このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
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どちらを見ても大丈夫なように管理者が責任をもって投稿記事は双方に分かるように掲載していきます。
🟨この掲示板は無料版の掲示板にしましたので、広告が入りますので見ずらくなってしまいました。ご容赦ください。
✱ 送り火には、やはり思います✱ #投稿日2017.8.16
今日は、8月お盆の地方では、ご先祖様をお送りする日です。
京都では五山送り火です。
最初の「大」文字(東山如意ヶ岳)は20時に点火され、5分ごとに5つの火文字が浮かび上がります。「大」「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」という文字や絵が、京都を囲む5つの山に順に灯されます。
この日、橋蔵さまを思い出すときは、やはり如意ヶ岳の「大」です。
天気はどうでしょうか。去年は雨で煙って、一番目の如意ヶ岳の「大」が全然見えない状態でした。
今年はかがやいてほしいな。
橋蔵さまも、送り火の時間を待っていますでしょう。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱遊んじゃいました・・橋蔵さま✱ #投稿日2017.7.27
遊んじゃいました。
1957年ごろの夏、美女と楽しいひと時を過ごす橋蔵さまです。
雑誌からのものを私なりに、フォーカスとぼかしで編集したものです。
(浅丘ルリ子さん・小山明子さん・山本富士子さんと)
涼やかな橋蔵さまの笑顔が素敵。
皆様も涼やかになっていただけるかしら。
橋蔵さまは、雑誌撮影で、他社の沢山の女優さんとご一緒していましたから、楽しい出会いも多かったでしょう。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱夏本番はこれから・・!!✱ #投稿日2017.7.27
もう少しで8月に入ります。
葵新吾“大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板から、おいでになってくださっている皆様へ
「暑中お見舞い申し上げます」
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱撮影合間をぬって忙しく✱ #投稿日2017.7.19
日本の気候も変わってきました。”線状降水滞”というものが暴れまくるようになり、川の氾濫、土砂崩れと、各地で起きています。それと共に急な天候の変化も・・関東でも一昨日上尾で突風が荒れまくったと思ったら、昨日は江の島でも凄い突風が吹きまくりました。東京も、凄い大風大雨に雷が伴い、場所によっては大粒の雹が降ったところもありました。そして、今日は嵐が去ったあと、関東まで”梅雨明け”たという発表がありました。これからが夏本番となり厳しい日が続きます。
橋蔵さま「修羅時鳥」から「若さま侍捕物帖鮮血の肌着」の撮影の合間のちょっとしたことを書かせていただきます。
撮影の合間も忙しい橋蔵様、1957年2月末には京都南座で催された藤間勘五郎舞踊界会に出演されました。(敬称略)長谷川一夫、中村雁治郎、中村扇雀、市川雷蔵、大谷友右衛門、勝新太郎、中村玉緒、世家真ますみ、藤間大輔、藤間紫、宗家の勘十郎、という顔ぶれで賑やかでした。
昼の部で大輔さん、ますみさんと「松竹梅」を踊り(左上、右上の画像)、夜の部は勘十郎さん、勘五郎さん、雁治郎さんの「寿式三番叟」で後見をつとめ、久しぶりに身が引き締まる舞台であったと言っていました。
1957年3月初めには俳優協会京都支部青年部主催のカクテルパーティーが都ホテルのホールであり、橋蔵さまは幹事として列席し、受付、応対、そしてダンスを踊ったりと大忙しでした。(下の段の画像は若尾文子さんと楽しくお話をなさっているところです)
