って書いたら、結果としてこのサイズになった感じでしょうか。そこには「何も足さない、何も引かない」そんな感覚がありそうで、凄く良いと思います。JUSTのフィーリングです。
そういったフレーム以上に良いのはその中身です。1連、2連は何も言う事がありません。割とありがち、誰もが体験しやすい事態を美しい詩情に置き換えている、翻訳している。1連の2、3行目の書き方、2連の視覚に加えての皮膚感覚が代表になるでしょう。大変失礼ながら過去作では(詩情不足?)の感が散見されましたが、前作くらいから、プラスα的な詩情が加わって、良い方向に向かっています。この調子で、それをキープしてください。あと、タイトルを「朝の~」とか「光~」等にせず「挨拶」。これもセンス、これも詩性。佳作です。
4 埼玉のさっちゃんさん 「20分間の自由時間」 10/19
始発ですか。大変ですね。この詩も一定時間、一定位置を掘り下げた形を取っています。場面の切り取り映像を感じます。不特定多数がいろいろな所作をするわけです。それを眺めてさっちゃんさん、ラジオを聴きながら人々を観察する。そうしながら普遍を思い、自分を思っています。自由時間、準備体操といった捉え方は面白いです。そう、ラジオって意外と面白いんです。音楽と話が聴ける。映像がない分、本を読んでるのに似ている。僕も割と聴きます。人それぞれ乗車時間は違う中にあって、さっちゃんさんは20分乗るといった意味のタイトルでしょう。ただ前半に「各々で/20分間」とあるので、ここはちょっと不思議に思うのですが―。ここは少し換えたほうがいいかもしれないです。あと、もう少し詩情的な表現は欲しいですね。佳作一歩前で。
アフターアワーズ。
僕も始発は4年間ほど乗ったことがあります。あれは面白いもので、習慣的に乗る位置が決まっているので、大体、いつも知った顔がいますね。他の人もそう思ってたでしょうね(笑)。調べると、埼玉県内を走る路線は全部で36路線あるそうです。
5 詩詠犬さん 「あさひ」 10/20
あさひを主人公にしているのがいいです。一種の擬人化の効果が利いています。初連2行目で、早くもこの詩の方向性が決定づけられた心地がします。あさひの”態度や行動“も細かく丁寧に書き込まれていますね。そこから詩情が醸し出されています。かもくでありながらあさひは輝きうたっている。このあたりが詩情の在り処です。このアプローチの仕方には魅かれるものがあります。あさひが主人公である一方で、この詩には常に「わたし」の存在が消えることなく持続されます。その相互関係がいいのです。それを証明するような終わり2行です。秋乃さん同様、詩詠犬さんも、この1作により、何かふっ切れたような印象を持ちました。このフィーリングを維持してください。これは佳作です。
6 静間安夫さん 「ターミナル」 10/20
先ずはイントロとしてのターミナルでの人間群像です。会話で始まっているのが目を惹きます。
そして、おもむろに入る語り。物を語る上での順当にして効果的かつ印象的な手法が用いられています。これに近い事件があったのでしょうね。よほど小柄な老女でしょうね。彼女が発見されるまでの語りの手順がよくわかります。「遺体を基に~」以降がこの詩のクライマックスです。遺体への静間さんの思いと遺体自身の願いが交錯し、悲しみのトーンの中でも感動があります。「早く引き取り手の許に還してあげたい」そのことが実に細やかに、思いを込めて綴られています。
終連は、ただ涙、涙……。意義深いと同時に静間さんの優しさが発想させた名句と言えるでしょう。会話に始まり会話に終わるのもなかなかの発想、構成です。佳作になります。
7 じじいじじいさん 「キレイって?」 10/20
はい、今回もいいと思います。本作は創作と思われますが、恐ろしくパターン化して書いてしまうと。
〇 いじめられそうな子がいじめられず友だち良好
〇 いじめられそうにない子が逆になかまはずれ
これがポイントになりそうです。
多分、前者は「デブ」を素直に受け入れ気さくなのでしょう。あくまで明るく誰とでも打ち解ける。
一方、後者はキレイを自慢しお高くとまっていると思われているのでしょう。
この提示は人間の受け入れ方において、明らかに姿形ではなく気持ちのことを表しています。
そして、この場合、どちらが好まれるかはおのずと明らかです。この詩はその事を言っています。
