このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
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✱ 股旅もの・・立姿、歩く姿✱ #2017.9.29
「旗本退屈男、謎の決闘状」の撮影現場にいた比佐芳武さんが、新人の橋蔵さまを見て、「やくざものもいけそうだ」と、そして実現したのが草間の半次郎一作「喧嘩道中」。その二作目が「旅笠道中」になります。
「旅笠道中」の三波春夫さんの歌が流れ街道を歩いている姿 で一目惚れ?した私。
当時、やっていた映画の途中から入り、ドアを開けたとたんスクリーンに釘付け。
普通の人には考えられないと思うのだけれど、街道を歩いている姿に惚れてしまったのが橋蔵さま大ファンになったきっかけです。
小学生になったばかりの私が、股旅姿で歩く橋蔵さまにぞっこんになるとは何と、その当時から見極める目が肥えていたのかなと、自負しています。
立回りも流麗な侍の動きもいいのですが、なかなか様になりにくい長ドス剣法も、腰が据わって背筋が伸び美しくできるのは橋蔵さまだけですね。
股旅もので、他の俳優にはない、颯爽とした立姿、歩き方の美しさを見せてくれたのも橋蔵さまならではのことですね。
画像は「旅笠道中」から、私の目の中に一番最初に飛び込んで来た橋蔵さまの場面です。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱ ちょっと一服・・「橋蔵まつり」(2)✱ #2017.9.27
大阪での「橋蔵まつ」の続きです。
橋蔵さま本当に嬉しそうな笑みです。
応援にかけつけてくださったひばりさんとの舞台の様子(左の画像)
ひばりさん、いづみさんと仲良くパチリ(右上の画像)
控え室で・・お芝居「若さま」のメイクアップが出来上がりました・・ね。(右下の画像)
ひばりさんといづみさんは東京からかけつけてくださって歌も披露してくださいました。
橋蔵さまも張り切って、歌ったり、踊ったり、チャンバラをしたりで、楽しい一日であったようです。
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✱ ちょっと一服・・関西で「橋蔵まつり」(1)✱ #2017.9.26
投稿をしていただく橋蔵ファンの皆様、そして投稿は難しいけれどいつも楽しみにして訪問していただいている皆様、夏の疲れと寒暖の差が激しかった気候でお身体にお疲れがでるときですのでお気をつけください。暗くなるのが早くなりました。何となく物淋しくなります。
今週後半から数日間関東は低温注意報が出ていますし、温かくしてお過ごしください。私はお彼岸のあと、冬用の寝具の用意をしてしまいました。
少女時代を橋蔵さまと共に育ってきた私達は、今の年齢で作品を見ても、あの頃と変わらぬ憧れに浸れることは嬉しいことですね。憧れというものは年代と共に薄れ変わっていくものなのですが、橋蔵さまの魅力はすごいと思います。永遠の憧れの人で、素敵なお兄様なのです。
さて、ブログの方の「ふたり大名」が書き終わりましたので、その頃の橋蔵さまのご様子から、
1957年5月28日に「ふたり大名」が封切になりました。
その頃橋蔵さまのお姿は・・東京にありました。5月31日には藤間谷鹿追善舞踊会が東京歌舞伎座であり、藤間紫さんと「蝶の道行」を踊られました。(右の画像・・橋蔵さま綺麗ですね)
そして、大阪へ。6月2日には東京国際スタジアムで前年好評であった「橋蔵まつり」を、いよいよ関西の難波の体育館でも開催しました。
演目は東京と同じく「若さま侍」と「藤娘」と「歌」でした。大勢の応援出演があり前回にも増す大盛況。
(敬省略)北上弥太郎、伴淳三郎、嵯峨美智子、千原しのぶ、浦里はるみ、星美智子、伏見扇太郎、東千代之介、大友柳太朗、美空ひばり、雪村いづみの皆さん、京都撮影所所長の祝辞があり、またまた橋蔵さまの人気は上昇していきました。
2回目には、入りきれないので、チケットを払い戻すという騒ぎまで起こったということです。(左上下の画像は「橋蔵祭り」での藤娘・・グラビアからではない小さいものからなので、ちょっと分かりにくいかも、ひとつは余分なところをぼかしてあります。)
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱ふたり大名ロケ撮影時のひとコマ✱ #2017.9.22
ブログでの「ふたり大名」掲載がやっと終わりました。その最後に「こぼれ話」として末尾に簡単に書いていますが、「ふたり大名」のラストシーンをとるロケ現場でのお話を少し。
新緑と青い麦、菜の花に囲まれた別天地のようなところです。(作品がカラ―でないので残念なところです。)
