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🔶お知らせ・・ロケット掲示板とRara掲示板は同時運営しております

このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
Rara掲示板『大好き大川橋蔵ファン広場PARTⅡ掲示板』【 https://rara.jp/fanhiroba/ 】は同時進行で運営中です。
使い勝手からどちらも一長一短はありますので、できる限りは同時並行で行くようにしてまいります。
どちらを見ても大丈夫なように管理者が責任をもって投稿記事は双方に分かるように掲載していきます。

🟨この掲示板は無料版の掲示板にしましたので、広告が入りますので見ずらくなってしまいました。ご容赦ください。

編集・削除(編集済: 2023年04月07日 07:42)

振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱橋蔵さまを想いながら、楽しい掲示板にしたいですねぇ✱ #投稿日2016.11.18

わたしは身体の都合上実家にはとうてい帰れませんから、私が収集したものが何処に追いやられたのか探すことも出来ません・・諦めています。
私の心に焼き付いている思い出を大切にしていけばいいのです。

🎬 私が高校生のころはまだ太秦映画村はなかった時代。オープンした次の年に一度行きました。あとはファンクラブの夏の京都旅行で行ったわね。ファンクラブ夏の京都旅行は、橋蔵さまの撮影風景のところへの企画が必ずあったので、野外ロケ現場は楽しかったな。

🚑 1984年3月15日が「銭形平次」最終回の撮影が終わった日、6月はその後でしたね。
1984年6月といえば、橋蔵さまは余命わずかと診断を受け5月中旬に最初の入院をしましたので、決まっていた6月の明治座は高橋英樹さんが代役で公演し、橋蔵さまは舞台の出来はどうだろうか、お客様の反応はどうか、来年はどんなふうな舞台にしようかと、病床で悔しい思いをなさっているときでしたね。
2度目の入院をした日が近づいてきましたね・・・。橋蔵さまが最後に歌われた「北の蛍」も思い出してしまいますが、悲しい寂しい歌なので・・私は好きではないなぁ。
今年は33回忌でしょう、この日を過ぎたら、橋蔵さまは生誕だけで数えていこうと思っています。元気をくださる橋蔵さまがいいですもの。そして、掲示板の花も橋蔵さまのお好きな紫系色だけで載せてきましたが、これからは多彩な色の花等を載せていきますね。
皆さんと一緒に少しずつ変化を持たせていけたらいいな、と思っております。
ただ、仲間だけの話の場ではなく、掲示板に書いてこなくても、この掲示板を楽しみに見ていただけるようにしていけたらと思っています。

そして、この掲示板においでになった方、たまには思ったことを書き込みしてみませんか・・・心より待っています。

ブログ"美しき大川橋蔵"私の想い出、 まだ「江戸三国志・疾風篇」までですが、画像をふんだんに入れましたので、よろしかったら覗いて見てください。
🎂私が生まれた年は六代目がお亡くなりになり、橋蔵さまは20歳の時ですからこれからどのようにと大変な時の橋蔵さま、そして私の誕生日が橋蔵さまの命日、片方では楽しく、片方では・・・と同じ日に相対するのはもう止~め。明るい方がいいですもの。

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振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱橋蔵さまってどんな人・・ナノ✱ #投稿日2016.11.4

この掲示板をご覧になっている方皆さますべてが、橋蔵さまのことをしっているとは限らないと思いますので、ちょっとしたことを少しずつ書いて見ましょうか。その事柄から、橋蔵さまに少しでも踏み込んで興味をもっていただきたいと思います。

映画界にはいったころの、橋蔵さまのことを少し垣間見ましょう。

豊かな趣味は豊かな演技につながるものです。橋蔵さまの趣味は沢山ありました。歌舞伎の女形でしたから、三味線、琴、胡弓はお手のもの。
小唄が上手く好きでしたが、京都の旅館暮らしでしたから、口三味線で唄っていたということです。チントンシャン♪? 小唄は、しっとりとして俗気がなく、艶っぽく、江戸前の粋があっていいですよね。橋蔵さまの粋にとっても合います。
洋ものは、ジャズ、ラテン音楽、軽音楽。疲れている時は軽音楽を聞いていたようです。そういえば、ダンスもOKデスヨ。当時は各映画会社の若手俳優が集まり定期的にダンスパーティーがありました。他社の女優さんと楽しくお話をしながら踊って、橋蔵さまはタンゴも上手に踊ったようです。
ロケや帰京の電車やバスの中では、ラジオをかけ歌謡曲を聞いていたようです。好きな歌手は三橋美智也、高田浩吉、美空ひばり。

橋蔵さまの釣り好きは当時から有名でした。六代目のお伴で川釣りによく行っていましたものね。のちに海釣りも大好きでよく出かけたようでし、海にロケの時は釣道具が必ずお伴を。
勝負ごとはしません。勝負?として対戦するのは囲碁、将棋です。
コレクションは、西洋のあやつり人形、珍しいガラスのコップを集めること。
(陶芸等はもう少しあとになってから始めました。)
スポーツ万能ですが、中でも野球、水泳、乗馬。ゴルフもやりましたがお付き合い程度。野球は日大中学部から東映の野球チームでも一塁を守っていました。
水泳は釣りのお伴の時に流れの厳しいところで泳いだり、潜ったりしていますから得意です。橋蔵さまは高いところからの飛込みも綺麗に回転もして。
作品の中でも泳ぐところがありますが、泳ぎ方、泳いでいる姿が綺麗でしょう。
乗馬は、俳優になってから習いはじめたのです。時代劇俳優はちゃんと馬に乗れなければ、と時間がある時、早朝にと通っていたようです。橋蔵さまの乗り方は姿勢が綺麗ですから、ご本人が乗っているか否かはすぐわかりますね。

菊五郎劇団の若手女形であった橋蔵さまに東映は最初に白羽の矢を放ったことはごぞんじですね。
時代劇の若手スターになる人をということでの第一候補だったのです。
ところが、(菊五郎劇団や家庭の問題があり)当の橋蔵さまが乗り気でなかったため、ひばりさん主演での「ひよどり草紙」のスケジュールもあり、橋蔵さまを諦め、第二の矢が錦之助さんに放たれ、錦之助さんが一足先に映画界へ入っていったのです。
橋蔵さまは、映画界に入るまで、並々ならないほどの苦しみ悩み熟慮のすえのことでした。
「笛吹若武者」だけ映画出演し、舞台に帰ろうとしていましたが、これまでにない新しい型の時代劇俳優の姿を見たのですから、一作でファンになった人達がほおっておかないですし、東映側も同じです。そして舞台にはない映画の魅力を感じた橋蔵さま自身も気持ちがゆらぎ、ふみきりました。
もし、映画で失敗しても舞台には戻らないと。

