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三浦志郎様、「手負いの夜に」に評をいただきありがとうございました。ある夜にふと見上げた月が巨大で血走ったように赤味を帯びて怖かったので、それをそのまま詩にしました。今にも山に隠れるかという時に、この次に見る時はきっと元に戻っているだろうと考えたら、今のは一体何だったんだろう、と。
月は絶対自分の存在に気付いてる、そう思いました。
佳作もありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。「インターセプター」感服いたしました。これ以上の迎撃は有りえません。マイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」を思い出しました。
諸事情にて、お先に評投稿させていただきます。
申し訳ございません。
1/2〜1/4 にご投稿いただいた作品の感想でございます。
素敵な詩を沢山ありがとうございました。
一所懸命、拝読させていただきました。
しかしながら、作者の意図を読み取れていない部分も多々あるかと存じます。的外れな感想を述べてしまっているかも知れませんが、詩の味わい方の一つとしてお考えいただけたら幸いです。
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✩「満月の夜には」 積緋露雪さま
積緋露雪様、こんにちは。
今回も御投稿いただきありがとうございました。
私にとって、今年最初に拝読させていただいた詩です。
素敵な詩で本年をスタートでき、とても感謝しております。
前作同様、大変重いテーマに(今回は死と出産ですね)じっくりと向き合い、綴られた詩句に、とても感銘を受けました。
満月の夜がもたらす生と死の不思議…初連から引き込まれました。
初連だけでも、充分に1篇の詩となり得る壮大さです。
2連から、機械によって可視化された「死」に対する疑問が、丁寧に綴られています。とても説得力があります。
2連、3連とも「死は厳粛なものである。」で始められていますが、3連で、更に2連での思いが強調されているように感じられました。
4連では出産に目は向けられ、5連で死と出産の落差に思いは向けられていきます。
6連で再び初連の満月へと視線は戻り、キラリ光る1詩文で締め括られています。
長い詩文による思考が、緻密な構成のもとに、説得力を以て訴えかけてくる力強い詩だと感じました。
年頭に相応しい力作…ありがとうございました。
佳き作品でした。
個人的な欲を言えば…、「死を疎んだからこそ、死の時代が訪れたといっていい。」そして、「自然はピカ一の皮肉屋なのである。」をつなぐ詩句をもう少し読んでみたかったです。
(細かいですが、1連目「納得でるのか」は「納得できるのか」、3連目「余計のだ」は「余計なのだ」で宜しいでしょうか。脱字として拝読させていただきました。)
✩「雨の大晦日」 喜太郎さま
喜太郎様、こんにちは。
今回も御投稿いただき、とても嬉しいです。
前作の甘酸っぱい詩とは全く異なる雰囲気で、驚かされました。
こちらもなかなか素敵ですね。
何となく侘しさが募る雨の大晦日…いいですね。
尾崎放哉の名句「咳をしても一人」がふと想起されました。
ボサボサ頭でコンビニ、折れたビニール傘、ワンカップ…情景が浮かんできます。
「来年こそはと繰り返し
いつものように年を越す」
私もまさにこの通りです。
深く共感しました。
スルメでも手土産にして、一緒にワンカップで乾杯したい感じです。
「雨のせいさと独り言」の繰り返しも、リズムがあっていいですね。
喜太郎さんは、反復法を随所に盛り込み、いつも効果的に使ってらっしゃると思います。
音読すると、更に素敵ですね。
一つだけ…「呑んで」と「飲み干し」、「呑」「飲」の使い分けの理由が少し気になりました。
佳き作品でした。
ありがとうございました。
✩「献身国民観察日記」 えんじぇるさま
えんじぇる様、こんにちは。
御投稿、ありがとうございます。
面白い詩ですね。
献身とは身を捧げること。自分の利益を顧みないで他者や物事の為に自己の力を尽くすこと…。そういう精神を持つ国民を観察した日記なのですね。
とても興味をそそられるユニークな題です。
「…まーしゅ」という一見投げやりな語尾に、えんじぇるさんが詩にこめた皮肉が感じられます。
一種の社会批判ですね。
自分のために生きている人の主張、それに反する、人のために生きている人の返答が、交互に組み合わされる構成も、とても工夫されていると思いました。
「どこに行ってもなにをやっても、みんな自分のために生きている。…」
「こうして献身国民は一生仕事にも恵まれず、社会にも組み込まれませんでした。…」
の最後の2連がえんじぇるさんが仰りたい結論ですね。
他者の為に力を尽くそうという志はあっても、こう世知辛い世の中では、なかなかその思いすらも発揮できないようです。