そんな中、「若さま侍捕物帖深夜の死美人」がクランク・アップして次の「喧嘩道中」までに3日暇があったので1957年3月半ばに約2か月ぶりに東京に帰ってきましたが、ゆっくりと休んでいることは出来ず、東京でも目がまわるような忙しさで京都に戻って撮影に入りました。
そうそう、そう言えばこの時期に、東映に入社して間もない橋蔵さまに、”大川橋蔵松竹に入社”という新聞記事が出たようです。(私は小学低学年でしたし、新聞も雑誌も目を通すことはなかったので、当時は全然知りませんでした)この記事をみたファンの方々は、東映で地位を築きあげてきている橋蔵さまがどうしてと、一時心配したことでしょう。
そして、橋蔵さまの新しい魅力が花開きます。
橋蔵さまは、やくざものに初めて挑戦をしました。「旗本退屈男謎の決闘状」の半次役を見ていて、橋蔵さまのやくざものをいつか書いてみたいとおっしゃっていた比佐芳武さんが戦後片岡千恵蔵さん主演で書いた「おしどり笠」を橋蔵さまのために書き直したリメイク版「喧嘩道中」に挑むことになりました。画面もワイドスクリーンシステムの東映スコープという橋蔵さまの作品では初めてのものになりました。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱大川橋蔵の暮らしの手帖⇒たべもの✱ #投稿日2017.7.5
日本列島の南岸を猛スピードで台風が通過していきました。豪雨、雷、竜巻、突風と気象庁からの知らせが大変でした。今年は日本上陸台風の来るのが速すぎです。この分では秋口までどれだけ来るのか、ちょっと心配。
さて、今は東京は静かな夜になりましたので、ゆっくりと橋蔵さまのことを少し・・・といっても橋蔵さまの作品のことでなくてすみません。
📖 1958年3月に出た雑誌(緋ざくら大名」がクランクアップしたあとに出たものです)に「大川橋蔵読本」がありました。その中の「大川橋蔵の暮らしの手帖」という、スター橋蔵さまを数々の角度から解明といったコーナーが載っていました。
そこから、前回の四方山話で食道楽の話(1957年)をしましたので、今回も食べ物の話からまいりたいと思います。(私の見解でまとめてみました、悪しからず)
🍗 肉ならなんでも
「ビフテキ、チキンカツ、ローストマーン、ハンバーグステーキ、フリカッセー・・まず、肉類ならば何でもすきですね。肉類ならば、西洋料理に限ったことではなく、日本のすき焼き、シナ料理の豚肉類など、何でも結構です」橋蔵さまは明るく笑って言うのです。肉類だけでなく、天ぷら、うなぎも大好物です。「三食ともに、こういうものならOKです」というのですから、骨の髄から脂っこいもの好きなようです。
何故そんなに好きなのか・・それは、何とかして太りたいということから、肉類を食べはじめ、そしてやみつきになってしまったそうです。ところが、太るほうは関係なく十六貫(60キロ)台を往復していますので、この頃では太るのを諦めていると言っています。が、依然好物となった肉類からは離れられないようです。
ある時、京都四条のレストランでハンバーグステーキを食べていた橋蔵さまはパンではなくライスを食べていました。もともとパン食はあまり好まないようです。橋蔵さまはライスをもりもりと食べていました。若さにあふれた橋蔵さまの食事でした。
🍚 お茶漬けの味
橋蔵さまは、大食のほうではありません。“腹八分目”というのがモットーです。平均して一食に軽く二膳。朝食には、お味噌汁の一杯は欠かしません。
選り好みはしませんが、「カッーと沸騰したおみおつけに日本ネギをザクザク切ったのを放り込んで少しおき、ちょっと柔らかくなったのを食べる」のが好きだそうです。江戸っ子らいしですね。お茶漬けも嫌いではありません。昔は、茄子、きゅうり、ウドといったさっぱりとしたものが好きだった橋蔵さまに取ってお茶漬けの味は郷愁なのかもしれません。
橋蔵さまは、さっぱりとした海苔の香とサビの匂いとお醤油の味の混じった江戸前の感じのものが好きだそうです。ただし、お茶づけは、撮影などで大多忙のとき以外はあまり食べないとのことです。。
