今日はこちらでご覧ください。↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai3keiji-08-06.html
第29課 おさらい「3つの語尾パターン」
・・・直結型、パッチム型、陰陽母音型
<直結型>
#願望「~(し)たいです」
「語幹+고 싶어요」
見学したいです。=구경하고 싶어요.
#否定の願望「~したくありません」
「語幹+고 싶지 않아요」
#否定「~しません」
「語幹+지 않아요」
<パッチム型>
#尊敬「お~になります」「お~ください」
「パッチムなし語幹+세요」
「パッチム語幹+으세요」
「ㄹ語幹(ㄹを取って)+세요」
中へお入りください。=안으로 들어오세요.
#過去の尊敬「お~になりました」「お~されました」
「パッチムなし語幹+셨어요」
「パッチム語幹+으셨어요」
#可能「~することができます」
「パッチムなし語幹+ㄹ 수 있어요」
「パッチム語幹+을 수 있어요」
#不可能「~することができません」
「パッチムなし語幹+ㄹ 수 없어요」
「パッチム語幹+을 수 없어요」
<陰陽母音型>
・「陽母音語幹+아요」
・「陰母音語幹+어요」
・하다語幹→해요
明日は朝4時に始めます。
내일은 새벽 네 시에 시작해요.
#過去「~しました」
・「陽母音語幹+았어요」
・「陰母音語幹+었어요」
・「하다語幹→했어요」
<練習>
1,受け取る 받다
受け取りません(否定)。
받지 않아요.
受け取ることができます(可能)。
받을 수 있어요.
受け取りました(過去)。
받았어요.
<ワンポイント>
차선 車線 선물 プレゼント
#オフィスで
「貸してください」
비려 주세요.
<漢数詞と固有数詞>
#漢数詞
1:일 6:욱 100 : 박
2:이 7:칠 1000 : 천
3:삼 8:팔 10000:만
4:사 9:구
5:오 10:십
#固有数詞
1つ:하나 (한) 6つ:여섯
2つ:둘 (두) 7つ:일곱
3つ:셋 (세) 8つ:여덟
4つ:넷 (네) 9つ:아홉
5つ:다섯 10(とお):열
個=개 枚=장 本=병
りんご5個ください= 사과 다섯 개 주세요.
マッコリ3本ください= 막걸리 세 병 주세요.
Tシャツ1枚ください= 티셔츠 한 장 주세요.
値段を聞くには、「いくらですか?」= 얼마예요?
9,子、喪(も)のある者のかたわらに食すれば、未だかつて飽かざるなり。子、この日において哭(こく)すれば、則ち歌わず。
先生が喪中の人のそばで食事をされるときは、決して腹一杯になるまで召し上がらなかった。お葬式で声をあげて泣かれると、1日中歌を歌われなかった。
※浩→貝塚茂樹先生の解説によれば、中国では古代でも喪の礼は重要視され、服喪の仕方、期間などについて詳しく決めているが、とかく形式的になる傾向があった。弔問や葬式で大声を上げて哭するのが礼であるが、形式化していたので、弔問から帰ると、平気で歌を歌ったりする者が多かったらしい。孔子のこの行動は、こうした形式化した喪の礼に対して、真の人情をもととしたものである。春秋時代では凡人のなかなかできない行為であったらしい。
とあります。
孔子の時代にすでに「礼」は形式化していたのです。そこで彼は、内面に「仁」の心があって、それが外に現れたものが「礼」でないといけないと唱えました。昨今の日本では「仁」はおろか、形式的な「礼」さえほとんど見られなくなりました。もちろん自分の関与しているエリア内のことで、知らないところではきちんと行われているかもしれませんが。非礼・傍若無人・身勝手・ジコチュウ・下品・不道徳・競合的……と枚挙にいとまがありません。大哲学者カントは、道徳的行為は「善意志」にもとづくものでなければならないと唱えました。何となく孔子の「仁」と通じるものがあるようです。「善意志」というのは、カントによれば「絶対的善」だそうです。カントの定言命法は「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というもので、これはアドラーの共同体感覚に通じるようです。心がともなわない形だけの礼は偽善だと言われます。私は、母の“やさしくきっぱり”した躾けのおかげで、小さいころから、まあ礼儀正しいほうだったと思います。知り合いに会ったらきちんと会釈するとか、おうちにあげてもらうときは、靴をきちんと脱いで向きを逆向きししておくとか、外出のときはハンカチ&ちり紙(今のティッシュ)を必携し、挨拶言葉はそれぞれのタイミングできちんと言うとか、お世話になったら必ずお礼をするとか、たとえつぎあての服でもきちんと洗ったのを着るとか……。「きちんと」というのが基本フレーズのようです。「きちんとすべき」は「ライフスタイル」になっています。