数日湿りがちだった五月空があざやかに晴れ、絶好のロケ日和になりました。
ちょっとしたピクニック気分でスタッフはロケバスに乗って大はしゃぎ。しかし、それもつかの間、バスが揺れること。えくぼ道と評判のところにもうもうたる砂塵です。元気者の橋蔵さまもグロッキー、「ううん、日本の道は悪いと聞いていたが、こう悪いとは、拙者不覚にも知らなかった」(こうおっしゃったかどうかは・・分かりません)、ロケ隊も振り落されないように神妙に座っていました。
肝心なのはここから、出羽六郷藩のお家騒動も無事解決し、ニセ若殿様から解放された弥太が、本物の若殿様と琴姫に見送られて、梅香と勘十と山をくだって行くシーン。弥太と梅香のお互いに見つめ合う仲の良いシーンを撮り終えたと思ったら、撮影隊は山の上のシーンを撮るために移動します。橋蔵さまも、息つく暇もなく山の上へあがると、衣装部が待ちかまえていて、粋な弥太の姿から若殿様の姿に早変わり。
田園の中の道を一目散にかけつけ、休む間もなくキッチリとした衣装に締め付けられて、フウフウいう橋蔵さまを見て、深田監督が言ったそうです。「まあ、少しは辛抱するんだね。主は変わらず美女二人とラブシーンをするんだから。ラブシーンのWスチールだね」✎(橋蔵さまがいくらスポーツマンで、野球好きだとは言え、それはきついと思いますよ)
✱四方山話・・目は口ほどに物をいう✱ #2017.9.18
(1958年5月頃の雑誌特集記事から抜粋、大部分、私なりの解釈と文章でまとめました。)
👀《瞳が輝く明るい二枚目の甘さ》
「魅力なんてないよ、だから一生懸命にやってるんだよ」・・橋蔵さまに”魅力について”と質問しようものならいっぺんに茶化されてしまうでしょう。ご自分で自慢するものではないので、橋蔵さまの魅力について分析していきましょう。
一番の魅力は、何といってもあの目🌱 ・・瞳です。
橋蔵さまの目は大変イキイキとしていて、また大変な甘さがあります。
✐(そうそうその通り。橋蔵さまの目は輝きがあり、とても綺麗で甘さのある”流し目”なので、嫌らしくなくイキイキとしています・・・その目が語るのです。)
二枚目に”甘さ”は欠かせない大切な武器で、この甘さがあるなしによって二枚目のスターとしての成長が左右されるというほどのものなのです。
天下の二枚目長谷川一夫さんにしても、あの艶っぽい瞳があって、二枚目としての艶を出すのにどれだけ役立っているかしれません。
勿論、艶を出すための修業をつんでのことですが、まず生まれながらに、いい目に生まれて、それからのことなので、その点、橋蔵さまは幸運の星の下に生まれ合わせたといってよいでしょう。
✎(橋蔵さまはお小さい時の写真をみても分かるように、じつに端整な顔立ちで利発な顔をしています。よく子供の時に可愛いといわれてるだけの子供は、成長するにつれて美男子にはなりません・・・本当に橋蔵さまはよいところばかりをもらって生まれて来たのですね、羨ましいかぎりです)
「橋蔵さんの魅力は、やはり目元にあると思いますね。橋蔵さんは目が小さいから、目張りを考えてほしいと、入社初めの頃言ってましたが、僕はあの目がいいとおもってますよ」と東映京都メーキャップの責任者である係の方が言っているほどです。
✐(あの時代の時代劇の大スターは、自分で役柄のお化粧法を研究し、自分で化粧ができました。ですから、自分の欠点も利点も上手く調和させて、自分の持ち味をつくりあげていきました。橋蔵さまはお化粧が本当に上手い)
また、橋蔵さまほどいろんなかつらをつけてもよく似合い、その点でも橋蔵さまは、いろんな役に扮するうえからも大変得をしているようです。
✐(橋蔵さまの顔形は時代劇鬘が本当に似合います。顔のパーツもよいことが、化粧をするといっそう利点でしょう)
一番似合うのは”若さまマゲ”だそうです。
橋蔵さまの若々しい魅力がそのまま出てきていること、そこに橋蔵さまのキビキビとした動きとセリフがのることで引きたつということでしょう。
✎(江戸っ子育ちの歯切れのよい口調が、爽やかな演技によく似合い、橋蔵さまの魅力を強調するのですね。それでいて、江戸っ子のぶっきらぼうではなく、橋蔵さまの形のよい口元からの気持ちのよい”こわね”でのセリフ・・優しさと甘さのあるイントネーションで私達を虜にしていきます)
顔全体もキリリとしまっていて程よいのですが、橋蔵さまに言わせると
「もう少し太りたいんですよ、そうすれば頬もふっくらとしてね、押し出しもよくなると思うんだけどなあ・・」
と言っていますが、デビューの頃から比べれば、ずーっと貫禄のついてきた橋蔵さまです。
✎(皆様もお分かりになっていらっしゃるように、若さまの「鮮血の晴着」あたりからふっくらとしてきたのが分かります。橋蔵さまは、寒くなる時期に少し顔がふっくらしていたと思いますけれど??)
