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このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
Rara掲示板『大好き大川橋蔵ファン広場PARTⅡ掲示板』【 https://rara.jp/fanhiroba/ 】は同時進行で運営中です。
使い勝手からどちらも一長一短はありますので、できる限りは同時並行で行くようにしてまいります。
どちらを見ても大丈夫なように管理者が責任をもって投稿記事は双方に分かるように掲載していきます。

🟨この掲示板は無料版の掲示板にしましたので、広告が入りますので見ずらくなってしまいました。ご容赦ください。

編集・削除(編集済: 2023年04月07日 07:42)

振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱ 第一回東映歌舞伎から・・(2)✱ #投稿日2017.3.2

読売新聞の映画記者 谷村錦一さんが第一回東映歌舞伎を3回見て「舞台見たまま」を書いた記事から抜粋・要約で書きました。

私もそうですが、見ていないファンの人達にとっては、当時、東映歌舞伎が期待されていたことがお分かりになると思います。
値段の高いチケットに驚かされ、東映ファン層からいっても、満員は危うしと予測していたそうですが、いざフタをあけてみると大入満員で、嬉しい驚きであったといっています。
昼、夜ずっと見ていて驚いたのは、主役役者の大きいこと。
「旗本退屈男竜神の剣」の市川右太衛門、「いれずみ判官」の片岡千恵蔵、「丹下左膳」の大友柳太朗の”大きさ"立派さ”にびっくり。
ファンお目当ての大川橋蔵については、あとで語りますと。

現在の(当時です)歌舞伎の世界を見ても右太衛門、千恵蔵の舞台姿と比べてそれ以上に”大きく"感じる人は数えるほどしかいなであろう。
舞台正面諸羽流正眼崩しで見得を切る、引っ込みでにっこり笑いあげ幕に向う右太衛門。「いれずみ判官」序幕でカメが割れて舞台に飛び出した千恵蔵が「背中に彫ったいれずみは・・」と大見得を切るところ、「濡れつばめ」二幕目天野道場で出てくる剣豪天野伝七郎の大きさ。まさしく立派な役者である。大友もまた「丹下左膳」序幕、二幕目、大詰め(駆けつけの姿)など、見事な”大きさ”である。千恵蔵、右太衛門は久しぶりの舞台、新国劇では大部屋だった大友がこれほどまでに大きな役者としてヒノキ舞台で堂々たる芝居姿を見せようとは驚きである。

👑大川橋蔵は、これは大きくなったというよりも、鮮やかに伸びたと言いたい。👑
女形としての橋蔵の舞台はよく拝見していたが、立役、二枚目としては、私は初めての橋蔵の舞台である。
歌舞伎というものには、一番近くまで接していた橋蔵。7年ぶり。それも人気第一の舞台だけに、わたしは逆に歌舞伎役者らしい芝居を頭にしていたら、👑橋蔵はちゃんと”映画スター橋蔵”としての舞台をみせてくれた。👑
はっきり言って千恵蔵、右太衛門にはオーバーなまでの歌舞伎の芝居のムードがある。これもそれなりに面白い。大友は新国劇と映画をミックスした味を振りまく、これまた魅力であろう。
しかし、👑橋蔵は歌舞伎の芝居の仕方から一歩飛び出した映画人らしい演技を見せている。若い橋蔵の可能性の広さである。👑
千恵蔵、右太衛門にはクローズアップの演技が多く、大友は諸先輩とは違っているが、やはりアップの芝居で魅力をだそうとしている。
これに対し、👑橋蔵は、芝居の登場人物を、あくまでストーリーの波の中でつかみ、自分の魅力と役への興味とをミックスしながら演技をしている。👑

この見方は、この公演で、橋蔵が一番いい脚本を掴んだことによって大きく儲けたともいえる。「濡れつばめ」「花の折鶴笠」という”橋蔵もの”には、主役がどんな人物で、どうしてこうするということが、描かれている。他のものには、ドラマとしての人物としては弱く”芝居”つまり”話”としての面白さなど少しもかかれていない。だから、3人の芝居にはスターの魅力には拍手を送るが、芝居としての面白さにはかけた。橋蔵の出し物2つが芝居としての面白さをもっていた。

