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ありがとうございます。とても嬉しいです。
最近、詩をどうつくったらいいか、わからなくなっていました。
ちょっと、トンネルから抜け出た感じです。
これからも、よろしくお願いいたします。
今回も私の詩にお目を通していただき、誠にありがとうございます。佳作
との評をくださり、とても励みになります。
「細やかに、思いを込めて綴られている」と仰っていただき、嬉しく
存じます。
今後とも、どうかよろしくお願い致します。
1 津田古星さん 「姓」 10/18
姓というのは奥深く話題の尽きないもので、面白いモチーフです。目のつけどころがいいですね。
それがひとつ。次に自分という具体性を挙げて、そこから詩世界を広げてゆく。まず初連は興味深いという意味で面白いのです。
どちらも両極端ながら、すんなりと読んでもらえないという点で一致する。2連はお子さんを交えたエピソード。しっかりしたお子さんで実に頼もしい。軽く指摘すると「他山の石」です。ここは実際お子さんが言ったと取れなくもない。小学生はまだ言わないでしょう。気にする人は気にするかもしれない。念の為「世間でいう いわゆる”他山の石“の感覚で」みたいにするか、あるいは、
ここだけお子さんの生なセリフ調で「 」で表現しても、変化がついて面白いかも?僕は割と使ったりします。軽い参考程度に。
そして深いのはやはり3連。4行目までは名前の持つ両面性が語られ、5行目から9行目はひとひねりある考え方で、はっとさせられます。なぜならば、僕もそういう人間だからです。誰もが行き当たるテーマであり、それを実体験と思考で立体的に仕上げています。これは間違いなく佳作。どうぞ、両方の姓を大事にして頂きたいと思います。誇りと感謝と責任を。両方の姓を聞きたい気がしますが、それはこらえておきます(笑)。
2 上田一眞さん 「ひとり旅」 10/19
またまた地図を観ながら楽しみました。福井と石川の県境を越えたのですね。途中、大聖寺がありました。小松。歴史と工業と空港の街ですね。詩の読みどころはやはり北陸の風景描写にありそうです。荒涼たる烈風、単色で粗削りな風景。それだけに鋭く磨かれる。「日本なのだろうか」は頷ける気もします。幼い頃から聞いていた満州あたりをイメージしたのかもしれません。「時をとり崩すこころの砂時計」―どこか風景に見合った詩情があります。「この地に生を得ていたなら/どんな人生を歩むのだろう」―ここですけど、旅人はけっこうそう思うものですが、この風景の中では、よけい響くものがありますねえ。父上の企図が面白いです。「可愛い子には旅~」だったのでしょう。この詩の真価は風景の屹立と終わりを飾った詩の優しさ、その際立った対照の中にありそうです。
佳作を。
アフターアワーズ。
上田さんに触発されて私事を。僕が初めてひとり旅をしたのは高校1年の時でした。
関ケ原~長浜~佐和山~彦根に行きました。お寺に泊まったことがありました(もちろん予約して)。夕食前に住職さんの長い法話があって、まいった、まいった。ところが食事はめっぽう旨かったのは今でも憶えています。
3 秋乃 夕陽さん 「挨拶」 10/19
コンパクトさに応じて、情景や主題を絞り込んでいるのがいいです。詩とはそういったものでしょう。
逆に素材を絞って書いたら、結果としてこのサイズになった感じでしょうか。そこには「何も足さない、何も引かない」そんな感覚がありそうで、凄く良いと思います。JUSTのフィーリングです。