葬式で号泣するという中国の「礼」については、『三国志』で諸葛孔明が、赤壁で共闘した呉の将軍・周瑜の葬式で、朗々と弔辞を読み上げて満座の中で号泣するシーンがありました。見たようなことを言いますが(笑)。赤壁の戦いで魏の曹操を追い払ったのち、共闘した劉備元徳軍を好ましく思わなかった呉のお歴々の控える葬式での、孔明のこの徹底した「礼」の行為に、呉のお歴々の疑いが消えるという結末になりますが、これはどう見ても、孔明の策略ですね。持病持ちの周瑜が憤死するように仕向けたのは孔明ですから。孔子が知ったら苦い顔をするかもしれません。
1990年代後半の野田先生のある論文から引用します。
引用→「人間の行動の目的は、結局のところ私利私欲だ」と言い表したことがあります。どんなに善行を行っているときにも、その目的は私利私欲から決して離れることがありません。だから、心についてヴィパッサナ瞑想(瞑想座りして50分間を呼吸だけに意識を集中する瞑想)をしていると、「心は貪(とん=欲望)・瞋(しん=怒り憎しみ)・痴(愚痴)である」と知ることはあっても、「心は貪(あるいは瞋・痴)を離れている」と知ることなど、実はないのです。
悪を行なっているとき、心が貪・瞋・痴にまみれていることを知るのは簡単です。しかし、善を行なっているときにも、心が同じように貪・瞋・痴にまみれていることを知るのは、そんなに簡単ではありません。「私は善いことをしている。他者の利益のために行動している。だから私利私欲を離れている」と思い込みやすいのです。
そう考えてきて気がついたのですが、アドラー心理学を学んでもまったくモノにならない人たちは、どうも自分のことを善人だと思っているようなんですよ。その人たちは、「私は善いことをしているもんね」だの、「私は何も悪いことなんかしていないわ」だのと思っているようなんです。
仮にある行為がたまたま他者の利益になっていたとしても、その行為の目的が自己中心的で利己的であることには、何も変わりがありません。他者の利益になっているのは「たまたま」でしかないのです。それはちょうど、ドロボウが入って家中をかきまわしてくれたおかげで、なくなったと思っていた写真が出てきたとか、そんなことです。お金のほうはすっかり持っていかれたんだけれどね。
「結果として他者の利益になるならそれでいいじゃないか」とおっしゃる方はしあわせです。そういう方には瞑想はいらないし、アドラーが言う《自己欺瞞》の中で、一生何も問題を感じないで暮らせるでしょう。もっとも、そのような人の行為は、たまたま他者の利益になることもあるかもしれないけれど、ほとんどの場合はきわめてはた迷惑です。それは、その人たちは、「私は善人だ」と思い込んでいるために、自分の行為の目的や結果を見届けることをしないからです。
問題児の親ってそうでしょう。「子どものために」と思って、子どもに迷惑をかけ続けるのです。彼らは、実は子どもを援助しているのではなくて、自分の課題を子どもに肩代りさせているだけなんです。でも、そのことを知りません。そのことに気がつけば、真に子どもを援助できる親になれるのですが。彼らが自分のことを「よい親だ」と思っている限り、彼らは子どもを疎外し続けます。彼らが善人である限り、彼らは善行だと思い込みつつ悪行を続けます。悪人は往生するかもしれないけれど、善人は往生できるかどうか。
私がこれまでに犯した悪業は
すべて始まりもない貪・瞋・痴による
身・語・意のおこないによっています
いま私はすべてを告白します(引用終わり)
第10課 疑問詞疑問文
<キーフレーズ>
「あなたは何を食べますか?」
Nin2 chi1 shen2me?
您吃什么?
@吃chi1 = 食べる
@什么shen2me = 何
※疑問詞疑問文の文末には「吗」は付かない。
<他の疑問詞>
「彼は誰ですか?」
Ta1 shi4 shei2?
他是谁?
@谁shei2 = 誰
「あなたはどちらへいらっしゃいますか?」
Nin2 qu4 nar3?