前にも書きましたように三味線はできるし、邦楽囃子堅田流の笛も、踊りは藤間流藤間勘之丞という名取りです。映画でもそれが役立っています。女形だったとはいえスポーツで鍛えた引き締まった体格で、美剣士を演じるのですから文句なしです。

橋蔵さまはご自分で目が小さいことが嫌いだといっています。
橋蔵さまの場合 顔が小さい方であること、目が小さく、唇が小さいため、メーキャップでメリハリをつけても舞台ではどちらかと言うと効果がでないマスクだったのですが、スクリーンでは大変に効きめがあって、この世にこれほどの美男はいないだろうという輝きをあらわしたのです。クローズアップの場合、このメリハリの効果があらわれます。目元を大きくしたり、切れ長の目にしたり、橋蔵さまは本来の端正な美貌に加えてこのメーキャップでグッとファンの心を掴みました。本当に、アップの橋蔵さまは綺麗です。綺麗だからアップが多いのです。メーキャップの上手さは本当に感心してしまいます。
橋蔵さまの真剣に鏡と向かい合っている姿が浮かんできますね。鏡に向ってだんだん役柄に入っていく橋蔵さま。素顔の橋蔵さまには気軽に声をかけることができるけれど、化粧をした橋蔵さまに見つめられると何も言えなくなってしまいいますよね。
その橋蔵さまですから、素顔とのギャップがあったので、大部分の人が「えっ、この人があの大川橋蔵?」とびっくりする人が多かったですね。
当時も、普段背広姿でいると好青年のサラリーマンに見えるので気がつかなかった人たちが多かったのです。そのためショッピングや映画にも気軽に出かけられたようです。そこへ時々伊達メガネを掛けるので余計に分かりません。

1956年6月10日第一回「橋蔵まつり」の開催された国際スタジアムにつめかけたファンがスタジアムを二巻きにしている時の話を少しですが次にいたしましょう。

✱橋蔵さまの魅力のひとつから・・✱ #投稿日2016.11.12

橋蔵さまってどんな人・・・ナノ の続きとまいりましょう。
当時、普段背広姿でいると好青年のサラリーマンに見えるので気がつかなかった人たちが多かった、と書きましたね。
1956年6月10日第一回「橋蔵まつり」で”若さま侍”の一コマを上演するということで依頼されたシナリオライターが当日見た光景です。
その前に、彼はその打合せの時、初めて橋蔵さまに会ったそうです。
📍『ちょっと僕は驚いた。あまりにも役者らしくないからである。この人が、丁髷をつけて、剣をとると、あの颯爽たる大川橋蔵になるのかと思うと、何だか不思議な気がした。素顔の橋蔵君は、そんな第一心象だった。』と言っていました。
前日に立稽古を簡単にしていたが、当日開演前に稽古をするというので国際スタジアムに出かけた時のことです。
もの凄い人垣がスタジアムの前の広場に群がり、行列は両国橋の近くまでになっていたそうです。第一回の「橋蔵まつり」を祝って各社の人気スターもゲスト出演するので、ファンの熱狂ぶりもすごい。開場前の広場にスターの自家用車が止まるたびに、〇〇よ、〇〇だわ、と車のまわりへ殺到する、大変な騒ぎ方だったようです。
この騒ぎの最中に、まことに妙なことが起こったのでした。彼だけが気がついたことで、誰もしらなかったようだったと。
📍『橋蔵ファンの人達が、ゲストスターの到着するたびに取り囲んで熱狂している時、当日出演者の控室になっていた国際スタジアムの前の旅館から橋蔵君が出て来たのです。そして、橋蔵君は大騒ぎをしているファンの人波の中を平然とした態度で「ちょっとすみません」とか何とか言いながら巧みに掻き分けて、スタジアムの事務所の方へ歩いて行ったのです。ところが、誰一人それを知らないのです。自分たちが見に来ている当の橋蔵君がすぐ傍らを通っているのに気がつかないのです。まさかそんなところを歩いているとは気がつかなかったのでしょう。
橋蔵君は、ゲストのスターが自分のファンにもみくちゃにされている間に、悠々と事務所に入ってしまった。橋蔵君が、ファン心理の盲点を突いたような光景を目撃して、本当に変な気がしました。もしファンの一人が橋蔵君に気がついたらどんな騒ぎになっていたのでしょう。
恐らく橋蔵君は一瞬のうちにファンの攻撃をうけてクタクタにされてしまったに相違ない。』
どうして、あんなに大勢の人達が、一人も橋蔵さまの通ったことを知らなかったのでしょう。彼にはそれがよく分かったそうです。
📍『橋蔵君は背広を着て道を歩いていると、いかにも当たり前なサラリーマン風の青年なのだ。強烈な個性を感じさせないかわりに、我々の身辺によくいるような、親しみやすい好青年である。だから、ファンもうっかりしていたのだろう、橋蔵君の魅力はこの辺にあるのではないか。』と言っていました。

📌 私も、背広姿の橋蔵さまにお会いしていますが、そう思います。
あの映画の橋蔵さま、あの舞台の橋蔵さま、とは違って、素顔の橋蔵さまはとってもお優しい年は離れているがお兄さまのようでしたね。映画スター大川橋蔵はもちろん素敵ですが、それでは近寄りがたいですね。優しい人懐こい素顔の橋蔵さまがあったればこそ、当時大衆に受け入れられる何かがあったのだと思います。素顔からのぞく橋蔵さまのひとつひとつが・・・映画の中にも・・・。
💛 私は、役の上の橋蔵さまに今でも映像で魅せられているのは当然ですが・・、橋蔵さまを想い出すときは、やはりお話をしたりして直に接した時の素顔の橋蔵さまが大きな財産になっています。だからこそ、作品にもっと深く入っていこうとする気持ちが自分の中で多いのではないかと思っています。

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振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱久しぶりに、よもやま話✱ #投稿日2016.8.27

台風10号は勢力を強めて向きを変えて、日本へと向かってきています。30日には東日本に上陸?のようです。 これからが台風の量産時期になりますね、早く過ぎ去ってほしいものです。
蝉の鳴き声もだんだん少なくなってきています。そこまで秋の足音が聞こえているのでしょう。日本の今までのような初秋は来ないかもしれませんね。