この東映歌舞伎で久しぶりに、芝居が、そして役者が好きで劇場に来ている”客”を見ることが出来た。一番目の序幕が開くまでに観客席はいっぱいになっている。初日の夜の部の終幕は11時半を過ぎたが客は帰らないでちゃんと座っている。役者が見得を切れば、本当に嬉しそうな客の顔。東宝歌舞伎と違って、派手さはなかった。掛け声や嬌声をあげることにも馴れない映画のお客さんが東映歌舞伎では一生けん命に好きな役者、好きな時代劇にたのしみを感じている。そんな素朴なお客で一杯の東映歌舞伎である。
🌊大衆と舞台がこんなにまで素直につながっている芝居が嬉しかった。
娯楽時代劇といえば小馬鹿にするような人達もいる。通俗結構じゃないか。お客さんが喜んで見てくれることは大衆が求めている慰安への望みを時代劇がちゃんと果たしているからではないかと、胸を張りたい気持ちだ。🌊

✎ (ここからは私の見解です)
芝居も、映画も先ずは、題材選び、演ずる人に合わせての脚本、そして演ずる人の魅力と実力ということになるのでしょう。
この第一回の橋蔵さまの場合、映画で見せる憂いある演目と、橋蔵さまのもう一つの持ち味の二枚目半の演目を持ってきたということは、舞台を見ている私達にとっても意外性と新鮮さがあります。橋蔵さまの、ご自分を発揮する、ファンが何をすれば喜ぶか、ということを計算しての演目、演出だったのでしょう。
舞台は毎日が勝負です。舞台は生きています。撮り直しはできないぶっつけ本番、その人の魅力が日を追って増していきます。
橋蔵さまは、歌舞伎時代、舞台の袖にいて見て常に勉強をしてきた人ですから、お客様の反応を感じとることは自然と身体に沁みこんでいます。
後々を考えても、舞台上での橋蔵さまはいきいきして見えました。
橋蔵さまの精神は”舞台人”だったのですね。だから、東映歌舞伎も長い期間昼夜やってきたのでしよう。
歌舞伎俳優として生きた橋蔵さまに火をつけた「東映歌舞伎」でした。

画像は、第一回東映歌舞伎「濡れつばめ」新選組の若き隊士 藤堂源之丞(左の画像)
「いれずみ判官」遊び人 伊佐新次(右の画像)

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年04月01日 20:47)

振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ

✱ 第一回東映歌舞伎は・・・✱ #投稿日2017.2.23

東映歌舞伎を生で観たかった。
橋蔵さまの、その後の「大川橋蔵特別公演」の東京公演はある程度見ていますが、「東映歌舞伎」時代は、田舎の中学生~高校生で受験時代ですから、東京へお芝居を見に行くなんて滅相もないこと。
ただ、いつごろか忘れてしまいましたが、ある時期、東映歌舞伎をテレビで舞台中継を録画したものを放送していたので、見ていた記憶があるのです。
銀幕のスターの生の芝居が観られるのですからすごかったでしょう。

1962年(昭和37年)8月2日初日、第一回東映歌舞伎が幕を開けました。
7月20日から稽古入り、本読み、衣装合わせ等、7月30日から明治座での通し稽古、そして8月2日舞台の幕は開きました。スケジュールを合わせてのことですから大変でしたでしょう。
右太衛門さん、千恵蔵さん、大友柳太朗さん、東千代之介さん、大川橋蔵さまと花形スターを軸に、出演者総勢160人、明治座の楽屋には入りきれず、近くの旅館を借り切って女優陣はそちらから明治座へ。(なぜか錦之助さんは絶対でなかったのですよね、あんなものに出られるか、と言っていたという噂も飛んでいたようですが、撮影で時間が取れなかったのかもしれませんが)。
明治座としてはもったいなかったのですが、1等席60席をつぶしてオーケストラボックスをつくり、生の音楽を使って迫力を出したそうです。
昼の部・・幕開けは「勢揃い清水港」次は「旗本退屈男」と舞台は進んでいきます。

舞台では主水之介をやっている時の橋蔵さまの楽屋はどんな感じだったのでしょう。
昼、夜3回の出演とご挨拶もある橋蔵さま。
ファンから送られた贈り物の山また山、3本の出演で台詞覚えも大変、衣装小道具と打ち合わせも慎重で、さすがの橋蔵さまもちょっと神経質そうになっていて、端麗な顔がよけい青く冴えて美しくみえたそうです。
そんな橋蔵さま、「30日、31日と2日間ぶっ通しの稽古だったのですが、1日の日は一日休みが取れたので披露も取れて元気になったんですよ」とにっこりする橋蔵さまでした。
オーケストラの音が大きくなり拍手の嵐のなか「旗本退屈男」の幕が下りようとしています。