とてもウィットに富んだ佳き作でした。
ありがとうございました。
一つだけ…「献身国民」というえんじぇるさんのオリジナル造語の定義が、今ひとつ伝わりにくいかもしれません。
その辺りを少し補っていただけたら、より詩意が明確になるのではないかと存じます。
✩「新たな年に想うこと」 埼玉のさっちゃんさま
埼玉のさっちゃん様、こんにちは。
御投稿ありがとうございます。
年頭にあたっての力強い想いが感じられるとても素敵な詩だと思います。
今年は、元日から大きな災害、事故が続き、本当に胸の締め付けられる思いが致しました。
埼玉のさっちゃんさんの詩文一つ一つに深く共感致しました。
ただ、少し欲をいえば、普遍的すぎるかしら…。さっちゃんさんの詩として、とても勿体ない気がするので、さっちゃんさんの独自の具体的な体験などを少し盛り込むと、またオリジナリティある趣きある詩になるのではないかと思います。
読み手の心にも、新年の緊張感と願いを思わせる佳き作品でした。
ありがとうございました。
✩「砂時計」 荒木章太郎さま
荒木章太郎様、こんにちは。
御投稿、ありがとうございます。
詩句一つ一つが、とても吟味され、選び抜かれた言葉によって綴られているのを感じました。
「生活を区切る水平線」「破られた日常の境界線」と、とらえられた光景の広がりは、そのまま詩の広さにも繋がっているようです。
とても壮大なテーマのように見受けられますので、詩意を読み取れず、大きな勘違いをしているかも知れません。
お許し下さい。
僕が走る砂浜は現実なのでしょうか。その現実とはしかし、既に先端ではなくなったにも関わらず、相変わらず暴走し続けねばならない、かつての実験都市…エネルギーや高度技術の間違った扱い方によって新たな問題を突き付けられた現実のように思われます。
変わり果てた君の姿とは、本来のあるべき世界、自然の姿、地球を指すのでしょうか。
過ちを繰り返してきた…時の重なりを、砂粒のように積もった時を、拾い集めて砂時計にする…。
そしてその砂時計を、極めて日常的に使うことによって、人間の本来あるべき生活に立ち戻ろうとしているかのようです。
或いは、君の姿とは…
意せずして別れざるを得なかった大切な人…砂時計は在りし日と失った後とを繋ぐ大切なものなのかも知れません。
色々な読み方ができ、読み手それぞれに違った感慨を呼び起こさせる素敵な佳き詩でした。
ありがとうございました。
✩「おかえり私」 紫陽花さま
紫陽花様、こんにちは。
御投稿、ありがとうございます。
前作は、御子息様への深い愛情に溢れた素敵な作品でしたが、本作は、お母様への思いが綴られていますね。
頭の中にできた小さな池とは、水辺が好きなお母様と対話なさる為に、紫陽花さんが作られた安らぎの場所なのでしょうか。
日々、色々考え続けねばならず、不安や心配事に占領されてしまう脳の中…。
求めた池は、川になり、海になり…
母というものは、そういったものだなあと、私も改めて自分の母に思いを馳せました。
いつ何時でも、自分の力となり、支えになってくれるのは母ですよね。
頭の中の小さな池はやがて海に…詩文自体も、水源から小さな流れとなり、川はやがて大洋へと静かに流れていくように、緩やかに流れるような動きがあり、とてもよかったです。
紫陽花さんの詩は、ご家族への愛情に溢れ、ほろりとさせられます。
お守りにしたいような詩ですね。
本当に素敵なとても佳き作品でした。
ありがとうございました。
以上、6作品、御投稿いただき、誠にありがとうございました。
それぞれに、素晴らしい作品で、全て佳き作とさせていただきました。
十分に読み取れていなかった部分も多かったかと存じます。
読み違いはご指摘いただけたら嬉しいです。
本年は元日から災害、事故が続き、不穏な幕開けとなりました。
犠牲になられた方にお悔やみを申し上げますと共に、極寒の地で苦しい生活を強いられている皆様が、1日も早く通常の生活に戻れますよう祈っております。
地震大国日本…明日は我が身…力を合わせて乗り越えていきたいですね。
本年も宜しくお願い致します。
2023年12月26日~12月28日 ご投稿分、評と感想です。
(お先に失礼いたします)
今年初めての評と感想のお当番になります。レギュラーの皆様、投稿者の皆様、旧年中は、色々と勉強させていただき、ありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
※投稿者様へ
投稿された作品は、ご本人様が生み出された大切な作品です。こちらから一案をお伝えすることもありますが、ご参考程度で。また、こちらの無知などで読み切れずおわびをいれることもあります。そんな時、投稿者様は力不足だったとか、謝ったりしないでくださいね。私の担当の日は、詩の好きな人間が手紙を送ってきたくらいの気持ちで、こんな風に読む人もいるんだなぁと、お気軽に受けとめていただけるとありがたいです。2024年の投稿者様の詩生活が充実した時間となりますように。