久しぶりに、橋蔵さまのよもやま話で、少しの気分転換をさせていただきます。
「江戸三国志 完結迅雷篇」の撮影が終わって封切られたのが1956年6月8日でした。 その2日後、6月10日は当時橋蔵さまファンだった方たちには忘れることはない、そう、新芸プロ主催の第一回「橋蔵まつり」が国際スタジアム(旧両国の国技館)で開催された日でした。
早朝4時ごろからつめかけたファンもあったということ、9時にはスタジアムを二巻きにし、約二万人に近い女性ファンが押しかけ、警官の出動もでた盛況ぶりだったということです。
この時に、是非後援会を・・、との要望が強くあったので、この年の9月には後援会の発足になったのです。

美空ひばりさん、雪村いづみさん、星美智子さん、浦里はるみさんが応援出演し橋蔵さまを祝福してくださったのです。(1番目の画像)
楽屋では、花柳啓之先生も来てのお稽古。ひばりさんも橋蔵さまのために一生懸命。(2番目の画像)
星美智子のお糸ちゃんと「若さま侍」の橋蔵さまが颯爽と現れた時は割れんばかりの喝采、殺陣などを披露しました。
次は極め付けの「藤娘」。 (3番目の画像)
長唄囃連中は菊五郎劇団の方たちで、息も合い橋蔵さまは晴れの舞台を飾りました。橋蔵さま、映画に来てから、初めてファンに見せた舞台での舞姿です。

数年後に、その時の事を橋蔵さまがこうおっしゃっていたことがあります。
「橋蔵まつり」は年に1回~2回開くようになりましたが、ひばりちゃんの応援を得て開催した、華やかな「第一回橋蔵まつり」はいまだに忘れずに、その日のことは脳裏に焼きついているのです。 (省略)
歌舞伎の世界から映画に入った僕のことですから、舞台というものはそれがどこの小屋であろうと、やはり懐かしく、今でも実演というと心おどるものがあります。デビューして間もないときでしたから、いまそのころの顔を見ますと、やはりいろんな意味で心労するものが今より多かったからでしょうか、すこし痩せていたようです。でも、それがひと一倍懐かしいのも、やはり「橋蔵まつり」が盛大にぼくの前途を祝福してくれたからといってよいでしょう。

美空ひばりさんのプロデューサーから、新芸術プロの社長になり、中村錦之助さん、大川橋蔵さまをスカウトした福島通人さんが、この時の事を・・
当日祝辞を述べに来た大川博社長も、この盛況には驚いたらしく大変喜ばれて、橋蔵さまを激励され、そのあと福島さんに「今日は大成功だったね、橋蔵君の人気がすごく、我が事のようにうれしい」と肩を叩かれ、面目を施し、「社長、私もやり甲斐がありました」と、うれしさで一杯になった、とおっしゃっています。

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱暫らくぶりに50代の橋蔵さまと✱ #投稿日2061.8.18

暫らくぶりに、橋蔵さまのセレクト、トリミングをしようかと、50代の橋蔵さまを見つめてみました。
「沓掛時次郎」「鯉名の銀平」と。「荒木又右衛門」は仇討ちものなので、セレクト作品はつくりません。(長編ドラマについての筋書、感想文は後日にしますので悪しからず。)
長編ドラマといえば、1981年4月から1984年までフジテレビが放送していた「時代劇スペシャル」の第一回が橋蔵さまの「沓掛時次郎」だったのです。それから、年に一度「荒木又右衛門」「鯉名の銀平」と出演されたのです。
私はこの頃は仕事で遅くまで飛び回っていたので、「銭形平次」でさえ見過ごしていたわけですから、長編ドラマはリアルタイムでは見られませんでした。
テレビでも時代劇不況時代がやってきて、時代劇スペシャルも1984年3月で打ち切られました。
好評だったら、「銭形平次」が1984年4月には終わるのですから、多分この年の5月にも出演の話は出ていたことでしょう。
でもそのころには、橋蔵さまはご自分の体力の限界を感じとっていたのではないかしら。(これは私が思うことですからね。)

橋蔵さまがやりたかった作品「鯉名の銀平」を三年後1983年5月にやれたのは本当に良かったと思います。この「鯉名の銀平」をやらずに終わっていたら・・・。
舞台でも1984年2月の新歌舞伎座でも「鯉名の銀平」をできましたし・・・最後の舞台になりましが、橋蔵さま一か月公演本当に頑張ってくださいました。
ありがとうございます、ファンとして感謝でいっぱいです。
橋蔵さまも倒れ、「時代劇スペシャル」の番組も、こうして見てくると、橋蔵さまは映画の時代劇黄金時代からお茶の間で時代劇がまさに受け入れられていた時代に、娯楽という夢を私たちに与えて生きてきた方だったのですね。
テレビ界の時代劇が廃れていく様子を目にしないで逝かれたのは、ある意味で良かったのかも・・・です。
橋蔵さまは判断の鋭い方でしたから、「銭形平次」を終わりにするという話があった時には、舞台と舞踊の方への考えで重点をおいていたでしょう。
橋蔵さまと一緒に、真の楽しい時代劇はなくなってしまいました。

「沓掛時次郎」映画で知られているのは(戦後)
1953年長谷川一夫主演「浅間の鴉」
1961年市川雷蔵主演「沓掛時次郎」
1966年中村錦之助主演「沓掛時次郎遊侠一匹」
沓掛時次郎というと皆様も雷蔵さんのものが印象にあるのではないでしょうか。太郎吉をおきぬの親のところに預け、「やくざの垢を落としたら、きっと会いに来ます」と言って追う太郎吉を振り切って去って行く。

錦之助さんのは、おきぬと太郎吉親子を三蔵から頼まれ叔父のところに旅立つ日に、親子がいなくなってしまう。一年過ぎた高崎宿で門付けをする親子に再開するところから・・おきぬが死に太郎吉をつれ故郷の沓掛に向う。