橋蔵さまの全身の内で、またよいのが腰の線の美しさです。
✐(そう、ちょっとふっくらとしたお尻と、筋肉質なのですが、それを感じさせないすんなりとした脚ですから、着物の線がとても美しく、帯を締めた後ろ姿が綺麗でうっとりしてしまいます。着流しが橋蔵さまのように美しい俳優さんは他にはいません。よぶんなことですが、立回りで役によって素足を見せることがたびたびあります。これは、橋蔵さまの脚の線が綺麗だということを意識して立回りに・・ということもあったそうです。橋蔵さまが舞台で若さまを演じる時に、着流しの帯のうしろを締めてもらう時、背筋は伸ばし膝を少しまげ、腰を落として締めてもらっていますよ・・綺麗に見せ、しっかりとした着付けをするのにも、工夫が必要です)
すっきりとした印象 爽やかな男前 江戸前のキビのよさ
こういうところが、橋蔵さまの魅力だといってよいでしょう。
舞踊が出来ることも、身体つきに”甘さ”をもたらしている要素でしょうし、魅力の一つです。
そうしたいろいろの長所がより集まって、出てくるものは「明るさ」です。
橋蔵さまは、「明るい二枚目」といってよいと思います。(橋蔵さまの魅力はこうだというのは、記事を書いた記者の見解。それぞれに感じる魅力は少しずつ違うところがありますからね)
✐(そうですねぇ、橋蔵さまの印象は、いつも白い歯を見せてにこやかに笑っていいます。橋蔵さまの俳優としての絶対のポリシーです。そうでなければ、あの瞳のイキイキとして優しい輝きの瞳にはなりませんもの。スクリーン上、芸能誌上私たちには明るく爽やかな二枚目の橋蔵さま)
💙 ここでの話から外れてしまいますが、
その橋蔵さまが、ひょっと見せる孤独な表情があるのです・・笑顔を絶やさない明るい橋蔵さまと寂しさを映しだす橋蔵さま・・私はふとした時に見受けられる橋蔵さまの寂しさにジーンと胸打たれます。(よけいな事でしたね)
✱若さま・魔の死美人屋敷から✱ #2017.7.27
東京は、昨日今日と曇りがち。昨日は蒸し暑かったけれど、今日はいまのところ窓を開けていても大丈夫。
今、うるさくミンミンゼミが泣いています。
昨日の夜は「若さま侍捕物帖 魔の死美人屋敷」今月最後の放送日でした。
まだ線の細い橋蔵若さまですよね。「若いなあ」・・今回はその当時、私が小学生になったばかりの目線で見てみました。その年でこの作品を見ていたら、内容は理解できなかったであろう。見ていて、橋蔵さまが綺麗だ、チャンバラが見ていて多いし格好いいなあ、と思うだけだったでしょう。
橋蔵さまの所作が綺麗だ、立回りが舞っているようで美しい、というのは、大人になって色々対照して言えること。
あの頃の子供には、あのように綺麗で格好いいヒーローに憧れを持つということが第一番。そう思うと、同じ時代の時間を過ぎて来た人にとってはビデオというものは有難いものですが、仮面ライダーのようなスーパーヒーローものとアクションもので育ってきた若者には共感できるところが見当たらないと物足りないでしょうね。そこへ、日本の素晴らしい文化、風景、気候が失われていく現在、大衆娯楽時代劇などが見なおされる時は来なくなるのでしょうか。
TBSが10月から6年ぶりに「水戸黄門」を復活させます。黄門様は武田鉄矢、説教じみた独特な喋り方がどう出るか、黄門様の品格はどうなってしまうのか。助さん格さんには若手俳優を起用し、時代劇が低迷しているので、若手俳優たちの”時代劇の登竜門”的な役割を果たせればということらしい。
今どきの若者のカッコいいだけで人気を取るだけでは一時的なもの、NHKと同じようなうわべだけの時代劇は作ってほしくはないと思います。
時代劇の品格も落ちてきています。気品ある俳優がいません。どんどん使い捨ての時代です。芸能人も使い捨ての時代。スター、役者、俳優という言葉もつかえない人達が映画、テレビに出ているのです。
愚痴になってしまいました・・ 気分を変えて
「魔の死美人屋敷」を大人としての目線から・・・
千原しのぶさんの粋さと橋蔵さまの粋さが見ていてさっぱりとしていていい感じ。