さて、次は川口松太郎さん脚本の「「濡れつばめ」・・橋蔵さまの出番です。
浜町生まれで浜町育ちの橋蔵さまは、同じ浜町明治座での公演に意欲を燃やしていたそうです。
この日のために、7月中旬には上京して、気持ちのトレーニングをしてきたということです。橋蔵さまの心意気が分かります。

夜の部・・「丹下左膳」の次は「いれずみ判官」「花の折鶴笠」
いれずみ判官と花の折鶴笠と橋蔵さま続けてのお芝居になります。
「花の折鶴笠」は、長谷川一夫さんで2回も映画化された名作を舞台劇にしました。これが好評でその後映画化されましたので、内容はお分かりですね。幻想場面の舞踊は違いますね。舞台では若衆姿で、映画は少し大人っぽくでした。
こうして「東映歌舞伎」第一回の旗揚げ公演の初日13時間半は無事終了。
この時の座席券の値段は、歌舞伎座での十一代目市川団十郎襲名興行の歌舞伎界最大の行事の時よりも高い千八百円(当時の金額)でした。
それでも大入り満員だったのですから、銀幕のスターはすごいものでした。大成功でした。
そして東映歌舞伎は1967年(昭和42年)まででしたかしら、橋蔵さまは7回目と9回目は出演しなくなりました。時代劇が廃れてきたわけです。
この東映歌舞伎の催しでの橋蔵さまの観客動員する力を見ていて、テレビ移行と同時に、橋蔵さまの「大川橋蔵特別公演」をという話がスムーズにいった一つかも??しれません。
橋蔵さまの第二の転機は、私生活いろいろありましたが、順風満帆でした。
この時代、東京にいたなら、大人だったら、よかったのになぁ。
これだけはどうにもならなかったわね。

画像は昼の部
花の折鶴笠の苫の半太郎玉子を盗むところの橋蔵さま、幻想場面の舞踊での橋蔵さま、舞台終了後ご挨拶する橋蔵さまの画像から。

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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✱こんなこと・・過りました✱ #投稿日217.2.8

皆さまは何かから思い出したり、思ったりすることはありますか。

「笛吹若武者」は橋蔵さまのデビュー作品、原点ですから手元において何回でも見たい作品です。役柄もよかったのでしょうが、新芸術プロダクションの福島社長の橋蔵さまにとの企画も素晴らしい。前にも書きましたが、その一年前に、ひばりさんとの共演にと用意した「ひよどり草紙」、橋蔵さまからよい返事がもらえなく、錦之助さんに行ってしまいましたが、どんな作品なのかまだ見たこともないので、機会がありましたら見て見たい。橋蔵さまがやっていたら筧燿之助はどのような感じになっていたのか、想像して見たい。

ひばりさん初めての恋愛映画だったそうで、映画初めての若手との共演作だったということもあり錦之助さんに尽くすひばりさんは知っての通り。橋蔵さまが相手役になっていたら、錦之助さんとのプライベートの恋愛もなかったかもしれないですね、どうでもいいことだけれど。(失礼しました)

「ひよどり草紙」は少年少女映画対象の強い映画ですから、橋蔵さまの品のある、高貴なイメージには「笛吹若武者」でデビューしたことの方がよかったのかもしれませんね。

「大江戸喧嘩纒」は、最初見た時印象に残るのは、屋根でめ組の纒を必死に守るお雪を助けに行く新三・・お二人のあのシーンは誰もが強烈に残ったシーンでしょう。梯子を駆け上っていくところからの新三は頼りがいがあります。武士を捨てるために肌に刺青を入れる、鯔背な火消し役の第一番目の作品、「大江戸喧嘩纒」では、纒振りはありませんが、同年代の「花吹雪鉄火纒」では市中の油の値上がりを火消に組に入り込んで探索する長次が、袴姿で鯔背な刺青肌、ラスト桜の花の下、将軍家の見ている前で、に組の長次として纏を綺麗に振る橋蔵さまが素敵でした。
1957年1月の「大江戸喧嘩纒」、1957年12月の「花吹雪鉄火纒」
一年でも橋蔵さまの違いが分かってきます。