そういったフレーム以上に良いのはその中身です。1連、2連は何も言う事がありません。割とありがち、誰もが体験しやすい事態を美しい詩情に置き換えている、翻訳している。1連の2、3行目の書き方、2連の視覚に加えての皮膚感覚が代表になるでしょう。大変失礼ながら過去作では(詩情不足?)の感が散見されましたが、前作くらいから、プラスα的な詩情が加わって、良い方向に向かっています。この調子で、それをキープしてください。あと、タイトルを「朝の~」とか「光~」等にせず「挨拶」。これもセンス、これも詩性。佳作です。
4 埼玉のさっちゃんさん 「20分間の自由時間」 10/19
始発ですか。大変ですね。この詩も一定時間、一定位置を掘り下げた形を取っています。場面の切り取り映像を感じます。不特定多数がいろいろな所作をするわけです。それを眺めてさっちゃんさん、ラジオを聴きながら人々を観察する。そうしながら普遍を思い、自分を思っています。自由時間、準備体操といった捉え方は面白いです。そう、ラジオって意外と面白いんです。音楽と話が聴ける。映像がない分、本を読んでるのに似ている。僕も割と聴きます。人それぞれ乗車時間は違う中にあって、さっちゃんさんは20分乗るといった意味のタイトルでしょう。ただ前半に「各々で/20分間」とあるので、ここはちょっと不思議に思うのですが―。ここは少し換えたほうがいいかもしれないです。あと、もう少し詩情的な表現は欲しいですね。佳作一歩前で。
アフターアワーズ。
僕も始発は4年間ほど乗ったことがあります。あれは面白いもので、習慣的に乗る位置が決まっているので、大体、いつも知った顔がいますね。他の人もそう思ってたでしょうね(笑)。調べると、埼玉県内を走る路線は全部で36路線あるそうです。
5 詩詠犬さん 「あさひ」 10/20
あさひを主人公にしているのがいいです。一種の擬人化の効果が利いています。初連2行目で、早くもこの詩の方向性が決定づけられた心地がします。あさひの”態度や行動“も細かく丁寧に書き込まれていますね。そこから詩情が醸し出されています。かもくでありながらあさひは輝きうたっている。このあたりが詩情の在り処です。このアプローチの仕方には魅かれるものがあります。あさひが主人公である一方で、この詩には常に「わたし」の存在が消えることなく持続されます。その相互関係がいいのです。それを証明するような終わり2行です。秋乃さん同様、詩詠犬さんも、この1作により、何かふっ切れたような印象を持ちました。このフィーリングを維持してください。これは佳作です。
6 静間安夫さん 「ターミナル」 10/20
先ずはイントロとしてのターミナルでの人間群像です。会話で始まっているのが目を惹きます。
そして、おもむろに入る語り。物を語る上での順当にして効果的かつ印象的な手法が用いられています。これに近い事件があったのでしょうね。よほど小柄な老女でしょうね。彼女が発見されるまでの語りの手順がよくわかります。「遺体を基に~」以降がこの詩のクライマックスです。遺体への静間さんの思いと遺体自身の願いが交錯し、悲しみのトーンの中でも感動があります。「早く引き取り手の許に還してあげたい」そのことが実に細やかに、思いを込めて綴られています。
終連は、ただ涙、涙……。意義深いと同時に静間さんの優しさが発想させた名句と言えるでしょう。会話に始まり会話に終わるのもなかなかの発想、構成です。佳作になります。
7 じじいじじいさん 「キレイって?」 10/20
はい、今回もいいと思います。本作は創作と思われますが、恐ろしくパターン化して書いてしまうと。
