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三浦志郎様、「挨拶」について佳作をありがとうございました。
「皮膚感覚」、まさしくその通りの詩となりました。みたまま、感じるままを言葉にしたら、周りの詳細な状況を通り越して非常にシンプルな詩が出来上がりました。
こちらのサイトで評者の方の感想や批評に触れ、またその教えを採用させていただくたび、徐々に詩作がグレードアップされてゆくのを実感します。本当に感謝しております。
これからもなにとぞよろしくお願いいたします。
お世話になります。
「バラストの手」の評ありがとうございます。
説教臭くならないように。そこに重きをおきました。
実際には濾過する仕組みだとか、代替えできる仕組みだとか企業や研究団体が努力されていますので、それを踏まえると強い主張や批判など出来る立場にないので……知らない人を対象に詩的な表現でこういう問題があるのですと興味を持っていただけるよう目指して、と描きました。
「手」と「腕」で違うし
「泳ぐ」の表現が特に引っかかってしまうのですね。
考え直してみたいと思います。
ありがとうございました。また機会があった時はよろしくお願いします。
女の子の方からこんな手紙を書くなんて
きっと驚いてるよね
でもちゃんと考えたんだよ
あなたを想って泣いた夜もあったんだから
だから私から言います
あなたが好きです 大好きです
出来ることなら付き合いたいです
返事 いつまでも待ってます
教室のベランダで彼女の友達から
今読んでくれる?そう言われて渡された手紙
読み終えて教室に目をやると
西陽の入り込む教室に彼女が立っている
泣き出しそうな 少し微笑んでいる様な
複雑な顔で僕を見つめてる
僕は何も言わずに
西陽を背にして
両手で頭の上で大きな丸を作って笑った
彼女もそれを見て両手で丸を作り笑った
笑う頬の上で涙が西陽でキラキラ輝いてる
今彼女が僕の天使になった
お待たせいたしました。10/15~17ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。
●喜太郎さん「恋せよ乙MAN」
喜太郎さん、こんにちは。このタイトルは「いのち短し恋せよ乙女」のパロディですね。でも主人公の「僕」は男子学生で、「乙女」を「乙MAN」としているのがユニークです。
最初の2連は斜め前の席に座る「君」への「僕」の片想いが描かれます。「僕」は「君」と言葉を交わすこともなければ、正面から見つめることさえしません。斜め後ろから「チラ見」するだけという描写に、「僕」の切ない思いが伝わってきます。
3連では「君」のいた席が空席になっています。転校していったのでしょうか。「僕」は「君」のいなくなった寂しさを噛み締めている……と思うまもなく、終連ではその席に座った新しい転校生にときめいている姿が描かれます。
移り気な「僕」の淡い恋心を軽やかなタッチで描きながら、どことなく切ない読後感が残るのは、最後の一行「今を感じてる僕がいる」があるからではないかと思います。この一行から、タイトルでは言及されなかった「いのち短し」のフレーズが私の心には響いてきました。この詩は中高生くらいの若い語り手が設定されていますが、作者は大人になってから青春時代を振り返っているような印象を受けました。タイトルからも、若い世代へのエールのようにも読める作品だと思います。評価は佳作です。
●松本福広さん「バラストの手」
松本さん、こんにちは。船舶が世界中に持ち運ぶバラスト水によってローカルな生態系のバランスが崩されるという、シリアスな主題を扱った詩ですね。参考のリンクも勉強になりました。
この作品では船体から出入りするバラスト水を「手」あるいは「腕」と表現しています。こういう正論を主張する詩はベタに書いてしまうと説教臭くなってかえってインパクトを失ってしまうと思うのですが、この作品は環境問題を隠喩を用いて詩的に表現しているのが素晴らしいです。初連2行目の「油膜をはったようなマーブル柄の腕」という描写は、いかにも汚れていて不吉な感じがしますね。この「手」の比喩は全篇を通して出てきて統一感もあります。