您去哪儿?
@哪儿nar3 = どこ
※谁shei2には敬語の意味はないので、「どなた」(敬語)では「nei3 wei4 哪位」
電話がかかってきた─
「どちらさまですか?」=哪位?Nei3 wei4? / 您是哪位?
<反復疑問文>
「あなたはコーヒーを飲みますか、それとも紅茶を飲みますか?」
Ni3 he1 ka1fei1 hai2shi he1 hong2cha2?
你喝咖啡还是喝红茶?
@hai2shi = それとも
<ショート会話>
A
何を召し上がりますか?
Nin2 chi1 shen2me?
您吃什么?
私はそばを食べます。
Wo3 chi1 qiao2mai4mian4.
我吃荞麦面。
冷たいのを召し上がりますか、それとも温かいのを召し上がりますか?
Nin2 chi1 liang2 de hai2shi chi1 re4 de?
您吃凉的还是吃热的。
温かいのを食べます。
Wo3 chi1 re4 de.
我吃热的。
B
何名様ですか?
Qing3wen4, nin2 ji3 wei4?
请问,你几位?
1人です。
Yi2 wei4.
一位。
中へどうぞ。
Li3bianr qing3.
里边儿请。
ありがとうございます。
Xie4xie.
谢谢。
何を召し上がりますか?
Nin2 chi1 shen2me?
您吃什么?
私はそばを食べます。
Wo3 chi1 qiao2mai4mian4.
我吃荞麦面。
冷たいのを召し上がりますか、それとも温かいのを召し上がりますか?
Nin2 chi1 liang2 de hai2shi chi1 re4 de?
您吃凉的还是吃热的?
温かいのを食べます。
Wo3 chi1 re4 de.
我吃热的。
<発音> iの発音
1)日本語の「イ」に近い音
ji, qi, xiのi
2)下をそり上げたまま母音を伸ばす
zhi, chi, shi, ri のi
3)口の両側を引いて「ウ」に近い音
舌歯音zi, ci, siのi
@自己 zi4ji3 自分
@日历ri4li4 カレンダー
@知识zhi1shi4 知識
8,子曰く、憤せずんば啓せず、悱(ひ)せずんば発せず。一隅を挙げて、三隅をもって反(かえ)らざれば、則ち複た(また)せざるなり。
先生が言われた。「心がイライラするくらいでないと指導をしない。口に出しかかってムズムズしてくるくらいでないと、教示しない。一隅を挙げて説明すると、三隅をもって応答してこなければ、二度と教えない」。
※浩→吉川幸次郎先生の解説がわかりやすいです。「憤」は憤慨の意味ではなく、ここでは「心が膨張して盛り上がること」。弟子が何か疑問を持ち悩みを持ち、そのために心が膨れ上がったときにはじめて啓(ひら)き導く。「悱(ひ)」とは、何かを言いたくて、しかもうまく言えず、口をモグモグさせていること。そのときはじめて、発(ひら)き導いてあげる。つまり弟子が自分自身で、充分な蓄積を持ちながら、しかも自分だけではどうにもならなくなったときに、はじめて助産師役を務める。また、弟子に蓄積がある場合には、物事のひと隅だけをつまみ上げて示せば、あとの3つの隅も連鎖反応的に理解して、こちらに応答する。そうでない場合は、まだ相手が成熟していないのだから、もう一度示してあげないで、相手の成熟を待つ。
カウンセリングをする場合にも、講義をする場合にも、こうありたいと心から願います。現実には、カウンセリングで問題を提起されてすぐ助言(代替案提示)をすると、抵抗に遭ったりします。講義での質問に即答するのとは違います。昔、日本カウンセリングアカデミーでカウンセラー講座を受けていたとき、講義中の質問に講師は即答をしないで、「あなたはどうお考えですか?」と切り返していました。近くの席の受講者たちと一緒に深く感動したことがあります。アドラーの世界に移住すると、ありがたいことにほとんど「答え」がわかってしまうので、「それはね」と即答してしまいたくなります。指導者の野田先生は、「アドレリアンの悪い癖は、すぐ答えを言うことです。問題を聞いてすぐ答えを言っては、来談者は問題があるたびに質問しないといけない。答えを言うのではなく、解き方を教えてあげるように」とお説教されました。十分わきまえてきたつもりですが、油断すると即断即答していて、抵抗に遭います。そのたびに初心に戻って、情報収集を丁寧にやり、きちんと解釈投与して、それが認識反射をともなって受け入れられたのちに、「代替案」を、まずは来談者に考えてもらって、どうしても思いつかない場合に限って、こちらからいくつかの選択肢を出して、来談者に実行可能なものを選んでもらうようにしています。今日の論語はそのことをまた思い知らせてくれました。グッドタイミングです。