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☆ワーグナーの楽劇と共に 積 緋露雪さん
楽しみがあるっていいですよね。特に年末に決まった楽しみがあるって、一年の締めくくりを好きなことで締めることができたという満足感にあふれて、とても幸せな気持ちになれると思いました。
コロナ禍で、舞台など、人の集まる催し物が世界的に制限されていたため、通常通りの年末を送れなかったことは、気持ちにポッカリト穴が空くくらいの寂しさに囲われてしまったというような気持ちが伝わってきました。
楽劇の詳細についても、力の入れ方を感じました。特徴ともいえる「悪魔的な半階音の見事な手捌き」について「飲まずとも酔ひ痴れる」の表現は自分がどれほどワーグナーが好きかということを感じさせてくれます。バリトンの男性の歌声とソプラノの女声との融合についての場面では、どれほどの迫力があるのか。そして一つになるときの音楽の美しさを生き生きと表現できていると思いました。
また、必ずといっていいほど出てくる「ヒトラー」というキーワードも盛り込んでありました。途中、「ワーグナーとニーチェ」についてまで書かれていましたが、更にわかりやすくという気持ちが動いて書かれたと思いますが、三島由紀夫に関する話題についてですが、個人的には、直接関与していることとは離れており、推測や好みの話題になっていて、テーマ―の中心の楽劇についてからは、横道にそれているような気がしました。同じ行数を使うなら、その楽劇の置かれていた時代背景や、プロパガンダに利用されたという内容などを示す方がよかったのかな?とも思いました。
Crazyは褒め言葉よ……といった浅川マキの言葉を用いて語った、作者さんのワーグナーに感じる最大の魅力。「狂気が宿っている」という視点は衝撃的でした。自分の好きなことに関しての思い、勝手にたくさんあふれてくる気持ちの大きさが感じられる作品だと思いました。今回は佳作半歩手前で。
☆もし良かったら 喜太郎さん
『もし良かったら僕と付き合ってくれませんか?』
………やめいっ!!
読み始めてすぐの「やめいっ!!」……これって、関西地方の方言ですよね。以外な展開で思わず「え?こうくるんだぁ。」って思った瞬間笑ってしまいました。この展開、なかなか面白かったです。そこから先によく似た感じの言葉「自信を持ていっ!!」もありました。なかなかテンポがあってスイスイと読めたのですが、そこから先は、このようなテンポを感じさせるようなものは特にありませんでした。
言いたいことをストレートに表現できるってすっきりして気持ちがよいと思います。ストレートに言いたいことを書くって、なかなか勇気がいりますものね。そういう面ではとてもいいなって思えるのですが、反対にこの主張に対して言われる方は?と意識してみると、これは難しくなるかと思います。これが主張する方が会社の上司で聞く方が会社の部下だとしたら……などと想像するとどうでしょうか? ちょっとしんどくなっちゃうかもって思いました。そこで思ったのが、一連目にあった「やめぃ!!」の方言。作中の合間に、面白い掛け声を間に入れたりして笑いを誘うような感じにすると、自然と読むことができるのかもって思いました。あと、設定を野球などでよくみる、面白おかしく結束する円陣の場所にしてみたり。最後のプレゼンテーションという言葉で浮かんだのですが、お祭りの掛け声などを用いて、読み手を祭りのヒーロー的存在の気分にさせるような設定にするのも楽しそうかなと。色々な設定を組みなおしてみるのも一つの手かなと思いました。また、「~か?~か?~できるのか?~できるのか?~するんだ!」の文末表現が続くのも、多めの感じがするので、あと少し、言いたいことを凝縮するのもよいかなと思いました。
おかしみを取り入れることで、この作品は、既に言いたいことがしっかりかけている分、かなり面白く、楽しく読めてしまう作品になると思いました。喜太郎さんカラーの、のびしろを感じさせてくれる作品でした。今回は佳作一歩手前を。
☆冬至 麻月さん
冬の空のお話。この前自転車を止めた瞬間、空と目が合って??空の方に顔をあげると、星がたくさん光っていて。夏の頃ってこんなに星が多かったっけ?と思いました。冬は空気が澄み切っていて星がよく見えるよと聞いたことがありますが、まったくその通りで。作者さんの綴られたような作品が生まれるきっかけになるのだろうなとも感じました。
月の近くにはいくつか明るい星がありますよね。昔、金星が月の近くにあると聞いて、私にも探せるのだと感動したことを思いだしました。木星!実際に地球から見えると感じると感動しますよね。木星の明るさ。半分欠けた月の横にあるというのが魅力的ですね。木星の輝きの強さを感じました。単に「木星がひときわ明るく輝いています」とするよりも絶対、効果的だと思いました。