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✱ 私は記憶に残っていない✱ #投稿日2016.5.9

「新吾十番勝負」のあのシーン、撮影では橋蔵さまが硬くなってしまい随分時間がかかったようですね。橋蔵さまラブシーンは苦手ですから。
このシーンの台詞も実際は随分あったようですけれど、作品の時間の調整で大分カットされたのではないでしょうか。

私は小学生でこういう場面はまじまじ見ることがまだ出来なかったので、記憶の中にはっきりとは残っていません。このシーンそんなに長くなかったのではと私は思いたいです。だって、台詞が強烈ですもの。
と言っても、スクリーンで見た作品一つ一つが半分位うる覚えです。
今は掲示板に作品のことを書きながらじっくりと細かく見ていきますので、私には一石二鳥になっています。その中で、「あっ、そういえばこの場面あったわ」と。
それで「新吾十番勝負」第一部、第二部で一時間何分位無くなってしまっている?カットしている?のでスクリーンで見た筋と描写がどのようだったか浮かんでこない、というのが現実です。

「新吾」を総集編で初めて見る方達は何ヵ所も筋書がポーンと飛んでしまうので首をかしげるところが随分あるのではないかしら。(後世に残せる作品なのに・・なくなるなんてどうしても考えられないけれど、誰かが意地悪していない。これ私の個人的意見、支障がありましたらごめんなさい。)
最初の場面からなくなっていますからね。
武田一真が頼方の剣術の師であることがはぶかれているから、総集編で最初の頃に頼方のもとに一真がいるのは・・??
頼方をお長と庄三郎が仇討ちといって襲うことが出来たのか?場所は鯖江城内ではないだろう?というところが総集篇ではわからない。
仇討ちとかかってきたお長が気を失い、どうしたらよいかと迷っていた頼方がお長の美しさに魅かれ、下屋敷に連れていって・・そして布団に寝かされ縛られているお長との問題のシーンですね。

私は、お長の父を斬った苦悩とお長をおかしてまで自分のものにした頼方の心情をどのように橋蔵さまがスクリーンに演じたのかが今なら冷静に評価できたのに・・と残念です。(このシーン残っていれば頼方がもっとよく分かったのに。そして橋蔵さまの二役も生きたのに。)

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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✱庭は草花のお披露目で✱ #投稿日2016.4.14

先ほど東京でドスンとものが落ちたような後にぐらっと少し揺れました。
そうしたら、今度はあの地震警報の音がラジオから、民間のテレビは遅かったな。どこだろうと身構えてしまいました。九州地方で最大震度7の地震が発生。
掲示板に投稿しようとしてPCに向っていたのでびっくりしてしまって、途中で一時PC入力を辞めてしまいました。マグニチュードはたして大きくはないといっていたので安心なのかどうなのかはわかりませんが・・・
申し訳ないけれども掲示板投稿させていただきました。
🌷 🌷 🌷
気分を新たにして

北白川の旧橋蔵さま邸、今頃は小手毬の花が満開で綺麗でしょう。そろそろ紫蘭も咲きだしていることでしょう。橋蔵さまが好きそうなのがわかりますでしょう…そして優雅・上品・美しい姿が花言葉。
現在主の手入れがなくても草花は自分の生命の限りにお披露目をしているでしょう。
梅の木は小さな実をつけ始めたかしら。

旧橋蔵さま邸の庭の維持には植木屋を入れたとすると相当かかったようです。
橋蔵さまが主のときは、お好きな苔が庭園には敷き詰められていましたし、家周りと庭手入れに携わる人が常時いたほどです。
玄関前はつぶされてしまうでしょうから紫蘭は可哀想です。

画像は旧橋蔵さま邸の正門内側にある紫蘭です。花のところをトリミングしたものです。次の持ち主の方がいらっしゃいますので個人情報というものがうるさいので敷地内の画像を入れられなくてごめんなさい。

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✱撮影日記からちょっと・・・✱ #投稿日2016.2.23

