このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
Rara掲示板『大好き大川橋蔵ファン広場PARTⅡ掲示板』【 https://rara.jp/fanhiroba/ 】は同時進行で運営中です。
使い勝手からどちらも一長一短はありますので、できる限りは同時並行で行くようにしてまいります。
どちらを見ても大丈夫なように管理者が責任をもって投稿記事は双方に分かるように掲載していきます。
🟨この掲示板は無料版の掲示板にしましたので、広告が入りますので見ずらくなってしまいました。ご容赦ください。
✱面白い時代劇を✱ #投稿日2016.5.15
生誕90年 レジェンドトーク 沢島 忠 から私なりに抜粋してみました。
☘ 映画監督となり脚本家でもり、のちに舞台監督までのエピソードをご本人がお話している番組でした。錦之助さんとひばりさんがお亡くなりになるまでの深いお付き合いがあり、このお二人の作品も多く取っている、そのことを頭に入れてお読みくださいね。
橋蔵さまがご一緒したのは「美男の顔役」「若さま・黒い椿」「富士に立つ若武者」「海賊八幡船」「若さま・紅鶴屋敷」の4作品になります。
映画監督になる機会を作ってくれた恩人は月形龍之介さん。沢島さんは錦之助さんとひばりさんとのお付き合いがずっとあった人、二人は天才であった。
錦之助さんの紅孔雀で助監督をしてからの付き合いで、お互いに意気投合して、死ぬまでついて行った。
錦之助は江戸っ子なのにそのような映画がなかったので、一心太助をとり、錦之助の地を出すように撮った。恩人の月形さんには頼んで彦左衛門をお願いした。
東映は、その頃千恵蔵、右衛門の両御大しかいなくて、若い人のが全然なかったから、青春時代劇があってもいいのではないかと思って、錦兄やら橋蔵さんやみんな集めてやろう、ひばりちゃんも。
本社に契約の問題で来ていたひばりちゃんとお母さんが一心太助の試写を見て気に入って、次のかんざし小判は、沢島さんでいくということになった。
ひばりちゃんは歌って踊れて芝居が出来る人、時代劇ミュージカルをやってみよう。当時アメリカからミュージカル映画がいっぱい入ってきていた、ひばりちゃんもミュージカルをやってみたかった。ひばりちゃんとも死ぬまでついて行った。
錦兄とひばりちゃんはわりあい仲よかった、二人はできていましたから。吉右衛門の弁慶のレコードを持ってきてくれた。
千代之介は謹厳実直な芝居ばかりしてちっとも面白くない。ところが酒を飲んだら虎狼撮影所中が大荒れに荒れる位すごかった。よし、千代ちゃん今度は酒を飲んだ時の暴れ方でいけということでかんざし小判の相手役に。
ひばり・チエミの弥次喜多珍道中では、チエミちゃんが負けず嫌いだから相当ひばりちゃんを意識していた。演技者としてのひばりを論じる人がいないが、すごい人。
ミステリー作品の「紅鶴屋敷」
ヒッチコックの作品が大好きだった、ほとんどの作品はアメリカ映画の真似ばっかりしていた。
☘〈中村錦之助と大川橋蔵について〉
錦兄は”立役”で歌舞伎で歌右衛門やいろいろな人に可愛がられていた。
橋蔵さんは”おんながたさん”です。六代目に付いてたんですが、六代目のお妾さんの息子に入りましてね。六代目が夜釣が好きで、橋蔵さんをいつも連れていって、餌がなくなるとすぐ着物のまま飛び込ませて餌をつけさせる。だから橋蔵さんはね、橋蔵さんの一番うまいのはね、泳ぎでした。
✎(錦之助さんとはいつも比較されてしまうとね・・橋蔵さまは演技はダメだったと言いたいの・・とは突っ込まないでね)
「海賊場帆船」やった時に、玄界灘で衣装を着たまま泳いだのは橋蔵さんだけ。それぐらい六代目に鍛えられていたんです。それと、馬がうまかった。みんなトラックの上にのっけてアップ撮ったりするでしょう。
橋蔵さんは全然、カメラはトラックの上にいますが、橋蔵さんは馬に乗ったまま「はい、アップでいけアップでいけ、もっと来てもっと来て」と大きく言った後に、「今度離れて、ロングへいって」全部、馬は得意でした。