一番夜が長い日。つまり冬至をさしますよね。夜が長いということは、必然的に星の輝く時間も長いということにも通じますよね。星の光って、今光っている光は、今光ったものではなくて、かなり前に瞬いた光なのですよね。それを感じさせてくれる「木星が会いにやってきた」「とおいとおい彼方から木星がやってきた」は、一見、ありきたりのような表現に思うかもしれませんが、じっくりみつめると、作者さんの空を見て宇宙の広大さを感じている様子を思い浮かばせてくれる表現になっているともとれるなぁと感じました。
この星の光の応用編のような表現。木星と月が出会って会話しているという設定。「瞬きほどの逢瀬に/言葉などなく/見つめあうだけ」のあとの「やがて朝が来て/また離れていった/そのあとに/木星の言葉を/遅れて聞くのかもしれない」……これは人の会話ではありえない状況ですね。星の光を会話とみなして、遅れてから届く言葉とするところ。なかなかのイマジネーション。冬の星の物語。ロマンチックだけど甘すぎない、さらっとしたロマンチックがいいですね。とても静かで平和な空気の感じられる作品だと思いました。
☆俯瞰中毒 理蝶さん
高いところから人を見渡すこと。本来ならこのような所作は、困った人がどこかにいないかと探すことに役立つ所作であってほしいのですが、残念ながら簡単に、そうはいかず。誰が偉いとか、誰が無知だとか違うとか。顔のわからない世界の中で繰り広げられる議論。誰でも参加できるとはいうものの、激しいたたき合いになると、命にまでかかわってくることもあるという恐ろしさ。どうしてこんな時代になってしまったのだろうか。そのようなことも作品を拝見して思いました。
「電子の街で街宣する 喚き合う」
こちらの言葉があって、書かれている詩の背景がわかりやすかったです。視界がパッと広がる感じがしました。またトマトを投げるという表現もスペインのトマト祭りを思い起こさせ、あの凄まじい迫力のあるお祭りの様子と重ねつつ、拝見させていただくことができました。
気になったところは、二連目の「少しの冷静さがあれば/誰だってできることなのに」です。少しの冷静さがあれば誰だってできる → 誰が何を? と、返してみると、「物事を見下ろすことで、自分の立場までもがそこまで登ってゆくと錯覚すること」にかかることになってしまいます。冷静になってできることは「物事を見下ろすことで自分の立場までもがそこまでも登っていけると錯覚しないこと」ではないのかな?となると「少しの冷静さがあれば、誰だってそうじゃないってわかることなのに」というような内容に変更する必要があると思いました。あと、「誰より幼く誰より守っている」ですが、一連目の「子供の幼い反応」からきているのはわかるのですが、「幼く守る」と続けてしまうと、個人的には、どこかしっくりしない感じがしました。一連目の「単純な防御」を前出しにして、「誰より幼い単純な防御/自らを俯瞰することでまた自らを守る」このような感じにしてみてもいいかなと思いました。
後半では、俯瞰する人を俯瞰することで自らを守っているという自分に落胆している気持ちを表現されていると感じました。そのあとの最後の着地がすごいと思いました。
神のない貧しい 心の冬には
こんな詩が生まれる
何とも言えない虚しさ、切なさを感じる二行でした。時代に対する大きなため息と息苦しさを感じさせてくれる作品だと思いました。今回は佳作半歩手前で。
☆冬の風は 紫陽花さん
使い込んだ窓のどこかからくるすきま風。あれって、隙間からくるのに結構な寒さですよね。
「すきま風はそのまま/部屋の隅っこに落ち着いた/すきま風は歯をカタカタ鳴らしている」
すきま風の擬人化の仕方が面白いですね。すきま風で窓がカタカタなっている様子を、歯をカタカタ鳴らして震えているとしているところ。なぜ震えているのかというと、風邪をひいているようだとするところ。う~ん、風が風邪をひいている?え?ダジャレ?単なる偶然ですよね(笑)
三連目からは、いいように使われている便利屋さん的な人間のことを彷彿させるようなことも綴られていたりしますね。作者さんのそんな人をほっとけない優しさが行と行のあいだにみえるような感じがしました。冷たい風も温まると春風めいた風になるっていう発想も面白いですね。
気になったところは「ほんのり春風めいてきて/話す度に私に春風が/するーんと吹いてきて」の部分。春風めくということは、春風になり切っていないと思うので、私に春風が吹くとするところに、個人的にはちょっと違和感がありました。「するーん」もちょっと寒い感じが。私ならこんな感じにするかな。「私に話しかけるたびに/ふぅわぁんとした風が吹いてくる」
最後の方の「本当の春までここにいていいよ」っていう言葉、温かさが感じられていいなぁと思いました。この部分を強調する感じで「冷たい冬の窓の日々/ここにいていいよ/本当の春の日がくるまで」……こんな感じもありかなぁと思いました。
