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🔶お知らせ・・ロケット掲示板とRara掲示板は同時運営しております

このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
Rara掲示板『大好き大川橋蔵ファン広場PARTⅡ掲示板』【 https://rara.jp/fanhiroba/ 】は同時進行で運営中です。
使い勝手からどちらも一長一短はありますので、できる限りは同時並行で行くようにしてまいります。
どちらを見ても大丈夫なように管理者が責任をもって投稿記事は双方に分かるように掲載していきます。

🟨この掲示板は無料版の掲示板にしましたので、広告が入りますので見ずらくなってしまいました。ご容赦ください。

編集・削除(編集済: 2023年04月07日 07:42)

振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱ 心にある雪之丞、闇太郎✱ #投稿日2017.1.12

「雪之丞変化」の話が出てくると、ファンとして私も話したいことが沢山出てきてしまうので、困っちゃいます。これも橋蔵さまファンだったら何回も見たくなる、大切にしたい作品の一つですね。

東映でも橋蔵さが東映入りしてすぐに「雪之丞」をやりたかったようです。しかし、1954年に千代之介さんが「雪之丞」を三部作をやったばかりなので出来なかったようです。
「雪之丞変化」の映画を作ると二部~三部作で各社作って来たのですが、長すぎで間延びしてしまい、この一作だけにするのには脚本が大変だったようです。
正に橋蔵さまのために作られた内容がぎっしりにつまった作品になっています。
ただ、撮影はしたが、途中でシナリオを書き替え撮り直しか、または何パターンかを撮りしぼったのではないかと私は思うのです。
通常の物語のように浪路は雪之丞に恋焦がれて屋敷をでて病で、闇太郎の小屋で雪之丞に抱かれて死ぬのです。闇太郎が浪路を屋敷に運び、雪之丞が三斎の前に現れ、父母の恨みを、その背後には白刃が、ということになり雪之丞の殺陣があるはずだったのだと思うのです。ビデオのパッケージを見た時、不思議に思うでしよう。雪之丞の殺陣が写真にあるでしょう。
しかし、演出は作品のようになりました。この作品は、雪之丞と浪路を通しての市民の米騒動とそれに加担する闇太郎の方に重きをおいているような。雪之丞も闇太郎も大変素晴らしいのですが、私の頭の中に残るのは闇太郎です。この作品での評価はやはり闇太郎が素晴らしかったと言われました。
三役をやるわけですが、長谷川一夫さんの時は母親を、橋蔵さまは父親でした。橋蔵さま父親役で処刑場面に意欲的に取り組んだようです。
この時、橋蔵さま右足首を痛めていて包帯をしていました。足を引きずって入って来るほどで、何日か休まなければいけなかったのですが、迷惑をかけてはと頑張ったのです。前日、闇太郎であまり活躍してころんでしまったということでした。

口上「君が情けのたまずさに、・・ご贔屓願い奉る」からの『宮島のだんまり』、『関の扉』のお姫様姿』
最後の『鷺娘』(もう少し長く見たかった)と橋蔵さまの歌舞伎時代を彷彿とさせます。これだけの演目を熟せるのは流石です。(ご本人は着せ替え人形のようだったと)
淡島千景さんとは初顔合わせでしたが、お二人の息がとても合っていたのがより素晴らしい作品にしていますね。この時、淡島さん病み上がりで出演不可能という話がでましたが、よかったです。淡島さんのお初だから、橋蔵さまの雪之丞と闇太郎もよくなっています。

雪之丞の舞台を観ての闇太郎とお初の言葉の掛合いがよいです。(ここ覚えちゃいました)
「あばたがえくぼに・・」「違うよ・・惚れたのは目だよ」「・・まっ、目に惚れて肘鉄食って痛い目にあいなさんなよ」「・・あたしゃもう、雪之丞に目がないんだから」・・橋蔵さんの雪之丞だから、この掛け合い言葉ができるのです。

「雪さんの行先を教えよう」「船は・・」「あいた、慌てさせるねえ」「今夜の雪さんはお前にまかすぜ」「うれしいねえ」「俺の名を・・ひっぱりだすんだよ」・・この時も闇太郎とお初の色気ある目での会話となっています。(初共演とは思えないお二人の目の使い方と雰囲気)

そしてもう一か所、雪之丞とお初の「売りまへん」「売りまひょ」「あーら、気に入ったね、江戸っ子は気が短いの」

大川端は絶対に外すことが出来ない場面。
お初の話を聞きながら雪之丞が歩くところ。左右の指でさりげなく着物の褄を持ち変えながらの砕けた歩き方。
「ねえ、雪さん諦めな・・」とお初が言う時の褄を持っている手の動き。
「ご親切なご贔屓様の・・察しておくれやす」のところの歩き方と妻を持つしぐさ。
雪之丞、お初、ムク犬の吉、三人の素早い動きから、さっと舟に乗りながら簪を髪から取り投げるところまでの素晴らしさ。
そしてさっと翻って「すえなごうご贔屓に」と粋に舟を漕いで行く後ろ姿は美しい。

お初の家に寄った時に捕り方に囲まれた闇太郎の六尺棒での立回りも見逃せないところだと思います。

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✱「恋山彦」への思い・・再度✱ #投稿日2017.1.9

