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呑んだか
呑んだぞ
潰したか
潰したぞ
全部壊したか
全部壊したぞ
じゃあ あそこで舞っているのはなんだ
ありゃあ鳥だ
山から降りてきて
人の住処のあったところに来た鳥だ
いや ありゃあ人だ
人の住処のあったところの
今は汚泥の地面に舞っている人だ
ありゃあ怒ってるのか
悲しんでるのか
ありゃあ舞ってるんだ
滅びないぞと舞ってるんだ
甦るぞと舞ってるんだ
器用なもんだ
鳥そっくりだ
ありゃ風を起こすぞ
こっちを見とるぞ
ありゃあ地を揺らそうが壊せない
地を潰そうが帰ってくる
そうか滅びないのか
そうか甦るんだな
そうだな
生きてくんだな
一昨日私の頭の中に小さな池ができた
頭の中がちゃぷちゃぷ言うので
仕方なく病院に行った
お医者さんがCTを見ながら私に言う
そう時々使い込んだ脳には
空間が出来てそこに水が入って
池になることがあるんです
少し異常なことですが
2週間もすれば水が
体に自然吸収されて
また元の脳に戻ります
家に帰った私は
寂しがり屋の母を池に呼んだ
母は水辺が好きなので
喜んで来てくれた
小さな池はとても静かで
母の笑い声だけが響く
とても心地よくて
私は少し眠ることにした
夢の中で 小さな池は広がり
それは大きな池になり
川となって流れ出し
やがて海になって
私の寂しさも癒してくれた
水の流れに任せて
ゆったりと眠ってゆくと
その海に辿り着いた
昔々母と歩いた砂浜で
小さな母が微笑んでいる
小さな母の口が優しく動く
おかえりなさい
やっと帰ってきたね
そうここが私の愛する場所
生活を区切る水平線
破られた日常の境界線
汚れた影を飲み込んだ海
太陽の光で灰色に擦り替える
遠く見えるタンカーの群れは
止まっているようにみたいだけだ
それぞれの海から
運び出された物資を
非日常の先端へと
平等に届けられることなど
空想の域を出ない
現実感を見失わないように
僕は毎朝砂浜を走っていた
かつて実験都市として作られた交差点
今は先端に追い抜かされ寂れていた
立ち止まる訳にもいかず
信号を無視し続けていた
カモメ一羽いない砂浜で
カラス達が
波と共に押し寄せてくる
哀しみで光るガラスやら
コンクリートの破片やらで
圧力をかけて啼いていた
こちらではいつもと
変わらぬ波音に聞こえる
変わり果てた君の姿に
幼き頃書き留めておいた
面影を重ねた
ふるさとは場所ではない
決して戻ることのない時の流れ
打ち寄せる砂を
拾い集めて砂時計にした
毎朝カップスープを作るのに使っている
いつだって実用的だ
亡き母のように日常を作り上げている
道理で理不尽な悲劇に足をすくわれて
ハナレバナレになった
家族といふうつわを取り戻すために
毎朝祈りながらこの砂時計を使っている
とても貴重なご意見ありがとうございます。気持ちがぶれていたのだと思います。題名をつけた時にもう一度作品を読み返す必要がありました。この作品は更に煮込んで作り込んでみたいと思います。今年もどうぞよろしくお願い致します。
新たな年の幕開け
気持ち新たに
人生の路の歩みを止めることなく進むのみ
心がざわつく出来事に胸を締め付けられる
これ以上のことは起きないように願い
皆の無事を祈りつつ
自身の平常心を取り戻そう
自問自答の毎日なりに
少しでも力になれることを考えながら
また皆の笑顔に出逢いたい
輝く未来に想いを馳せて
離れた場所でも同じ空の下にいる
願いは届くはずだから
自分のために生きているお兄さんが、こう言いました。
「メジャーデビューしまーしゅ。頑張って夢叶えまーしゅ」
それを聞いていた、献身国民が言いました。
「めんどくせーけど、頑張って。応援しまーしゅ」
自分のために生きているお父さんが、こう言いました。
「長生きしまーしゅ。朝好きな時間に起きて、無理せずに過ごし、筋トレやって、体にいいもの食べまーしゅ」
それを聞いていた献身国民が、こう言いました。
「めんどくせーけど、頑張って。俺もう、付き合わされたくないから、出ていきまーしゅ」
テレビやラジオでは、自分のために歌っている歌手がこう歌います。
「おいらたちの長生きのために、若いみなさんも付き合いましょう。我慢我慢。辛抱と忍耐努力」
それを聞いていた献身国民は、言いました。
「それは、みんな辛いんじゃないかなあ?」
どこ行ってもなにやっても、みんな自分のために生きてる。
俺のためにやることなんか飯食って風呂入って寝ること、あと性欲処理だけだよ。