あたたかくファンタジックな雰囲気と、擬人化のユニークな設定が印象深く。今回はふんわりあまめの佳作を。
☆クリスマスの夜 小林大鬼さん
実際に小林さんから写真を見せていただいたわけではないのに「筑波山」の姿が勝手に頭の中に浮かんでいました。というのも、以前投稿していただいた小林さんの投稿していただいた詩の世界が、今回の投稿していただいた作品の風景と再び重なって、私はその風景の中にいたのです。不思議ですね。作者さんの思い入れのある風景や、なじみの風景は、作者さん自身によって丁寧に刻まれることで、他の人の心の中にも自然と刻まれていくのですね。
もの寂しさという空気が、うまく表現できていると思いました。クリスマスという、にぎやかさを醸し出す言葉と、バスを降りて夜道を行くという対比。寂しいを通り越して、少し怖いくらいの静けさを感じました。そこからの月明かり。そしてなじみの山の幽かな影。こうもってくることによって、ちょっとした安堵感が生まれて、見渡す静かな夜の世界が広がりました。
時々通る車の光が
私の影を追い越してゆく
三連目のこの表現。誰一人いない寂しさと、追い越すものは車の光のみ。私ではなく、私の影としたところがとても良いと思いました。
四連目では、更に独り身とにぎやかさを醸し出すクリスマスのお祝いという対比があります。更に五連目では更に輪をかけて、もっとにぎやかさを醸し出す、日曜日のクリスマスイブに重ねて、過ぎたクリスマスという表現がありました。最終連では、一人夜道を行くという言葉で着地していますが、ただ単に歩いていくとせずに、人恋しさに行くとされています。誰かの影を探すことの難しいという状況の中での人恋しさ。これはものすごい寂しさを感じずにはいられませんでした。寂しさという言葉を自分なりの言葉をかけあわせて深堀りしていかれる作品。気負うことなく、かっこいいとか悪いとか関係なく、ただ心の奥底から湧き上がってくるものを自然に表現された作品だと思いました。佳作を。
☆草を喰む我は牛なり 荒木章太郎さん
非常に独創的な表現だと思いました。
言葉を飲み込むことと食することを混ぜ合わしながら表現されているような感じもしました。本来、おにぎりひとつであっても、食というものはその場所の空気であったり、できあがったものをよくみたり、用意してくださった方々のことを思いつつ、ゆったりとした時間の中で味わうもの。ある意味、芸術鑑賞に似たような要素を持つものでもあるのに、時代の流れの中で流れ作業のようなものに変わってしまっている部分もあるような気がしませんか…….そのような声が私の中に響いてきました。
二連目なのですが、「食はエンターテイメントだ」のあとの「動物になりたい」「人間になりたい」の二つですが、誰がなりたいのか。食自身が発している言葉なのか。とある人間が発している言葉なのか。これがちょっとわかりにくい感じがしました。
三連目で思い浮かんだのは、話題の観光地を旅する人たちを例にあげて、話題や流行に踊らされていることの残念さを伝えているような気もしました。牛とされているところで、私は、牛舎から外に囲いのある牧場に出されて草を食んでいる姿と、自然を満喫しているようで、実は自然というよりは、あらかじめ人の手でセッティングされた流行の自然を泳がされている人の様子をみて感じたことを、重ねて表現できる連のようにも思えました。三連目はとてもメッセージ性を感じる連でした。「脇道へ逸れて/考えて食べなさい」食に限らず、食以外の何かを味わうことについて、誰かが話題にしたものを、そのまま追いかけたり、受け止めるような受動的な姿勢ではなく、自らの気持ちを大切にして、その場その場で感じたことを、ありのままに味わうことを大切にしてくださいね。自分をなくしてしまわないでね……そのようなことが響いてきました。
この作品は、人によって色々な見方をすることができる作品だと思いました。掘り下げてみれば見るほど、違う味わい方のできる作品ではないかとも思いました。
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2024年の年明け、大変辛いことが起きてしまいました。
失われた貴重な命に対して心から哀悼の意を表します。
恐ろしい思いをされた皆様が、心身の不安から、一日も早く解放されますように。
大変な環境の中、救済、支援活動をしてくださっている皆様、ありがとうございます。
どんな言葉を発しても薄っぺらな言葉にしかならない私ですが、
生きている今に感謝して、これからも生活していかないと......そう思いました。
三浦志郎様、詩の評をありがとうございました。
はい、三浦様の認識された通り「見えないものを見る」ということの追求の過程で書いた詩で、一見、見当違いと思われるものでも、捉え方によって自在に詩になるのではないかと思い、不思議な感じを詩ってみました。