昔、岡山工業高校在職中に、岡山大学ボート部のコーチを依頼されたことがありました。あのころは進路指導課に所属していました。この学校へは1980年に赴任して、最初の2年間は「民主教育指導室」(その後「同和教育指導室」に改名)、次の1年は「視聴覚教育室」、その次の3年間が「進路指導課」でした。まだ40歳を越えたばかりの若い自分は、放課後には学校の自転車を借りて旭川にすっ飛んで、練習の様子を橋の上や堤防から見て、指摘することがあれば手を振って合図をして、艇を岸につけてもらってアドバイスをしていました。コーチの仕事はあまり自信はありませんでした。自分は「優秀な選手」だったと自負していますが、選手の指導には自信はありません。他人の技術をとやかく言うことに抵抗がありました。自分にできることが即他人にできるとは限らない。それでもしばらく期間は続けました。そのうち進路指導課では企業からの求人依頼がくるようになると、授業から戻ると、求人の来客が待ち受けているのが常識になり、しかも折しも「花の土2B」という教師生活中最も恵まれたクラスを担任していて、放課後に川へ行くのが困難になり、きっぱりやめました。コーチを引き受けたときのボート部の部誌に「コーチの弁」を載せました。そこに、今日の論語を引用していました。「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」。これを読まれた、故・三宅一雄兄が「なかなか説得力がある」とお便りをくれました。三宅兄は、私より4歳上の同期生です。マスターズなどに出場されるバリバリのオアーズマン現役でしたが、80歳で急逝されました。今、私はその年齢を超えてしまいました。連日の猛暑を何とか乗り越えて、そこそこ元気に生きています。訊かれたらすぐ答えるのを控えないといけません。
<ジョブキソ67>
#テーマ
英語での商談で、複雑な話をされたとき
「私の理解が正しいかどうか確認させてください」とお願いするには?」
Let me confirm if I understood you correctly.
ちゃんと理解したかどうか確かめさせてください。
※こういう場合、I'm sorry.と言う必要はない。むしろ相手にこちらがちゃんとした人だという印象を与えることが大事。
@ if = ~かどうか
#応答
Okay. Let me repeat. わかりました。繰り返しますね。
7,子曰く、束脩(そくしゅう)を行うより以上は、吾れいまだかつて誨(おし)うることなくばあらず。
束脩(細長い干し肉の1束=一番軽い謝礼)でも、それを持ってきた以上は、私は常に何かを教えてやらないということはない。それ以上ならなおさらである。
※浩→おやおや、久しぶりに『論語』に戻ったら、これは何だ?孔子は教えを請いに来た人に謝礼を要求しているのだろうかと一瞬思いました。「無償の愛」と言いますが、「無償」のボランティアは美しい行為だとしても、人から教えを受けるにはそれ相応の「支払い」をするのが当たり前だということのようです。タダでは図々しい。古代ギリシャ、プラトンのアカデメイア(学園)の入り口には、「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」とあったそうですが、授業料は必要だったのでしょう。お釈迦様の説法を聞きに集まった衆生も、タダでは聞いていなかったのでしょう。そういえば、昔、映画会社の大映が日本で最初の70ミリの映画を作りました。本郷功次郎さん主演の『釈迦』でした。本郷功次郎さんは岡山市の出身で、実家は天満屋近くの電車通りに面した金物屋さんでした。釈迦が鬼子母神を改心させたあとのこと、大きな殿堂で大勢の人々に説法をするシーンがありました。集まる人々はそれぞれにお灯明用の油を持参しましたが、北林谷栄さん扮する貧しい老女は、わずかばかりの持ち合わせで油を買おうとしますが、油屋に「これでは売ってやれない」と断られます。仕方なく、彼女は自分の髪をバッサリ切って、それを添えてようやくわずかの油を手に入れて、殿堂の片隅に小さな灯りを献じます。説法が佳境に入ったころ、釈迦のライバルのダイバダッタが妖術で風を起こしたのでお灯明のすべてが消えますが、老婆の献じた小さな灯りだけが消えないで灯り続けます。宗教の世界でさえ、タダで教えを請わないのですから、学問の世界では授業料がいるのは当然でしょう。