☘〈中村錦之助と大川橋蔵の演技〉
演技の面でもお二人は好対照というかどうでした、との問いに。
それはやっぱり、”おんながたさん”と”立役”との違いですね。
性格も、錦兄はぼんぼんの生まれでしょう、不良でしょう、カメラに飛び込んでくるような近代スポーツの良さをもっているのは錦之助。
橋蔵さんはやつぱり、おんながたさんでしたから上品でした。
「人生劇場飛車角」
鶴田浩二、佐久間良子、高倉健の3人はデビューからヒットがずっとなく、沢島さんも年に6本撮っていたがヒットがなく起死回生で挑んだ作品。
運も味方してくれた撮影だった。思いがけなく吹き上げた砂じん、海の荒波と天が助けてくれた。鶴田と佐久間の二人ができていたのも助かりました。
この映画は東映仁侠映画の元祖といわれているが、メロドラマのつもりでとったもの。俊藤浩滋さんが、「お前あんなものがやくざ映画と思っているのか。これからおれがやくざ映画をみせてやるわ」と言っていた。そのあと任侠路線にいった。これでは、たまらんなと思って「股旅三人やくざ」を撮り、やくざ映画を批判する映画にしました。
そしたら、俊藤さんが制作部でぶっ飛ばすように「俺のやくざ映画を批判しやがったな、このやろう」
股旅三人やくざで千恵蔵先生でやれというところを志村喬にした。
錦兄が、志村喬なんて黒沢組で使い捨てられてどうにもならんのに、どうしてやったんだ」と、みんなから攻められた。千恵蔵御大も蹴ったということで、あれ以来ごきげん悪くなりました。
鶴田たちの世界になって、小さくなって時代劇を撮っている状態になっていた。東映がもう時代劇を撮らないというので、東宝からの誘いがあり移籍しので、謀反を起こしたのではない。その後、ひばりさんの舞台監督として映画から舞台にいった。
みんな社会的問題とかいろいろな方へ、藤沢周平とかやっているけてど面白くないじゃないですか。
面白い作品がない、私は面白い作品を撮るのにはだれにも負けませんから、どうぞ映画見てください。
✱あらえびす文化賞✱ #投稿日2016.4.25
一般社団法人作家クラブの創設者、野村胡堂先生を顕彰するために制定いたしました「あらえびす文化賞」第1回目の表彰式が昨日4月24日ありました。
昨日、野村胡堂原作時代劇放映開始50周年ということで「銭形平次」主演で橋蔵さま受賞されました。
舟木さんの「銭形平次」の歌も特別賞をもらっています。
1966年放送のテレビ時代劇「銭形平次」(フジテレビ)主題歌50周年の功績をたたえられての受賞に「僕は歌を歌っただけ。いかに大川橋蔵さんがすばらしかったかです」とあいさつしています。
◇「あらえびす文化賞」は、当クラブの創設者である野村胡堂先生を顕彰するために新設したものです。野村胡堂先生は、一般紙時代の『報知新聞』政治部記者として活躍しながら、筆名「あらえびす」で世界初のレコード音楽評論家として名を上げられました。同時に、野村胡堂の筆名で小説を執筆。戦前戦後を通じて、小説、映画、ラジオドラマ、テレビドラマ、舞台で取り上げられた人気時代劇『銭形平次』の原作者としても知られます。幅広く、奥行きの深い昭和を代表する教養人・知識人の1人と言っていいでしょう。
当クラブは、2014年(平成26年)から、これらの業績のうち、文芸領域ち特化した「野村胡堂文学賞」を実施してまいりました。引き続き、今回は新たに「あらえびす文化賞」を創設。胡堂先生の幅広い業績のうち、文芸領域を除く文化全般などを対象とした新賞を実施の運びとなりました。文学賞、文化賞の2つ合わせてようやく、全領域を網羅した当初案「野村胡堂賞」のコンセプトと一致します。◇
第1回受賞者は以下の通りになっております。
【あらえびす文化賞】
吉村卓三 『鳥と卵と巣の大図鑑』(ブックマン社)
世界一の大図鑑。長年の苦労を経たギネスブック級の大仕事です。
大川橋蔵 テレビ時代劇『銭形平次』(フジテレビ)主演