〇 いじめられそうな子がいじめられず友だち良好
〇 いじめられそうにない子が逆になかまはずれ
これがポイントになりそうです。
多分、前者は「デブ」を素直に受け入れ気さくなのでしょう。あくまで明るく誰とでも打ち解ける。
一方、後者はキレイを自慢しお高くとまっていると思われているのでしょう。
この提示は人間の受け入れ方において、明らかに姿形ではなく気持ちのことを表しています。
そして、この場合、どちらが好まれるかはおのずと明らかです。この詩はその事を言っています。
やや”つくり感“はありますが、現実にありそうなのも事実です。ママの気づかせ方も柔らかくていいものですね。僕はこのふとった女の子が好きになりましたよ。
ところで、詩行が異様に長いところがあります。これ、キリのいいところで二つ折りにしてください。
詩は小説と違い見た目、スタイルも大事です。―と僕は思っています。佳作半歩前で。
アフターアワーズ。
僕の場合ですが、WORDで横書きで書いて、縦書変換して必ずスタイルをチャックします。
本末転倒気味ですが、スタイルが良くないと詩行を変えることもあります。スタイルを見るには縦書の方がいい気がします。
8 ベルさん 「似顔絵」 10/21
これは“あまり、それとは気づかせないように書かれた”恋愛詩という気がしてます。
なぜならば、詩中、常に「僕⇔君」が関わって、その気持ちは「遠回りでも」恋愛付近を描いているように思えるからです。ただ、中盤、二人の状態―うまくいっているのか、それとも分かれる直前なのかーが今ひとつ見えてこないところがあります。おそらく終連が最もクライマックスで言いたいところであり、二人の消息も見えやすい部分でしょうか。
「未来/もう一度僕らが/顔を合わせる機会が訪れたなら」―ここがキーワードだと思う。
この「なら」という仮定から逆算して現在を考えると「現在=別れ」になります。そこで僕は次のように想像しました。
現在の(たとえば)20代。だが、ゆえあって別々に生きた。60~70代になって、もしもふと出会った時、もう好き・嫌いや愛や憎しみなどを超越して時間の長さ・重さだけがある。そういったものを、ベルさんは「顔のしわ一本いっぽん」やその時の「似顔絵」に託したのではないか。この詩の全体像を把握し味わう上で、中盤―4連、5連の表現の仕方がわずかに足を引っ張っているように思えたのです。佳作一歩前で。
9 桜塚ひささん 「野朝顔」 10/21 初めてのかたなので今回は感想のみ書きます。
よろしくお願いします。野朝顔を、一日を費やして眼で見て細かく観察し飽きることがない。そんな眼差しが伝わってくる作品です。この花の特色はほぼ漏れなく表されている気がします。強さ、大きさ、長さ、生命力などですね。「詩図鑑」といった趣きありです。そんな中にあって「人間の無限の欲望」「森はまるで青い滝」「心の弱い人に生きる力をくれる」「起床ラッパ~消灯ラッパ」などが光ります。とりわけ「花の本当の心だ」あたりが結論でしょう。詩はしだいに優しくなって終連を迎えています。穏やかに終わります。また書いてみてください。
評のおわりに。
〇 Kazu.さんの新聞記事を拝読しました。文中「やれるなら、またやりたい」とありました。
この事は大台の10冊目詩集にあたるでしょう。僕はそれを期待しています。
「あせらず、ゆっくりと」の言葉も添えながら―。
〇 日米、選挙、野球、今回共に興味深し。
僕は野球がよくわからないんですが、昨日たまたま見ていたら、DeNAのジャクソンという投手。
ふてぶてしいほどの髭と長髪の束ね方、一発で好きになりました(なんのこっちゃ!?)