魚も大いに食べますが、イワシが大好物です。魚料理の神髄は”鰯に始まって鰯に終わる”とさえ言われるくらいの味を持っています。「鰯のお刺身なんていうのは、あまり好きではありません。何か、わざとらしさが感じられて。ゲテにする必要は少しもありません。サッと焼いてよし、煮てよしで、鰯はそうやって食べるのが好きです。」と言う橋蔵さま。川魚ではドジョウが好きです。とくに柳川鍋が好きな橋蔵さまです。鰯といい、柳川といい、江戸っ子、それも下町好みの味覚、やはり柳橋に生まれたせいなのでしょうか。橋蔵さまはこう言います。
「何を食べようかと思わず、黙って出された料理が肉であれば文句はありません。しかし、何を食べようかと考えて食べるときには、柳川に限ったことでなく、時にはラーメンだって好きなのです。要するに、仕事の忙しいせいもありますが、半月でも一か月でも、コロッケを出されても平気です。だいいち、まだ何がうまいのか、何がいいのだと、口にするまで舌が枯れてはいませんよ」
🍶 お酒は適量
甘いものは好きではないようです。「甘いものを食べると虫歯になる」と言われてきたことが、一種の潜在意識になっているようです。
撮影の時、ロケなどに行った時、キャラメルの一つも食べることはあるそうです。煙草を吸わないので、口がさびしくて共演のスターさんから「トミイさん、どう?」などと出された時は遠慮なく頂戴することもあるということです。
お酒は嫌いではありません。ビールは好きでなかったのですが、太りたいの一心から、ビールを飲めば太るというので、毎晩一本ずつ飲んだそうです。ところが少しも太らない。ビールでもダメかと思った時には、ビールの味が忘れられなくなっていて、嫌いだったビールも好きになってしまったそうです。
「でも、僕など、酒飲みの部類には入らないでしょうよ。要するに、適量主義ですからね」「何合が適量かとはいえません。その時その日のコンディションによって違いますから。とにかく多少すごしても、乱暴したりしませんから、これが適量主義なのでしょう」と橋蔵さまは言っています。
どちらかと言うと、日本酒。洋酒ならブランデーが好きなようです。ウィスキーも飲みますが、ウィスキーは仕事に疲れて神経がいらだっている時、睡眠薬代わりに一杯飲むのだそうです。
✱久しぶりの四方山話です✱ #投稿日2017.7.1
只今、「若さま侍捕物帖・魔の死美人屋敷」の放送中、かけながら書いています。
まだちょっと痩せぎみの若さまですけれど、江戸っ子弁のべらんめえ口調もスムーズで、表情も出てきたので、安心して見られるようになってきました。
橋蔵さまが、映画界に入って、1年以上経った頃の雑誌に「ぼくの食道楽」と言う題で書いたものから私なりにまとめましたので読んでみてください。
この当時は橋蔵さまの自宅は東京にありましたから、独り者の気楽さから一軒家を借りてという気はまだなく、旅館の二階の一間を借りて住んでいた時です。
「京都住まいも一年以上になり、生活の法則もすることが決まってゆくようで、人暮らしのため実に単調でした」と言っています。
多くの時間はスタジオですから寝ることと食べることしか楽しみはないと。
「まず、京都で求めているのは食べ物かもしれない。しかし、食べ物となると、いろいろ好き嫌いがあるし、取捨選択が難しい。」
仕事で追いまくられる京都での生活のなかでは、食べ物に興味の対象をおくことが楽しいし気分を変えてくれる大切なことになっていたようです。
1年ぐらい前(京都に来たばかり)のこと、橋蔵さまが肉好きと知って撮影所の係の人が「カツレツ」をお昼に頼んでくれて、それが大変美味しかった。「明日のお昼も頼むよ」「へい、おおきに」と言う具合で、毎日お昼には”カツ”ばかりを食べていました。そのお昼の”カツ”の常食が半年も続いたのです。そこで「毎日カツばかりでは飽きるでしょう。何にしましょうか」とたまりかねて言ってきたそうです。「何が出るんだい。美味しいものは」と聞くと「エビです」と言ったので、その日のお昼は”エビフライ”が楽屋に届いたそうです。その「エビフライ」がまた美味しかったので、また「エビフライ」を一年間も常食してしまったことがあるということです。「食堂の人はきっとびっくりしたことだろう。じつは我ながら驚いた。」と言っています。