「恋山彦」は橋蔵さまファンが選ぶ映画ベスト10には必ず入る作品でしょう。
橋蔵さまはここまでの作品では「ふたり大名」で二役やっています。これは、橋蔵さまが御得意とする設定の物。「恋山彦」は対照的な二役でした。
私は、小源太は小源太として、無二斎は無二斎として、それぞれに好きです。
でも、どちらかというと、作品の中に描きたかったものを考え、また橋蔵さまの無二斎への思いが分かりますので無二斎に魅かれます。
大部分の人は、気品高い小源太の振舞い、美貌の方に目がいって、孤独で世をすねた無二斎は軽視してしまうのですが、この作品は別々の世界に生きて来た二人がいての「恋山彦」の作品です。
橋蔵さまの小源太の綺麗さには、誰もが溜息が出るでしょう。無二斎のふてぶてしさの中の純真な心を感じてほしいと思います。
伊藤雄之助さんの一蝶と橋蔵さまの無二斎の親友であるがためにかかわっていく様。二人の絡みは大切なものになっています。そこで映画を見ている人から不自然でなくするために、二人の年齢差を縮めなければなりません。そこで、雄之助さんが若返ることになり、橋蔵さんが少しばかりやつれを見せた浪人になるという苦心の末が、あの無二斎のちょっと黒い化粧での風貌になったようです。
無二斎のような役は橋蔵さまは初めてだったですね。
「恋山彦」は、橋蔵さまが小学生の時に坂東妻三郎さんがやった作品です。監督は同じマキノ監督。今度はカラー化ですから、「恋山彦」の設定時代から平安朝のコスチュームの華やかさや気高い言葉を使い面白味を出したかったということです。橋蔵さまの魅力が、小源太の貴族の気高さが、まさに合致しているので、山奥で世間を知らずに生き続ける平家の落人の世界が素晴らしく描かれています。(戦前の坂妻さんでも橋蔵さまのような小源太は出来なかったと思うのです。無二斎はお手のものであったとは思うのですが。)そこで、オープニングの舞台的な演出の舞踊で始まり、私たちを違う世界に導いていってしまうのですね。
橋蔵さまは、無二斎を30才位の役作りでやったということですね。無二斎の衣装、端切れを使ったような衣装で粋ですね。橋蔵さま大変気に入っていたらしいです。あの衣装は橋蔵無二斎が来ているからよいのですですね。
小源太はロマンチシズムに、無二斎は豪快な感じにと、二役をとてもうまく演じていますよね。この作品で橋蔵さまにやっとと言ってよいでしょう、豪快さを出す役がまわってきたのです。ですから、真夜中のオープンセット撮影の、小源太の身代わりで捕り方200名近くとの見せ場の大立回りは、無二斎がカメラから見えなくなってしまう立回りのところでも、吹替えは使わず、すべて橋蔵さま自身で動くという力の入れ方でした。
小源太は・・橋蔵さまの地でいける役です。
無二斎は・・華奢な優しい橋蔵さまが豪快さの演技を必要とする初めての難しい役・・橋蔵さまが役者としてやりがいのある役です。
殺陣や馬術に関しては、橋蔵さまは何でも一生懸命でいらしたから、上手いものです。時間を見つけては練習を怠らない方でした。袴の裾さばきは、歌舞伎と舞踊で鍛えてますから流石です。

📍小源太には
小源太については、長刀での立回りと始まってすぐとラストの舞踊場面はいいのはわかっていますから省きます。
* 謀られて、薙刀での立回りになりますね・・まず私は屋敷廊下での時、殺陣をやりながら体が回るところが何か所かあります。その時の長袴の裾が綺麗に舞っているという足さばきに目がいきます。
あと、天守の狭い階段での薙刀さばきが綺麗です。
* 小源太がお品を連れて平家村に馬に乗って颯爽と帰ってくるところ、馬上の橋蔵さまは素敵です。馬に乗るときの姿勢がとてもいいのです。
橋蔵さま自身であのほこりの中を何回も走って大変でした。暑い夏砂漠のような土地での撮影。馬が大勢の人とセットなどに驚いてしまって、上手な橋蔵さまが手綱を締めてもなかなかピタリと止まってくれなかったようです。
* お品と祝言をした夜の寝所、小源太が御簾を下すところの、白衣を着ている橋蔵さまの脚の線の美しさには溜息が出てしまいます。あの姿態は色気がありますね、
* 江戸城へ乗り込んみ、襖が開き将軍綱吉のところまで衣冠束帯?で堂々と歩く小源太、あそこは颯爽と優美な振る舞で絵巻物を見ているようで、さすが橋蔵さまならではです。
しかし、なぜか胸がつまる思いがあります。(あとを知っているからかしら)
📍 無二斎には
* おむらから一蝶が女の人を隠しているみたいだと聞き、酔いに任せ一蝶の家へ、一蝶を振り切って誰をかくまっているのか襖を開けるまで、特に一蝶の手を振りきりるところ、小源太が次の瞬間どんな表情をみせてくれるのか
* 無二斎が道場で一蝶に小源太を生かしておきたいんだろうと言いよる場面、
* 小源太の装束で身代わりになり捕り方に囲まれておむらの家の前に来た時、無二斎という事を分かり言葉をかけるおむらの方を見て、無言の中に目で別れをいい、(言いたいことがあるのだが)・・、向きを変えて捕り方を引き連れて去っていく場面、
胸打たれるのです。

🍀 平家の落ち武者で世俗に毒されていく正義感を持った小源太とお品、世俗にまみれ拗ねて生きているが正義感ある無二斎とおむら。この4人の感情と行動が「山彦」のように呼び合い、もつれあい、恋を奏で、悪を倒す、
無二斎が小源太の身代わりになって死に、そのおかげで小源太とお品は山に帰ることができる。
美しく悲しいラストシーンは「山彦」の切なさを表した作品になっているのだそうです。

♤ 薙刀での殺陣での長袴の裾のまわしの綺麗な立回り
♤馬にお品を乗せて舘に帰ってくる時の馬上姿とたずなさばき、
♤江戸城に乗り込み将軍のいるところまで衣冠束帯で堂々と歩く姿、
♤お品との寝所で御簾を下す仕草と白の寝間着?の線の美しさ、

♢ 一蝶が誰をかくまっているのを突き止めようと振りきって襖を開けるまで
♢一蝶のためなら自分の身を捨てでも、小源太を助けるという無二斎の親友との別れ
♢ 身代わりになって捕り方に囲まれながら、呼び止めるおむらに無言で分かれをするような視線をする無二斎、
♢ 捕り方に囲まれ、足を怪我している無二斎の大立回り、
私は、これらの場面はいつ見てもじっくりと見いってしまうところです。

🍀 平家の落ち武者で世の中の嫌なことを見るようになる正義感を持った小源太とお品、世の中の嫌なことにまみれ拗ねて生きてはいるが正義感のある無二斎とおむら。この4人の感情と行動が「山彦」のように呼び合い、もつれあい、恋を奏で、悪を倒す。
無二斎が小源太の身代わりになって死に、そのおかげで小源太とお品は山に帰り平和に暮らすことができる。
美しく悲しいラストシーン・・・「山彦」の切なさを表した作品になっているのだそうです。

☘そう言えば、ここでおむら役の丘さとみさん、橋蔵さまとはオールスター映画と「修羅八荒」で顔を合わせていますが、おむらという役で橋蔵さま主演の作品では初めての絡みだったのですね。
この作品から、橋蔵さまの相手役も多くなりました。
その丘さんも「これまでの橋蔵さんより、こうした浪人役の橋蔵さんの方が好き。相手をしていても惚れ惚れしちゃう」と。
「次は、喜劇的な作品でお相手をしたい」
この後、マキノ監督での「清水港に来た男」でお二人の息の合った楽しい作品ができましたね。

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✱ 気持ちを新たにしてGO!✱ #投稿日2017.1.1