年末の忙しさですごく切羽詰まっていた状況で書いたのですが、高評価を頂けてひと安心です。次につなげていく大きなヒントとなりました。「コレクションで上位に入る」と言っていただけてとても嬉しいです。今までそのように評されたことはほとんどありませんので。
次も頑張りますのでよろしくお願いします。
今回も拙作に丁寧なご感想を頂き、誠にありがとうございます。
確かにおっしゃるように、「見ないで~」の部分が全体とよく
かみ合っていませんね...。また練り直してみます。
本年もどうかよろしくご指導のほど、お願い申し上げます。
おはようございます。上田です。
詩のジャンルに物語詩というものがあるとはご指摘を受けるまで知りませんでした。長いものになって拙いなあと思っておりましたからご評価頂けましたことは望外の喜びです。
作中のユウセンさんはわが家に二回来られています。私が中学二年のときと結婚して直ぐの頃です。その間も折にふれ文通していましたから、アメリカの日系人の情報はふんだんに入手しておりました。面白いなと思ったのは「北米タイムス」という日本語の新聞があるのですが、活字が旧仮名遣いなのです。アメリカにわたった日本人は明治人なので、旧仮名が残ってるんですね。
私の姪がアメリカに留学したときユウセンさんに会ってるんですが、歳を召されて日本語で話すことは苦しかったようです。時は容赦なく私たちの頭に降り積もっていきますね。
佳作の評価ありがとうございました。
また、投稿しますので宜しくお願い致します。
ことば
に、たすけてもらったから
ことば
に、おんがえしをしたい
そんなこと
できるはずない
のに
せめておれいをいいたくて
ことばのちからをかりて
だれにもわからないことば
つむいでおくる
ことばだけはわかってくれる
おねがい、いきて
と、いのるように
おねがい、きいて
と、こえにしながら
ことばがわたしを
とびだして
わたしひとりぼっちになって
さびしいこころがからっぽで
ほんとにさびしいからっぽで
それでもおんがえしはつづく
あめあがりのにじ
おいかけて
お先に失礼致します。
1 上田一眞さん 「ある日系人の苦闘」
新年飾る冒頭佳作にして大作。新年早々、ガッチリと骨のある作品です。時制と背景がふたつありますね。ひとつは日本を訪れ「ぼく」を含む一家との触れ合い。ふたつは戦中~戦後の生き方です。これらは物語に立体性を与えているし、その中を物語が自然に流れていきます。いいですね。戦中は普通の日本人でさえ大変だったのに、日系人といった背景を背負わされた人々は、この詩が語るように塗炭の苦しみだったことがわかります。人権の危機、迫られる決断、名誉回復・忠誠の証しとしての出征、そして夥しい死です。細部を見ましょう。当時のアメリカの兵役は18歳からですので、シミズさんはそれ以下だったことがわかります。日系人中心の442部隊史によると1943年(昭和18年)頃のことでしょう。彼らは本当に精強に戦ったようです。崖っぷちに立たされ、肝が据わった集団だったのでしょう。ここにもあるように、多くの戦死者を出したようです。シミズさんの兄上もその一人。胸が痛みます。アメリカで最も多くの勲章を受けた軍団だったのが、せめてもの慰めでしょうか。戦中は精神的な、戦後は肉体的な苦労が偲ばれます。戦後も辛苦が多かったのですが、それをカラリとわかりやすく語るシミズさんも印象深い、きっと、揉まれに揉まれて魅力的な人格に行き着いた、そんな雰囲気がありそうです。「パールハーバーを忘れるな」や「昭和四十年代」などから、この詩は時間の流れが年表のように自然とわかる仕組みも取っている。人物の年齢もだいたい推測可能です。それも隠れた魅力なのです。
地味ながら物語詩には必須なことです。この詩の中に、ちゃんと上田さんもいます。この詩の中で歴史は生きています。
アフターアワーズ。
僕流に言わせてもらうと、これは長州人の持つ粘り強さのような気がしますネ。
2 素言さん 「こんなときは眠るに限る」 初めてのかたなので、今回は感想のみ書かせて頂きます。
よろしくお願い致します。
俗に「フテ寝する」という言葉がありますが、いじけて開き直って、世間に背を向けるように寝てしまうのか、それとも“自分を安全に保ち事態をやり過ごす積極的手段として”寝るのか?この眠りの落差は大きいものがあります。そのあたりを検証できる本文かどうか?そんな視点で読んでいました。「こんなとき」の実態が本文のはずです。初連から3連までは曖昧で解釈上の解決策にはならないように思います。頼みの綱は4連か?やや具体性を暗示しているように思います。
ここには事態をなんとか打開したい向きが感じられなくもない。そう考えると、冒頭の二択は後者のほうに思えたりするわけです。ごめんなさい、これ以上のことはわかりませんでした。様子を見ましょう。また書いてみてください。
3 静間安夫さん 「見ないで信じる人こそ…」
新年早々、意表を衝いたところから来ました。意外や、散文詩形体の、それもセリフ詩です。
まず設定がおもしろいです。イエスの神聖と場末で下世話な酒場での品のない話しぶり。