今年は、野村胡堂原作の時代劇が放映開始50周年です。それを記念して、演技者・表現者として表彰することとなりました。
尾上菊五郎 大河ドラマ『源義経』(NHK)主演
今年は、村上元三原作の大河ドラマ50周年です。それを記念して、演技者・表現者として表彰することとなりました。
【あらえびす文化賞特別賞】
舟木一夫 テレビ時代劇『銭形平次』主題歌(コロムビアレコード)歌唱
ドラマと共に50周年。日本で最もお茶の間に親しまれた歌の一つでしょう。
それを記念して、歌い手、表現者として表彰することになりました。
✱橋蔵さま、いつまでも✱ #投稿日2015.12.7
橋蔵さまがお亡くなりになったのを知ったのは夕方のニュースでした。
「えっ、いま何と言ったの」、耳を疑ってしまった。「まさか、うそ」
でも舞台をやらなくなっていて具合がよくないことは聞いていたので、「やっぱり、その時が・・」と葛藤していましたので呆然とした時間が過ぎていきました。こういう時の悲しみって涙はすぐに出てこないものです。
Youtubeに投稿されている動画「東映城のチャンバラスター永遠に」は皆様ご覧になっていると思います。52年放送の中でも橋蔵さまが言っていることは聞いてお分かりになっていらっしゃいますね。
「私がこの世の中で勉強して活躍させていただく場所というのは、三つしかないんじゃないかと。一つは映画界、一つはテレビ界、一つは演劇界、舞台です。この三つを自分の働く場所として、毎年どこに主軸を置いてやっていくかということを考えて進んできました。」このようなことを言っていました。
それから2年あとぐらいのある対談でも同じことを言っていました。そして続けて橋蔵さまはこうもおっしゃっていました。
「私のいまの立場では、映画は別に出て行く必要がありません、現在はテレビを主軸にして舞台を、大衆演劇というものを自分なりの地盤を築いていきたいという気持だ。」「もう一つは、自分個人の踊りを大切にしていきたい」
「娯楽というものを日本のみなさんに提供していくことが自分の一番のつとめではないか、割り切って思っているので、大衆とともに生きていきたいと思う。」
これだけの信念を持ってまた新境地を開こうとしていた橋蔵さまだったのに、早すぎです。橋蔵さまがいたらテレビ界での時代劇も、演劇界も今のようにはならなかったのでは、と思うのです。
藤間紫さんが生前、舞踊界にとっても橋蔵さまが亡くなったことはすごい痛手だとおっしゃっていたように、舞踊界でも大切な人でした。橋蔵さまの創作舞踊とか観たかったです。
東京に住んでいながら・・・橋蔵さまには申し訳ありませんが、この掲示板からご挨拶させていただきます。橋蔵さまが天の世界に旅立たれてまた一つ年を重ねるのと同じ日、私は天へ一歩近くなりました。
広い空から、見つけてください、そして見守ってください。
橋蔵さまが私たちファンのために残してくださった作品から夢、希望をいただき橋蔵さまファンとして邁進してまいります。
橋蔵さま、お好きな綺麗なたくさんの花に囲まれていることでしょう。
墓前にはいかれないので、私はここからお花を手向けさせていただきます。
午前1時29分 合掌。
橋蔵さま、今でもあの日突然の知らせが届いたときのこと忘れることができません。でも橋蔵さまらしい、華のある役者のまま別世界に・・
私たちにいつまでも夢を与えて・・
✱大衆娯楽を大切にして・・✱ #投稿日2015.11.27
橋蔵さまのファンであることを堂々と、恥じることは何もないです。
今までずっとファンできた方、橋蔵さまの全盛時代を知らない世代でファン
になった方、この方達は橋蔵さまの容姿がいい、格好いいというだけでなく、映画を観てどこかが他の俳優とは違う魅力があるというところを、見極めた素晴らしい人達だと思います。
最初は素敵だからだけで興味をもったとしてもいいと思います・・作品をいくつか観ていくうちに、橋蔵さまの良さを絶対見つけると思うのです。今若い人も、もう少し年がいったとき橋蔵さまの作品にめぐりあったなら素通りはできないと思います。