やや”つくり感“はありますが、現実にありそうなのも事実です。ママの気づかせ方も柔らかくていいものですね。僕はこのふとった女の子が好きになりましたよ。
ところで、詩行が異様に長いところがあります。これ、キリのいいところで二つ折りにしてください。
詩は小説と違い見た目、スタイルも大事です。―と僕は思っています。佳作半歩前で。
アフターアワーズ。
僕の場合ですが、WORDで横書きで書いて、縦書変換して必ずスタイルをチャックします。
本末転倒気味ですが、スタイルが良くないと詩行を変えることもあります。スタイルを見るには縦書の方がいい気がします。
8 ベルさん 「似顔絵」 10/21
これは“あまり、それとは気づかせないように書かれた”恋愛詩という気がしてます。
なぜならば、詩中、常に「僕⇔君」が関わって、その気持ちは「遠回りでも」恋愛付近を描いているように思えるからです。ただ、中盤、二人の状態―うまくいっているのか、それとも分かれる直前なのかーが今ひとつ見えてこないところがあります。おそらく終連が最もクライマックスで言いたいところであり、二人の消息も見えやすい部分でしょうか。
「未来/もう一度僕らが/顔を合わせる機会が訪れたなら」―ここがキーワードだと思う。
この「なら」という仮定から逆算して現在を考えると「現在=別れ」になります。そこで僕は次のように想像しました。
現在の(たとえば)20代。だが、ゆえあって別々に生きた。60~70代になって、もしもふと出会った時、もう好き・嫌いや愛や憎しみなどを超越して時間の長さ・重さだけがある。そういったものを、ベルさんは「顔のしわ一本いっぽん」やその時の「似顔絵」に託したのではないか。この詩の全体像を把握し味わう上で、中盤―4連、5連の表現の仕方がわずかに足を引っ張っているように思えたのです。佳作一歩前で。
9 桜塚ひささん 「野朝顔」 10/21 初めてのかたなので今回は感想のみ書きます。
よろしくお願いします。野朝顔を、一日を費やして眼で見て細かく観察し飽きることがない。そんな眼差しが伝わってくる作品です。この花の特色はほぼ漏れなく表されている気がします。強さ、大きさ、長さ、生命力などですね。「詩図鑑」といった趣きありです。そんな中にあって「人間の無限の欲望」「森はまるで青い滝」「心の弱い人に生きる力をくれる」「起床ラッパ~消灯ラッパ」などが光ります。とりわけ「花の本当の心だ」あたりが結論でしょう。詩はしだいに優しくなって終連を迎えています。穏やかに終わります。また書いてみてください。
評のおわりに。
〇 Kazu.さんの新聞記事を拝読しました。文中「やれるなら、またやりたい」とありました。
この事は大台の10冊目詩集にあたるでしょう。僕はそれを期待しています。
「あせらず、ゆっくりと」の言葉も添えながら―。
〇 日米、選挙、野球、今回共に興味深し。
僕は野球がよくわからないんですが、昨日たまたま見ていたら、DeNAのジャクソンという投手。
ふてぶてしいほどの髭と長髪の束ね方、一発で好きになりました(なんのこっちゃ!?)
では、また。
一般的に成人の剣道の試合時間は5分
制限時間内に面、小手、胴、突きの有効打突を制限時間内に狙う
有効打突の条件は三つある
第一に竹刀の先端部三分の一が相手に当たらないといけない
技としての完成
打ち込む際には明瞭な発声の必要がある
気迫……心を表現する
そして相手に反撃できないような居に移動して構えること
残心を行う……体さばきと仕合に対する姿勢の部分……心と体の完成
心技体の完成・体現・一致を示さなければ一本はとれない
相手との一本の取り合いにおいて様々な駆け引きがされる
剣先、手首の振り、肩の揺れ、面の向こうの目の動き、袴に隠れた足さばき
見えやすいもの、見えにくいもの様々な部分にフェイントをいれあう
時に鍔迫り合いにて気迫をぶつけあう
それが試合に見える部分
試合前より重ねるべきことはある
初心者やフィクションに書かれがちな大げさな振りは
動きが見えやすく隙も大きい
振りを小さくする
技の起こりを小さくする
足のばねを活かす
これが面を早くするコツとされている
そのためには反復練習、動きの確認、修正、地道な体作りが必要となる
その努力を積み重ねて
一本をとっていく
逆も然り
時に数秒で一本を相手にとられる
数秒で努力が水泡に帰す
命の取り合いがある