この落差ですね。ストーリーはとてもわかりやすいです。この詩の本質は終わり近くの酒場の主人のセリフにありそうですね。すなわち「確かめて初めて信じる≦理屈じゃなくこころで信じる」でしょう。タイトルにもなっている「見ないで信じる人こそ幸せ~」、これはおよそ宗教の一般論的本質でしょう。最後のオチ的謎かけがいいですね。おそらく酒場主人に身をやつして、イエスはこの男に会いに来たのでしょう。そうして大事な考え方を示唆していった。そんな解釈です。ただし、ここに一点、気になることがあって、「見ないで信じる」を過度に奉じてしまうと、以前の会っていた状況をどう評価するのか?といった問題が生じてしまうわけです。「それはそれで、なお結構」なのか。「見ないで~」理論は会えなかったことへの便法理論あるいは慰め理論でもいいのですが。このあたり、やや微妙な雰囲気はあるわけです。
いきなりのスタイル変更で、当方少し戸惑っていますが、前回もキリスト教的要素があったことに気づきました。静間さんの何らかの属性を示すものではあるのでしょう。佳作半歩前で。
4 水野耕助さん 「飛びたい、私」
ああ、同感ですね、飛びたい、僕もです。もちろん、これは隠喩なのですが、これを日常形而下に降ろしてくると、、あてはまることは多い。事に当たってアプローチを変えてみる。ワンランク上を目指してみる。気高く生きていきたい。やっぱり人間は上昇志向といった本能はあるわけです。これはそんな詩。さてところで、飛ぶにもいろいろあるわけですが、この詩に沿って、その様態を拡大解釈してみると、……
1、2連……自己存在の飛翔。 3、4連……現状脱却。 5、6連……世界の広がり。
いっぽうで考えられるのは―最近よく思うのですが―「終わらせるのは始めるのと同等か、それ以上に難しい(特に戦争など)」といったことで、この詩で言うと「じゃあ、飛んだ後、どうするの?」といったことでしょうか。別にその後を書く必要もないのですが。ただ、この詩はそれもちゃんと用意しているのです。すなわち終連です。構図から見ても思想から見ても、この詩には終連という受け皿があることです。抽象的で全然構わない。終連に向けこの詩は収斂していきます。あとは”今よりもっと高い純度で“詩を飛ばすことです。詩も飛びたい。佳作飛翔一歩前で。THE LAST STEP。
5 エイジさん 「時間」
日常、物質として目に見えないものを考えると、すぐに浮かぶのは空気と風。この詩にある通り、時間もそうでしょう。なるほど、時計がありますが、あれは時間という現象の代理器具、代理行為でしょう。いっぽうで、エイジさんは「詩人~見えないものを見る」といった考え方を深めようとする詩人です。そんな背景からこの詩は生まれたと僕は認識しております。時間がくっきりと形として捉えられ全てを覆い尽くすさまが明らかです。サンプルとしての場所、事物もよく考えられ、直喩も活きています。「占拠VS装飾」の対比も面白い。結果、ちょっと不思議感のある詩になって、最後の広がりに続いていきます。これ読んでると、ホント、実際に時間が(物質的に)世界を覆い始めるのを感じるのです。SF映画を観るように―。時間をこのように把握するのはユニーク。このサイズにしては充分に初期目的を果たしているでしょう。これ、コレクションで上位に入る気がする。もちろん佳作です。
6 大杉 司さん 「年の瀬」
はい、これは前作よりもおもしろく読めました。前半はもう実感ですよね。「トイレまでも渋滞だ」が笑えますね。今日で一年が終わるというソワソワ感、ザワザワ感。そういった忙しなさの中にも、不思議と一年を振り返る感慨も入って来て。あの、えも言えない感覚が僕は好きですし、大杉さんもそうでしょう。この詩にもそれがあります。まさに詩の通り「今日は特別」です。後半「物騒な事件~」以降がやっぱりいいですね。自分の中に生まれる振り返りと期待ですね。具体的には終わりの3連部分でしょう。 ところが明けたら災害で始まってしまいました。
しかし、大杉さんが描写した時点では、正しい風景、正しい考えであったわけです。佳作を。
7 ベルさん 「始発電車」
恐縮ながら私事を。ある職種の関係で、4年間、始発電車に乗っていました(会う人が殆ど一緒 笑)。
この詩を読むと思い出と共感が沸き上がって来るんですよね。ホント、この通りですよ。
この詩はやっぱり4連ですよねー。失礼ながら書くと、3連までは―詩を書く人なら―だいたい書けちゃうんです。4連こそがベルさんのオリジナル!特に3~6行ですね。ここですよ。俯瞰的に観ると、けっこう姿も良く、内容も端正にまとめているのが理解されるのです。
早朝の風景が主で、始発電車は従に置かれていますが、タイトルを始発電車にした。これぞ、詩のタイトルのありようと思うわけです。佳作を。
アフターアワーズ。
「ちょっと得した気分の夜明け前」―詩行にありますが、これは全くもって事実です。
アドバンテージです。その分、夜は早く寝るんですがね。 21:00!