穏やかに年があけました。おめでとうございます。
今年も橋蔵さまと一緒に楽しい一年にいたしましょう。
思うこと、伝えたいこと、お話していきましょう。
橋蔵さまのファンを後世に残していきたいですね。

私から皆さまへの年賀状です。
画像は・・橋蔵さま、雷蔵さん、若尾さんの3人が京都北野天満宮に参詣、おみくじを引いている画像です。(1961年のですね)
"美しき大川橋蔵"私の想い出もよろしくお願いいたします。
今年から、橋蔵さまの作品はこちらの方に書いていきますので、リンクして見て読んでください。

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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✱話題になった顔合わせの「赤穂浪士」✱ #投稿日2016.12.17

この「赤穂浪士」で話題になったのは、やはり中村錦之助と大川橋蔵がオールスター映画で顔合わせをしたという事でした。
錦之助さんと橋蔵さまはスクリーンで長く顔合わせる、ましてこのように向き合ってというのはなかったですね。
いよいよ、千恵蔵と右太衛門から錦之助と橋蔵の時代になってくるのかと話題になりました。(でも、残念ながら時代劇が衰退の方向にいってしまいました。)
時代劇ファンとしては、お二人ががっぷり四つに組んでのオールスター映画をみたかったですね。

内匠頭が勅使接待に上野介にいじめられながら日夜苦労している内匠頭を親友淡路守が見舞う場面はクランクインして二日目に撮られたらしいです。
お二人とも初役にファイトを燃やしていたとありました。

淡路守の役はガラにあっている。腹芸の多い役だけに、工夫して痛快なところを見せたい」と錦之助さん。
「梅幸さんにいろいろ教わっています。歌舞伎の型の中にリアルな面も出してゆきたい」と橋蔵さま。
重厚火の錦之助さんと華麗美の橋蔵さま、お二人の演技を競う場面になったのです。

内匠頭の家来堀部安兵衛役の東千代之介さんが出番までお二人のやりとりを遠くで見ていました。そこで撮影の合間に暖を取りながらの、雑誌のための場が設けられました。元内匠頭、前内匠頭、現内匠頭の顔合わせとなりました。
✎どんな話をしていたのかしら・・・(部的に抜粋ですが、その時の雰囲気が分かれば、と思います。)
千代之介「いよいよ判官役だね、待望の・・」
  橋蔵「映画入りいらい抱いていた夢の役なんだよ」
 錦之助「待望の切腹ができるわけだ」
千代之介「なにしろ判官が切腹しないと、物語がすすまないんでね」
  橋蔵「僕が切腹しないと堀部安兵衛の見せ場がないから?」
 錦之助「安兵衛が内匠頭の腹を切りたがっちゃ困る」
  橋蔵「二人とも内匠頭の先輩だから、いろいろおしえてほしいな」
 錦之助「先輩って言ったって、去年のオールスターで一回やったきりだからね」
千代之介「この三人の中じゃ一番最初だな、内匠頭をやったのは。千恵蔵先生に全
     部教えてもらった」
 錦之助「大分お世話になった」
  橋蔵「なにしろ、映画の内匠頭じゃ草分けだからなあ」
千代之介「原健策さんにも、かなり教えてもらった」
  橋蔵「尾上の兄(梅幸)さんに所作を習ったんだけど、これを映画的に上手く消
     化できれば・・」
 錦之助「しめたもんだ」
  橋蔵「だけどむずかしい、判官というのは。ことに切腹が決まってから、片岡
     源五右衛門との最後の別れをするところには弱った」
 錦之助「目だけの芝居だからな」
千代之介「あすこは全体のストーリーの中でも一つのやま場だしね」
安兵衛をやっている千代之介さんに、
 錦之助「でも、大名なんていう型ぐるしい殿様よりはいいぜ、第一肩がこらな
     い」
  橋蔵「ほんとだ、こんどの忠臣蔵では、安兵衛役を志願しようかな」
千代之介「冗談じゃないよ、まあ、ふたりの芝居を家来らしく遠くから見させてい
     ただきます。のんびりとね」
こんな調子で三人が揃う場面も終わったようです。

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✱12月・・橋蔵さま諸々✱ #投稿日2016.12.1

今年も一か月となりました。皆様それぞれに何かと忙しい月ですね。
私も、仕事上やらなければならない作業が沢山ある時期で、申し訳ないけれど橋蔵さまの作品もゆっくり見ていられない時となります。
クリスマス、忘年会、旅行と楽しい行事が待っている方が羨ましくなります。

12月に入ると、橋蔵さまの命日そして私はまた一つ年を取ります。
私の生命がある限り、橋蔵さまと私は天と地で・・・絶対橋蔵さまの命日は忘れることはない。
橋蔵さまは33回忌ですので、一般的には仏教では年忌法要を終了する弔い上げとなり、極楽浄土、苦しみのない世界にやっと行けるのですね。私はこれからは橋蔵さまの生誕を数えることにいたします。
橋蔵さまが私の心の奥に残してくださった映画、舞台、舞踊は焼き付いていますから、古に逆戻りをして、もっともっと思い出していきたいと思っています。

思い出します・・12月は東京歌舞伎座で「恒例大川橋蔵特別公演」が1967年(S42年)~1982年(S57年)まであり、楽しませていただきました。映画だけでなく生の芝居と舞踊を何回も見せていただけたこと、橋蔵さまのファンとして橋蔵さまの充実した時を一緒に歩むことができたことに本当に幸せだった、感謝しています。
神田明神での恒例のお参りも楽しみにしていたものです。
あの笑顔が絶えない平次親分がそこにいたのですから・・。(1の画像)

笑顔の素敵な橋蔵さまは勿論好きですが、こういう表情の橋蔵さまに私は魅力を感じます。私の好きな一枚です。(2の画像)

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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✱橋蔵さまを想いながら、楽しい掲示板にしたいですねぇ✱ #投稿日2016.11.18

わたしは身体の都合上実家にはとうてい帰れませんから、私が収集したものが何処に追いやられたのか探すことも出来ません・・諦めています。
私の心に焼き付いている思い出を大切にしていけばいいのです。

🎬 私が高校生のころはまだ太秦映画村はなかった時代。オープンした次の年に一度行きました。あとはファンクラブの夏の京都旅行で行ったわね。ファンクラブ夏の京都旅行は、橋蔵さまの撮影風景のところへの企画が必ずあったので、野外ロケ現場は楽しかったな。