長谷川さんのは原作に大体忠実に描かれているようです。
この映画は見たことがないので、一度検証してみたいな。

やはり、橋蔵さまの「沓掛時次郎」は長谷川一夫さんの線のものですね。
贔屓目ではなく、橋蔵さまの時次郎は素晴らしいと思いました。

ここでは、私が何度見ても、目が潤んでしまう好きなところを3ヵ所。
★ 雨の中食べ物を調達に出かけ病に倒れた時次郎が目を覚まし、太郎吉の「何日経ったか知ってる?」との問いに「昨日からだろ」・・「そうか、3日も・・」太郎吉がその間にちゃんの敵を討とうと話をしていた、ということを聞いている時の時次郎のおきぬと太郎吉を見つめる顔、目が何とも言えぬのだ。橋蔵さまのうなされて寝ている顔・・綺麗で素敵です。
★ 身重のおきぬのためにどうしても一両を・・と出入りの助っ人の話を受け出かけていく時、おきぬが帰ってきたら話があると、時次郎も話があるんだと。おきぬが「待っています」と言い、差し伸べた手を握りお互いに見つめ合うのです・・橋蔵さまの表情から伝わってきます・・切ないですねぇ。
★ おきぬが亡くなり太郎吉を連れての途中、追ってきたやくざを追い払い、おきぬの遺骨を手にした時次郎の耳に「ちゃん」という声が聞こえたような、・・そして徐に太郎吉を見た時「ちゃん」と太郎吉が。抱きかかえ「太郎吉」と時次郎が言います。
橋蔵さま、やはり50代の風格ですね。ジーンときてしまいます。そのあとの言葉はいりません。・・・(涙が出てきてしまいました)・・・太郎吉を連れて歩いてゆく姿が・・・(私の心にとても訴えるのです。)

橋蔵さまの若い時の映画での泣きは、どちらかというと好きではないのですが、50代での泣きはじっくりと見いって涙を誘ってきます。

「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」映画でしられているのは(戦後)
1951年長谷川一夫主演「月の渡り鳥」
下田港へ乗り込んで来た帆立の丑松を銀平が痛めつけている間に、お市と卯之吉を一緒にさせようとしたことを、銀はお市が卯之吉を好きだと早合点し旅にでる。しかし、お市恋しさに下田へ戻る。卯之吉はお市が銀平と会ったのをしって、丑松に銀平を斬ってくれと言いに行って自分も捕まってしまう。銀平は丑松一家を叩き斬り、二人に仲良く暮らすようにいい、捕り方にひかれていく。

1957年長谷川一夫主演「雪の渡り鳥」
大鍋の代わりに銀平は帆立へ談判に出向く。お市の父は銀平は生きて返らないだろうと、お市と卯之吉とを夫婦の約束をさせた。銀平は、帆立一家との喧嘩の前にお市に会い本心を確めようとするが、お市が返事をためらったので、誤解した銀平は帆立一家へ乗りこんだ。助人にきた卯之吉から夫婦約束の話を聞き、銀平はそのまま下田を去った。丑松から立退きを迫られ、夫の不甲斐なさにお市は・・。そこへ銀平が現れ、お市は三年前の怨みごとを言う。卯之吉は嫉妬し、丑松に銀平が戻ったこと話す。
丑松との戦いに苦戦している銀平を、卯之吉が銛で丑松にぶつかって行った。銀平は彼の身代りに雪の中を捕方に引かれて行った。

1961年市川雷蔵主演「鯉名の銀平」
銀平はお市の気持をたしかめようとしていたが、彼女ははっきりした返事をしない。下田港の縄ばりを帆立一家が狙ってきた。これを知った銀平は帆立一家との決闘の場所へいく。そこへ卯之吉が姿をみせた。お市と祝言をすませてきたと聞き銀平は嫉妬したが、危い卯之吉を救って姿を消した。
銀平が下田へ帰ってきた。お市と銀平があっていたのを見た卯之吉は、帆立一家にかけこみ斬りこんだ。が、しくじって海中にとびこむ。銀平がかけつけ子分どもを斬り払う。海からはいあがった卯之吉が丑松を倒す。捕り方を見ると、銀平は丑松殺しの卯之吉の罪を引きうけお縄をうける。銀平は、幸せに暮しなといって引かれていく。

大映の二作品は、
銀平からお市に好きかどうか聞くのです。
最後丑松に危ないところを助けられるのです。そしてお市と卯之吉の幸せを願って、卯之吉の代わりに捕まるのですね。
銀平は最後は捕り方にお縄になって行くというのが今までの作品です。

でも、橋蔵さまの銀平は、捕り方が待っているところまで見送るというお市に、お縄になる所を見られたくないと、ひとりで雪の中へ消えていきます。
最後、お市と卯之吉に、なんとも言いようがない微笑みをみせ、雪にかぶった椿が咲いていて雪が降りしきる闇の中をゆっくりと後ろを振り返りながら消えて行く銀平、
これで、テレビからは少しお別れしますという、橋蔵さまのメッセージのようにも私は受け取れてしまうので、涙で目が潤んできてしまい、橋蔵さまの姿が画面から消えても、呆然としてしまいます。

時々、50代の橋蔵さま作品をみかえすと、そのたびに、橋蔵さまの軌跡の素晴らしいことに魅了されてしまいます。

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✱オニワバン・来週の番組から✱ #投稿日2016.6.16

来週の番組を取り上げての“時代劇ニュース オニワバン”の放送をすっかり忘れていて6/5に見ることができませんでしたが、昨日再放送をやっていて見ることができました。

見たい聞きたい知りたいのコーナーは 「大川橋蔵 月形半平太」でした。
ピックアップしてわたし流に書いていきますので、悪しからずご容赦くださりませ。
進行はえなりかずきさん、能村庸一さん、女性アシスタントです。
*能村さん
戦前から戦後、映画の全盛時代にはスーパーヒーローだった月形半平太
テレビになってからほとんど見たことがない。月形半平太は新国劇の澤田正
 二郎の当たり役だった
 映画では、坂東妻三郎、大河内傳次郎、嵐完寿郎、月形龍之介、戦後は市川
 右太衛門、長谷川一夫が 演じていたが、どうして(この月形半平太の作品
 が)消えてしまったのか。 その最後の作品が大川橋蔵の月形半平太、東映
 時代劇の一番最後の花の作品だ。
(ここで作品の良い場面が流れます)。
*えなりさん
 スペシャル感がありすごくいい、面白いと思った
*能村さん
 いいでしょう、これを見てほんとにいいと思った。二枚目だから橋蔵さんの  
場合は。大きいチャンバラが3つ出てきます。詩吟を吟じてのチャンバラ
で、3回とも詩吟をのっけてのチャンバラをするけれど、それぞれに 違う
 チャンバラで、僕は2番目のちょっと酔いしれながらするところが好きだ。
✎(3回ともおっしゃる通り違った立回り、全部好きなのですがやはり最後ですね。酔いながらの立回りもいいですよ。)
 「月さま雨が」とのところも「たかが春雨」とすっと言って帰るところ、橋
 蔵らしくて粋な感じでいい。二枚目ですよ。
✎(本当、橋蔵さまだからあのように描けるのです。酔って着物の前が少しはだけての姿には、やはり「たかが春雨」ですね。橋蔵さまはあそこまで崩しても大丈夫な二枚目なのです。)
*えなりさん
 今、見てもカッコイイ方でね、(そういう方は)なかなか少ないですけど。
*能村さん
 (本当に)いいですね。
*能村さん
 銭形平次が長かったから、テレビの人だと思う人もいるだろうけれど、その
 前に、東映時代のプリンスと言われて、トミイという愛称で親しまれていた
*えなりさん
 プリンスという感じの本当に端正なお顔だちだな、と思います。

