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(あのーー、私が言うことでもないんですけど、詩は自由を旨としていますから、どこにでも投稿しようと思えば、投稿できないところはないんですけど、いきなり大きなところに挑戦しても、世の多くのものがそうであるように、ポッと書いて、ポッと通用する、ポッと賞が取れる、なんてことは、まずありえないことというか、相当に稀有な話なのです。
やってみることは止めませんけど、大きなところのノー・レスポンスにがっかりしたら、
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一 「ハイネ」
いわゆる黒船来航(嘉永六年 一八五三年)によって幕末が始まる
マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊に
なぜかドイツ人が加わっている
ペーター・ベルンハルト・ヴィルヘルム・ハイネ
名前が煩雑
彼の経歴も煩雑なのでここでは触れない
ともかく ドイツ人ハイネ
ペリー提督に随行の画家であり著述家
日本遠征の報告者でもある
ペリー 一行が上陸した土地
久里浜 横浜 箱館(現・函館)下田 琉球で
ヴィルヘルム・ハイネは実に多くの風景画を描いた
写実的 と言っていい
日米交渉場面から親善風景 村落の佇まい 庶民の生活・風俗まで
現代に生きる我々が当時の自国を知るのに
少なからず
外国人の手を借りねばならないとはどうしたことであろう
多くの学者・研究者は彼・ハイネに感謝するべきであろう
二 「ペリー横浜上陸の図」
翌 嘉永七年(一八五四年) 三月 ペリー再来航
日米和親条約締結
ここは両国約束の地 神奈川・横浜村
ここでも彼ハイネは絵を描いた
沖には艦隊が浮かび
米水兵警備の中
軍楽隊も加わり
まさにペリーが一団を率いて
上陸した直後である
まさに交渉所に入る直前である
出迎える日本武士の高官たち
離れて見物する下級武士たち
ご丁寧に路上 野良犬まで二匹描かれている
歴史的資料価値は極めて高い
歴史上の人物もさることながら
私が注目するのは絵画右側上方
一本の樹木である
この大樹こそがこの詩にとっての主役
三 「横浜開港資料館」
それは横浜市中区の中心地に建っている
横浜開港資料館
さほど大きくはないが白亜の瀟洒な洋館である
門を入って中庭に行くと
繁茂する緑
大樹がある
「たまくす」(タブノキ) 漢字で「玉楠」
調べると
「クスノキ科タブノキ属の常緑高木」とある
実はそれはハイネ作「ペリー横浜上陸の図」の
右上に描かれたあの木だと言われている
現存している
命と系譜を繋ぎ
歴史を見て来た
時代の紆余曲折に
挫けず屈せず
今もけなげに鎮まっている
百七十年の時を経て―
四 「私とたまくす」
開港資料館の隣には
開港広場公園がある
まさに日米が条約調印した場所である
記憶を残すように石碑が立っている
道路を隔てて 斜め向かいに
私事ながら――自分の職場があった
私はその頃 書店に勤めていた
その支店に四年ほどいたろうか(今は撤退)
ちょうど「MY DEAR」の「ネットの中の詩人たち」の
第一集が出たばかりの頃
私が任された小さな本屋にその本が入荷したのは
不思議としか言いようがない
やはり何がしかの縁(えにし)
導きがあったのかもしれない
私はその本を買い「MY DEAR」に初投稿した
二〇〇一年 六月か七月 古い話だ
そんな事情から
この大樹と「MY DEAR」は
私の中で不思議に同居する
以上は余談 話を元に戻そう
職場での私の昼休憩
たいてい外食し その後は
たいてい開港資料館の中庭で休んだ
たまくすの木を観て残り時間を過ごした
きれいに整備された中庭
大樹のせいだろう
太陽の下でも
真下は緑の影になる
位置はハイネの絵とほぼ一致する
当時よりも少し横に広がっている
時の流れの作用だろうか
そこで休む時はいつも天気は晴朗で
その木を観ながらいつも心は静かで
癒された記憶だけが残っている
当時からその木の由来は知ってはいたが
さほど興味はなかった
今 ことさら書いているのは
おそらく歳のせいだろう
五 「これからもー」
ペリーもハイネも条約も
それらは この国にとって
恩人・恩恵ではあるが
今はすでに
遥か歴史の彼方にある
このたまくすの大樹だけが
今も晴れがましく
生きた歴史を繋いでいる
これからも
そうであるだろう
私もその木にならって
願わくば自らの歴史を繋ぎたい
ペリーやハイネや条約よりも
私にとってはその木が常に親しい
これからも
かつてのように 折にふれ
たまくすの木の下で
ベンチに憩い 本でも読みながら
移ろう時代を感じていよう
*************************************************
付記