カウンセリングではどうでしょうか?アドラー自身について言えば、彼はウィーンのカフェテラスで「オープンカウンセリング」をしました。終わると、お弟子さんが見物衆に帽子を回しますと、人々はそれぞれの都合でいくらかの「謝金」を帽子に入れました。決まった料金はなかったようですが、無償ではありません。帽子が来たら、ニッコリしてお金を入れないで次へ回した人もいたかもしれませんが(笑)。私が関係する学校関係のカウンセリングは、すべて無償です。カウンセラーにはもちろんお給料が出ますが、それは県から出ますからもとは税金で、間接的には県民が払っていることになります。でも、クライエント自身は支払いません。この構造は、相談する人は無償で、その費用をその人以外の県民が支払っていることになります。お薬だって「タダ」だと効き目を疑いますが、高額なものだとそれだけでも信じられそうです。無料のアドバイスだと値打ちがなさそうです。日本では、伝統的に、お金を払って相談するという風習がなかったようですが、これが甘えや無責任の温床になっているのかもしれません。ましてや、匿名の電話相談とか、最近流行のSNSでの相談では、相談者は正体を明かさないのですから、どんな人だかまったくわかりません。会いもしないでどうしてその人がわかるでしょうか。事態のとらえ方も問題意識もその解決法も個性的で、人それぞれに違うでしょうから、電話やSNSで「一般的な解決法」を伝授されても、それで問題が解決するとは思えません。電話等は本来、事務連絡手段で、予約を入れたり変更したりするためのものです。深刻な真剣な内容は、直接会わないと駄目でしょう。坂本龍馬なんか、あの時代に、大事な話をするには、江戸へも京都へも越前へも薩摩へも歩いて行きました。1990年代に、野田先生は岡山市内のお寺で「オープンカウンセリング」をなさいました。毎月第二土曜日の午後1時~4時まで4ケースを公開(見物人つき)でなさいました。当時の相談料は8000円でした。結構高額でした。見物料は1ケース1000円です。私たちは、野田先生のカウンセリングのワザを盗むために、毎月4000円を払って、かぶりつきで見学しました。アドラー心理学の大先輩の鎌田穣さんが「クライエントの責任」という論文を書かれたそうですが、こういうのはあまり話題になりません。
第28課 さまざまな表現
<否定の表現>
これも良くありません。
이것도 안 좋아요.
#否定の表現
1)「안+動詞・形容詞のヘヨ体」=「~(し)ません」「~くありません」
疑問文にするには語尾に?をつけて上げて発音する。
2)「動詞・形容詞の語幹+지 않아요」=「~(し)ません」「~くありません」
@かわいい=예쁘다
かわいくありません=예쁘+지 않아요→ 예쁘지 않아요
<過去の表現>
クーポンは買いましたか?
쿠폰은 샀어요?
#過去の表現
「動詞・形容詞(陽母音)/(陰母音)/(語幹)+았어요/었어요/했어요」
=「~(し)ました」「~かったです」
@買う=사다
買いました=샀어요
<練習> 昨日~しました
昨日ラーメンを食べました。
어제 라면을 먹었어요.
映画を見ました。
영화를 봤어요.
電話をしました。
전화했어요.
<尊敬と丁寧な命令の表現>
中へお入りください。
안으로 들어오세요.
#尊敬の表現
「動詞・形容詞の語幹(パッチムなし)/(あり)/(ㄹ語幹)=세요+으세요/세요/」 =「お~なります」「~されます」
@入る=들어오다
お入りください=들어오세요 丁寧な命令
<尊敬の意味を持つ言葉>
これお召し上がりください。
이거 드세요.
#尊敬の言葉
食べる=먹다 召し上がる=드시다
お召し上がりください=드시(시は取る)+세요→드세요
いる=있다 いらっしゃる=ㄱ켸시다→いらっしゃいます=계세요
寝る=자가 お休みになる=주무시다→お休みになります=주무세요
話す=말하다 お話しになる=말씀하시다→お話しになります=말씀하세요
<過去の尊敬の表現>
・動詞・形容詞の語幹(パッチムなし)+셨어요
・動詞・形容詞の語幹(パッチムあり)+으셨어요
・ㄹ語幹+셨어요
<練習>
~さんがいらっしゃいます。
~ 씨가 계세요.