📖 手元にある資料の中に、雑誌の橋蔵さまの撮影日記の一部分に、「まぼろし天狗」のことがありましたのでちょっと抜粋してちょっと書きます。
橋蔵さまの一日一日から撮影の様子と橋蔵さまの行動をなんとなく想像していただければうれしいです。

1962年7月「橋蔵のやくざ判官」封切り、1962年8月「まぼろし天狗」封切りでした。
「やくざ判官」の撮影の終盤に「まぼろし天狗」の準備が進行していたようです。
6/11 やくざ判官」のお白洲のシーン。 厚い衣装の重ね着、裃袴に威儀を正しているこの暑さ、辛さ。一段高い調べの座から見下ろして気持ちがいいだろうねとみんなからいわれちゃったけど、お白洲でのんびり笑っている長屋の住人と交替したい心境でした。

6/11 午後からぎっしりのスケジュール、23時までかかる。家に帰りホッと一息ついたら13日にかかっていました。

6/13 何に当たったのか、どうも食あたりらしく、お腹をかかえて七転八倒、とうと
う仕事を休ませてもらう。一日中絶食、夜薬を飲んで就寝。

6/14 薬と絶食の効あり。今朝はすこぶる快調。絶食のせいか体重が減ったような
軽々しさを感じる以外は以上なし。一日休んだので、今日は大いにはりきり深夜一時にアップする。OKのとたんにちょっとガックリ。早々に帰宅。

6/15 お休みです。昼過ぎから散歩がてらデパートを廻ったり、骨董屋さんを覗いた
りする。夜月光で東京へ。

6/16 本社で、東映歌舞伎の打合せや次回作品のことを相談しました。

6/17 一日東京住まい。夕方から銀座に出て夏シャツなどを見て歩きました。夜月光
で京都へ。

6/18 9時からイレズミ、お昼開始でオープンの大立ち廻りです。カラッと晴れたの
はいいが、まるで真夏 のよう に凄い暑さです。このセットで50人からの捕手を相手にオープンを狭しと駆けまわるんですから大変な重労働、 脚力には相当自信がある方なんだけど、テストテストでフラフラになっちゃった。一部を明日に廻して、次回作のズラ合わせと衣装合わせをして帰る。
お風呂から出てきたら足がガクガク、オツカレさまでした。

6/19 9時開始でオープンの立ち廻り、またもや右に左に、牛若丸のように大活躍
(ちょっとバテ気味でした が ネ) やっとお昼過ぎに一段落。15時から、お白洲の取り直し。もう少しお賑やかに、ということで 立ち廻りが追加されたんです。

6/21 1時から自宅で、中川組「まぼろし天狗」の本読み、中川監督と打ち合わせを
しました。そのあと雑誌のお仕事で写真を撮る、夕方から松竹座で映画をみて、食事をして帰りました。

6/22 お昼から衣装合わせをする。

6/23 自宅で本読みと衣装合わせをする。いよいよ明日からクランク・インです。

6/24 9時開始で「まぼろし天狗」の初日です。
シーンは、ボクの周馬が刺客団に襲われて逃げるところ、初日から追っかけられて大汗をかいちゃいました。夕方、スタッフの人達と夕食をご一緒する。

6/25 11時開始、今日は喬之助の方、お美代の2階で、北原しげみ君の女将お美代と
やりとりします。終わってから台本の直しについて打合せ。

6/26 9時開始、細い崩れ落ちそうな橋の上で、不気味な按摩との凄絶な立ち廻りを
撮る。すれ違いざま、仕込杖から白刃をひらめかして斬りつける按摩を一刀の下に切り倒します。(下の画像)   
短い時間ですが、新しい殺陣らしくスピーディーでスリル満点の立ち廻りでした。
17時から、マキノ組「やくざ判官」のお白洲の撮り直しをやる。

6/27 10時半開始で定時に終わり、早めに帰宅、せりふの勉強をして就寝。

6/28 9時開始、盛り場の裏セット。マコちゃん(桜町弘子さん)のお艶を相手にホドの良いところをみせます。というのは、ボクの二役のうち周馬にホレているお艶を、周馬に化けた喬之助(ややこしいです)が騙すくだりです。演技とはいえ女性を騙すということは心苦しいかぎりでした。