ハイネは日本に関する絵画・著述を実に多く残した。彼の実績の殆どは日本に関わる事らしい。
もっと注目されていい人物だろう。この国の過去の何事かがもっと理解できるだろう。
詳細な沿革・科学的な樹木調査によれば、「今のたまくすの木」にも、多少の修正が加わるのかもしれない。
が、それはそれ、これはこれである。
文学的に「全き継続、全きいのち」と信じてやるのが、伝承へのささやかな心くばりなのかもしれない。
青銅の少女
夏の装いで
石の台座に座って
目をつぶり
穏やかな微笑み
昭和の彫刻が
令和の音を聴く
片側二車線の大通り
トラックの音
バイクの音
宅配便の音
歩道の
大学生の声
サラリーマンの声
携帯電話の着信音
耐震構造の新築ビル
仕事始めの
工事の金属音
「聴く」
それが少女の名前
固定された
誰も傷付けない微笑みが
今を聴き
昔を聴き
遠くを聴く
凍ることなく
曇ることなく
閉じた目で
またやってきた
新年の音を聴く
遠くの音を聴く
「おめでとう」と
ふざけて声を掛ける
子どもの声を聴く
(注)彫刻「聴く」(富田憲二作)より
世界のどこかの薄汚れた倉庫。
そこでは男たちがある作業を行っていた。
男たちは二十名ほどいた。
男たちは背中に大きなかごを背負っており、かごの中は何十匹ものネズミで満杯だった。
男たちはかごを背中から床へ下すと、かごの中の一匹のネズミを捕まえ、全身を隅々まで眺めた。指で腹や背中を愛おしそうに撫でたりした。それが終わると、丁寧に床へ放逐した。
二十名ほどの男たちが同じ作業をした。男たちのかごからネズミがいなくなった。
床を何百匹ものネズミが動き回っていた。
男たちのうちの誰かがかごを背負った。他の男たちもかごを背負うと、今度は手袋をつけ、動き回るネズミを一匹ずつ捕まえ始めた。捕まえたネズミはかごに戻した。
動き回る数百匹のネズミをかごに戻すにはそれなりの労力を要するらしく、作業は何時間も続いた。男たちは汗だくになった。やがて最後の一匹を誰かが捕まえた。
すると男たちの一人がその最後の一匹を捕まえた男に拍手をした。それを皮切りに、やがて盛大な拍手となった。拍手を受けた男は照れたように笑い、かごからネズミが逃げないように、軽くお辞儀をした。
そしてそのお辞儀をした男はその場から去った。
他の男たちも、互いの労をねぎらいながら、ほうぼうへ去っていった。
一時間ほどすると、先ほど去って行った男たちとは別の、二十名ほどの男たちがやってきた。
男たちはかごを背負っており、かごはネズミで一杯であった。
そしてまたかごを床へ下すと、ネズミを一匹ずつ愛撫し、放逐しはじめた。
二十名ほどの男たちによる、同じことの繰り返しが始まった。
初めて見る顔ばかりかと思えば、先ほどの男たちの中にいたメンバーもいた。リピーターもいるのだろう。
世界のどこかの薄汚れた倉庫で、今日もまた、額に汗して男たちがネズミを追いかけている。
三浦志郎さま 評ありがとうございます。
確かに前半部分いらない箇所多いですね。
テーマ的には後半部分の方が重要なのに前半の方が長い。
そしてわからない部分はわからないままにしてしまっている。
気が向けば書き直そうと思います。
気が向かなければ放置でいいかな。
詩って難しいですね。ときどきほんとに見るのも書くのも嫌になります。
でも全然やめられそうにありません。
今年の抱負は「テーマを大事に、わかりやすく伝わるように」
近所で異臭騒ぎがあった
バイト先で知り合ったエタンは
「issue」と聞き間違えた
この町では、蓋をして
匂いごと封じ込めるのだと伝えると
ぶつかり合わなきゃ
終わらないだろうと怒っていた
「だから君の町は瓦礫の下敷きに」
そう言い返したら
彼の涙が静かに匂う
言葉の間に生まれる亀裂が
触れられない距離を作っていたのか
エッジの効いた安全神話と消毒液の臭いが
その裂け目をさらに広げたのか
思わず彼を抱き寄せた
霞がかった朧月夜に
ほのかな匂いが漂い溶ける
鋭さを持たず、ただ静かに馴染む
生まれた時から沁み込んだ
匂いと汚れを一緒に清める
なんて乱暴な風習だろう
もうエッジの効いた夜は御免だ
小学生だった君は生意気だったよね
絵を見たときこう思ったろ
キャンバスの布地を切り裂けば
奥が現れるのは当たり前
キャンバスの布地と奥の地との間に
隙間があるのも当たり前
見ればわかるよ うん
キャンバスの布地と奥の色合いとか
線を何本切るかとか
ナイフで切るか、カッターで切るかとか
まあ 色々あるという説明だったけどね
でも 展示するんなら
ちゃんと描かないと
これ 切ってるだけで
労力かけてないのに
美術館の一角を占めちゃって
ずうずうしいよね
「空間概念」
なにそれ
単なる手抜きだよ
うん そうだったね
君はずるいって思ったね
他の画家は皆一所懸命描いているのにね
でも その絵
「空間概念」が君の心の美術館の一角を
ちゃっかり占めてしまったんだよね
もう取り外せないんだよね
それが悔しいんだろ?