では、また。
一般的に成人の剣道の試合時間は5分
制限時間内に面、小手、胴、突きの有効打突を制限時間内に狙う
有効打突の条件は三つある
第一に竹刀の先端部三分の一が相手に当たらないといけない
技としての完成
打ち込む際には明瞭な発声の必要がある
気迫……心を表現する
そして相手に反撃できないような居に移動して構えること
残心を行う……体さばきと仕合に対する姿勢の部分……心と体の完成
心技体の完成・体現・一致を示さなければ一本はとれない
相手との一本の取り合いにおいて様々な駆け引きがされる
剣先、手首の振り、肩の揺れ、面の向こうの目の動き、袴に隠れた足さばき
見えやすいもの、見えにくいもの様々な部分にフェイントをいれあう
時に鍔迫り合いにて気迫をぶつけあう
それが試合に見える部分
試合前より重ねるべきことはある
初心者やフィクションに書かれがちな大げさな振りは
動きが見えやすく隙も大きい
振りを小さくする
技の起こりを小さくする
足のばねを活かす
これが面を早くするコツとされている
そのためには反復練習、動きの確認、修正、地道な体作りが必要となる
その努力を積み重ねて
一本をとっていく
逆も然り
時に数秒で一本を相手にとられる
数秒で努力が水泡に帰す
命の取り合いがある
島 秀生様、「暗転」 に対して「秀作」をありがとうございました。
初連は普通に布団の上で俯きながら枕に頬杖ついたら、胸部より上は浮く状態となるので、特に変更はないかと思います。
二連目は幸せに芝居(オペラ)を観ているシーンでたまたまセットがヨーロッパの街中の風景を模しただけのものであって、島様のご指摘通り、その幸せな情景と三連目からの悲惨な情景との比較をしたかったのです。
三連七行目からは「NHKスペシャル “正義”はどこに~ガザ攻撃1年 先鋭化するイスラエル~」でイスラエル兵士がパレスチナの民間人に銃をぶっ放して(銃声と土煙があがり)追い出している(それを薄ら笑いしながら見ているイスラエル入植者の)映像を観たので、夢に出てきた出来事として描きました。
もちろん、その報道が真実であるかどうかは更なる検討が必要かと思いますが、フェイクとは思えないほど生々しく真に迫っていたため、この描写は迷うことなく入れました。
今後とも詩に関してさらに切磋琢磨してゆく所存でございますので、なにとぞよろしくお願いします。
こんばんは。上田です。
部分的であっても、他者の詩を借りることはなかなか難しいものだと改めて思いました。確かに島さんが書かれてるようにひとりぼっちの歌ではありません。
ただ母を亡くしたことの孤独をうたったものですから流用いたしました。
岬でずぶ濡れになった背景には、継母との軋轢がありました。母を亡くした悲しみの裏にもう一つのファクターがあるということです。この当たりは今回投稿した「般若の微笑み」で書いた次第です。短い詩のなかで自分の人生を顧みる試みをしているのですが、短い詩でも完結性を考えなくてはなりませんから難しいです。また、ご指摘、ご指導を頂戴できましたらありがたいです。
明日は投票日ですので、皆さん、民意を反映させに行きましょう。
ちなみに、20時からは開票速報になるので、大河ドラマは繰り上げで19:10からの放送になります。
(なんで宣伝してんねん)
ところで、ひと昔前は、候補者がよく有権者に向かって「皆さんの清き一票を」なんて言っていましたが、
今回は「アンタこそ、清くなれよ」と、言い返してやりたい選挙であります。
●温泉郷さん「千客万来軒」
ディスプレイやテーブルなどの粗末で古い感じ、また、飲食店が並ぶ中でそこだけ入る人が少ないという感じの店については、私の中でヒットするものがあり、夫婦だけでやってるような古いお店を想像するのですが、
こうしたお店には得てしてアットホームな良さがあるものなので、それを想定して読むと、「何もやる気がしない」の詩行も、アットホームにくつろぎすぎたから、やる気がしないと解釈でき、そこの意もちょうど括れてしまうのですが、
どっこい、「アットホーム」で括れないのが、この詩行で、
黙って 放心したように
ゆっくりと
何かを食べていた
このフレーズがしかも二度、繰り返されます。意図的です。
ここがちょっと謎なんですよね。
アットホームな食べ物を懐かしんだり、喜んだりしてる様子ではないんです。悪い意味に取るなら、オーダーした食べ物が、オーダーした形を成してなくて、あっけに取られながら、あまりうまいとは思えないものをがまんして食べている図と、受け取れないこともないことはないのですが、
表現方法として、現状そちらの意には受け取りがたくあり、むしろ何か魔力のあるものでも食べさせられているような感じで、朦朧としてると読めます。もしや、あと脱力するのも、魔力の故かもしれません。
また、となると、この店の存在自体が不可思議なもの、幻の店のようにも思われてくるのです。
そうした展開もアリはアリなのですが、この詩はそちらに読むようには用意されてないと思える。そう読むには、他の部分があまりに古いお店にありがちなもので、包まれすぎているので、このフレーズの異質感だけが突出して感じるものでした。
良い意味で不思議さが加わってる、というよりは、私は突出感の方が気になりました。
とりわけは、
入ってもいいよ
入らなくてもいいよ
や
どうしても
すりガラスの隙間から
店の中を覗いてしまう
の、どっちでもいいよの中途半端スタンスが取れてしまうところが、魔力的スタンス(引き込んで離さない)とは相反してると感じられてならない。
わざと一点、謎を作るというのはアリなんですが、この詩においてはそれが仕掛けと合ってなくて、プラスでなくマイナスに働いてる感がします。たぶん、この詩はマッスグに書いてもらった方が良くなると思います。
・店に清潔感がないし、料理の盛り付けもパッとしないが、食べるとうまい
・あまりうまいとはいえないが、店のおじさん・おばさんを見てるとなごむ。あるいは店の雰囲気がなごむ。
・うまいとは言えないのだが、昔の味がして、郷愁がわく。
・あまりのまずさがクセになる???