(このことは橋蔵さまが後日、徹子の部屋などでも話したので、有名な話になっています。)
この時期「そんなことは、今ではもうやっていない。いくら好きでもこの辺で結構である。」と橋蔵さまは言っています。
橋蔵様は旅館生活でしたから、朝の食事は宿、お昼は撮影所、夜はどこか美味しいものを求めて出歩くようになっていました。京都の町は狭いので足の向くところは決まってしまったようです。
橋蔵さまは肉好きなので、四条川端の肉のオイル専門の店にはよく行きました。「やわらかい肉を鉄板の上に置き、油で焼きながらたべるのだが、大根おろしをつけながら食べるとたいへんに美味しい。」
祇園の近くの花見小路にある洋食屋で美味しいのは、「コロッケ」「ビフテキ」「水たき」。「どうしても、肉好きの僕であるから、こういうところに落ち着いてしまう。」と言っています。
この2,3か月前から釣りを始めたらしく、桂川に行った時、10センチぐらいの「はいじゃく」という小魚を、川の流れを耳に聞き、舟の上でジュージューという魚の焼ける匂いを嗅ぎながら食べるのが楽しかったようです。
この時、錦之助さんも釣りを始めた頃で、どちらが上手いかを証明するためのコンクールをしていたそうな。
「普段の生活が忙しい僕たちであるから、たまの暇をみつけて釣りに出かけることは空気もよいし疲れを取ってくれるので、一石二鳥の楽しみだ。」
「京都生活は、だいたいこんな余暇を楽しんでいるが、食べることと眠ることが一番の愉しみになってしまうのも、忙しいせいと一人暮らしの「つれづれ」からだろう。ひとり暮らしの便利なことは、思い立った時にしたいことができることである。」と言っています。
夏の京都は、とりわけ暑く夜などなかなか寝つかれない蒸し暑い日が続くことが多いですから、橋蔵さまはそんな時、京都から車で30分の山中越えに、ひとときの涼を愉しんだようです。その峠には展望台があり、そこからの夜景がとても美しいかったと言っています。
「その展望台の一隅に、くっきりと浮かぶだらりの帯姿の舞妓さんでもいようものなら、これは天下の絶景である。だらりの帯の舞妓さんはいつどこで見てもいいものだ。」(うむっ、橋蔵さま・・・)
祇園の近くにある喫茶店にもよく行ったようです。
夜12時以降に行くことが多かったようですが、このお店は遅ければ遅いほど、舞妓さんがやって来てにぎやかなことが京都で有名な店だったそうです。
優しさのある京言葉と京らしい風情を眺めながら「コーヒー」や「ハイボール」を注文し、友人と談笑するのもなかなかよいものだったようですが、夜遅くなると映画人が多く、「「やあ、お疲れさん」と、必ずこの店には知った人がいて、まずもってここへきて退屈したことはない。」と橋蔵さま。
こんな風な毎日で、映画スターとして賑わしてきた橋蔵さまの京都の2年目が過ぎていったのですね。
✱62年企画にあがった予定作品見たかったな✱ #投稿日2017.6.24
橋蔵さまは、1961年には、シリーズもの「新吾二十番勝負第一部、第二部」「若さま侍捕物帖 黒い椿」オールスター、セミオールスターもの「赤穂浪士」「幽霊島の掟」大友さんとの共演「南蛮鮫」「濡れ燕一刀流」そして橋蔵さまの娯楽作品として「江戸っ子肌」「富士に立つ若武者」「月形半平太」「橋蔵の若様やくざ」といろんな役柄で私達を楽しませてくださいました。
このころ、先日書きました1962年の橋蔵さまの公開予定の企画作品がでていました。
毎年そうですが、企画に上がってもいくつかは没になってしまうものです。今月と来月の東映チャンネルでの橋蔵さま作品は、ちょうど62年に封切られた「美男の顔役」と「まぼろし天狗」がありますので、この時期に没になった作品を見つけてみました。