~さんが笑っていらっしゃいます。
~ 씨가 웃으세요.
~さんがお休みになります。
~ 씨가 주무세요.
<ワンポイント>
기차 汽車 차선 車線
鳥です。
새입니다.
体は黒色です。
몸은 검은색입니다.
首がとても長い鳥です。
목이 아주 깁나다.
頭の上にこぶしくらいの赤い果物が置いてあります。
머리 위에 주먹 만한 빨간색 과일이 놓여 있습니다.
☆解答:だちょう타조 がリンゴを頭の上に乗せている。
<願望、可能・不可能の表現>
作業場見たいですか?
작업장 보고 싶어요?
見学したいです。
구경하고 싶어요.
@見学する=구경하다
구경하 +고 싶어요 →구경하고 싶어요 見学したいです
#願望の表現
「語幹+고 싶어요(直結型)」=「~(し)たいです」
また 会うことができますか?
또 만날 수 있어요?
@会う=만나다
만아+ㄹ 수 있어요→만날 수 있어요 会うことができます
만나+ㄹ 수 없어요→会うことができません
#可能/不可能の表現
・パッチムなし語幹 + ㄹ 수 있어요 /없어요
・パッチム語幹 + 을 수 있어요 /없어요
・ㄹ語幹(ㄹを取って) + ㄹ 수 있어요 /없어요
#もうひとつの「不可能の表現」
「못+動詞のヘヨ体」
못 가요=行くことができません
<練習>
来週一緒に映画を見たいです。
다음 주에 같이 영화 보고 싶어요.
はい、いいですよ。いつがいいですか?
네,좋아요.언제가 좋아요?
土曜日に行くことができますか?
토요일에 갈 수 있어요?
土曜日には行くことができません。日曜日は大丈夫です。映画を見て何をなさりたいですか?
토요일은 갈 수 없어요.일요일은 괜찮아요.엉화를 보고 뭘 하고 싶으세요?
韓国料理食べたいです。
한국 요리 먹고 싶어요.
いいですよ。
좋아요.
支配層の権力争いのもとで、相次ぐ戦乱のため、常に生活に怯えざるをえない庶民にとって、「無為自然」「柔弱謙下」「謙下不争」の生き方は、なるほど現実的で、したたかな智恵であるようです。私たちが暮らす今の世の中も、「治世」よりはむしろ「乱世」と言ったほうがいいかもしれません。受験戦争、交通戦争、出世競争とかで、アドラー心理学が言うまさに「競合的」な社会です。野田先生は「狂気の社会だ」とおっしゃいました。「たくさん蓄えると、盗まれたりして失う危険に怯え」。職場で出世すると転落の危機に怯え、結婚して家庭を持つと、配偶者や子どもたちに裏切られ、“三界に家なし”のお父さん方にも、老子のしたたかな生き方は救いになるかもしれません。高いから崩れ、持つから失い、愛するから離別し、まことに「無為自然」がぴったり決まります。
「老子最終章」には次のようにあります。
信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は辯ぜず辯ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。聖人は積まず。ことごとくもって人のためにし、己れいよいよあり、ことごとくもって人に与えて、己れいよいよ多し。天の道は、利して害せず、聖人の道は、なして争わず」。
真実味のある言葉は美しくなく、美しい言葉には真実味がない。本当に立派な人間は口が達者でなく、口の達者な人間は本物でない。本当の知者は物識りではなく、物識りは本当にはわかってない。無為の聖人はため込まない。何もかも他人のために出してしまうが、己れの所有はいよいよ増し、何もかも他人に与えて、己れはいよいよ豊かである。天の道は万物に恵みを与えて害を加えず、聖人の道はことを行なって人と争わない。