🚑 1984年3月15日が「銭形平次」最終回の撮影が終わった日、6月はその後でしたね。
1984年6月といえば、橋蔵さまは余命わずかと診断を受け5月中旬に最初の入院をしましたので、決まっていた6月の明治座は高橋英樹さんが代役で公演し、橋蔵さまは舞台の出来はどうだろうか、お客様の反応はどうか、来年はどんなふうな舞台にしようかと、病床で悔しい思いをなさっているときでしたね。
2度目の入院をした日が近づいてきましたね・・・。橋蔵さまが最後に歌われた「北の蛍」も思い出してしまいますが、悲しい寂しい歌なので・・私は好きではないなぁ。
今年は33回忌でしょう、この日を過ぎたら、橋蔵さまは生誕だけで数えていこうと思っています。元気をくださる橋蔵さまがいいですもの。そして、掲示板の花も橋蔵さまのお好きな紫系色だけで載せてきましたが、これからは多彩な色の花等を載せていきますね。
皆さんと一緒に少しずつ変化を持たせていけたらいいな、と思っております。
ただ、仲間だけの話の場ではなく、掲示板に書いてこなくても、この掲示板を楽しみに見ていただけるようにしていけたらと思っています。

そして、この掲示板においでになった方、たまには思ったことを書き込みしてみませんか・・・心より待っています。

ブログ"美しき大川橋蔵"私の想い出、 まだ「江戸三国志・疾風篇」までですが、画像をふんだんに入れましたので、よろしかったら覗いて見てください。
🎂私が生まれた年は六代目がお亡くなりになり、橋蔵さまは20歳の時ですからこれからどのようにと大変な時の橋蔵さま、そして私の誕生日が橋蔵さまの命日、片方では楽しく、片方では・・・と同じ日に相対するのはもう止~め。明るい方がいいですもの。

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✱橋蔵さまってどんな人・・ナノ✱ #投稿日2016.11.4

この掲示板をご覧になっている方皆さますべてが、橋蔵さまのことをしっているとは限らないと思いますので、ちょっとしたことを少しずつ書いて見ましょうか。その事柄から、橋蔵さまに少しでも踏み込んで興味をもっていただきたいと思います。

映画界にはいったころの、橋蔵さまのことを少し垣間見ましょう。

豊かな趣味は豊かな演技につながるものです。橋蔵さまの趣味は沢山ありました。歌舞伎の女形でしたから、三味線、琴、胡弓はお手のもの。
小唄が上手く好きでしたが、京都の旅館暮らしでしたから、口三味線で唄っていたということです。チントンシャン♪? 小唄は、しっとりとして俗気がなく、艶っぽく、江戸前の粋があっていいですよね。橋蔵さまの粋にとっても合います。
洋ものは、ジャズ、ラテン音楽、軽音楽。疲れている時は軽音楽を聞いていたようです。そういえば、ダンスもOKデスヨ。当時は各映画会社の若手俳優が集まり定期的にダンスパーティーがありました。他社の女優さんと楽しくお話をしながら踊って、橋蔵さまはタンゴも上手に踊ったようです。
ロケや帰京の電車やバスの中では、ラジオをかけ歌謡曲を聞いていたようです。好きな歌手は三橋美智也、高田浩吉、美空ひばり。

橋蔵さまの釣り好きは当時から有名でした。六代目のお伴で川釣りによく行っていましたものね。のちに海釣りも大好きでよく出かけたようでし、海にロケの時は釣道具が必ずお伴を。
勝負ごとはしません。勝負?として対戦するのは囲碁、将棋です。
コレクションは、西洋のあやつり人形、珍しいガラスのコップを集めること。
(陶芸等はもう少しあとになってから始めました。)
スポーツ万能ですが、中でも野球、水泳、乗馬。ゴルフもやりましたがお付き合い程度。野球は日大中学部から東映の野球チームでも一塁を守っていました。
水泳は釣りのお伴の時に流れの厳しいところで泳いだり、潜ったりしていますから得意です。橋蔵さまは高いところからの飛込みも綺麗に回転もして。
作品の中でも泳ぐところがありますが、泳ぎ方、泳いでいる姿が綺麗でしょう。
乗馬は、俳優になってから習いはじめたのです。時代劇俳優はちゃんと馬に乗れなければ、と時間がある時、早朝にと通っていたようです。橋蔵さまの乗り方は姿勢が綺麗ですから、ご本人が乗っているか否かはすぐわかりますね。

菊五郎劇団の若手女形であった橋蔵さまに東映は最初に白羽の矢を放ったことはごぞんじですね。
時代劇の若手スターになる人をということでの第一候補だったのです。
ところが、(菊五郎劇団や家庭の問題があり)当の橋蔵さまが乗り気でなかったため、ひばりさん主演での「ひよどり草紙」のスケジュールもあり、橋蔵さまを諦め、第二の矢が錦之助さんに放たれ、錦之助さんが一足先に映画界へ入っていったのです。
橋蔵さまは、映画界に入るまで、並々ならないほどの苦しみ悩み熟慮のすえのことでした。
「笛吹若武者」だけ映画出演し、舞台に帰ろうとしていましたが、これまでにない新しい型の時代劇俳優の姿を見たのですから、一作でファンになった人達がほおっておかないですし、東映側も同じです。そして舞台にはない映画の魅力を感じた橋蔵さま自身も気持ちがゆらぎ、ふみきりました。
もし、映画で失敗しても舞台には戻らないと。

前にも書きましたように三味線はできるし、邦楽囃子堅田流の笛も、踊りは藤間流藤間勘之丞という名取りです。映画でもそれが役立っています。女形だったとはいえスポーツで鍛えた引き締まった体格で、美剣士を演じるのですから文句なしです。

橋蔵さまはご自分で目が小さいことが嫌いだといっています。
橋蔵さまの場合 顔が小さい方であること、目が小さく、唇が小さいため、メーキャップでメリハリをつけても舞台ではどちらかと言うと効果がでないマスクだったのですが、スクリーンでは大変に効きめがあって、この世にこれほどの美男はいないだろうという輝きをあらわしたのです。クローズアップの場合、このメリハリの効果があらわれます。目元を大きくしたり、切れ長の目にしたり、橋蔵さまは本来の端正な美貌に加えてこのメーキャップでグッとファンの心を掴みました。本当に、アップの橋蔵さまは綺麗です。綺麗だからアップが多いのです。メーキャップの上手さは本当に感心してしまいます。
橋蔵さまの真剣に鏡と向かい合っている姿が浮かんできますね。鏡に向ってだんだん役柄に入っていく橋蔵さま。素顔の橋蔵さまには気軽に声をかけることができるけれど、化粧をした橋蔵さまに見つめられると何も言えなくなってしまいいますよね。
その橋蔵さまですから、素顔とのギャップがあったので、大部分の人が「えっ、この人があの大川橋蔵?」とびっくりする人が多かったですね。
当時も、普段背広姿でいると好青年のサラリーマンに見えるので気がつかなかった人たちが多かったのです。そのためショッピングや映画にも気軽に出かけられたようです。そこへ時々伊達メガネを掛けるので余計に分かりません。