なんとなく、このへんのどれかに落として欲しかった気がしました。
それにしても、中華料理屋って、そんなにハズレはないもんなんですが、その店はハズレなのかしら?? 珍しいですね。もうコックがいなくなってるのでは?
それにしても「千客万来軒」とは皮肉な名前ですね(…先客おらん軒やな)
秀作にとどめますが、まだ良くなる要素をもった作品です。
●相野零次さん「しあわせ」
うーーん、言ってることは賛同しかないんですけどね。
こういう命題はついつい説教がましいものになりがちなので、説教がましくならないようにする、というのがポイントです。
その意味で、3~5連についての言葉はもうちょっと集約したい。
最後の2連についても集約するか、終連を削除するか、した方がいいと思える。
論述部分が続いてしつこくなると、説教がましくなるので、なるべく話のポイントを押さえて、控えめにするのが肝要です。
そして、2連のような具体アイテムがある連が、後半にもぜひ欲しい。
そういうものも交えつつ語ると、説教がましさを回避できます。また、そうした方が説得力も増すのです。(逆説的なんですが、実際そうなんです)
あるいは、もしも自身の経験的なものがあるなら、例として自身のことも語りつつ、自身の恥もさらしつつ、そこから論述にもっていくと、説得力が出ます。
くれぐれも、ただ論だけを置かないことです。自分にとってはプロセスを経て得た重要な結果であっても、他者の目からは、ただ論だけ突きつけられるというのは、空虚なものに見えたりしますので。
この詩、言ってることは良いこと言ってられるんですが、以上の意味合いにおいて詩後半の工夫が足りないと思える。半歩前とします。
●秋乃 夕陽さん「暗転」
蒲団の上で、夢を見てるような、夢ではないような感じで、リアルの世界の問題を描くというストーリーはいいと思います。全体構成はできています。
ただ、ちょっとディティールの部分で引っ掛かる部分はあります。
3連はヨルダン川西岸の話に思う。
国連の決め事を破って、イスラエルが入植地をどんどん広げている。その入植者に軍も協力していて、パレスチナの住民を銃で追い出したり、無実なのにあらぬ罪をきせて、しょっ引いたりしている。あきらかに軍が加担して、入植地を広げている。ガザで攻撃してるのと同じマインドでもって、パレスチナ人を人間扱いしていない。犯罪者に対するがごとくに、銃を向け、パレスチナ住民を追い出していっている。家をつぶして、イスラエルの居住区に変えていっている。もはや何をしてもいい相手だと思ってる。国連もその行為を非難しているが、イスラエルは意に介しない。
ただ、ヨルダン川西岸の場合、空爆したり、砲を打ち込んだりまでは基本していないし、何かあればすぐ撃つぞ、の姿勢ではあるが、最初から住民に対し手当たり次第に銃を撃って回ってるわけではないので、そのへんの情景は、ガザと混ざり込んでいると思える。
まあ、夢なんだから混ざり込んでもいいだろうとも言えるが、風刺性を保ちたいなら、混ぜない方がいい。
2連は、3連に対する陰と陽だと思えるので、にぎやかで晴れやかな様子が描かれて、ポジションとしてはそれでいいのだが、「ヨーロッパの街中」のセットの意がわからない。ガザにしても、ウクライナにしても、ヨーロッパではないので、どういう意図でヨーロッパを持ってきてるのか、(作者的になにか意図があったとしても)読者サイドとしてはまずわからない。わかることは困難。