元内弟子の田井克幸さんと丹羽貞仁さんのインタビューが録画で流れました。
話していることが途中でカットされていたりしているので、言っていることが途中で次の話になっていたりしていました。
〈大川橋蔵はどんな人〉というコーナー
🐧仕事にこだわった大川橋蔵
*貞仁さん
 仕事を家庭に持ち込むタイプだった。 普通に家族団らんで食事をするとき
 も、お手伝いの人達やお弟子さん達と大勢で鍋をつつくときも会話は全部
 仕事しかなかった人。沓掛時次郎で(の時)、家でもメイクしていた。顔の
 色、自分の眉の書き方、目の書き方、母のドレッサーで やって いるのを、
 子供時分ご飯を食べるのを待たされながら見ていた。
✎(この時、沓掛時次郎が船に乗っている映像が、そして橋蔵さまの③バターンの映像が映し出されていました。)
*田井さん
 化粧は、美空ひばり先生に教えていただいたような事を聞いたことがある。
 女形の時は、顔が変わったときにはドキッとした、女性の顔になるんです。
 じっーと見ていたらどんどん変わっていく。ドキッとして。
✎(この時、橋蔵さまの本の中から、女形のメークをしている写真が写りました。)
🍀(橋蔵様、事務所も同じでしたし、すぐに仲良しになりましたから、ひばりさんに教えてもらったのです。ですから、初めの作品の目の書き方なんかは、お二人が似たようなところがありますものね。)

🐧撮影現場での大川橋蔵
*貞仁さん
 子役で銭形平次に出た4才位の時、寝てるシーンがあった。眼球が動いて見
 える。(父が)目をとめろとめろと言うのだけれど、止めろと言う意味が分か
 らなかった。踊りを踊ると夜中まで、もう一回もう一回と。子供なので眠く
 なってどんどん踊りは下手になってしまうのだけれど、それでももう一回も
 う一回と言って・・。
 スタジオに入るまではずっーと横にいたのが、スタジオに入るときにいなく
 なって、あれ?何でいなくなったんだろうと思っていた。(それをずっと思っ
 ていて)のちのち(人に)聞いたら、現場にいるとつい自分が口を出す、監督に
 申し訳ないから、お預けした限りは監督が煮るなり焼くなりしてほしい、か
 らスタジオの外でじれじれしながら橋蔵さんいたよ、スタッフさんから聞い
 た。
🐧 プライベートの大川橋蔵
*貞仁さん
 夏か冬には必ず旅行に行こうと言って家族とお弟子さん含めて皆で慰労だと
 いって、大勢で行動するのが大好きで、 夏の旅行 でも20~30人連れて、観
 光バス借りて旅行していた。
*田井さん
(旅行の時)僕が(弟子なんだから)荷物をもって・・。(ところが)いいんだ
 よ、と自分(橋蔵さん)が2つ持ってるんです、奥さんのと子供さんのを。
普通弟子だったらもつでしょ。(それが)いいんだよ、お前今日は遊びなさ
 い、と言って。
 雪山のロケーションに行く時も、そりを買おう、と。そりで滑るのだと思っ
 ていた。夜召集がかかる。パンを買われていたので、何をするのかなスープ
 とかも。(そうしたら)自分でハムとか野菜とか入れてサンドイッチをつくっ
 ている。そりを利用してスタッフにサンドイッチやさむいからスープを配っ
 た。俺が苦労したからお前たちには食べ物で苦労はさせないから、と言っ
 て。
✎(雪山でのスタッフさん達との写真が出ます。その前には使ったそりもありました。)
✎(橋蔵さんが使用していた下駄、が映りました。)
✎(下駄のことは有名な話ですね。歯が薄くなっていても捨てないで鼻緒をご自分で挿げ替えてはいている。話は聞いていましたが、実際に現物は見ていなかったので、どんなになるまで使っていたのと・・・。考えられません、スターですよ。まさかと皆さん思われますよね。下駄の歯が本当になくなっているのです、下駄の周りも少しずつ全体がかけています。鼻緒だけがかえられていたのがよくわかります。)
“身の回りの物も人もすべてを大切にした橋蔵さん”とナレーション
*田井さん
 田井さんが飲みすぎて大遅刻した時、一発二発も仕方がない謝ってと思って
 いたら、橋蔵さんが来た。「すみませんでした、すみませんでした」と言っ
 たが、(橋蔵さん)何も言わないで、衣装部に入り、そしてセットに入った。
 (そうしたら、橋蔵さんが大きな声で)「おはようございます。皆さん、申し
 訳ございませんでした。うちの田井が遅刻しました」謝ってくれたんです。
 (実の)父親(チチオヤ)いるけど、(橋蔵さんを)ああ親父(オヤジ)だなぁと思
 った。そのあと、ダメじゃないか、仕事はちゃんとしなければと、一言も言
 わない。この時僕、(橋蔵さんの)背中見ました。
🐧 別れの時のエピソード
スター同志の交流をあまり持たない橋蔵さんでしたが”とのナレーション
別れを惜しんだ俳優の一人に・・萬屋錦之介、通夜の時別れを惜しんで会場に一時間はいれなかった、別れはしたくなかったのでしょう
あの頃の方はハートもあるし、そういう面で作品を愛している。父もそうなんだろうな・・と、貞仁さん。

(貞仁さんは、父橋蔵さまのお蔭で、橋蔵さまが共演なされた舟木一夫さん、山本陽子さん、高橋恵子さん、との
お芝居でお世話になっている。坂口良子さんもそうでした。
山本陽子さんは「沓掛時次郎」で、高橋恵子さんは「荒木又右衛門」で、坂口良子さんは「鯉名の銀平」で共演です。
山本陽子さんは橋蔵さまに時代劇をやって見ないかと声をかけられてやったのが最初のようです。)