61年後半、「赤い影法師」と「美男の顔役」の公開が予定され、この後待ちに待った「恋や恋なすな恋」の撮影に入ることが決まりました。その間に本当は舞台劇「なよたけ」だったのが「恋や恋なすな恋」が1月から撮影に入ることが決まっていたので、同じものが続いてはということで「天草四郎時貞」が撮られたようです。
橋蔵さまは、毎年お正月は地方ご挨拶の巡業が入っていましたから、橋蔵さまが本格的に「恋や恋・・」に取り組んだのはその後からになりました。相手役は岡田茉利子さんでと言う話が大々的に出た時、五社協定でだめになってから随分経ちました。
改めて相手役を探すまでに時間がかかりました。
「恋や恋・・」は人形浄瑠璃の「蘆屋道満大内鑑」(あしやだうまんおほうちかがみ)と清元の「保名狂乱」をもとにした大作です。「保名狂乱」の場面は歌舞伎の『保名』そのもの、ラストは歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』そのままの保名と葛の葉狐が暮らす庵の場面になり、映画の中に歌舞伎そのままの舞台が出てくるということで、歌舞伎の知識があれば分かりますが、ないと理解に戸惑ってしまうかもしれない作品でした。
「恋や恋・・」の時に橋蔵さまご自身でも、次の企画作品には名古屋山三と出雲お国とのラブロマンスの「戦国若衆」に入ることになっているといっていたのですが、消えてしまいました。
そして、62年には大作企画作品の予定がずらりと上がっていたのですが・・・。
このようなものが上がっていたはずです。
松山善三さんの脚本、家城己代治監督で徳富蘆花原作「灰燼」(かいじん)
西南戦争をバックに、近代日本のあけぼのに散った青春像を描いたもの。橋蔵さまの魅力の憂愁さを生かせる作品となるのでは・・と言われていました。
小国英雄さん脚本で「静かなる大地」
北海道を舞台に大部分を北海道ロケでという、脱藩者とそれを追う二人の侍の男の友情を描いたもの。
橋蔵さまが脱藩者で、それを追う侍役には用心棒、椿三十郎と時代劇に出演していた仲代達夫さんが予定されていたようです。
橋蔵さまは仲代さんとの共演はなかったですね。錦之助さんは仲代さんと映画で共演しているのですよね。
「新吾二十番勝負 完結篇」
新吾シリーズもこれでお別れとなり、武田一真との対決はどうなるのか、お鯉の方と親子の対面は出来るのであろうか、気になるところでしたね。これはちゃんと1963年に作品になりました。
大屋典一原作の「孤雁」
一刀流の伊藤弥五郎のちの伊藤一刀斎と柳生石舟斎の宿命の対決を描いたもの。
橋蔵さまの新しいシリーズものとして期待して企画されたようですが、この映画は1963年に松方弘樹さん主演「孤雁一刀流」で映画化になりました。
王朝ものとして、前々から話が出ていて1961年に実現できなかった「源氏物語」や室生犀星原作の「山吹」や円地文子原作「やさしき夜の物語」」そして舞台劇「なよたけ」などが予定作品にあがっていたようです。
現実は厳しいものですね。橋蔵さまの役柄も思いもよらぬ方向に傾き始めてしまったのです。ということで、過ぎ去ってしまったことは仕方のないこと、でも惜しかったですね。
さあ、気を取り直して、橋蔵さまが私達に残してくださった作品を、思いっきり堪能いたしましょう。
私も、橋蔵さまの作品について一生懸命書いていきます。
ブログの方は、次回からは第23作品目「若さま侍捕物帖 深夜の死美人」に入ります。これからの作品は、どんどん橋蔵さまの魅力が画面いっぱいに映しだされていくものばかりですから、一作品一作品を細かく見つめて、気を引き締めて書いていこうと思います。
皆様もテレビ放送やお持ちになっている作品で、橋蔵さまの笑顔と爽やかさで、うっとうしい気候を乗りきりましょう。
✱ 異色作品の企画はすべて×に✱ #投稿日2017.6.15
「まぼろし天狗」喬之助のニヒルさといい目の使い方といい、素敵ですね。