1956年6月10日第一回「橋蔵まつり」の開催された国際スタジアムにつめかけたファンがスタジアムを二巻きにしている時の話を少しですが次にいたしましょう。

✱橋蔵さまの魅力のひとつから・・✱ #投稿日2016.11.12

橋蔵さまってどんな人・・・ナノ の続きとまいりましょう。
当時、普段背広姿でいると好青年のサラリーマンに見えるので気がつかなかった人たちが多かった、と書きましたね。
1956年6月10日第一回「橋蔵まつり」で”若さま侍”の一コマを上演するということで依頼されたシナリオライターが当日見た光景です。
その前に、彼はその打合せの時、初めて橋蔵さまに会ったそうです。
📍『ちょっと僕は驚いた。あまりにも役者らしくないからである。この人が、丁髷をつけて、剣をとると、あの颯爽たる大川橋蔵になるのかと思うと、何だか不思議な気がした。素顔の橋蔵君は、そんな第一心象だった。』と言っていました。
前日に立稽古を簡単にしていたが、当日開演前に稽古をするというので国際スタジアムに出かけた時のことです。
もの凄い人垣がスタジアムの前の広場に群がり、行列は両国橋の近くまでになっていたそうです。第一回の「橋蔵まつり」を祝って各社の人気スターもゲスト出演するので、ファンの熱狂ぶりもすごい。開場前の広場にスターの自家用車が止まるたびに、〇〇よ、〇〇だわ、と車のまわりへ殺到する、大変な騒ぎ方だったようです。
この騒ぎの最中に、まことに妙なことが起こったのでした。彼だけが気がついたことで、誰もしらなかったようだったと。
📍『橋蔵ファンの人達が、ゲストスターの到着するたびに取り囲んで熱狂している時、当日出演者の控室になっていた国際スタジアムの前の旅館から橋蔵君が出て来たのです。そして、橋蔵君は大騒ぎをしているファンの人波の中を平然とした態度で「ちょっとすみません」とか何とか言いながら巧みに掻き分けて、スタジアムの事務所の方へ歩いて行ったのです。ところが、誰一人それを知らないのです。自分たちが見に来ている当の橋蔵君がすぐ傍らを通っているのに気がつかないのです。まさかそんなところを歩いているとは気がつかなかったのでしょう。
橋蔵君は、ゲストのスターが自分のファンにもみくちゃにされている間に、悠々と事務所に入ってしまった。橋蔵君が、ファン心理の盲点を突いたような光景を目撃して、本当に変な気がしました。もしファンの一人が橋蔵君に気がついたらどんな騒ぎになっていたのでしょう。
恐らく橋蔵君は一瞬のうちにファンの攻撃をうけてクタクタにされてしまったに相違ない。』
どうして、あんなに大勢の人達が、一人も橋蔵さまの通ったことを知らなかったのでしょう。彼にはそれがよく分かったそうです。
📍『橋蔵君は背広を着て道を歩いていると、いかにも当たり前なサラリーマン風の青年なのだ。強烈な個性を感じさせないかわりに、我々の身辺によくいるような、親しみやすい好青年である。だから、ファンもうっかりしていたのだろう、橋蔵君の魅力はこの辺にあるのではないか。』と言っていました。

📌 私も、背広姿の橋蔵さまにお会いしていますが、そう思います。
あの映画の橋蔵さま、あの舞台の橋蔵さま、とは違って、素顔の橋蔵さまはとってもお優しい年は離れているがお兄さまのようでしたね。映画スター大川橋蔵はもちろん素敵ですが、それでは近寄りがたいですね。優しい人懐こい素顔の橋蔵さまがあったればこそ、当時大衆に受け入れられる何かがあったのだと思います。素顔からのぞく橋蔵さまのひとつひとつが・・・映画の中にも・・・。
💛 私は、役の上の橋蔵さまに今でも映像で魅せられているのは当然ですが・・、橋蔵さまを想い出すときは、やはりお話をしたりして直に接した時の素顔の橋蔵さまが大きな財産になっています。だからこそ、作品にもっと深く入っていこうとする気持ちが自分の中で多いのではないかと思っています。

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✱久しぶりに、よもやま話✱ #投稿日2016.8.27

台風10号は勢力を強めて向きを変えて、日本へと向かってきています。30日には東日本に上陸?のようです。 これからが台風の量産時期になりますね、早く過ぎ去ってほしいものです。
蝉の鳴き声もだんだん少なくなってきています。そこまで秋の足音が聞こえているのでしょう。日本の今までのような初秋は来ないかもしれませんね。

久しぶりに、橋蔵さまのよもやま話で、少しの気分転換をさせていただきます。
「江戸三国志 完結迅雷篇」の撮影が終わって封切られたのが1956年6月8日でした。 その2日後、6月10日は当時橋蔵さまファンだった方たちには忘れることはない、そう、新芸プロ主催の第一回「橋蔵まつり」が国際スタジアム(旧両国の国技館)で開催された日でした。
早朝4時ごろからつめかけたファンもあったということ、9時にはスタジアムを二巻きにし、約二万人に近い女性ファンが押しかけ、警官の出動もでた盛況ぶりだったということです。
この時に、是非後援会を・・、との要望が強くあったので、この年の9月には後援会の発足になったのです。

美空ひばりさん、雪村いづみさん、星美智子さん、浦里はるみさんが応援出演し橋蔵さまを祝福してくださったのです。(1番目の画像)
楽屋では、花柳啓之先生も来てのお稽古。ひばりさんも橋蔵さまのために一生懸命。(2番目の画像)
星美智子のお糸ちゃんと「若さま侍」の橋蔵さまが颯爽と現れた時は割れんばかりの喝采、殺陣などを披露しました。
次は極め付けの「藤娘」。 (3番目の画像)
長唄囃連中は菊五郎劇団の方たちで、息も合い橋蔵さまは晴れの舞台を飾りました。橋蔵さま、映画に来てから、初めてファンに見せた舞台での舞姿です。