時代劇は夢を与えてくれるものがないといけません。
橋蔵さまは映画界に入ってからご自分は娯楽映画で行くと決めた方でした。そして最後まで大衆娯楽に徹しました。映画、テレビ、舞台でも、楽しんで観てもらうということを大切にしてきた方でした。
そういう俳優がいてもよいのではないでしょうか。
橋蔵さまは、結婚騒動がおきた頃ファンのことで考えたこともあったようです。50歳ごろにおっしゃっています。
ファンは異性として支援している人が大部分。結婚することになるとそういうファンはやめていく。それでもついてくるファンは、ほんとの私の持っているもの、持っている芸術そういったものに興味をもって支持し、応援してついてきてくれるということ。新たなる大人としての俳優の作品、演技的なもの、人間的なものをひっくるめて応援してくださるファンが出来るということで、これが私のほんとのファンじゃないかと思います。
✱ 作品2本を✱ #投稿日2015.11.26
昨晩、東映チャンネルで20時からの「丹下左膳 妖刀濡れ燕」を観ました。
橋蔵さま、下男の源助が実は相馬家の世継ぎ源之助であるという、得意の役ですね。
下男の源助がいい、橋蔵さまの魅力がこういう役に出てくる。この頃になると立回りも一段と良くなってきている、美しさは勿論なのであるが力強さが加わっている。すべて立回りの時の格好は(本来は武士であるが)町人姿でのものであるが、またそこがいいのです。
「丹下左膳」の柳生源三郎がとび職の格好で左膳と道場で手合わせ、「清水港に来た男」も武士でありながらやくざ姿での大立ち回りもその類いのもので唸らせる所があります。
そのあと、「恋山彦」をちょっと違う観方をしました。
自分自身で楽しむために、歌とで作り仕事をしながら観る聞くために作った一つに「恋山彦」があるのです。それらを毎日ランダムにかけているのですが、昨日かけていたら映画をみたくなってしまったのです。多分歌と映像が25日という日の心に響いたのかもしれません。
本題にもどりまして、
「恋山彦」小源太が素晴らしいのは分かっていますが、私は無二斎に魅かれてしまうのです。
おむらから一蝶が女の人を隠しているみたいだと聞き、酔いに任せ一蝶の家へ行き、一蝶を振り切って誰をかくまっているのか襖を開けるまでの場面、無二斎が道場で一蝶に小源太を生かしておきたいんだろうと言いよる場面、小源太の装束で身代わりになり捕り方に囲まれておむらの家の前に来た時、無二斎を見ての言葉におむらの方を見て何も言わず捕り方を引き連れて去っていく場面、胸打たれるのです。
ここでちょっと、一蝶役の伊藤雄之助さんがその時に書いていらっしゃる中で、このようなことをおっしゃっています。
雄之助さんはこの役の設定を才能があるのに酒で枯らすという方法で、アル中の気がふる絵師に扮しようと思ったようです。雄之助さんは40歳ですからそれに扮するのは不自然ではないのですが、親友である無二斎がちょっとばかり若すぎるということに気付いたのでした。
元来橋蔵さんは若く見られるタイプ、雄之助さんは老けて見えやすい。
そうすると、二人の年齢の隔たりがさらに大きくなる。そこで、最初の設定を中止して雄之助さんが若返ることになり、橋蔵さんが少しばかりやつれを見せた浪人になる。歩み寄って年齢差を出来るだけ縮めよう、というわれで、この点が二人の苦心なのですと言っています。
小源太については、薙刀での立回りとラストの舞踊場面はいいのはわかっていますから省きます。
小源太がお品を連れて平家村に馬に乗って颯爽と帰ってくるところ、馬上の橋蔵さまは素敵です。
橋蔵さま自身であのほこりの中を走って大変でした。暑い夏砂漠のような地での撮影。馬が大勢の人とセットなどに驚いてしまって、上手な橋蔵さまがたずなを締めてもなかなかピタリと止まってくれなかったようです。
お品と祝言をした夜の寝所、小源太が御簾を下すところの、白衣を着ている橋蔵さまの脚の線の美しさが。あの姿態は色気がありますね、
ここで撮影秘話??