お蝶が独り者だと聞いて、若さまお蝶の家へ行き、帰りを待っていて寝ている??若さまを膝枕してお蝶の「ねえ、御武家様、あたしお武家様に惚れちゃってもかまわないかしら」というセリフをはぐらかすように、「お蝶、空だぞ 」とお銚子を振られたお蝶の顔がいいわ。
その反面お蝶が喜仙を訪ねた時、若さまに会えず帰ろうとしている姿を見つけお蝶を追て行き声をかける。
若さまにくれぐれも気をつけてほしいとのお蝶に、「ああ。お前もあまり俺に近寄らない方がいいぜ」に肩を落とし帰って行くお蝶の後ろ姿と見ている若さま、ここの場面絵になります。
無事ひと段落、若さまはそこにいたお蝶の顔を見て、 にっこりする若さまの笑顔が印象に残ります。どういう意味の笑顔?
お蝶が若さまを忘れられなくなってしまったのもわかります。
立回りは上手くなってきています、何処のところもよいのですが、ここは意を決して・・。それよりも、立回りに入る前の若さまもよい。
二百石三百石で言いつけを聞かないのなら、この屋敷からでることはできないという和尚に、「ほほう、そりゃ不自由なことだな、」と言い若さま刀に手をかけると同時に、四方を囲んでいた侍達が現れた時の目の配りは何とも言いようがないくらい良いのです。
阿部伊予之助の屋敷に入り込んだ若さま。
「坊主、本性を現したな」 「雉も泣かずば撃たれぬものを、今宵こそは生かして帰せぬ」
「三守、増山、伊予之助もいたはずだがどうした、お目当ての顔を揃えてくれなきゃ、また日を改めて出直すぜ」
と言い、かまえるところなどうまくなりました。そしてここの立回りで好きなところは、廊下から庭に倒れている障子に、立回りをしながら足を入れるところです。橋蔵さまが足を入れる前に、何気なく斬られ役の人が橋蔵さまが足を入れても大丈夫なように障子の位置を少し直しているのです。
息の合ったちゃんと計算されての立回りはいいものです。
✱「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」他3作品に感激✱ #2016.6.15
5日間、橋蔵さまにお会いしまして、堪能させていただきました。先ほど最後の「鯉名の銀平」放送終わりました。また、放送してくださる事を念じています。
何度も見たいし、初めての方の目にふれてほしいのです。
今の時代劇がいかに面白くないか、納得させるだけの俳優と言える人とはこういう人よ、ということを知ってほしい。
28才の若々しく颯爽とした「若さま」の橋蔵さま、32才の二枚目の男の色気ある「半平太」の橋蔵さま、晩年長編ドラマ52才、53才、54才と一年毎の貫禄ある男というものを演じた橋蔵さま。
橋蔵さまは1960年代の映画では、今までの甘さと二枚目の線から、男っぽい大人の雰囲気にいい意味での凄みが出てくるようになりましたね。
テレビという茶の間に、穏やかな中に厳しさある二枚目の「平次親分」で爽やかに登場して18年間、お茶の間に娯楽時代劇を釘づけしてきたのです。
当時、常に橋蔵さまの舞台を観ていた人は、武士もの、やくざもの、町人ものといろいろな役を見ることが出来ましたし、刀での立ち廻りも見ていましたから何の不満を?感じることはなかったと思います。でも、テレビだけで橋蔵さまを見ていた人、テレビで始めて橋蔵さまを知った人には、物足りなかったと思います。
その不満を吹き飛ばすように、落ち着いた大人を演じる新しい橋蔵さまが長編ドラマでやってきたわけです。
3作品とも、橋蔵さまがやりたかったものですね。
沓掛時次郎は、やくざを捨てて堅気になって親子を守っていこうとする人情がらみの物語。表に出せない優しさが伝わってきます。
荒木又右衛門は、特にそのふさわしい年代を待っていたものでしょう。
1959年の右衛門御大の荒木又右衛門「天下の伊賀越 暁の決戦」では本田大内記の役でした。
沓掛時次郎、鯉名の銀平は二枚目がやるやくざものの定番ですが、映画ては大映がやってしまった。橋蔵さまはこの2作品もやりたかったものでしょう。
特に「雪の渡り鳥」は尊敬していた長谷川一夫さんの当たり役になったものですし、六代目尾上菊五郎から長谷川伸がいかにやくざの世界の決めごとなどに精通していたかを歌舞伎時代に聞いていらした橋蔵さまには、是非ともやりたかった作品でしたでしょう。