数年後に、その時の事を橋蔵さまがこうおっしゃっていたことがあります。
「橋蔵まつり」は年に1回~2回開くようになりましたが、ひばりちゃんの応援を得て開催した、華やかな「第一回橋蔵まつり」はいまだに忘れずに、その日のことは脳裏に焼きついているのです。 (省略)
歌舞伎の世界から映画に入った僕のことですから、舞台というものはそれがどこの小屋であろうと、やはり懐かしく、今でも実演というと心おどるものがあります。デビューして間もないときでしたから、いまそのころの顔を見ますと、やはりいろんな意味で心労するものが今より多かったからでしょうか、すこし痩せていたようです。でも、それがひと一倍懐かしいのも、やはり「橋蔵まつり」が盛大にぼくの前途を祝福してくれたからといってよいでしょう。

美空ひばりさんのプロデューサーから、新芸術プロの社長になり、中村錦之助さん、大川橋蔵さまをスカウトした福島通人さんが、この時の事を・・
当日祝辞を述べに来た大川博社長も、この盛況には驚いたらしく大変喜ばれて、橋蔵さまを激励され、そのあと福島さんに「今日は大成功だったね、橋蔵君の人気がすごく、我が事のようにうれしい」と肩を叩かれ、面目を施し、「社長、私もやり甲斐がありました」と、うれしさで一杯になった、とおっしゃっています。

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱暫らくぶりに50代の橋蔵さまと✱ #投稿日2061.8.18

暫らくぶりに、橋蔵さまのセレクト、トリミングをしようかと、50代の橋蔵さまを見つめてみました。
「沓掛時次郎」「鯉名の銀平」と。「荒木又右衛門」は仇討ちものなので、セレクト作品はつくりません。(長編ドラマについての筋書、感想文は後日にしますので悪しからず。)
長編ドラマといえば、1981年4月から1984年までフジテレビが放送していた「時代劇スペシャル」の第一回が橋蔵さまの「沓掛時次郎」だったのです。それから、年に一度「荒木又右衛門」「鯉名の銀平」と出演されたのです。
私はこの頃は仕事で遅くまで飛び回っていたので、「銭形平次」でさえ見過ごしていたわけですから、長編ドラマはリアルタイムでは見られませんでした。
テレビでも時代劇不況時代がやってきて、時代劇スペシャルも1984年3月で打ち切られました。
好評だったら、「銭形平次」が1984年4月には終わるのですから、多分この年の5月にも出演の話は出ていたことでしょう。
でもそのころには、橋蔵さまはご自分の体力の限界を感じとっていたのではないかしら。(これは私が思うことですからね。)

橋蔵さまがやりたかった作品「鯉名の銀平」を三年後1983年5月にやれたのは本当に良かったと思います。この「鯉名の銀平」をやらずに終わっていたら・・・。
舞台でも1984年2月の新歌舞伎座でも「鯉名の銀平」をできましたし・・・最後の舞台になりましが、橋蔵さま一か月公演本当に頑張ってくださいました。
ありがとうございます、ファンとして感謝でいっぱいです。
橋蔵さまも倒れ、「時代劇スペシャル」の番組も、こうして見てくると、橋蔵さまは映画の時代劇黄金時代からお茶の間で時代劇がまさに受け入れられていた時代に、娯楽という夢を私たちに与えて生きてきた方だったのですね。
テレビ界の時代劇が廃れていく様子を目にしないで逝かれたのは、ある意味で良かったのかも・・・です。
橋蔵さまは判断の鋭い方でしたから、「銭形平次」を終わりにするという話があった時には、舞台と舞踊の方への考えで重点をおいていたでしょう。
橋蔵さまと一緒に、真の楽しい時代劇はなくなってしまいました。

「沓掛時次郎」映画で知られているのは(戦後)
1953年長谷川一夫主演「浅間の鴉」
1961年市川雷蔵主演「沓掛時次郎」
1966年中村錦之助主演「沓掛時次郎遊侠一匹」
沓掛時次郎というと皆様も雷蔵さんのものが印象にあるのではないでしょうか。太郎吉をおきぬの親のところに預け、「やくざの垢を落としたら、きっと会いに来ます」と言って追う太郎吉を振り切って去って行く。

錦之助さんのは、おきぬと太郎吉親子を三蔵から頼まれ叔父のところに旅立つ日に、親子がいなくなってしまう。一年過ぎた高崎宿で門付けをする親子に再開するところから・・おきぬが死に太郎吉をつれ故郷の沓掛に向う。

長谷川さんのは原作に大体忠実に描かれているようです。
この映画は見たことがないので、一度検証してみたいな。

やはり、橋蔵さまの「沓掛時次郎」は長谷川一夫さんの線のものですね。
贔屓目ではなく、橋蔵さまの時次郎は素晴らしいと思いました。

ここでは、私が何度見ても、目が潤んでしまう好きなところを3ヵ所。
★ 雨の中食べ物を調達に出かけ病に倒れた時次郎が目を覚まし、太郎吉の「何日経ったか知ってる?」との問いに「昨日からだろ」・・「そうか、3日も・・」太郎吉がその間にちゃんの敵を討とうと話をしていた、ということを聞いている時の時次郎のおきぬと太郎吉を見つめる顔、目が何とも言えぬのだ。橋蔵さまのうなされて寝ている顔・・綺麗で素敵です。
★ 身重のおきぬのためにどうしても一両を・・と出入りの助っ人の話を受け出かけていく時、おきぬが帰ってきたら話があると、時次郎も話があるんだと。おきぬが「待っています」と言い、差し伸べた手を握りお互いに見つめ合うのです・・橋蔵さまの表情から伝わってきます・・切ないですねぇ。
★ おきぬが亡くなり太郎吉を連れての途中、追ってきたやくざを追い払い、おきぬの遺骨を手にした時次郎の耳に「ちゃん」という声が聞こえたような、・・そして徐に太郎吉を見た時「ちゃん」と太郎吉が。抱きかかえ「太郎吉」と時次郎が言います。
橋蔵さま、やはり50代の風格ですね。ジーンときてしまいます。そのあとの言葉はいりません。・・・(涙が出てきてしまいました)・・・太郎吉を連れて歩いてゆく姿が・・・(私の心にとても訴えるのです。)

橋蔵さまの若い時の映画での泣きは、どちらかというと好きではないのですが、50代での泣きはじっくりと見いって涙を誘ってきます。

「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」映画でしられているのは(戦後)
1951年長谷川一夫主演「月の渡り鳥」
下田港へ乗り込んで来た帆立の丑松を銀平が痛めつけている間に、お市と卯之吉を一緒にさせようとしたことを、銀はお市が卯之吉を好きだと早合点し旅にでる。しかし、お市恋しさに下田へ戻る。卯之吉はお市が銀平と会ったのをしって、丑松に銀平を斬ってくれと言いに行って自分も捕まってしまう。銀平は丑松一家を叩き斬り、二人に仲良く暮らすようにいい、捕り方にひかれていく。