(田井さん、橋蔵さまのあの笑顔がすぐに浮かんでくるそうです。)
✎(私たちもそうあの笑顔が忘れられませんね。)
“「芸には頂点がない」と言っていた橋蔵さん”のナレーション"
*えなりさん
 なるほど、ほんとに皆さんに愛されていた方なんですね
*能村さん
 ほんとうに橋蔵さんて方は、人への思いやりとか気遣いのある方だったと銭
 形平次の関係者にお聞きするとみなさんおっしゃいますね。
 プロデューサーに言わせると、脚本も打ち合わせの段階では徹底的に議論し
 たり話し合うが、これで行くと決まったら現場では一切口を出さない
✎(この話は映画時代からも有名な話ですね。橋蔵さまはどちらかというと理論家の方でしたが、決まったらそれに従うという方でしたね。)
 (銭形平次で)忙しいゲストの人は、自分よりも優先させて取らしてやってく
 れと、主役のほうから率先して言う、
 スターのわがままな所が全然なくて40度の熱があるようなときでも絶対休
 んだりもしないし、実に仕事場でのマナーが最高のスターだったと聞きます
 ね。 私自身も何度かお会いしたことがあるんですけれど、会うたびに素晴
 らしい人だと思いました。でもなくなったのが55才でしょう。
*えなりさん
 若すぎますよね
*能村さん
 ほんと残念でしたね。
*えなりさん
 (京都の撮影所に行った時に、橋蔵さんの話を聞いていると)
 スタッフさんや美術さんとかと対等に、もしくは下から付き合って気を使っ
 ていた方なのだな、と。
*能村さん
 本当に、珍しい方はいなんじゃないかな。そんなに、こういう方はいらっし
 ゃらない
*えなりさん
 人柄もさることながら、月形半平太面白い作品でございます。
 見ごたえのあるストーリーそして大川橋蔵さんのお芝居も注目して、是非と
 もごらんください。

※ 明日1回目の放送になりますので、慌てて掲載させていただきました。
ご覧になれなかった方に・・少しは伝わったでしょうか。

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✱面白い時代劇を✱ #投稿日2016.5.15

生誕90年 レジェンドトーク 沢島 忠 から私なりに抜粋してみました。
☘ 映画監督となり脚本家でもり、のちに舞台監督までのエピソードをご本人がお話している番組でした。錦之助さんとひばりさんがお亡くなりになるまでの深いお付き合いがあり、このお二人の作品も多く取っている、そのことを頭に入れてお読みくださいね。
橋蔵さまがご一緒したのは「美男の顔役」「若さま・黒い椿」「富士に立つ若武者」「海賊八幡船」「若さま・紅鶴屋敷」の4作品になります。

映画監督になる機会を作ってくれた恩人は月形龍之介さん。沢島さんは錦之助さんとひばりさんとのお付き合いがずっとあった人、二人は天才であった。
錦之助さんの紅孔雀で助監督をしてからの付き合いで、お互いに意気投合して、死ぬまでついて行った。
錦之助は江戸っ子なのにそのような映画がなかったので、一心太助をとり、錦之助の地を出すように撮った。恩人の月形さんには頼んで彦左衛門をお願いした。
東映は、その頃千恵蔵、右衛門の両御大しかいなくて、若い人のが全然なかったから、青春時代劇があってもいいのではないかと思って、錦兄やら橋蔵さんやみんな集めてやろう、ひばりちゃんも。
本社に契約の問題で来ていたひばりちゃんとお母さんが一心太助の試写を見て気に入って、次のかんざし小判は、沢島さんでいくということになった。
ひばりちゃんは歌って踊れて芝居が出来る人、時代劇ミュージカルをやってみよう。当時アメリカからミュージカル映画がいっぱい入ってきていた、ひばりちゃんもミュージカルをやってみたかった。ひばりちゃんとも死ぬまでついて行った。
錦兄とひばりちゃんはわりあい仲よかった、二人はできていましたから。吉右衛門の弁慶のレコードを持ってきてくれた。
千代之介は謹厳実直な芝居ばかりしてちっとも面白くない。ところが酒を飲んだら虎狼撮影所中が大荒れに荒れる位すごかった。よし、千代ちゃん今度は酒を飲んだ時の暴れ方でいけということでかんざし小判の相手役に。
ひばり・チエミの弥次喜多珍道中では、チエミちゃんが負けず嫌いだから相当ひばりちゃんを意識していた。演技者としてのひばりを論じる人がいないが、すごい人。
ミステリー作品の「紅鶴屋敷」
ヒッチコックの作品が大好きだった、ほとんどの作品はアメリカ映画の真似ばっかりしていた。
☘〈中村錦之助と大川橋蔵について〉
錦兄は”立役”で歌舞伎で歌右衛門やいろいろな人に可愛がられていた。
橋蔵さんは”おんながたさん”です。六代目に付いてたんですが、六代目のお妾さんの息子に入りましてね。六代目が夜釣が好きで、橋蔵さんをいつも連れていって、餌がなくなるとすぐ着物のまま飛び込ませて餌をつけさせる。だから橋蔵さんはね、橋蔵さんの一番うまいのはね、泳ぎでした。
✎(錦之助さんとはいつも比較されてしまうとね・・橋蔵さまは演技はダメだったと言いたいの・・とは突っ込まないでね)
「海賊場帆船」やった時に、玄界灘で衣装を着たまま泳いだのは橋蔵さんだけ。それぐらい六代目に鍛えられていたんです。それと、馬がうまかった。みんなトラックの上にのっけてアップ撮ったりするでしょう。
橋蔵さんは全然、カメラはトラックの上にいますが、橋蔵さんは馬に乗ったまま「はい、アップでいけアップでいけ、もっと来てもっと来て」と大きく言った後に、「今度離れて、ロングへいって」全部、馬は得意でした。
☘〈中村錦之助と大川橋蔵の演技〉
演技の面でもお二人は好対照というかどうでした、との問いに。
それはやっぱり、”おんながたさん”と”立役”との違いですね。
性格も、錦兄はぼんぼんの生まれでしょう、不良でしょう、カメラに飛び込んでくるような近代スポーツの良さをもっているのは錦之助。
橋蔵さんはやつぱり、おんながたさんでしたから上品でした。