対照性ということであれば、ガザやウクライナの平和な時代を描いた方が、対照性としてはわかりやすい。そこが描きにくければ、無国籍的にしておいた方がまだ良い。
いずれにせよ、「ヨーロッパの街中を再現したセット」の語はない方がよいと思います。
あと、終連の、
枕を土台にして俯き加減に頬杖をついていた
はOKなんだけど、
初連2行目の、
布団の上で俯きながら枕に頬杖ついて上半身浮かせ
これはちょっと頂けない。これを全部満たそうと思ったら、かなりアクロバット的なことになる。
まず「上半身」といっても、上半身のさらに上半分くらいしか浮いてないはずだから、「上半身浮かせ」の言葉で表現しない方がいい。
また、頬杖をついた時点で斜めになるので、「俯き加減」は良くても、「俯きながら」は方向が45度くらい違ったものを並べてることになる。この2行目はえらく難解なことになっている。
蒲団の上に突っ伏して 枕に頬杖をついている
ここは、これくらいでいいと思います。分けることで、動作を順に追わせることもできます。
また、詩の出だしというのは、スルスルスルっと滑らかに読みが入れるのが良く、出だしから蹴躓かせない方がいいのです。そこで止まらずに、早く先を読ませたいのだから。
なので、こういう捏ねた詩行を、迂闊に出だし置くのは禁物です。
まあ、しかしたくさん書いてくれているので、そこが良しで、いくつか引っ掛かった部分があったとしても、傷は相対的に軽微となります。
あらかたは良し。秀作を。
●上田一眞さん「岬にて」
この詩は、先の、お母さんが不運な事故死をされた詩の続き、というポジションで読ませてもらいました。あの詩を踏まえて、この詩を読むべきところがあるので、連作または連作的ポジションの詩、とするのが良いでしょうね。
逆な言い方すると、あの詩を踏まえない場合には、単独では意図がわかりにくい部分があり、また誤読懸念もあり、評価は少し下がることになるでしょう。
特に、
無言の雨に峻拒され
ずぶ濡れになりながら 岬にて
滴る雨を 振り払う
のシーンは、事故後、間もない時のことであろうと読むと、心が切られるように痛むものであります。関連が欠かせないシーンでありましょう。
いちおう、「時には母のない子のように」の曲を出してること自体に、この曲が流行った時代ということで、その時期を示唆してくれてるとこはあるのですが、いまいち不足気味であり、個人詩集を出す時などには、先の詩の次に位置するのが、関係性を明確にできていいと思います。
あと、表現でステキだったのは、
砂に残った一筋の足跡が雨に濡れる
雨音はない
と
雨粒が次第に重くなり
砂地に 深く突き刺さる
の2ヵ所で、砂浜に降る雨の特徴を捉えていて、観察力が秀逸です。
うむ、いちおう、先の詩からの連作と読ませてもらったという評価で、名作を。
母の突然の事故死の悲しみにくれる、少年のやるせない気持ちが伝わってくる詩でした。
ところで、この曲は、歌手の風貌や、マイナーコードが続く曲のメロディもあって、一人ぼっちを歌った曲と見なされることとなり、それが当時の若者の孤独感に共感を呼ぶところとなりましたが、
歌詞だけを読むと、「時には母のない子のように」なので、この主人公には実際には母がおり、その中で放浪の旅に出たいような、敢えて孤独な存在になりたいような、揺れ動く若者の心情を描いてる詩と読むのが妥当でしょう。