こうして献身国民は一生仕事にも恵まれず、社会にも組み込まれませんでした。おしまい。
評の方、ありがとうございます。題材自体が難しく感じ、自分には大きな課題だったかと思いましたが、褒めて頂き嬉しく思います。ありがとうございました。
それと、掲載、おめでとうございます。
評の方、ありがとうございました。
自分でも今回は投稿を迷いました。内容も迷いがあり、中途半端な感じになってしまいました。それでも雰囲気を褒めて頂き嬉しく思います。ありがとうございました。まだまだ未熟な自分ですが、よく考えて創作してゆきたいです。
大晦日の昼下がり
ボサボサ頭でコンビニへ
外は雨ふり肩すくめ
折れたビニール傘の骨
ワンカップの酒三本と
カップ麺の蕎麦一つ
チンするだけの餃子と軟骨
よれた財布でお会計
戻れば万年床に腰下ろし
テレビをつけて垂れ流し
パカっと開くワンカップ
半分呑んでため息か
来年こそはと繰り返し
いつものように年を越す
残りの酒を飲み干して
万年床に横になる
見上げた天井 雨の音
なんだか今年は寂しくて
雨のせいさと独り言
雨のせいさと独り言
いつしかうとうと夢の中
三十日(みそか)の夕暮れ雨模様
満月の夜には
死と出産が
いつもよりも多いといふ。
これは僅かばかりの地球の重力が変化するためなのか、
また、地震もまた、満月の近辺に起こり易いといふ。
海の生物の多くは、
珊瑚の産卵や魚たちの浜辺での放卵と射精で白く濁るといふ現象も
満月の出来事だ。
これは海の干満との関係が謂はれてゐるが、
それを考慮しても満月の時の僅かばかりの重力の変化が最大になることから
それらを誘発してゐるとも思はれる。
特に女性は月との関係が深い。
それ故、人はそれを月の神秘といふ言葉で片付けてゐるが、
神秘といふ言葉は因果律が不明といふことをいってゐるに過ぎない。
然し乍ら、神秘が神秘のままであることは
何とも私には居心地が悪く、
それ故に満月に起きる神秘の出来事を私は重力の変化に帰してゐる。
それで納得できるのか、と問はれれば、
まだまだ納得はできずとも、
神秘のVeilの一枚は剥がせるのではないかと看做してゐる。
死は厳粛なものである。
それ故に、脈拍が止まったときの
ピーといふ機械音は誠に間抜けなのだが、
それが死を告げる音ならば、
人間は死を喜劇にしようとしてゐるのかもしれない。
装置をして死するその瞬間を可視化したことは
何でも可視化する風潮の一つなのかもしれないが、
死の瞬間の可視化は滑稽でしかない。
私は死とピーといふ機械音のGapに今も戸惑ったままだ。
死するときぐらい静寂であってほしい。
看取りも人手不足を反映してなのか、
機械任せで、看護師がやってくるまでは
ピー音はしばらく鳴ったままで、
その後、しばらくしてから医師がやってきて
――ご臨終です。
と、遺されたものに告げる。
どう考えてもピー音は死には余計で、
死を機械が判定せずに看取りの中で、
医師がそのときに立ち合ってゐてほしい。
死の瞬間に立ち合ふ医師は設備が整った病院ほど
僅少に違ひない。
それを時代の流れといってしまへば
身も蓋もないが、
看取りの時に機械が介在する滑稽さは
如何ともし難い。
死は厳粛なものである。
看取りをしてゐれば誰もが解る通り
死に行くものは次第に体温が下がって冷たくなり、
さうして数分は生きてゐるが、
しかし、最期は一息吐いてから息を引き取る。
それは機械の介在がなくともいい筈で、
微塵の変化も見逃さないために
死に行くものへと装置をつけるのであらうが、
それがそもそも余計なのだ。
ピー音はけたたましく鳴り響くが、
それは大切な人を失った心を穿って
死んだものとの思ひ出さへも
ピー音が打ち消すのだ。
死すらも機械化してしまふ現代の看取りは
効率を追ひ求めた末の虚しさ倍増の装置でしかない。
それに比べて出産は
医師や産婆さんが直接赤子を取り上げるので
そちらは祝祭に満ちてゐる。
死と出産のこの落差こそ
効率が追ひ求めた末の結果なのだ。
一方はとことん機械化され、
記憶すら機械が殆どを占めてしまふ死、
もう一方は何人もの人人に見守られてこの世界に生まれ出る赤子、
この両様の違ひは
多分に、今以て死は穢れであると看做してゐる証左であり、
太古の人人にも悖る所業に思ふ。
その死と出産は満月の日に多いといはれてゐる。
赤銅色の昇ったばかりの満月を見詰めながら、
今の時代、生まれ出づる赤子よりも
死んだものの数がかなり多い筈で、
つまり、死を疎んだからこそ、
死の時代が訪れたといっていい。
自然はピカ一の皮肉屋なのである。