この絵
赤い粗い画布に三本の鋭い裂け目
右上から左下へ緩い曲線
奥に黒い地が細く覗いている
君とぼくだけの間だから
ぼくの自己流の解釈を披露しよう
心のキャンバスにも
表面と奥があってね
切ってみることで
心の表面の奥に
別の心が潜んでいることが分かる
そして それこそが
本当の自分の心なんだ
この絵はそれを見せている
あのときの君は
この絵をみた瞬間
自分の心が切られたと感じた
その奥にある空間を見るのが
怖かったんだ
あのとき君は
確かに
心にひどい傷を受けていたからね
それを認めたくなくて
手抜きだなんて思ったんだね
それなのに
いつまでも いつまでも
その絵を心の奥に掛けておいたんだ
今この絵をみると
見えない奥の広がりの中に
本当の自分が隠れていたことが
よくわかる
あのときの傷はもう癒えて
古傷になって
跡がどこにあるのかさえわからない
だから 今見ても痛くはない
あのときの君は
もう
キャンバスの奥に
隠れてしまった
そこは
どんなところなのか
今の自分が一緒に行くことは
もうできない……
お
君は いま
キャンバスの裂け目から
少しだけ顔を出してくれたね
ふーんって感じの
相変わらずの生意気な顔だったけどね
*倉敷市 大原美術館 フォンタナ 「空間概念 期待」より
年末からインフルエンザで入院してきょう六日、退院してきました。
さすが風邪の親玉、大変な目にあいました。
猛威を振るいながら流行中です。皆様も気を付けてください。
今回、私の批評期間中の投稿作品はありませんでした。病み上がりですので、実のところ助かりました。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
青島江里様 評の御礼が遅くなりまして、失礼いたしました。また、今回も丁寧に読んでいただき、ありがとうございました。年末に自分の方は一向に仕事が片付かず、焦った気分で帰宅していた途中の風景を描いてみたものです。点字ブロックについては、見たままを書いたのですが、評で深いご指摘をいただき、新たな気付きをいただきました。ありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。
「暮れの三十日に日帰りで行くよ」と電話があって
息子が三ヶ月ぶりに帰って来た
高校卒業後 大学 就職 転職と二十年京都に住んでいたが
一年前に再び転職して
電車で一時間弱の県内に引っ越してきた
前の職場にいた時は盆も正月も連休もなく勤務で
その上 感染症もあって四年も顔を見なかったが
この一年は数回帰って来るようになった
会社は転職前と同業種ではあるが
仕事内容も環境も変わり それも慣れて
落ち着いた暮らしをしている様子
正月二日に出勤だと言うが
その他の年末年始の休日は
資格試験の勉強に充てるのだろう
文系だった息子には縁の無かった
電気や設備の試験を次々と受けているが
それも苦にならず 意欲的なようだ
大学を卒業して
最初の会社で人間関係に悩み 三年余りで辞めた後
再就職がなかなか決まらず 貯金も底をついた時
やっと決まったアルバイト先で
一年後に契約社員 三年後に正社員となり
会社に認めて貰おうとしたのか 責任感の強さからか
あるいは遅れを取り返そうとしたのか
仕事は何でも引き受けて
きちんとした昼食も摂らない生活を続けていた
夫と私は
会社に都合良く使われているだけではないか
身体を壊さなきゃいいけどと
危惧を抱いても 見守るだけだった
だから 突然
「転職するよ」と聞いた時は驚きもしなかった
若い時の苦労は買ってでもと言うが
病気になる前に気がついて良かったし
もうそんなに若くもないのだから
息子が来ると
夫は子供のように
自慢の切手や鍔の収集品を見せ
息子はうるさがりもせず相手になる
私は「夕ご飯も食べて行って」と支度して
三人で食卓を囲む
夜 息子が帰る時
「それでは良いお年を」と言う
うん 良いお年を
違う世界の扉を開き
新しい時を生きる息子の一年が
穏やかな年でありますように