「人生劇場飛車角」
鶴田浩二、佐久間良子、高倉健の3人はデビューからヒットがずっとなく、沢島さんも年に6本撮っていたがヒットがなく起死回生で挑んだ作品。
運も味方してくれた撮影だった。思いがけなく吹き上げた砂じん、海の荒波と天が助けてくれた。鶴田と佐久間の二人ができていたのも助かりました。
この映画は東映仁侠映画の元祖といわれているが、メロドラマのつもりでとったもの。俊藤浩滋さんが、「お前あんなものがやくざ映画と思っているのか。これからおれがやくざ映画をみせてやるわ」と言っていた。そのあと任侠路線にいった。これでは、たまらんなと思って「股旅三人やくざ」を撮り、やくざ映画を批判する映画にしました。
そしたら、俊藤さんが制作部でぶっ飛ばすように「俺のやくざ映画を批判しやがったな、このやろう」
股旅三人やくざで千恵蔵先生でやれというところを志村喬にした。
錦兄が、志村喬なんて黒沢組で使い捨てられてどうにもならんのに、どうしてやったんだ」と、みんなから攻められた。千恵蔵御大も蹴ったということで、あれ以来ごきげん悪くなりました。
鶴田たちの世界になって、小さくなって時代劇を撮っている状態になっていた。東映がもう時代劇を撮らないというので、東宝からの誘いがあり移籍しので、謀反を起こしたのではない。その後、ひばりさんの舞台監督として映画から舞台にいった。
みんな社会的問題とかいろいろな方へ、藤沢周平とかやっているけてど面白くないじゃないですか。
面白い作品がない、私は面白い作品を撮るのにはだれにも負けませんから、どうぞ映画見てください。

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✱あらえびす文化賞✱ #投稿日2016.4.25

一般社団法人作家クラブの創設者、野村胡堂先生を顕彰するために制定いたしました「あらえびす文化賞」第1回目の表彰式が昨日4月24日ありました。
昨日、野村胡堂原作時代劇放映開始50周年ということで「銭形平次」主演で橋蔵さま受賞されました。
舟木さんの「銭形平次」の歌も特別賞をもらっています。
1966年放送のテレビ時代劇「銭形平次」(フジテレビ)主題歌50周年の功績をたたえられての受賞に「僕は歌を歌っただけ。いかに大川橋蔵さんがすばらしかったかです」とあいさつしています。
◇「あらえびす文化賞」は、当クラブの創設者である野村胡堂先生を顕彰するために新設したものです。野村胡堂先生は、一般紙時代の『報知新聞』政治部記者として活躍しながら、筆名「あらえびす」で世界初のレコード音楽評論家として名を上げられました。同時に、野村胡堂の筆名で小説を執筆。戦前戦後を通じて、小説、映画、ラジオドラマ、テレビドラマ、舞台で取り上げられた人気時代劇『銭形平次』の原作者としても知られます。幅広く、奥行きの深い昭和を代表する教養人・知識人の1人と言っていいでしょう。
当クラブは、2014年(平成26年)から、これらの業績のうち、文芸領域ち特化した「野村胡堂文学賞」を実施してまいりました。引き続き、今回は新たに「あらえびす文化賞」を創設。胡堂先生の幅広い業績のうち、文芸領域を除く文化全般などを対象とした新賞を実施の運びとなりました。文学賞、文化賞の2つ合わせてようやく、全領域を網羅した当初案「野村胡堂賞」のコンセプトと一致します。◇
第1回受賞者は以下の通りになっております。
【あらえびす文化賞】
吉村卓三 『鳥と卵と巣の大図鑑』(ブックマン社)
世界一の大図鑑。長年の苦労を経たギネスブック級の大仕事です。

大川橋蔵 テレビ時代劇『銭形平次』(フジテレビ)主演
今年は、野村胡堂原作の時代劇が放映開始50周年です。それを記念して、演技者・表現者として表彰することとなりました。

尾上菊五郎 大河ドラマ『源義経』(NHK)主演
今年は、村上元三原作の大河ドラマ50周年です。それを記念して、演技者・表現者として表彰することとなりました。

【あらえびす文化賞特別賞】
舟木一夫 テレビ時代劇『銭形平次』主題歌(コロムビアレコード)歌唱
ドラマと共に50周年。日本で最もお茶の間に親しまれた歌の一つでしょう。
それを記念して、歌い手、表現者として表彰することになりました。

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✱橋蔵さま、いつまでも✱ #投稿日2015.12.7

橋蔵さまがお亡くなりになったのを知ったのは夕方のニュースでした。
「えっ、いま何と言ったの」、耳を疑ってしまった。「まさか、うそ」
でも舞台をやらなくなっていて具合がよくないことは聞いていたので、「やっぱり、その時が・・」と葛藤していましたので呆然とした時間が過ぎていきました。こういう時の悲しみって涙はすぐに出てこないものです。

Youtubeに投稿されている動画「東映城のチャンバラスター永遠に」は皆様ご覧になっていると思います。52年放送の中でも橋蔵さまが言っていることは聞いてお分かりになっていらっしゃいますね。
「私がこの世の中で勉強して活躍させていただく場所というのは、三つしかないんじゃないかと。一つは映画界、一つはテレビ界、一つは演劇界、舞台です。この三つを自分の働く場所として、毎年どこに主軸を置いてやっていくかということを考えて進んできました。」このようなことを言っていました。

それから2年あとぐらいのある対談でも同じことを言っていました。そして続けて橋蔵さまはこうもおっしゃっていました。
「私のいまの立場では、映画は別に出て行く必要がありません、現在はテレビを主軸にして舞台を、大衆演劇というものを自分なりの地盤を築いていきたいという気持だ。」「もう一つは、自分個人の踊りを大切にしていきたい」
「娯楽というものを日本のみなさんに提供していくことが自分の一番のつとめではないか、割り切って思っているので、大衆とともに生きていきたいと思う。」

これだけの信念を持ってまた新境地を開こうとしていた橋蔵さまだったのに、早すぎです。橋蔵さまがいたらテレビ界での時代劇も、演劇界も今のようにはならなかったのでは、と思うのです。
藤間紫さんが生前、舞踊界にとっても橋蔵さまが亡くなったことはすごい痛手だとおっしゃっていたように、舞踊界でも大切な人でした。橋蔵さまの創作舞踊とか観たかったです。
東京に住んでいながら・・・橋蔵さまには申し訳ありませんが、この掲示板からご挨拶させていただきます。橋蔵さまが天の世界に旅立たれてまた一つ年を重ねるのと同じ日、私は天へ一歩近くなりました。