お品と臥床に横たわり、お品の肩に上に夜具をかけるとき、寄り添っている以上いやがおうでも小源太の上にもかかってくる道理で「オヤオヤ、これは僕も恵子ちゃんと一緒に寝るのかな?」と、マキノ先生の顔を見ました。途端に、「バカヤロ」大喝一声。「お前は寝るんじゃない!」同じ「寝る」でも橋蔵さまは「横になって寝る」マキノ先生はそれ以上の深い意味での「寝る」だったわけで、一同大爆笑だったとのことです。
江戸城へ乗り込んみ、襖が開き将軍綱吉のところまで衣冠束帯?で堂々と歩く小源太、あそこは颯爽と優美な振る舞で絵巻物を見ているようで、さすが橋蔵さまならではです。
でも私、いいなと思いながらなぜか胸がつまるのです。
橋蔵さまの作品を見るのも先へ進みたいのですが、どうしても後戻りをすることが多くそのたびに新たな発見があるので楽しいのです。
これも私なりに、作品と橋蔵さまを真剣に観ていて評価しているつもりでいるのです。
こんな調子で昨日もまた、床に入るのが遅くなってしまいました。
✱あの日も寒かったでしょう✱ #投稿日2015.11.25
ごめんなさい、暗い気持ちにさせてしまうけれども、私の心の中には今日も忘れられない日ですので。
今日はとても寒かったですね・・あの日もこんな風で寒かったのでしょうか・・・11月25日夕刻。
銭形平次の番組が終わろうとする頃から、橋蔵さまは体がしんどいと言っていたようです。
明治座公演を代役でお願いして気にしながら入院したのが1984年5月、余命3か月といわれ、一時退院が8月、南青山、軽井沢そして北白川で療養、10月東京へ戻っても舞台のことばかり、秋の巡業が出来ないことを心配し、1985年春に勘三郎さんとの帝劇を楽しみにしてその準備をしなければと。
でも、その舞台に出ることも無理といわれ・・(この舞台にでることを励みにして頑張ってきた橋蔵さまでしたのに)・・翌朝橋蔵さまの目は赤く腫れあがっていたということです。
そして、長くても1週間と告げらた翌日、1984年の今日再入院されました。
この時一番気にいっていた北の蛍を聞いてから、南青山のご自宅を感慨深く見渡したといいますから、ご自分で分かっていたのでしょうか。
そして待っていた車で病院へ・・。繁華街のネオンも悲しく見えたでしょう。
あの日のことが浮かぶこの時間、橋蔵さまの言いようのない○○さが・・・
✱よもやま話として・・・②✱ #投稿日2015.11.24
銭形平次の編集することがないので、私これからこの時間にちょっと仕事をしようかなと思いますが、その前に・・橋蔵さまを思い浮かべ気分転換!!!よもやま話を書きます。
東映時代劇のスチール写真を撮っている方の“ファインダーからのぞいた橋蔵さんの魅力”をちょっと。
✐(橋蔵さまの顔はどちらからが美しい顔だと思いますか。皆様、あなたがカメラマンだったらどの角度からの橋蔵さまのスチール写真を取りたいと思いますか。作品を見ながら私だったらこのところと瞬間に手をファインダーにしてやってみるのも面白いかもネ。)✎
では “ファインダーからのぞいた橋蔵さんの魅力”
橋蔵さんの顔としてもっとも美しいのは、左からキイライトを効かせて、右側から撮ったときが最高に美しい顔だそうです。
姿勢が大変美しい、いつもシャンとしていて、大変魅力的で写真も良いものになる。そして、橋蔵さんの足はじつに美しい。ほっそりしていて力強く、見ているとスカッと気持ちよい感じになるそうです。
そのような強味を持っている橋蔵さん、着物の柄の選び方が上手なのですから鬼に金棒です。橋蔵さんは美に対するセンスが他の人より優れている。
映画がカラー化され、着物の柄選びも大変難しいもので、自分だけにあっても良いとはいえない。その役柄を通して画面全体にマッチしなければいけない。それを橋蔵さんは充分に分かっていた。
写真を撮る場合、橋蔵さんはこちらの狙いをすぐのみこんでくれて、眼と眼を見合わすだけでことが済んでしまう。スチール写真は瞬間、瞬間をパッととるので雰囲気が非常にむずかしいが、よく協力してくれた。
そういう橋蔵さんにも苦手な写真があった。・・・ラブ・シーンの写真。