周馬もうぶな風でよいのですが、私もやはり喬之助の方がよいですね。
「まぼろし天狗」・・私はやはり何回見てもここは捨てられないところです。
逃げ込んで来た周馬をかくまい通すときの喬之助。
細い崩れ落ちそうな橋の上での不気味な按摩との凄絶な立ち廻り。
すれ違いざま、仕込杖から白刃をひらめかして斬りつける按摩を一刀の下に切り倒す凄絶な立回りが、橋蔵さまが今まで見せなかったスピーディーな立回りで息を飲みます。
暗闇でやくざ達に襲われるが、掘割に叩きこんで「そこでしばらく頭を冷やせ」と言って小唄を歌いながら行くところ、良いですね。
周馬に惚れているお艶を周馬になりすました喬之助が騙していたが、落ちた洞窟で周馬と思い愛を打ち明けるお艶が喬之助の体にもたれかかった時、違うと分かる場面・・橋蔵さまと桜町さんのくどくない絡みも良いところですね。
この場面の前後で喬之助が着ている着物の柄・・・素敵ですよね。よ~く見てください。さすが、橋蔵さまは着こなしてしまいます。
前にも書きましたが、この時の橋蔵さまは、「橋蔵のやくざ判官」をそろそろ撮り終えるころで、6月の暑い日に作品の最終で見せる立回りときちっとした紋付き長袴でのお白洲の撮影、そして東映歌舞伎の打合せと忙しい時でしたね。
「天草四郎時貞」「恋や恋なすな恋」と芸術づいた橋蔵さまが、娯楽時代劇に戻った1962年8月の作品です。まだ、1962年は橋蔵さまの作品も良かった。この後から、時代劇のたどる方向がおかしくなっていきます。橋蔵さまが演ずるような綺麗な時代劇では映画館にお客様が足を運ばなくなっていきます。
そこへもってきて「天草四郎時貞」は興行失敗 。この作品の失敗で、大島渚監督は映画界からしばらく遠ざかりテレビ界に移ったはずです。
本当は、松竹から東映への移籍しての橋蔵さまで撮る第一作は秋ごろに撮影に入る戯曲で有名な「なよたけ」だったらしいです。でも、「恋や恋・・」が前もって決まっていたので、同じような作品が続いてやってもということで没になったようです。
京の都に住む青年の文麻呂は、ある日友人から恋の悩みを打ち明けられるが、文麻呂も友人が恋している人に恋してしまう。
この腕になよたけを抱いたは夢なのか?若者の愛と幻想から生まれた「竹取物語」。
日本最古の創作物語である「竹取物語」はこうして生まれた。作者未詳の、いわゆる「かぐや姫」として親しまれている物語は、いったいどのように生み出されたのか。石ノ上ノ文麻呂という青年の魂の彷徨を、みずみずしく豊かな想像力で構成したものがたり。現実の人生のなかで現身のなよたけを失うものの、「竹取物語」を完成することによって、永遠のなよたけを手にいれる・・・・。
この作品であったらどうだったのでしょうか。
この作品で大島監督が橋蔵さまの魅力をどのように描こうとしたかは分かりかねますが、「天草四郎」のようにはならなかったのではと・・・。この作品が映画化されていたら、その後の橋蔵さまの作品はどのように変わっていったのでしょう・・・。見てみたかったです。
1962年後半から、橋蔵さまに予定されていた異色作品が5~6つ候補がありましたが、全部作品にはならなかったと思いますが。どんな原作が候補に上がっていたか、そのうち何かの機会に書きますね。
題名から、原作から、素晴らしいものがありましたのに残念でした。どの俳優さんも同じですが候補作品は幾つあっても、脚本がうまく作れないものは商品になりませんから。
私は、今日はリアルタイムで11時から「血槍無双」見ていましたら、ちょうど吉良邸討入のところで会社の子が来まして、この作品を見たいと言いますので、急ぎの仕事が一段落したところで「血槍無双」を一緒にもう一度見て過ごしました。
十平次が吉良の思い人お欄のもとへ行き、吉良が松坂町にいる日を聞き出すために、お欄の愛に答えようとしたところまで・・やはりここまでが私の好きなところです。夜泣きそば屋としての町人の町人言葉と所作、武士と分かっての町人姿での言葉と所作は、橋蔵さまの素晴らしいところですもの。ここは何度見ても飽きません。