舞台でも1984年2月大阪新歌舞伎座でもやっています。(蛇足ですが、この時橋蔵さまは舞台の袖で倒れられたようですが、最後まで舞台は務めました。)
「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」はやっぱりいいですね。映画全盛期にもやっていただきたかった作品でした。
最後、雪の中椿の木が出てきた時、「あっ橋蔵さまの大好きな椿」だと。
椿と橋蔵さま絵になります・・にこりとした微笑みを浮かべ暗闇のなか去って行く銀平・・・絵になり、忘れないでしょう。
そうそう、2~3日前に、そういえば「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」での挿入歌は
五木ひろしさんが歌っていたということは覚えていたのですが、うる覚えだったので曲を探していましたら、「旅鴉」のところのカラオケの題名の写真が何処かで見た写真、映像クリックして見て見よう・・・動画が流れました・・そうしたら、見たことがある並木が・・・そして、後ろ姿のやくざに笠が・・・橋蔵さまの「旅笠道中」動画がカラオケの流れに映し出されていたのです。”うわっ、こんな所で見つけるとは・・”
実は、橋蔵さまの「旅笠道中」の動画で私用ビデオを2年前に作成した時に使用した歌が、三波春夫さんの「旅笠道中」と五木ひろしさんの「旅鴉」で作ったものだったのです。橋蔵さまの「旅笠道中」にとても合うのです。ついでに長編ドラマ「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」の挿入歌「鯉名の銀平」もこの歌に合わせ、歩いている姿を描いてみてください。
平次親分も低い声でしたが、それ以上に低い声で演じていますから、重みがあります。こういう声がでる橋蔵さま、もっともっといろんな役が出来たでしょうに。
白髪が混じった鬘はつけないと言っていた橋蔵さまですが、橋蔵さまある程度のお年になったら「水戸黄門」演じてみたかったようです。✎(黄門様は白髪ですからいいのですよ。)
橋蔵さまの黄門様、品位があって穏やかで優しさが溢れ素晴らしかったでしょうね・・見たかったです。
✱茶飲み話で~す✱ #投稿日2017.9.13
北海道の大雪山からの紅葉の便りが聞こえ、着々と秋の訪れはやってきています。東南アジアの方へ向かっている台風が、今週末には向きを東に変え、日本列島へ上陸し、横断するようです。すっきりしない天候に気分もふさぎがちになってしまう方もいらっしゃることでしょう。
そんな時は、橋蔵さまのことをちょっと思い出し、明るい気分にいたしましょう。
私の頭の中も古の事をほじくり出すにも、ごちゃ混ぜになり、年代を行ったり来たりしてしましますが、こんなことがあったあんなことがかかれていた、と橋蔵さまのことをお伝えしたい気持ちを分かっていただき、お付き合い願えればと。
明朗な橋蔵さまの撮影、ロケ秘話を少しですが楽しく読んでいただければ、お空の橋蔵若さまが、
「おいおい、そんなことあったかい?」と苦笑いをなすっているかもネ。
(私なりに編集しておりますことご理解ください。)
ちょっと戻ってブログあらすじ掲載した「修羅時鳥と「「若さま侍捕物帖・死美人屋敷」の時のこんなお話
「修羅時鳥」の撮影中のこと。
場面は、衣江が銀荘太郎から預かった櫛を髪にさしていないのを見つけるところでのこと。本多家の江戸屋敷から衣江を救い出し逃げて渋川十蔵の屋敷まで逃げてきて、眠っていた衣江が気がつき、荘太郎の顔を見るとその懐に衣江が飛び込んでいきますね。その衣江を荘太郎がしっかりと抱き締めるわけです・・。その衣江を抱きしめる橋蔵さまが、真に迫る田代さんの演技に震え上がったのか、ガタガタやっているので、「きみ、寒いのかい」と萩原監督が決めつけたように言うと、「今日は大寒の日でしょ」ととぼけた顔の橋蔵さまでしたが、あとで同僚にこう話したそうです・・「女の生身ってばかに暖かいね。お蔭で暖かすぎてついガタガタさ」。聞かされて相手は、「ちぇっ、三寒四温みたいだなぁ」と言ったというのは本当かな?