一点だけ、冒頭の「海を泳ぐ船」という表現は再考した方が良いかと思いました。船を擬人化して「泳ぐ」と表現すること自体は良いと思うのですが、その後に「腕」や「手」が出てきますと、読者はこの船がそれらの「腕」や「手」を用いて泳いでいるイメージを持ってしまうのではないかと思います(私もはじめそう読んでしまいました)。けれども全体を読んでいくと、この詩の「腕」や「手」はバラスト水のこととされ、初連最終行にあるようにそれは移動中は使われないとされているので、イメージが混乱してしまいます。
作品全体としてはバラスト水としての「手」のイメージの方が中心にあると思いますので、そちらを活かすべきだと思いますが、そうすると初行の「海を泳ぐ船」は別の表現に変えたほうが良いかと思いました。ご一考ください。評価は「佳作半歩前」になります。
●佐々木礫さん「無理ゲーに黄昏る人に冷たい希望をくれる人」
佐々木さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
この詩は、一見人生の苦難に絶望している人々を励ましているように見えて、実は突き放している、そんな人々を風刺的に描いた作品であると受け止めました。語り手である「私」は社会的にある程度恵まれた特権的な境遇にある人間として描かれているように思います。そのような人々にとって、苦しい生活にあえぎ、絶望をあらわにしている人々は、目障りで居心地の悪い存在に映るのかもしれません。そこで彼らは「絶望しないでくれたまえ」と訴える。しかしそこにはそもそもその絶望を生じさせている社会の矛盾を改革していこうとか、助けの手を差し伸べよういう意思はまったく感じられません。まさにタイトルの示しているように、他人事のような「冷たい希望」ということができるでしょう。
社会問題を独自の切り口で描き出した良い詩だと思いました。またぜひ書いてみてください。
●森山 遼さん「かみなり様の夕べ」
森山さん、こんにちは。今回の作品は情景を掴むのに少々苦労しました。最初に一読した時は、外でかみなりが鳴っている中、その様子を窓から眺めているのかと思いましたが、どうもそうではなさそうです。涙が出そうになって目をぱちくりすると、かみなりのように光が明滅して見えるということですね。目に溜まった涙で外の街灯の光が反射でもしたのでしょうか。
つまり、実際にかみなりが光っている訳ではなくて、「僕」が窓辺で涙ぐみながら目をしばたたいているだけなのですね。そうすると3連の「かみなり様はまだやまない」は、そのような悲しみが続いていることを表現しているのだと思います。そして「僕」はその状況を諦念をもって受け入れ、「やむのを待つのは/もうあきらめよう」という気持ちになる。悲しみの心情をユニークな方法で表現しておられて素晴らしいと思いました。
この詩でよく分からなかったのは終連です。「かみなり様におへそを取られる」ということは最近では子どもにも言わなくなったのかもしれませんが、「かみなり」ではなく「かみなり様」という表現からは、やはり小さな子どもをイメージします。では作品中の語り手である「僕」は子どもとして設定されているかというと、終連の内容からすると、どうもそうではないようです。そこにまず違和感があります。
また、せっかく3連まで悲しみの感情をうまく伝えてきていたのに、終連ではそのような自分自身から急に距離を取った描き方になっています。一時の悲しみもやがては「いい思い出」になる。だからくよくよせずに「ゆったり暮ら」そう、ということかと思いました。そうすると「詩を書く自分を/思いながら」も、今感じている悲しみを詩に書けば、それを昇華することができる、ということになるでしょうか。
自分の中にあるネガティブな感情を詩に書くことで、それらの感情を乗り越えることができるというのは実際あると思います。これは森山さんのそういった実体験に基づいているのかもしれません。ただ個人的には、このような形でオチをつけてしまうと、3連までしっとり良い感じで悲しみを描いてきた流れにそぐわない気がします。3連で悲しみに身を委ねる諦念が描かれた直後に、終連でその悲しみが簡単に(と私には思えるのですが)解決されてしまい、そのギャップが不自然に感じてしまうのです。ですので私としては、この詩は終連で変にひねらずに、3連までの流れを受けるような形で終わらせた方が良いように思いました。終連も「かみなり様」に絡めた内容にするのも一案だと思います。もし終連を残すなら、3連と終連の間をつなぐ移行部を設けることも考えてみてください。