若い橋蔵さんは恥ずかしくて仕様がなく、照れてしまうんだそうです。
💕 確かに映画を観ていても橋蔵さまはラブ・シーンはお上手ではないです。観ている方が照れてしまいますもの。
きれいな絵になるようなシーンはよいのですが、64年頃の映画でのようなシーンは橋蔵さまには似合わないし、橋蔵さまのイメージを会社側が壊しにかかっていたように思います。あそこまでやらせなくても、と私は思っています。
✱徒然なるままに一日を✱ #投稿日2015.11.22
明日月曜日は銭形平次の放送がないので掲示板用は書かないので、今日はいろいろ昔のことを思い出していました。勿論橋蔵さまのことで・・12月もすぐなのでごめんなさい、徒然なるままに書きますが、許してください。
「恋や恋なすな恋」のトリミングだけはしてあるのですが、おかしいでしょう、本編をじっくり全部まだ観ていないのです。観てみたい観てみたいという気持ちはあるのですよ。
それでその時に思い出すことは、相手役が岡田茉利子さんだったらどんなだったんだろう、ということが頭をめぐってしまうんです。今更そんなこと仕様がないことですが。
ご存知の方多いと思いますが「恋や恋なすな恋」の話が持ち上がった時、橋蔵さまは岡田茉利子さんにオファーしたのですよね。岡田さんも橋蔵さまとの共演に積極的で京都まで会社に黙って出向いていいムードだったが、会社に分かってしまい当時の5社協定に違反するということで没になってしまいましたね。
橋蔵さまがこの人と、と決めたのですから本当だったら、そちらの方がもっと違ったいいものになっていたのではと。
S34頃だったかな雑誌で共演したい女優さんはということに嵯峨三智子さんと有馬稲子さんをあげていましたから、それはそれで橋蔵さまの念願は後にかなったわけなのでいいのですが。
嵯峨さんは雷蔵さんの映画で十数本相手役で出ていますから理由は分からないでもないです。
あと、共演してみたい女優さんとして、若尾文子さん、星由利子さん、司 葉子さん、などもいらしたかしら。
若尾さんは別として岡田さん、星さん、司さんは銭形平次の最後の頃、橋蔵さまの希望に答えてくださって出演なされています。「良かったな」と思いました
橋蔵さま銭形平次終了後は舞台が決まっていたようなのですが、お元気でいらしたら数年後に、絶対この方達との舞台が観られたのでは、と思うのですけれど口惜しいですね。
そうそう私、仕事上で橋蔵さまのお付き合いをしていた女優さんとご縁があったのですよね。
司葉子さんとは、請負っていた会社の女社長さんが親しくて、恵比寿ロータリークラブのメンバーで、社長と一緒に行動していた私は会の後もご一緒してお茶をしながら一緒にお話をさせていただいていました。この時は、橋蔵さまと司さんがお若い時お友達だったとは全然知らず、残念なことをしたと後になって思ったことがありました。
そして朝丘雪路さん、この方は私が最初に勤めた会社の支社長(後で私の連れ合いになった人なんですが)のところへ昼食によく来ていらっしゃいましたね。津川さんと結婚される前のことでした。テレビでの宣伝広告での打合せ日でもないし・・仕事上どこに行っているのか分かっていないといけないですから・・よくお会いしました。なんとなくわかりましたよ、男のかたが魅かれるということが。でもこの時だけは仕事の一部でも、橋蔵さまが苦渋をされた年月が思い起こされ苦痛でした。
✱ 四方山話として✱ #投稿日2015.11.21
「恋山彦」を撮っていた時期の特集本の中で映画評論家が書いた箇所のところから”トミイの今後”についての四方山話です。(一部分カット、編集しました)
反論したい人もいると思いますが、S34年のことですからご容赦。
「笛吹若武者」で映画入りする前は、六代目尾上菊五郎の養子として歌舞伎界でも前途有望な若手役者だった。私は見ていないが、彼の女形ぶりはじつに美しかったという話である。それは今の彼を映画で見ても、容易に想像出来ることである。もし、映画界に入らなかったら、今ごろは若手女形の筆頭にあげられる華々しい存在になっていたことだろう。歌舞伎界にとっては惜しいような気がするが、映画界に入って比較的開放的な空気の中でいろいろな役柄をやったのは、彼にとっては幸福だったかもしれない。