「若さま侍捕物帖・死美人屋敷」の時のこと。
秘剣”一文字崩し”を習得し、免許皆伝?の橋蔵さまは、その切れ味が嬉しくて、セット待ちの間、草を切ったり柱を切ったりしていたそうです。この作品の中で、死美人に扮する新人の若水美子さんは殺される役は初めてのことで、恐る恐る橋蔵さまの機嫌をうかがうと、橋蔵さまはニヤッと笑い、「それでは拙者の”一文字崩し”早速試し斬りとまいるか」、若水さんの鼻先にさっと刃を抜いたからたまりません。若水さんは、キャッと腰を抜かしてしまいました。それを見ていたスタッフが、「橋やん、これは全く気違いに刃物だね」と言えば、「いやいや、凶器ではござらぬ。これは竹光で・・」と、すまし顔の橋蔵さまでした・・・とさ。
✱四方山話・・帯に短し襷に長し✱ #投稿日2017.9.9
(1958年5月頃の雑誌特集記事から抜粋し、私なりの解釈と文章でまとめています。)
ご存知の方はまあまあ、こんな記事が載っていたのを知らなかった人は読んでみてください。
🏠今回は、当時の橋蔵さまのお住まいの様子です。
《理想通りの家ってないものですね》
映画界入りしてから丸三年、この頃橋蔵さまは京都で旅館住まいをしていました。
橋蔵さまの住居は東京にありましたので、不平ひとつ言わずに旅館住まいをしていた橋蔵さまだったのです。
(今なら、マンションを住まいをするところでしょうね。)
★旅館での橋蔵さまは女中さん達からどのように思われていたのでしょう。
「大変規則正しい人で、身のまわりもいつもきちんと整理され、手がかからないので、とても楽です」とおっしゃています。
橋蔵さんが朝から撮影がある日は、6時半ごろに起きて、お風呂に入り、洗面を済ませ、食事をして、車に乗ってスタジオへ、というまでの時間は20分位、車を待たすことはほとんどないといいます。★
その当時の様子からも、橋蔵さまの人間性がお分かりになりますでしょう。
東京には、芝公園に義父の六代目が住んでいた洋風のモダンな平屋建ての住居がありました。義兄の九朗右衛門さんもその当時はご一緒でした。橋蔵さまはほとんどが京都ですので、芝のお家に橋蔵さまの姿を見かけるのはまれなことでした。
★「もう京都がほとんどだし、この辺で京都に家でも建てたらどうですか」と最近では人からすすめられ通しです。
大川橋蔵といえば、もう押しも押されぬ東映の人気スターですし、この頃のように訪れる人の往来が激しいのでは、旅館住まいも不便を嘆くことが多くなったようです。
「笠原くん。どっか家を探そうや・・」
橋蔵さまも、ようやく半年位前から乗り気になったようで、笠原マネージャーと真剣に家探しをはじめていますが、「帯に短し襷に長しで、なかなか理想通りにはゆかないね」とこぼしています。
もし橋蔵さまが新しい家を作るとしたら、きっと立派なお風呂を作るのではないでしょうか。
橋蔵さまは大のお風呂好き、撮影所から宿に帰ると真っ先にお風呂に飛び込むからです。江戸っ子らしくお風呂も早いのです。★
橋蔵さまのいた部屋は、ベランダ付の六畳で、三面鏡、レコードプレーヤー、洋服ダンス、沢山のお人形、橋蔵さまの大きな額入りの扮装写真、がすぐに目についたようです。
京都でもう一つの住いというと、スタジオの部屋です。
1958年一月に、東映撮影所内に俳優会館が出来上がり、橋蔵さま専用の部屋もでき大喜びでした。