6/29 9時開始、闇の道でやくざに襲われるところ、さっさと掘割に叩きこみ「そこでしばらく頭を冷やせ」グッときちゃうセリフでしょう。心身ともに快調です。

6/30 9時からお仕事、今日で6月もお終いです。
一月なんてアッという間に経っちゃいますね、梅雨ももうすぐあけることでしょう。
じゃ皆さん来月までお元気に。

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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✱舞・・・歌舞伎役者という誇り✱ #投稿日2016.2.12

皆様にも知っていただきたいので、少し書きますね。

時代劇スターでありながら、50代過ぎても女形でも立役でも線の綺麗な踊りができる。橋蔵さまはずっと芸に精進なさっていたことがわかります。

相反した性格の橋蔵様と藤間紫さんは舞台をやってもお互いにいい感じを出していました。舞踊でも立役の橋蔵さまは紫さんと踊るととてもいい雰囲気がある。お二人は相性がよかったのですね。

橋蔵さまは6歳で永代橋にいた藤間勘十郎さんに手ほどきを受けるようになり、長く勘十郎家に寄宿してたようで、紫さんとは「お姐ちゃん」「富成ちゃん」と呼び合うほど仲良かったようです。芸の修業はマンツーマンですから、生易しいことでは会得できませんね。

💻あるところにこのように書かれていました。
「橋蔵さまは藤間宗家に何とはなしに身を寄せている間に、芸の慈養分を吸収していったと考えてよい。六代目があるとき「稽古をつけてやろう」という気をおこすのは、それだけ芸の芽が育っていたことになる。その芽を勘十郎の近くにいていつの間にかふくらませていたのだ。」
橋蔵さまは30年5月に勘之丞の舞踊名を許されます。その時勘十郎さんとお二人で撮った写真がありますよ。
橋蔵さまはご自分でもよく言われていましたが、10年ごとに転機が来るのだと。
30年に映画界に入り、テレビに行ったのが41年。歌舞伎役者としての最後の舞台は31年東横ホール、歌舞伎座の公演が始まったのが41年。
銭形平次をやりながら大川橋蔵特別公演の舞台を打つようになり、藤間会にも初めてでたのがこの年です。
💻 このようなことも書かれていました。
「旧知の紫と共演することになったのは、その後まもなくのことだった。(43年の歌舞伎座からですね)
歌舞伎界から去って10年、大衆劇のスターとして”故郷に錦”を飾ったとき、帰ってきたのは藤間宗家のところだった。
舞踊・・少年時代に舞踊家になろうとまで考えた橋蔵は、大衆劇の公演に必ず舞踊を一幕加えている。養父六代目菊五郎の当たり役だった「鏡獅子」「紅葉狩」「船弁慶」「娘道成寺」「藤娘」・・・等々
枚挙にいとまのないくらいだ。当然、稽古に通う機会も多い。
紫を相手役にしてじっくりとしたお芝居を・・・というケースはこうして自然に生まれた。
📺 2001年だったかしら、紫さんがNHKの番組で橋蔵さまを偲んでの番組でこんなことを言っていたような。(この番組で舞踊映像が流れました)
「役者と舞踊家を両立させたかったよう。お稽古をきちんとしていらした。」
「歌舞伎俳優という誇りは最後まで押し通したかったらしい。だから舞踊も歌舞伎でやるような舞踊を苦しくてもそれに挑戦する。」
「女役をやるとサラッとしているが、男役をやると凄く色っぽい。」
「足がすごくきれい。女形として背があのくらいあると、下半身が何となく締まらなくなるのだが、橋蔵さんはそれが無い、藤娘やっても何をやっても身体の線が本当に綺麗。」
📌 橋蔵さまの言葉・・・「自分個人の踊りを大切にしていきたい。」

👘 焼き付いている貴方の舞いと集めた舞いの写真を紐解きながら、舞踊家として年を重ねていっていた橋蔵さまに思いを馳せてます。

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✱スピーディで美しい立回り✱ #投稿日2016.6.6

昔の映画を見ていると、いろいろな面から、スタッフは勿論ですが、役者さんが一生懸命で大変な努力をしていたことが作品の中からも伝わってくると思います。
時代劇ドラマでもそうです。橋蔵さまの「銭形平次」、10年という年月は世の中は変わっていっていますよ。でも何故あれだけ続いたのか、ということです。