決して現実において、ひとりぼっちである人の歌ではないので、詩を書いた本人からすれば、たぶん意図しない方向に世間の受けとめが行ってしまった曲なんだろうと想像します。
いつ頃からだろう
週末に一度
お昼をともにするようになった
実家の暗い応接間で
継母と向き合いお弁当をいただく
喋ったことを
ものの十分も経たぬうちに忘れてしまうほど
耄碌した老女だが
昔の記憶だけは
頭のなかで妖しく蠢いている
今年の十二月で 齢九十四に達する
愛憎ないまぜの五十五年間
修羅の道を歩んだわれらの葛藤を顧みて
思わず溜め息が漏れる
この部屋暗いね と囁き
雨戸を開けた
ほどなく淡い光と
優しい香りの金木犀にふわりと包まれる
お庭いじりが好きな
亡くなったお父さんが隅っこに植えたのよ
金木犀 いい香りでしょ
お父さんはいい人だったけど
お人好しの見栄っ張りでね
あなたが高校生のとき
株屋に唆されて信用取引に嵌り
すってんてんになったのよ
私しゃ悔しゅうて株屋に怒鳴り込んだ
でも後の祭り
一緒になった次の年よ
あなたは懐いてくれないし
みいちゃんは泣いてばかり *1
ほんとに困り果てた
人生の終焉を迎え
永の草鞋を脱ごうとしている継母
心のなか
哀しみや痛みは枯れ
どこかサバサバした感じがする
ふと
過ぎた時に流されていた恩讐が
むくむくと蘇った
罵声を浴びせられ
湯呑み茶碗を投げつけられて
家を飛び出し
傘もなく ずぶ濡れになった日
涙が止まらなかった
異郷の岬 渚をひとり彷徨い
実母の横死と
父の再婚という
予期せぬ運命を呪った
忘れることでしか解決方法のない
苦い思い出が
いくつも
走馬灯のように脳裏を巡る
この人を
愛することは死ぬまでないだろう
たが
この終の棲家で
永遠(とわ)の黄泉路に旅立つまで
静かに見守ってやろう
それが人としてなすべき道ではないか
父の植えた金木犀が
継母と私の身を
優しく包む
見詰めると
恍惚のなかにかけ戻り ほどなく微笑んだ
それは
老いた般若の笑みに違いなかった
*1 みいちゃん 一眞の妹
万華鏡を覗けば
あなたが見える
まわすたび
形を変えて
たくさんのあなたが現れる
優しいあなた
前向きなあなた
機嫌の悪いあなた
その中にひとつふたつ
苦手な模様が混ざっていると
あなたを嫌いになりそうになるけれど
それだけで
あなたを嫌ってよいものか
それだけで
人を嫌ってよいものか
万華鏡をもういちど
回してみれば
迷彩の影に隠れ
欲望の光に晒されて
愛を貪っていた時代には見通せなかった
戦線を離脱してようやく分かる
分かち合えない赤い唇から
発せられる愛のことばは
軽やかに跳ね返り穏やかに険しさを包む
嫉妬や憧憬に侵されていた身体から
解放された目と耳だけで味わう
君の全てを
(人間が考える愛の形なんて、たかが知れている)
俺の愛は
ぎこちない光となり
屈折して君に届き
周りの時空をひん曲げた
君の愛は
よどみなく
公正で鋭い光を放ち
俺の背中を貫いてくる
清流と泥川
秩序と混沌
ぶつかり合い
砕けて散った
光の粒は
星なのか
蛍なのか
埃なのか
ただ輝いているだけの光に
意味を押し付けて
君との距離を測る
愛の形が違うだけで
神様の名を借りて
人は争うのだから
本当はそんな小さなものではないのだろう
神様が言っている愛とは
性別も正義も悪も越え
聖者さえも超えている
俺にはよく分からないが