彼の性格には、映画界の方がむいているかも知れないからだ。「笛吹若武者」では素直な演技で好感がもてたが、今日ほどの人気スタアになるとは予想できなかった。ただ、持ち前のスジの良さをまっすぐ伸ばせば、大物になるだろうという気は確かにした。今日の成功をおさめているのはスジの良さに加えて自分の魅力のみせどころというものを、彼自身がしっかり捕まえて自信をもって演技するようになったからだと思う。その自信が、彼独特の甘いお色気をスクリーンにみなぎらせるようになり、そこで人気がでてきたのだ。スジの良さにプラスアルファというものが加わってこそスタアとしての魅力と値打ちが生まれてくるのである。
ある週刊誌で、石原裕次郎と大川橋蔵の二人に、同じ質問を沢山出して別々に答えさせた結果を掲載していた。石原裕次郎は大変素直に一つ一つの質問に答えていたが、大川橋蔵のほうの答えは裕次郎に比べると、首相の国会答弁のようにソツのなさがうかがわれた。答え方がなかなかズルイのである。それだけ大川橋蔵は大人なのだ、ということができるかも知れないが、そういうソツのなさ、抜け目のなさを生かした面白い企画も考えられていいのではないかと思わせられたものである。
若殿様的な役どころで、綺麗なチャンバラをやって楽しませてくれるのも嬉しいが、彼の持っているスマートで近代的なところをクローズアップした洒落た喜劇的な映画なども見たいように思うのである。案外、そんなところから彼の新しい境地が開けていくのではないのだろうか?人気のあるうちは、おおいに人気のある役どころで押して行くがいいだろう。そして、適当な時期がきたら、すかさず、個性を生かした本格的な時代劇演技をみがくことに転換するがいいだろう。というと、なんだか、余りにヌケ目のない俳優としての行き方を奨励しているみたいだが、大川橋蔵という男はそういうところをウマくやってのけられる頼もしいしっかり者だと思うのである。
♢ 橋蔵さまの映画デビュー「笛吹若武者」ショット久しぶりに見なおしました。そのうちから私が好きなショットから3画像載せました。
🍀橋蔵さまのあの眼とあの哀愁が磨かれていったのですね。
🍀兜が重かったのかなぁ、扮装にてっしているがちょっと素が出ているところ
が可愛いの。
(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)
✱人間性にずっと魅かれていた私✱ #投稿日2015.10.31
私が今まで橋蔵さま一途のファンできたのは、綺麗な二枚目、踊りがうまいからというだけで魅かれてきたのではなく、小中高時代雑誌やTVで毎週放送していた東映ニュースで素顔の橋蔵さまからインスピレーションで受け止めた"人間性"、そして実際に近くでお会いしていた時の素顔の橋蔵さまからも、私が今までずっーと思っていた雰囲気をお持ちの方だったから、ここまでファンを通してきたのだと思います。。
役の扮装をしている時でも素を見せている時の橋蔵さまが好き。カメラを向けられていても意識していない時の素の橋蔵さまが好き。
そんな思いを持っていた私は、橋蔵さまに関して書いているものを読み返して見たとき、”やはり間違ってはいなかった”と共感したものです。
橋蔵さまについてある映画評論家が書いていたこと(s34年9月)を抜粋してちょっと書きますね。
記事に記憶のある方は、ここで橋蔵さまが清潔な人間性をずっーと持ち続けていたことを再確認できると思います。
めったに男に惚れることのない僕が、どうして橋蔵に惚れたのか。その一つは、彼が役者らしからぬ役者であること。ほとんどの映画俳優に接してきているが、橋蔵君のような”清潔な人間性”を見たことがない。この”清潔さ”が橋蔵という人間を、年が若いが大変大人にしていると思うのだ。
俳優はファンあっての俳優であり、俳優あってのファンではない。この点、惚れて、惚れぬかせる魅力を持っている。それが彼の”清潔な人間性”によるものであることはいうまでもない。