広い空から、見つけてください、そして見守ってください。
橋蔵さまが私たちファンのために残してくださった作品から夢、希望をいただき橋蔵さまファンとして邁進してまいります。
橋蔵さま、お好きな綺麗なたくさんの花に囲まれていることでしょう。
墓前にはいかれないので、私はここからお花を手向けさせていただきます。
午前1時29分 合掌。
橋蔵さま、今でもあの日突然の知らせが届いたときのこと忘れることができません。でも橋蔵さまらしい、華のある役者のまま別世界に・・
私たちにいつまでも夢を与えて・・

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✱大衆娯楽を大切にして・・✱ #投稿日2015.11.27

橋蔵さまのファンであることを堂々と、恥じることは何もないです。
今までずっとファンできた方、橋蔵さまの全盛時代を知らない世代でファン
になった方、この方達は橋蔵さまの容姿がいい、格好いいというだけでなく、映画を観てどこかが他の俳優とは違う魅力があるというところを、見極めた素晴らしい人達だと思います。
最初は素敵だからだけで興味をもったとしてもいいと思います・・作品をいくつか観ていくうちに、橋蔵さまの良さを絶対見つけると思うのです。今若い人も、もう少し年がいったとき橋蔵さまの作品にめぐりあったなら素通りはできないと思います。
時代劇は夢を与えてくれるものがないといけません。
橋蔵さまは映画界に入ってからご自分は娯楽映画で行くと決めた方でした。そして最後まで大衆娯楽に徹しました。映画、テレビ、舞台でも、楽しんで観てもらうということを大切にしてきた方でした。
そういう俳優がいてもよいのではないでしょうか。

橋蔵さまは、結婚騒動がおきた頃ファンのことで考えたこともあったようです。50歳ごろにおっしゃっています。
ファンは異性として支援している人が大部分。結婚することになるとそういうファンはやめていく。それでもついてくるファンは、ほんとの私の持っているもの、持っている芸術そういったものに興味をもって支持し、応援してついてきてくれるということ。新たなる大人としての俳優の作品、演技的なもの、人間的なものをひっくるめて応援してくださるファンが出来るということで、これが私のほんとのファンじゃないかと思います。

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✱ 作品2本を✱ #投稿日2015.11.26

昨晩、東映チャンネルで20時からの「丹下左膳 妖刀濡れ燕」を観ました。
橋蔵さま、下男の源助が実は相馬家の世継ぎ源之助であるという、得意の役ですね。
下男の源助がいい、橋蔵さまの魅力がこういう役に出てくる。この頃になると立回りも一段と良くなってきている、美しさは勿論なのであるが力強さが加わっている。すべて立回りの時の格好は(本来は武士であるが)町人姿でのものであるが、またそこがいいのです。
「丹下左膳」の柳生源三郎がとび職の格好で左膳と道場で手合わせ、「清水港に来た男」も武士でありながらやくざ姿での大立ち回りもその類いのもので唸らせる所があります。

そのあと、「恋山彦」をちょっと違う観方をしました。
自分自身で楽しむために、歌とで作り仕事をしながら観る聞くために作った一つに「恋山彦」があるのです。それらを毎日ランダムにかけているのですが、昨日かけていたら映画をみたくなってしまったのです。多分歌と映像が25日という日の心に響いたのかもしれません。

本題にもどりまして、
「恋山彦」小源太が素晴らしいのは分かっていますが、私は無二斎に魅かれてしまうのです。
おむらから一蝶が女の人を隠しているみたいだと聞き、酔いに任せ一蝶の家へ行き、一蝶を振り切って誰をかくまっているのか襖を開けるまでの場面、無二斎が道場で一蝶に小源太を生かしておきたいんだろうと言いよる場面、小源太の装束で身代わりになり捕り方に囲まれておむらの家の前に来た時、無二斎を見ての言葉におむらの方を見て何も言わず捕り方を引き連れて去っていく場面、胸打たれるのです。

ここでちょっと、一蝶役の伊藤雄之助さんがその時に書いていらっしゃる中で、このようなことをおっしゃっています。
雄之助さんはこの役の設定を才能があるのに酒で枯らすという方法で、アル中の気がふる絵師に扮しようと思ったようです。雄之助さんは40歳ですからそれに扮するのは不自然ではないのですが、親友である無二斎がちょっとばかり若すぎるということに気付いたのでした。
元来橋蔵さんは若く見られるタイプ、雄之助さんは老けて見えやすい。
そうすると、二人の年齢の隔たりがさらに大きくなる。そこで、最初の設定を中止して雄之助さんが若返ることになり、橋蔵さんが少しばかりやつれを見せた浪人になる。歩み寄って年齢差を出来るだけ縮めよう、というわれで、この点が二人の苦心なのですと言っています。

小源太については、薙刀での立回りとラストの舞踊場面はいいのはわかっていますから省きます。
小源太がお品を連れて平家村に馬に乗って颯爽と帰ってくるところ、馬上の橋蔵さまは素敵です。
橋蔵さま自身であのほこりの中を走って大変でした。暑い夏砂漠のような地での撮影。馬が大勢の人とセットなどに驚いてしまって、上手な橋蔵さまがたずなを締めてもなかなかピタリと止まってくれなかったようです。

お品と祝言をした夜の寝所、小源太が御簾を下すところの、白衣を着ている橋蔵さまの脚の線の美しさが。あの姿態は色気がありますね、

ここで撮影秘話??
お品と臥床に横たわり、お品の肩に上に夜具をかけるとき、寄り添っている以上いやがおうでも小源太の上にもかかってくる道理で「オヤオヤ、これは僕も恵子ちゃんと一緒に寝るのかな?」と、マキノ先生の顔を見ました。途端に、「バカヤロ」大喝一声。「お前は寝るんじゃない!」同じ「寝る」でも橋蔵さまは「横になって寝る」マキノ先生はそれ以上の深い意味での「寝る」だったわけで、一同大爆笑だったとのことです。

江戸城へ乗り込んみ、襖が開き将軍綱吉のところまで衣冠束帯?で堂々と歩く小源太、あそこは颯爽と優美な振る舞で絵巻物を見ているようで、さすが橋蔵さまならではです。
でも私、いいなと思いながらなぜか胸がつまるのです。

橋蔵さまの作品を見るのも先へ進みたいのですが、どうしても後戻りをすることが多くそのたびに新たな発見があるので楽しいのです。
これも私なりに、作品と橋蔵さまを真剣に観ていて評価しているつもりでいるのです。
こんな調子で昨日もまた、床に入るのが遅くなってしまいました。

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