8 妻咲邦香さん 「手負いの夜に」
月は時にオレンジ色と化して、不気味さや悪い予感を感じたりすることがあります。
どっちにしろ、少し落ち着かない気分になります。そういった部分がこの詩。いつもと違う色を「手負い」と感じた夜です。そんな風に理解してます。どう落ち着かないのか?この詩に即して言えば「愛と憎」。その二律背反(アンビバレンツ)にあると考えます。主人公は月と相対で語りかける。そこには上記、異なり相反する感慨が含まれる。思想的な詩なんですが、3連では意外と情景が映像的に浮かんで来る。シーンと静まった森と月です。そんな中でも人物と月のせめぎ合いはたえず続いている。抒情的ながら、ある種、緊張関係にもある詩です。これは思想的正負において巧緻な作品でしょう。そこを見つめての佳作です。
評のおわりに。
新年の挨拶を逸しましたが、今年初めての評なので、「今年もよろしくお願い致します」
元旦からの災害。地震・飛行機事故。多難な年の予感を感じた人も多いでしょう。
そうならないことを祈るのみです。
地震で亡くなられたかた、心からお悔やみ申し上げます。
被災されたかた、心からお見舞い申し上げます。
阪神・淡路大震災のあった日も近い。
今の僕にできること―ささやかながら募金を、
自分が遭った時の為に―物資と文書の確認を。 では、また。
「インターセプター」
さあ みんな
もう戦争は“しまい”だ
さっさと片付けて
家(うち)へ帰るんだ
誰か一人くらい
待ってる人がいるだろう
何処へ落ちても
何処へ降りても
ここはおまえの邦(くに)なのさ
LONG WAY HOME?
いや 遠くない!
家路はすぐ隣じゃないか
何処へ落ちても
何処へ降りても
ここはおまえの故郷(ふるさと)さ
さっさと片付けて
ベッドと仲良く
女と仲良く
眠っちまうのがいいだろう
さあ みんな
もう戦争は“しまい”だ
寂しい寂しいと毎日呟いていると
黒い卵がころんと落ちた
夜はこんな小さな卵から生まれる
一人ぼっちの心は闇を纏い
その闇がこれ以上ないくらい
真っ黒になったとき
滑らかな漆黒の卵になる
卵はひんやりした場所が好きなので
私はいつも冷蔵庫に入れる
冷蔵庫の中で1週間もすると
卵の殻が溶け始める
夜が生まれる
そうっと夜が寂しくないように
両手でなるべく冷えた両手で包む
安心した夜は呼吸を始める
微かな微かな赤ちゃんの寝息のような
私は生まれたての夜を夜の窓辺に置く
夜が夜に溶けていく
昔は夜はなんだか寂しかったけど
今はこうやって私が育てた夜が
時々帰ってきて窓からそうっと入り
一緒に寝ていることがある
本当にそんな日があるので
私は最近夜が待ち遠しくて仕方ない
時間にはとても私的だが、
滾滾(こんこん)と湧き出るといふ心像を持ってゐる。
それはいつしかFractalと結びつき
時間はFractalの一事象といふことに固執してゐる。
古くは去来現(こらいげん)といふ今でいふ過去、未来、現在といふ言葉があり、
この言葉の通り、時間は過去と未来を現在といふところで
自在に往き来してゐる何とも不思議なものである。
例へば、現在に焦点を当てると
私の頭蓋内では絶えず過去と未来を往還してゐて
さうして現在を歩一歩と歩んでゐる。
何故に過去と未来の往還かといへば、
頭蓋内では絶えず考へ事をしてゐて、
その思考は過去の記憶を携へながら未来へと越境したり、
将又、単純に過去の延長線上に未来を設定したりと
それらのことを絶えず繰り返しながら、
現存在は現在をして未来に進む。
つまり、時間が存在することで、
意識は去来現を自在に行き来出来、
その進む方向はばらばらで、
時間の矢といふものは存在しない。
もっと具体例を挙げると
私から距離があるものは皆過去世の存在である。
距離を求めるのに時間項がある限り、
私から距離があるものは全て過去に存在してゐる。
すると現在は私、
正確を期せば私の皮膚が現在の居場所である。
そして、未来は私の内部といふことになる。
中原中也の有名な詩に「骨」といふ詩があるが、
内部が骨で終点ならば、
つまり、未来は有限といふことになる。
どんなに科学が進歩しようが、
内部といふ限られたものしか持たぬ存在には寿命があり、
それはどの時代でも変へられぬものであるに違ひない。
ところが、過去世にあるものが私のこれから行く目的地に変はると
過去であったものが未来へと豹変する。
つまり、過去と未来は薄氷ほどの違ひでしかなく、
日常、吾吾は過去と未来を絶えず豹変させながら、
それとは気付かずに自在なる時間を体験してゐる。
ここには時間の矢など何処にも存在しないのだ。
誰もが現在に留め置かれる孤独に気付いたものは
過去と未来を自在に往還しながら、
思索を深める外ない。
また、無限大は保留しておくとして
あらゆる数字は0乗すれば1に帰する。
私はこれを私だけの論理で回転と結び付け、
0乗は1回転すれば、元のところに帰り行く。
何故こんなことをいふかといへば、
Analogueの時計は文字盤の上を短針長針がぐるぐる回転して
時間といふものを表象してゐる。
これがどうも私には0乗と深く関係してゐると思ひ込ませ、
さうなると最早頭から離れないのだ。
時間は吾吾に与へられた自由の一つで
過去と未来を精精往還して愉しめばよい。
Time Machineは既に吾吾に備はったものである。
しかし、大河のやうな現実には押し潰されさうになるが、
固有時に生きる私は、
そんな現実と悪戦苦闘してゐるのもまた、事実であり、乙なものである。