壁には、義父六代目菊五郎丈の写真を飾ってあり、毎日それを芸の鑑として励んでいました。五月頃から壁の一隅にご自分の気にいったポートレートを五枚、額に入れて飾りました。全部素顔のポートレートで、それぞれに動きのある写真で、大変気に入っていたようです。
✱ 四方山話・・橋蔵さまは紺がお好き?✱ #投稿日2017.9.4
(1958年5月頃の雑誌特集記事から抜粋し、私なりの解釈でまとめています。)
橋蔵さまは、ぱっと人目につく派手さより、本当のおしゃれの紺がお好き 、
「おしゃれについて・・と、よく雑誌社の人に聞かれるんだけどね。どうも、ぼくは無しゃれでね」と橋蔵さま。あれだけの二枚目でいて、橋蔵さまはその点は案外さっぱりとしているようです。
橋蔵さまの洋服の色を例にとってみましょう。紺、グレイ、ねずみ、黒。ちょっと変わって、替えズボンなどに明るい水色があるぐらいで、橋蔵さまは地味好きなのです。
「どうして橋蔵さんは、もっと派手にしないのですか。俳優さんなのだしもっともっと派手にしたっていいでしょう」と、よく人にいわれたりしますが、
「どうもねえ、ぱっと人目につくのが嫌いな性分でねえ、いざ作るとなると紺が多くなっちゃうんですよ」
という橋蔵さまですが、実は本当のおしゃれといってよいかもしれません。
昔からおしゃれとはなにか、ということについて、「男の本当のおしゃれは、紺にはじまって紺にかえる」ということがいわれます。当たり前な普通の紺が、着かたで一番のおしゃれであるという定説なのです。
確かに、洋服に本当の趣味のある紳士をみると、たいてい紺をうまく生かして着ているものです。好青年橋蔵さまは、とにかく紺系が好きですから、洋服姿の橋蔵さんは、いつもすがすがしい印象が残ります。
衣服の買物はどこでするのでしょう。
「やはり、流行の本拠地は東京だしね、東京でないとセーターひとつにしてもいいのはないのよね。だからね、なるべく東京で買うようにしてるんだけど、忙しくて暇がぜんぜんなくて。それでね、この間も三日間休みができたんでね。東京へ行ってきたの。セーターからネクタイ、ずいぶん沢山買っちゃったよ」
和服はよく似合う橋蔵さまですが、和服は京都でもあまり着ていないようです。(この時はまだ旅館ぐらしでしたからね)
楽屋着の浴衣はいつも着ていますが、この間、茶色の茶羽織を珍しく着ていました。
聞いてみると、義父の六代目菊五郎が愛用していたのを思い出し、それとそっくりのものを作って着てみたのだそうです。茶を着た橋蔵さまはなかなか粋です。いろんな色がよく映る橋蔵さんです。
「どうこの洋服・・ね。いいだろう?」
最近の橋蔵さまのご自慢は、無地のグレイの背広で、ズボンは紺の替えズボンをはき、ネクタイをズボンと同色の紺というなかなかしゃれた装い。
いつもシックな橋蔵さまのおしゃれぶりは、そのままスクリーンで見る若さま侍の颯爽とした現代版ぶりといってよいでしょう。
東京生まれの橋蔵さまは、やはり東京で銀ブラをしながら買い物をするのが好きでした。自分の好みに合わせて買ったものしか見につけない橋蔵さまでした。
32才を過ぎた頃からは茶系のものもお似合いになってきました。
私は、お若いとき、シャツの上にセーターを着てくだけた橋蔵さま、グレーの背広とグレー系のズボンをシックに着こなす橋蔵さま、あずき色ぽいスーツを素敵に着こなす橋蔵さまが大好きです。