1957年長谷川一夫主演「雪の渡り鳥」
大鍋の代わりに銀平は帆立へ談判に出向く。お市の父は銀平は生きて返らないだろうと、お市と卯之吉とを夫婦の約束をさせた。銀平は、帆立一家との喧嘩の前にお市に会い本心を確めようとするが、お市が返事をためらったので、誤解した銀平は帆立一家へ乗りこんだ。助人にきた卯之吉から夫婦約束の話を聞き、銀平はそのまま下田を去った。丑松から立退きを迫られ、夫の不甲斐なさにお市は・・。そこへ銀平が現れ、お市は三年前の怨みごとを言う。卯之吉は嫉妬し、丑松に銀平が戻ったこと話す。
丑松との戦いに苦戦している銀平を、卯之吉が銛で丑松にぶつかって行った。銀平は彼の身代りに雪の中を捕方に引かれて行った。

1961年市川雷蔵主演「鯉名の銀平」
銀平はお市の気持をたしかめようとしていたが、彼女ははっきりした返事をしない。下田港の縄ばりを帆立一家が狙ってきた。これを知った銀平は帆立一家との決闘の場所へいく。そこへ卯之吉が姿をみせた。お市と祝言をすませてきたと聞き銀平は嫉妬したが、危い卯之吉を救って姿を消した。
銀平が下田へ帰ってきた。お市と銀平があっていたのを見た卯之吉は、帆立一家にかけこみ斬りこんだ。が、しくじって海中にとびこむ。銀平がかけつけ子分どもを斬り払う。海からはいあがった卯之吉が丑松を倒す。捕り方を見ると、銀平は丑松殺しの卯之吉の罪を引きうけお縄をうける。銀平は、幸せに暮しなといって引かれていく。

大映の二作品は、
銀平からお市に好きかどうか聞くのです。
最後丑松に危ないところを助けられるのです。そしてお市と卯之吉の幸せを願って、卯之吉の代わりに捕まるのですね。
銀平は最後は捕り方にお縄になって行くというのが今までの作品です。

でも、橋蔵さまの銀平は、捕り方が待っているところまで見送るというお市に、お縄になる所を見られたくないと、ひとりで雪の中へ消えていきます。
最後、お市と卯之吉に、なんとも言いようがない微笑みをみせ、雪にかぶった椿が咲いていて雪が降りしきる闇の中をゆっくりと後ろを振り返りながら消えて行く銀平、
これで、テレビからは少しお別れしますという、橋蔵さまのメッセージのようにも私は受け取れてしまうので、涙で目が潤んできてしまい、橋蔵さまの姿が画面から消えても、呆然としてしまいます。

時々、50代の橋蔵さま作品をみかえすと、そのたびに、橋蔵さまの軌跡の素晴らしいことに魅了されてしまいます。

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✱オニワバン・来週の番組から✱ #投稿日2016.6.16

来週の番組を取り上げての“時代劇ニュース オニワバン”の放送をすっかり忘れていて6/5に見ることができませんでしたが、昨日再放送をやっていて見ることができました。

見たい聞きたい知りたいのコーナーは 「大川橋蔵 月形半平太」でした。
ピックアップしてわたし流に書いていきますので、悪しからずご容赦くださりませ。
進行はえなりかずきさん、能村庸一さん、女性アシスタントです。
*能村さん
戦前から戦後、映画の全盛時代にはスーパーヒーローだった月形半平太
テレビになってからほとんど見たことがない。月形半平太は新国劇の澤田正
 二郎の当たり役だった
 映画では、坂東妻三郎、大河内傳次郎、嵐完寿郎、月形龍之介、戦後は市川
 右太衛門、長谷川一夫が 演じていたが、どうして(この月形半平太の作品
 が)消えてしまったのか。 その最後の作品が大川橋蔵の月形半平太、東映
 時代劇の一番最後の花の作品だ。
(ここで作品の良い場面が流れます)。
*えなりさん
 スペシャル感がありすごくいい、面白いと思った
*能村さん
 いいでしょう、これを見てほんとにいいと思った。二枚目だから橋蔵さんの  
場合は。大きいチャンバラが3つ出てきます。詩吟を吟じてのチャンバラ
で、3回とも詩吟をのっけてのチャンバラをするけれど、それぞれに 違う
 チャンバラで、僕は2番目のちょっと酔いしれながらするところが好きだ。
✎(3回ともおっしゃる通り違った立回り、全部好きなのですがやはり最後ですね。酔いながらの立回りもいいですよ。)
 「月さま雨が」とのところも「たかが春雨」とすっと言って帰るところ、橋
 蔵らしくて粋な感じでいい。二枚目ですよ。
✎(本当、橋蔵さまだからあのように描けるのです。酔って着物の前が少しはだけての姿には、やはり「たかが春雨」ですね。橋蔵さまはあそこまで崩しても大丈夫な二枚目なのです。)
*えなりさん
 今、見てもカッコイイ方でね、(そういう方は)なかなか少ないですけど。
*能村さん
 (本当に)いいですね。
*能村さん
 銭形平次が長かったから、テレビの人だと思う人もいるだろうけれど、その
 前に、東映時代のプリンスと言われて、トミイという愛称で親しまれていた
*えなりさん
 プリンスという感じの本当に端正なお顔だちだな、と思います。

元内弟子の田井克幸さんと丹羽貞仁さんのインタビューが録画で流れました。
話していることが途中でカットされていたりしているので、言っていることが途中で次の話になっていたりしていました。
〈大川橋蔵はどんな人〉というコーナー
🐧仕事にこだわった大川橋蔵
*貞仁さん
 仕事を家庭に持ち込むタイプだった。 普通に家族団らんで食事をするとき
 も、お手伝いの人達やお弟子さん達と大勢で鍋をつつくときも会話は全部
 仕事しかなかった人。沓掛時次郎で(の時)、家でもメイクしていた。顔の
 色、自分の眉の書き方、目の書き方、母のドレッサーで やって いるのを、
 子供時分ご飯を食べるのを待たされながら見ていた。
✎(この時、沓掛時次郎が船に乗っている映像が、そして橋蔵さまの③バターンの映像が映し出されていました。)
*田井さん
 化粧は、美空ひばり先生に教えていただいたような事を聞いたことがある。
 女形の時は、顔が変わったときにはドキッとした、女性の顔になるんです。
 じっーと見ていたらどんどん変わっていく。ドキッとして。
✎(この時、橋蔵さまの本の中から、女形のメークをしている写真が写りました。)
🍀(橋蔵様、事務所も同じでしたし、すぐに仲良しになりましたから、ひばりさんに教えてもらったのです。ですから、初めの作品の目の書き方なんかは、お二人が似たようなところがありますものね。)