画像は、「血槍無双」から町人としての平次(十平次)です。橋蔵さまのこういう感じいいですね。
(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)
✱茶飲み話で~す✱ #投稿日2017.6.13
茶飲み話🍰☕ 、 ・・です。その当時、う~ん、いつ頃だったでしょう。👂耳 にしたお話の一つから。
大川橋蔵の”刀折れ剣法”と呼ばれた剣法があったことをご存知でいらっしゃいますか。
抜けばピカリと光る竹光を、上段、下段に振りかぶり、バッタバッタと悪人どもを斬り捨てる大立回りのシーンが続いていくと、力余って刀がポキリ。
「はい、お代わりを・・」と受け取ってしばらくするとまたポキリ。それをを称して”刀折れ剣法”といったらしいです。
この剣法が始まり出すとスタッフ一同の神経もピンと張りめぐらされたというのです。
折れてはすっ飛ぶその竹光に異様な迫力がみなぎっているから、斬られ役の人達も殺気を感じてピクリとしてしまったそう・・・??ですよ。
✱地方公演ご挨拶からのひとこま✱ #投稿日2017.6.2
今日も昨日と同じく突然の雨、雷、竜巻と、どこで起きるか分からない天候のようです。いよいよ6月梅雨がそこまでやってきています。晴れ晴れとした気分で過ごしたいものです。
そうそう掲示板に掲載しようと思っていて、雑用が多く忘れていました。
「修羅時鳥」の撮影が終わった、1957年2月初め、橋蔵さまこの時の恒例の地方公演は・・北陸金沢のご挨拶でした。
橋蔵さまを迎える2、3日前から雪が降り積もり、大雪になるのではと、現地では心配していたようですが、当日はからっと晴れわたり良い天気になりました。
橋蔵さまは、福井からタクシーで金沢入りしたので、ゆっくり雪景色を見物出来たのは嬉しかったが、泥んこドライブウェイのため、体のスプリングがおかしくなってしまった、と橋蔵さま得意の・・調子で言っていたそうです。
キャーという声援が飛び交う中、橋蔵さまは紺のダブルに蝶ネクタイで現れました。終始ニコニコとファンに接しました。
ブログにもちょこっと、国際劇場のあと、京都へ向かう夜行列車で指をちょっと怪我をした事を書きました。
司会者の方が、その指の怪我について聞いたそうです。すると、橋蔵さきはユーモアたっぷりに「寝台車では眠れないので、ちょっぴりウィスキーを飲んで良い気持ちになり、窓を閉めようとした拍子に手を挟んでしまった」と答えたそうです。いろいろお話して最後に、「りんご村から」(三橋美智也)と「江戸っ子囃子」(大川橋蔵)を歌ったようです。
画像は
控え室で開演を待つ橋蔵さま。
舞台で花束をいただき満面の笑みで答える橋蔵さま。
旅館で寛いで東映制作部長とメイ人戦中の橋蔵さま、果たして結果は・・?
(窓から見える庭は雪景色ですが、部屋の中はあったかそうだということが橋蔵さまのお顔から察しられます。)
(画像は古い資料からなので見ずらくてごめんなさい。画像は金沢ご挨拶からのもの)
そのご挨拶から京都へ戻ってすぐに「鮮血の晴着」の撮影に入りました。
クランクアップ(2/24)の予定があるので、京都独特の芯まで冷たくなる底冷えに悩まされながら連日夜間撮影が続いたそうです。
作品を見ていても、白い息がはっきりと見えて寒そうなのがわかります。
「修羅時鳥」では、橋蔵さま立回りはよくなってきているのが分かります。でも、当時はやはり喜怒哀楽の表情にちょっとまだ納得出来ないものがありましたね。喋る前に口をあく癖は少しなくなってきましたがまだ見ていて気になる時期です。そして、歩き方、綺麗なのですが、ちょっと跳ねるようなところがありました。武士としての完成度はまだまだ。次の若さま侍捕物帖は、橋蔵さまのよいところが発揮でき、橋蔵さまも安心して取り組めるもの。「鮮血の晴着」での橋蔵若さまの成長に期待してじっくりいま見ています。
(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)