他の俳優たちより抜きんでているかその大きさが分かる一例。世間にはとかくスターを意識したがるスターはいても、彼だけはスターぶらないし売名行為をやらないのだ。 毎年歳末には、一、二の京都のスターが貧困者や孤児たちに贈り物をしている。前もって予告し記事を流させ、当日には写真入りで報道させる。これに反して、橋蔵は毎年誰にも知られないようにこっそりと名前を隠して孤児たちに、それはささやかであるが、きちんと贈り物をしている。じつに見上げたものである。
“橋蔵は大変気さくな男である。誰とでもすぐ仲の良い友人になり、心から分け隔てなくつきあう。その気安さと謙虚さがあのすばらしい人気の根源になっているのではなかろうか。
淡々として人生を語り時代劇を語る橋蔵は、誰の前でも変わらないだろう。そんないいところのある橋蔵はしかも”たえず微笑を忘れぬ姿”そこに橋蔵の大きさがある。
今彼の人気を調べると日本映画界において最高である。最高の人気を持つということは、平凡な俳優にはとうてい成し遂げられぬ難事である。その難事をここまでやり遂げたということは、演技力もさることながら彼の”人間性の豊かさとあたたかさとファンを思う心”によるものであろうと信じている。
掲示板に書いていて再々確認できました。私がファンとして今は亡き大川橋蔵さまを今でも生きておられるかのように感じているのは第一にはやはり"人間性"に深く魅せられているのです。
そこに格好よく綺麗で魅了させる舞と演技からも伝わってきていたからでしょう。
✱人間性にずっと魅かれていた私・・②✱ #2015.11.7
10/31掲載しました中の”ファンを思う心” ファン思いのエピソードとして(要約しています)
S34年8月駒沢球場で行われた映画人野球大会での話です。
9日その日の朝、橋蔵さまは京都を発ちました。橋蔵さまが出場するというので橋蔵ファンの多くがその晴れ姿を待ちあぐんでいました。
ところが運悪くこの日九州地方を襲った台風の余波が関東を襲い、野球は中止になりました。野球大会は16日に延期され、橋蔵さんは無念の涙をのんで京都に帰りました。
16日に延期されたことで、橋蔵さまのスケジュールがくるってしまいました。
「恋山彦」の撮影があり、どうしても抜けられないスケジュールが組まれていました。
野球大会に出場出来なくなると、前売り券を買ってユニフォーム姿を一目見ようと待っているファンががっかりすることは明らかです。それではファンにすまない、申し訳ないという気持ちが橋蔵さまをかきたてました。
橋蔵さまはマキノ雅弘監督に事情を述べ、二日分先に撮ってくれるように頼んだそうです。
二日分40カット。ただでさえ暑いセットの中で、早朝から夜遅くまで橋蔵さまは黙々として40カットの演技をやってのけたのです。
すべては、駒沢球場で待っているファンを失望させないためでした。
こうして16日橋蔵さまは再度上京して、球場に姿をあらわしたのです。
この日も午前中豪雨で午後から晴れましたが、試合開始が延び、橋蔵さまは最後までグラウンドにいられなかったのです。その日の夜には京都に戻り、翌日からセット入りしなければならなかったのです。橋蔵さまは、そのことをご自分の責任のように感じ、ファンにすまないと仰っていたようです。出来ることなら、ファンと一緒に夏の一夜を楽しみかったのでしょう。
橋蔵さまの人間味について、最後にこのような言葉で締めくくってありました。(S34年9月)
このようにファンを大切にする男であるからこそ、あの若さであれだけの人気を持っている、この人気は一朝一夕には崩れないだろう。
橋蔵君をまだ知らないという人達に、「とにかく一度あってごらんなさい。黙って座っているだけで、彼の体からにじみ出てくる人間味といったものに、まったく胸を打たれるから」と。
橋蔵はスクリーンでみる時も、仕事をしていない時も、全く変わりはない。その意識しない、ゼスチュアをつくらない”心の在り方と行い”が、彼を大人物にしている。
これからの時代劇を背負って立つ橋蔵の前途には嵐もあろう。しかし、彼はきっとそれを乗り越えていくだろう。