🐧撮影現場での大川橋蔵
*貞仁さん
 子役で銭形平次に出た4才位の時、寝てるシーンがあった。眼球が動いて見
 える。(父が)目をとめろとめろと言うのだけれど、止めろと言う意味が分か
 らなかった。踊りを踊ると夜中まで、もう一回もう一回と。子供なので眠く
 なってどんどん踊りは下手になってしまうのだけれど、それでももう一回も
 う一回と言って・・。
 スタジオに入るまではずっーと横にいたのが、スタジオに入るときにいなく
 なって、あれ?何でいなくなったんだろうと思っていた。(それをずっと思っ
 ていて)のちのち(人に)聞いたら、現場にいるとつい自分が口を出す、監督に
 申し訳ないから、お預けした限りは監督が煮るなり焼くなりしてほしい、か
 らスタジオの外でじれじれしながら橋蔵さんいたよ、スタッフさんから聞い
 た。
🐧 プライベートの大川橋蔵
*貞仁さん
 夏か冬には必ず旅行に行こうと言って家族とお弟子さん含めて皆で慰労だと
 いって、大勢で行動するのが大好きで、 夏の旅行 でも20~30人連れて、観
 光バス借りて旅行していた。
*田井さん
(旅行の時)僕が(弟子なんだから)荷物をもって・・。(ところが)いいんだ
 よ、と自分(橋蔵さん)が2つ持ってるんです、奥さんのと子供さんのを。
普通弟子だったらもつでしょ。(それが)いいんだよ、お前今日は遊びなさ
 い、と言って。
 雪山のロケーションに行く時も、そりを買おう、と。そりで滑るのだと思っ
 ていた。夜召集がかかる。パンを買われていたので、何をするのかなスープ
 とかも。(そうしたら)自分でハムとか野菜とか入れてサンドイッチをつくっ
 ている。そりを利用してスタッフにサンドイッチやさむいからスープを配っ
 た。俺が苦労したからお前たちには食べ物で苦労はさせないから、と言っ
 て。
✎(雪山でのスタッフさん達との写真が出ます。その前には使ったそりもありました。)
✎(橋蔵さんが使用していた下駄、が映りました。)
✎(下駄のことは有名な話ですね。歯が薄くなっていても捨てないで鼻緒をご自分で挿げ替えてはいている。話は聞いていましたが、実際に現物は見ていなかったので、どんなになるまで使っていたのと・・・。考えられません、スターですよ。まさかと皆さん思われますよね。下駄の歯が本当になくなっているのです、下駄の周りも少しずつ全体がかけています。鼻緒だけがかえられていたのがよくわかります。)
“身の回りの物も人もすべてを大切にした橋蔵さん”とナレーション
*田井さん
 田井さんが飲みすぎて大遅刻した時、一発二発も仕方がない謝ってと思って
 いたら、橋蔵さんが来た。「すみませんでした、すみませんでした」と言っ
 たが、(橋蔵さん)何も言わないで、衣装部に入り、そしてセットに入った。
 (そうしたら、橋蔵さんが大きな声で)「おはようございます。皆さん、申し
 訳ございませんでした。うちの田井が遅刻しました」謝ってくれたんです。
 (実の)父親(チチオヤ)いるけど、(橋蔵さんを)ああ親父(オヤジ)だなぁと思
 った。そのあと、ダメじゃないか、仕事はちゃんとしなければと、一言も言
 わない。この時僕、(橋蔵さんの)背中見ました。
🐧 別れの時のエピソード
スター同志の交流をあまり持たない橋蔵さんでしたが”とのナレーション
別れを惜しんだ俳優の一人に・・萬屋錦之介、通夜の時別れを惜しんで会場に一時間はいれなかった、別れはしたくなかったのでしょう
あの頃の方はハートもあるし、そういう面で作品を愛している。父もそうなんだろうな・・と、貞仁さん。

(貞仁さんは、父橋蔵さまのお蔭で、橋蔵さまが共演なされた舟木一夫さん、山本陽子さん、高橋恵子さん、との
お芝居でお世話になっている。坂口良子さんもそうでした。
山本陽子さんは「沓掛時次郎」で、高橋恵子さんは「荒木又右衛門」で、坂口良子さんは「鯉名の銀平」で共演です。
山本陽子さんは橋蔵さまに時代劇をやって見ないかと声をかけられてやったのが最初のようです。)

(田井さん、橋蔵さまのあの笑顔がすぐに浮かんでくるそうです。)
✎(私たちもそうあの笑顔が忘れられませんね。)
“「芸には頂点がない」と言っていた橋蔵さん”のナレーション"
*えなりさん
 なるほど、ほんとに皆さんに愛されていた方なんですね
*能村さん
 ほんとうに橋蔵さんて方は、人への思いやりとか気遣いのある方だったと銭
 形平次の関係者にお聞きするとみなさんおっしゃいますね。
 プロデューサーに言わせると、脚本も打ち合わせの段階では徹底的に議論し
 たり話し合うが、これで行くと決まったら現場では一切口を出さない
✎(この話は映画時代からも有名な話ですね。橋蔵さまはどちらかというと理論家の方でしたが、決まったらそれに従うという方でしたね。)
 (銭形平次で)忙しいゲストの人は、自分よりも優先させて取らしてやってく
 れと、主役のほうから率先して言う、
 スターのわがままな所が全然なくて40度の熱があるようなときでも絶対休
 んだりもしないし、実に仕事場でのマナーが最高のスターだったと聞きます
 ね。 私自身も何度かお会いしたことがあるんですけれど、会うたびに素晴
 らしい人だと思いました。でもなくなったのが55才でしょう。
*えなりさん
 若すぎますよね
*能村さん
 ほんと残念でしたね。
*えなりさん
 (京都の撮影所に行った時に、橋蔵さんの話を聞いていると)
 スタッフさんや美術さんとかと対等に、もしくは下から付き合って気を使っ
 ていた方なのだな、と。
*能村さん
 本当に、珍しい方はいなんじゃないかな。そんなに、こういう方はいらっし
 ゃらない
*えなりさん
 人柄もさることながら、月形半平太面白い作品でございます。
 見ごたえのあるストーリーそして大川橋蔵さんのお芝居も注目して、是非と
 もごらんください。

※ 明日1回目の放送になりますので、慌てて掲載させていただきました。
ご覧になれなかった方に・・少しは伝わったでしょうか。

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