老子がこの最後の章で要約している無為自然の生き方(上徳)の「不美」「不辯」「不博」「不積」「不争」とは、言葉を換えれば「樸(質)」「訥」「無知」「無欲」「柔」ということですが、その中でも「「柔」つまり「不争」がこの章の最後に置かれて『老子』全体をしめくくっています。福永光司先生の解説からつまみ食いさせていただくと、老子の「無為」は「なすためのなさず」で、何もせずにただ寝そべっている怠惰を言うのではなく、人間がどのようにすれば本当の意味で「なす」ことができるかを求めたものです。人間の世界には本当でない「なす」が氾濫し、そのために争いが充ち満ちている。その争いの中で他人を欺き損ない、己れをもまた謀り傷つけている。彼は人間社会の争いの根源を人間の過剰な知と欲とにおいてとらえる。この知と欲との放恣を野放しにする限り、人間の社会から争いをなくすことは、木に登って魚を求めるようなものであろう。人と争わないために知と欲を捨てる。雄弁を退け朴訥を守り、文明の華美を退け、野鄙の質朴を尊ぶ。かなり強引にアドラー心理学を引っ張り出すと、「過剰な目標追求」をやめるということになるでしょうか。そういえば、「ボディーの欲(本能)」は「足るを知る」ので無害でしたが「マインドの欲」は果てしないので有害になります。ボディは動物的なもので悩むことはしない。欲求不満はあっても、それは「今ここで」のことであるにすぎず、くよくよ悩む材料にはならない。悩みはすべてマインドが作り出すトリックです。マインドは、自分をごまかし他人をごまかすために悩みを作り出します。悩みによって、ボディの目標追求と社会の要求との折り合いを付けようとします。その悩み方がひどくなって、現実には目標追求できていないのに、幻想的にできているような気になっている状態を「自己欺瞞」と言い、「神経症」と言い、「マインド・トリップ」と言います。例えば、「みんなの仲間でいたい」という目標(=所属)を追求しているのはボディの仕事です。しかし、「仲間がいなくなる」「友だちが離れる」ということに異常なくらい恐怖心を持っているのはマインドです。そうして奇妙な神経症症状を出して、幻想の中でだけ目標追求しています。この場合でも、幻想の中においてではありますが、マインドはボディに協力しています。しかもボディは永久に欲求不満です。マインドが悩んでいるときの解決法は2つあります。1つは、より巧妙なマインドを作り出そうとします。もう1つは、マインドを捨てて大きなものに「お任せ」するように勧めます。どちらを採ってもかまいません。こうおっしゃる野田先生は、「より巧妙なマインド」は、より問題を深くする気がするから、マインドを捨てて、しかもボディだけの動物レベルに還るのではなくて、「ハート(真の愛か)の目覚めた新しいレベルに進むように、人々に勧めています。「老子最終章」を読んで、かえって野田先生のお考えが深く納得できたような気がします。長々とおつきあいいただきありがとうございました。
「論語でジャーナル」なのに、『老子』のお話です(笑)。
「老子」64章──
その安きは持しやすく、そのいまだ兆(きざ)さざるは謀(はか)りやすく、その脆(もろ)きは泮(と)きやすく、その微なるは散らしやすし。これをいまだ有らざるになし、これをいまだ乱れざるに治む。合抱(ごうほう)の木は、毫末(ごうまつ)に生じ、九層の台は、累土に起こり、千里の行は、足下に始まる。なす者はこれを破り、執る者はこれを失う。ここをもって聖人は、なすことなし、ゆえに敗るることなし。執ることなし、ゆえに失うことなし。
民の事に従うや、常にほとんど成らんとするにおいてこれを敗る。終わりを慎むこと始めの如くんば、すなわち事を敗ることなし。ここをもって聖人は、欲せざるを欲して、得がたきの貨を貴ばず、学ばざるを学んで、衆人の過つところを復(かえ)し、もって万物の自然を輔(たす)けてあえてなさず。
安定しているものは持ちこたえやすく、事のまだ兆(きざ)さぬうちは手が打ちやすい。固まっていないものは溶かしやすく、目立たないものは散らしやすい。事の生じないうちにうまく処置し、乱れないうちに治めておくことが肝心だ。ひとかかえもある大木でも、ちっぽけな芽から大きくなり、九層の高台も畚(もっこ)1杯の土の積み重ねから着手し、千里の道のりも足もとの一歩から始まる。うまくしてやろうと力む者は失敗し、握って離すまいとする者は取り逃がす。だから無為の聖人は、無理をしないから失敗がなく、しがみつかないから逃がすこともない。
世の人が仕事をする場合、いつもできあがりかけたところでやりそこなう。最後の仕上げを始めのように慎重にやれば、仕事をしくじることもないのだ。だから無為の聖人は、欲望のないことを欲し、得がたい貨(たから)をありがたがらない。博学を捨てることをおのれの学問とし、人々の行き過ぎを本来の姿に戻し、万物のあるがままなるあり方をまっとうさせて、無理に作為を加えないのだ。