橋蔵さまがその10年間に途中他のドラマを一本でも取られなかったのかということです。橋蔵さまは、平次と違う役は舞台で見てもらい、お茶の間の平次のイメージを他のもので壊したくはなかったのかしら、とも考えるのです。
ですから、平次を終わるという話が出始めた頃(自分の体調にご本人は感ずるところもあったでしょう)次のものへイメージを変えていってもいいのでは、という気持ちがこの3本のドラマになっていったのではと、私なりに勝手に思ったりしています。「沓掛時次郎」「荒木又右衛門」「鯉名の銀平」という作品を持ってきてやったということです。「沓掛時次郎」と「鯉名の銀平」はテレビドラマでやるのは普通ならこの50歳を過ぎた年齢ではできないものです。

橋蔵さまの「月形半平太」何回見てもいいです。レンタルで随分みました。
憂いを含んだあの表情は橋蔵さまだから出せるのです。感想はだいぶ後になると思いますが時期が到来したら投稿します。

見た人はお分かりになりますか。染八の何処へ行くのかとの問に「あてはない・・地獄詣でになろうもしれぬ」と言って染八を見て、差しかけた傘を掴んで行くところからカットした部分です。この場面の酔っていて染八の方を見る視線が何ともいえないのです。

剣を抜いての詩吟を歌うシーン、3ヵ所あるので橋蔵さまでいく予定がダメになって口ぱくになってしまったところに、不自然さが残ってしまったなぁ。
後から橋蔵さまの歌を合わせる予定だったのでしょが、
もう1本同時進行のものがあり時間がなかった・・少し時間がほしかったですね。

「人を斬るのはこうして斬るのだ」と「図ったな」そして畳の上をくるくる回るところは、早いので静止画像がうまく取れませんが橋蔵さまであることは分かると思います。早く見たいと思っていただけましたか。
橋蔵さまの立回りのよさは、スピーディーで美しい立回りの中に凄さが出ていることだと思うのですが、それが味わえる作品「月形半平太」、とドラマ「荒木又右衛門」です。

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✱純然たる最後の共演作品✱ #投稿日2017.1.31

「花笠若衆」は、ひばりさん芸能生活10周年記念映画ということで、ひばりさんのお母様喜美枝さんが平凡に連載した小説が原作という、記念すべき映画ですね。
主題歌「花笠道中」もヒット曲になりました。

私はこの作品、映画館では見ていなかったのですが、当時「花笠道中」の歌を聞くと、映画を見たような気分になっていました。雑誌などで見ていたので、イメージを描いていたのでしょう。映画では、この歌、夢の中で愛しい殿御と新婚の旅に行くところで流れるので楽しい歌と普通は思うのでしょうが、この歌は淋しいうたなのですよね。私は、好きな歌でしたが、今も昔も、この歌を聞くと悲しく目が潤んでしまします。
そして、二人の夢の中の楽しそうな甘いシーンが浮かびます。
🎶一 ~ぽっかり浮かんだ 白い雲 何やらさみしい 旅の空 いとし殿御の こころの中は 雲におききと 言うのかえ
🎶二 ~蓮華たんぽぽ 花盛り 何やら悲しい 旅の空 いとし殿御の こころの中は 風におききと 言うのかえ
🎶三 ~流れて消える 白い雲 やがて蓮華も 散るだろう いとし殿御と 花笠道中 せめて寄り添う 道の端

この詩から、江戸家吉三が夢みた神月又之丞との結婚は、夢で終わるということが分かってしまいます。だから、悲しくなってくるのですね。

吉三が暴れているところへ出てくる又之丞・・派手ですね・・編み笠を持って派手な着物ですが、流石橋蔵さま、馴染んでいます。この姿から旗本退屈男を描いてしまいます。
✑(そう、東映は、次の旗本退屈男は、橋蔵さまを考えていたのが分かります。)