基本的な着想やイメージはとても良いと思います。終連だけ再考していただけると、素晴らしい詩になると思います。ご一考ください。評価は佳作一歩前です。
●荒木章太郎さん「知の檻と逃走線」
荒木さん、こんにちは。この詩は現代人の生きる状況、それも高度に洗練された管理社会に囚われている状況からいかに自由になるかをテーマとした作品と受け止めました。
現代の国家権力は「鉄の壁」のように分かりやすい暴力や強制によって人々を支配するのではなく、一見蜘蛛の巣のように頼りない「知の檻」によって、人々がすすんでその支配に身を委ねるように仕向けているのかもしれません。権力はまた、それが支配する多様な人々が一致協力することを妨げ、互いに争い合うように仕向けることによって、自らの支配を維持しているとも言えるでしょう。
そのような目に見えない束縛に対抗し、そこから逃れるために必要なのは、自分の頭で考え、多様な人々と協力することである――これがこの作品のメッセージと受け止めました。そしてそのような豊かな思想は、「カビの生えたような歴史」を繙くことによって発見できるのかもしれません。この詩のユニークなところは「身の丈(たけ)で思惟(しい)する」ことを「椎茸(しいたけ)」にひっかけて、そこから豊かなイメージの連鎖を紡ぎ出しているところです。
タイトルにもある「逃走線」はジル・ドゥルーズの概念を指しているのではないかと思います。フランス現代思想の香りがしますが、それを「すき焼き」という、庶民的な和のイメージに落とし込んでいるのが新鮮で面白かったです。また現代日本社会(日本だけではないかもしれませんが)の状況とも関連していろいろと考えさせられる良い詩だと思いました。評価は佳作です。
●温泉郷さん「詩の質量」
温泉郷さん、こんにちは。今回の作品は詩についての詩、いわゆる「メタ詩」ですが、物理的な「モノ」としての詩集について思考をめぐらした興味深い作品だと思いました。
紙の本は一度濡れてしまうと、ふやけてしまって二度と原形には戻りません。豪雨で濡れて紙面が波立ちくすんでしまった詩集を中心にこの詩は展開していきます。この詩で描かれているストーリーは以下のように要約できると思います。
1)語り手は持っていた詩集を雨で濡らしてしまう。
2)汚れてしまった詩集を読んでみても、言葉まで変質したようでうまく心に入ってこない。
3)新しい詩集を買うと言葉がすっと心に入ってくる。
4)汚れた本の詩の言葉が質量を備えたことを知り、もう一度そちらを繰り返し読んでみると、ようやく詩の言葉が飛び立った。
このようなストーリー展開を経て、終連の結論に至るわけですが、この流れで考えると、この詩で言われている、雨で汚れたことによって言葉に付与された「質量」は否定的に捉えられていると思ったのですが、この解釈で合っていますでしょうか。語り手は、汚されて質量を与えられてしまった詩であっても、純粋にその言葉に集中して読んでいくならば、そのような「質量」から解放されて味わうことができるようになった、と言っているように思えました。
ここからはごく個人的な感想になります。私はネット上で詩を読み書きしてはいますが、モノとしての詩集にも大きな愛着を持っています。雨で濡れたりと言ったアクシデントに見舞われなかったとしても、長く所蔵していたり古書として入手したりした詩集は、紙も古びてそれなりの物理的状態になっていきます。でも私は、そのような本のヒストリーも含めて詩の味わいというのはあるのではないか、と考えています。そういう意味で、私としてはこの詩で言われている詩の「質量」は、もう少し肯定的に見てみたい気もしています。
上記の点、温泉郷さんとは見解が異なるかもしれませんので、スルーしていただいてまったく構いませんが、いずれにしても、詩の言葉と物理的な本の関係についていろいろなことを考えさせてくれる、とても興味深い詩でした。評価は佳作です。
●愛繕夢久さん「風鈴」
愛繕さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
季節外れの風鈴の音というのは、想像するだけで何か物悲しい風情が漂いますね。この詩は最初は近所迷惑にしか思っていなかった風鈴の音から、アパートの隣人の死について知らされるという意外な展開になります。最終行の「爺さん、あんまり鳴らすなよ」は、一見ぞんざいな物言いの中に、亡くなった「爺さん」に対する語り手の温かい思いがにじみ出ていて良かったです。