福永光司先生の解説では、老子の無為の思想の根底にあるものが、人生の禍敗に対する鋭い凝視であり、この世的な営みの崩れやすさに対する深い省察であることを感じさせる1章である、とあります。ここにはおなじみの格言・俚諺が多く含まれています。最も有名なのが「千里の道も一歩から」として有名な、「千里の行は、足下に始まる」でしょう。ここを読むことで、「治療よりも予防」「初期対応が大事」「鉄は熱いうちに打て」「治にいて乱を忘れず」、野田先生の「原稿用紙500枚書くには、まず最初の一文字を書く。次にまた一文字書く」、親から教えられた「あとの後悔先に立たず」、『徒然草』の「高名の木登り」などへと連想が拡がります。自分の人生にも活かしていることがたくさんあります。こんなにたくさんの格言が一度に登場すると、具体的なエピソードを選ぶのが大変ですが、最も最近で身近なことでは、庭の草取りが、ちょっとさぼると大変です。わが家のわずかばかりの庭木に関しては、2年前くらいからご近所のお勧めで、プロの庭師さんに年に2回剪定していただいています。最も悩ましかったのは、つるバラ(木香薔薇)でした。これは因縁もので、ルーツは亡き母まで戻ります。西大寺(現在の東区西大寺)に住んでいた1983年に、それまでの平屋2棟棟割り長屋の借家から、西大寺駅前の一戸建てに引っ越しました。そこはもとは大家さんの娘さん一家の住居でしたが、新築へ移動されて空き家になったのを知った母が、大家さんに直接交渉(今ふうに言えば“ガチ交渉”)して獲得しました。ですから、普通の借家と違って、きちんとした「屋根&シャッター付き」のガレージがあり、かなりの面積の芝生の庭もありました。あるとき母が玄関横につるバラを植えました。これは成長が早くてどんどん茂って、玄関横の壁を覆い尽くすようになりました。(当時の)妻が母から一輪を譲り受けて、彼女の実家の門の横に挿し木をしました。それがまた成長して、門扉横の塀を覆いました。その後、離婚しましたが、ずーっと年月が過ぎて、定年退職してから、ふとしたきっかけで「お友だちづきあい」程度に関係が戻りました。われらが一人息子は倉敷芸術科学大学・大学院在学中に「スタジオジブリ」に採用となり、上京・自立していて、彼女は一人暮らし。私は母に先立たれて一人暮らし。それで、行き来するようになり、一時は「復縁」の可能性も否定できないくらい、親密になりました。そうした時期に、門扉の横のつるバラを、彼女が「これは西大寺でお母さんからいただいた一輪がこんなになった」と説明してくれて、今度は私に一輪を切って挿し木するようプレゼントしてくれました。それを現在のわが家の庭に挿し木したところ、伸びて伸びて、庭に設置している物置の屋根を覆い尽くし、ベランダまで来そうな勢いでした。まるで母と元妻の霊が宿っているような因縁を感じました。5月の花咲く季節は庭がまっ黄色になって、桃源郷のように美しいですが、散ったあとの庭のお掃除が大変です。伸び放題の枝を気にしていたら、ちょうど2年ほど前にご近所の奥さんのご紹介で庭師さんを紹介していただきました。見事に剪定していただいて、元妻の怨霊?から解放された気分です。地面の雑草は自分で抜かないといけません。冬の間はほとんど草はなくて楽ですが、春先からどんどん増えてきます。スミレなどはきれいなので残しておきます。梅雨時にはどっと生えて、一面野原のようです。晴れ間を縫っては抜きますが、腰が痛くなるので、そこそこに済ませていて油断すると、あっという間に庭中覆い尽くします。ここへはいろいろな種類の小鳥がやって来て、くつろいだり遊んだりして飛び立っていきます。梅雨の間に雑草抜きをしておかないと、真夏になると、暑さを口実にしてきっとさぼると思います。そうだ!「その微なるは散らしやすし」「千里も行も足下に始まる」。雨の間を見てはこまめに抜くことにしよう。毎年春と秋に来てくださっていた庭師さんは、昨年、脳梗塞を患われて、来られなくなりました。仕方なく、遅れ遅れながらも自分で枝の剪定を始めました。不器用な詩のことですから、できあがりは不細工です。それでも隣近所がきれいにされていますから、そこそこにこぎれいにしておかないと、「見栄の大森」の面目がありません。(まだまだまだまだつづく)