その道中の駕籠に乗っていくところ。
駕籠かきの息が合わず何回も撮り直しになったのですって。駕籠を担ぐ人は何回もで大変でしたが、お二人は、乗っているので楽しく、このまま京都まで帰りたいとか何とか言っていたそうな。でも、何回かやっていたら、駕籠から降りた時腰が痛くて、ひばりさん「やっぱり歩く方が疲れない」と。
橋蔵さまは、この作品でも、監督から、幻想的な感じでいくので、出来るだけ甘~くとの注文でリハーサルからグッと甘い表情で挑んだ橋蔵さまだったようです。その感じが、駕籠に乗ってのあの表情に。
宿でお二人の甘いシーンのところ、アドリブが入っているのです。
背中がかゆいと言うと「どれ」と言って「このへんかな」と言って手を入れるでしょう。リハーサルの時、橋蔵さまが一応原作者のママの意向を聞かなければと言い、ママを呼んで意地悪く、「こんな感じでいいでしょうか」と言ったそうです。そうしたら、ママが「あなたたちの好きなようにやりなさいよ」とあきれ顔でいったということでしたよ。その橋蔵さまとひばりさんが好きなようにやったのが、あのシーンとなったわけですね。

双子でしたが、神月又之丞さんは許嫁の千代姫と、となりますが、見ていた人達は、江戸家吉三と一緒になってほしかったのではないかしら。

橋蔵さまとひばりさんが一緒に出ると、不思議なお色気を放つのです。ほんとに、不思議ですね。
ひばりさんが1958年新芸プロを出ましたので、橋蔵さまとの今までのような共演作品がなくなってしまいました。ですから、ひばりさんが大人になっての橋蔵さまとの映画として残る作品になりますね。この後はオールスター、準オールスターの映画でしかご一緒していませんもの。
何回もご覧になって橋蔵さまを堪能してください。

引用して返信編集・削除(未編集)

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✱一つの試練になつた要蔵役✱ #投稿日2017.1.16

今週、”美しき大川橋蔵”私の想い出のブログの方では、橋蔵さま第11作品「海の百万石」に入っていく予定です。
この作品、橋蔵さまファンから、「橋蔵さまよかった」という声があまり聞買うてくることがありません。どうしてなのかしら。
橋蔵さまが最初40分は出て来ないし主演でないから?、地味な作品で美しく華やかで颯爽とした橋蔵さまではないから?

時代劇と世話物に分けるとしたら「海の百万石」は世話物。東映としては稀な作品です。千恵蔵御大主演の作品ですが、橋蔵さまという俳優が出て来たので、この作品が生きたのではないか、と思ってしまうくらい。
橋蔵さまの商人としての作品はこの一本だけです。そして剣は持たずに完璧な商人の息子を演じました。
要蔵が父親銭屋五兵衛を呼ぶ「おとう」いいですね。橋蔵さまの言い方が良いのです・・・好き・・あの声であのニュアンスで言いますから、とってもいいの。
父親を尊敬し慕っている蘭学を学んでいるお坊ちゃま。これから商人として成長していくところを若い橋蔵さまは見事に演じました。
この役は一つの試練になりましたね。この作品後、型の美しさにこだわっていた橋蔵さまの演技が変わってきたようです。台詞まわしも自然体で、こういう役もいいなぁ、と思わせるものです。今までの橋蔵さまからは想像できないくらい、素晴らしいものです。歌舞伎で具わった身のこなしは商人役でも流石です。
こういう町人ものをもっと見たかったし、残してほしかった。
橋蔵さまは、また世話物をやりたかったようですが、会社はチャンバラの大川橋蔵を、ファンもそちらを望んでいたのでしょうか。もったいないことをしましたね。
剣も使わず派手な見せ場もない学者肌の男を見事に演じたということで、今までチャンバラ役者としてだけ見ていた批評家たちも、一人の演技者として正しく評価するようになったと言われました。

「撮影日数が少なく研究する暇もなく、完全な町人役というものは初めてなので、いささか芸が生硬になったかもしれない。まだまだ映画新入生であることを痛感させられた。」と橋蔵さまは言ってましたが。
撮影合間のスナップを掲載いたしますね。(ランダムに載っています。画像少しボヤケ気味)
*千恵蔵御大に台本の読み合わせをしながら、指導を受けているのでしょう。神妙な橋蔵さまです。
*「橋蔵君、さつきの演技はよかった」と尊敬する千恵蔵御大に褒められて、気もそぞろな橋蔵さま、という所。
*次の場面の撮影までの合間に、千原しのぶさんと、楽しそうに何を話しているのでしょうね。
千恵蔵御大の前では緊張の連続、こういうひとときもないと・・・ね、橋蔵さま。夏の暑い日の撮影でしたから、出待ち、テスト、本番と、足は水に浸しっぱなしでいても気持ちはよかったと思います。

(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)

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