とても味わい深い詩をありがとうございました。またぜひ書いてみてください。
*
以上、7篇でした。今回もありがとうございます。異常に長かった夏もようやく終わり、朝夕はぐっと気温が下がってきていますが、皆さまどうぞご自愛ください。
島 秀生様 遅くなって、申し訳ございません。評をいただきまして、ありがとうございました。また、秀作の評価をいただき、うれしく思っております。この作品は、実在する店をモデルにしておりますが、正直、取り柄のない店でして、味はイマイチ、値段もそれほど安くなく、アットホームでもないという三重苦で、入ったことに後悔しきりといった感じだったんです。それなのに、悪びれず営業をしているので、よく生き残れてるなあと感心して見ているうちに、何か特殊な魔法でも使っているのではと、半ば妄想が湧いて作品化してみました。かなり中途半端になってしまいました。そこで、いただいたアイデアを使わせてもらい、いくつかのバージョンに書き直して見ております。近く、取材のためにまた食べてきます(笑)。
評価をありがとうございます。
三浦先生もラジオを聴かれているのですね。
拝聴しながら、身近に思えたり、リスナーさんのメッセージに心打たれたりして、楽しいですよね。
始発電車に乗車の経験があるのですね。
確かに、乗る場所や、顔を合わせるメンバーは同じで、最近は会釈しています。
人それぞれ目的地までの時間を過ごしているので詩にしてみようと思いましたが、詩
として、まだまだですね。
あと、埼玉県の電車の路線が36あったのには驚きました。
調べていただきありがとうございます。
次回も評価をお願い致します。
長々と失礼しました。
九十二歳で他界した父が
長い間日記をつけていたのを 知っていたので
私はそれを読んでみた
若い頃から何十年も欠かさずに
毎晩机に向かう姿を見ていたのだが
残されていたのは五年日記二冊のみ
父が七十歳から八十歳までで その後は無かった
八十七歳でアルツハイマー型認知症と診断されたが
その数年前から日記が書けなくなっていたのだろうか
その日にあったことが思い出せなくなっていたのかも知れない
父の日記は
農作業の内容 外出先 買った物 来客
家族の動向 贈答品のあれこれ
ごく普通のありふれた日常で
事実のみを記し 感情は一切書かれていない
達筆ではないし、度々誤字もあったが
内容を読み取るには困らなかった
日々の記録は
父がいかに 家族 友人 隣人のために
時間と手間を惜しまずに働いたかを表していた
妻の通院や外出の送迎 時には孫を学校に送り
親戚の病気見舞い 自治会の仕事 老人会の行事
すべて父は自分で車を運転して行く
手ずからとろろ汁を作ると
妻の姪に鍋ごと届けることもあった
お寺に嫁ぎ障害を持った子を育てている姪が
忙しいだろうと察するからだ
ただひたすらに野良に生き
名も地位も求めず
日々の暮らしを丁寧に紡いだ父は
人のために
自分の時間と労力を使う事こそが
愛なのだということを
日記で教えてくれた
こんにちは。上田です。
ひとり旅の詩はいつか書きたいと思いながら思ったようなものが表現できずにいました。作品を北陸トンネルを越え、福井県に入った頃から芦原までの間に限定して、旅で一番印象に残った風景を切り取りました。佳作を頂戴できたのですから目論見は成功ですね。ありがとうございました。
また、旅の詩を書きたいと思いますのでお読み下さるようお願い致します。
読んで頂きありがとうございます。
私は書いたものが面白いと言われるのが、とても嬉しいです。
「他山の石」の部分は、私もどうかなと思ったのですが、息子の文章では傷ついた事と、間違っているのは揶揄う方だという事、自分はそういう人間にならないという決意だったのをまとめてしまいました。
その後、中学生になった息子は友人から「枕草子」の作者の子孫かと問われたとか。大人でも時々、そういう質問をする方が居ますが、少納言に子供は居なかったのではないかと思うし、清原が姓なので違いますが、たどっていけば、どこかで繋がっているかも知れません。
長い間、使ってきて、人から呼ばれていると、自分の姓に愛着が湧きますし、旧姓も懐かしく、結婚によって姓を変えた人にはそれぞれの思いがあるようです。どちらも大切にしていきたいと思います。