子曰く、由(ゆう)よ、汝に知ることを誨(おし)えんか、知れるを知るとなし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。
先生が言われた、「由(子路)よ、お前に知るとは何か教えてやろう。自分の知っていることは知っていると他人に言ってかまわない。自分の知らないことは、他人に知らないと答えなければならない。これが本当の知るということなのだ」。
※浩→「由」は孔子より9歳若い門弟です。姓は「仲」で字(あざな)は子路。勇士で馬鹿正直なところがあったそうです。孔子からかなり可愛がられていたことが、「由よ」と名前で呼ばれていることからもわかります。子路は正義派で勇気があったので、元気にかられて、本当に知らないことも知っていると言いかねないので、孔子はこの短所を穏やかにたしなめたのでしょう。
「知らざるを知らずとす、これ知るなり」というと、ソクラテスの「無知の知」を思い出します。「おのれの無知を知る者こそ真の知者だ」というパラドキシカルな概念です。
私も「知ったかぶり」をしないように気をつけないといけません。
紀元前5世紀のアテネにはソフィストと呼ばれる知恵者が闊歩していました。ソクラテスもその1人とも見なされるのですが、当時のソフィストは「真理は相対的」と考え、「人間が万物の尺度である」と、「善いも悪いもその人次第だ」と主張して、絶対的な真理を認めなくて、やがて道徳的に堕落する者も現れました。ソクラテスはこれを憂えて、人間の生き方として絶対的な基準を求め、「知徳合一」(正しく知ること=知は正しく行うこと=徳)の結論に達したのです。あるとき、デルフォイのアポロン神殿で神託を受けたら、「ソクラテス以上の知者はいない」という神のお告げでした。ソクラテスは「そんなことはない。自分より知恵のある人はアテネにたくさんいる」と、街をめぐって知者とおぼしき人たちと対話しました。その結果、「彼らは知ってもいないことを知っていると思い込んでいる。自分は知らないことは知らないと自覚している。つまり私は自分の無知を知っているという点で、彼らよりも賢いのだ」と悟りました。それからは多くの青年や知恵者たちと問答・対話しては彼らの無知ぶりを論破しました。こういうこともあってソクラテスは「青年を惑わした」罪で裁判にかけられます。一番弟子プラトンの『ソクラテスの弁明』には、裁判での彼の弁明の様子が詳しく描かれています。岸見一郎先生のお得意分野です。
第24課 「あげる」「くれる」の“给gei3”
<スキット>
Wo3 xiang3 xue2 zuo4 geng4 duo1 de zhong1guo2cai4.
我想学做更多的中国菜。
私、もっと中国料理を習いたいです。
Ng4,wo3 yuan4yi4 jiao1 ni3. Wo3 gei3 ni3 yi4 ben3 shu1. Ni3 xiang1 kan4kan ba.
嗯,我愿意教你。我给你一本书。你想看看吧。
よし、君なら喜んで教えるよ。本を1冊あげます。まずは読んでみて。
A1! Dian4zhang3 xie3 de shu1!
啊!店长写的书!
まあ!店長が書いた本ですか!
<解説>
@ 愿意yuan4yi4 = 喜んで~する(助動詞)
@ 给 = 与える、あげる&もらう
@ 看 = 見る、(新聞や雑誌を)読む(黙読)、(テレビを)見る
「読む」=读du2(=声に出して読む)、念 nian4(=勉強する)
<キーフレーズ>
「あなたに(1冊の)本をあげます。
Wo3 gei3 ni3 yi4 ben3 shu1.
我给你一本书。
※「誰々に+(数量詞)+何々を+あげる」=给+誰々+何々
※「(どうぞ)私にください」=(请)给我+ 何々
あなたにペンをあげます。
Gei3 wo3 yi4 zhi1 bi3.
我给你一支笔。
Wo3 gei3 ni3 yi4 zhang1 dian4ying3piao4.
我给你一张电影票。
映画のチケットを1枚あげます。
<エクササイズ>
私はあなたにプレゼントをあげます。
Wo3 gei3 ni3 yi2 ge li3wu4.
我给你一个礼物。
私はあなたにお花を1束あげます。
Wo3 gei3 nin2 yi2 shu4 xian1hua1.
我给您一束鲜花。
私に領収書をください。
Qing3 gei3 wo3 fa1piao4.
请给我发票。
(明らかに自分のものとわかるので量詞は不要)
<ひと言>
少々お待ちください。
Qing3 shao1 deng3.
请稍等。
<ピンイン>
軽声が真ん中にあるときの読み方
・ta1 de shu1 他的书(彼の本):deは前の音節より低い
・shi4 bu shi4? 是不是?(そうですか):buは前の音節より高い
・hao3 bu hao3?好不好?(いいですか):buは前の音節より高い
・chi1 bu chi1?吃不吃?(食べますか):buは前の音節より低い
子曰く、異端を攻(おさ)むるは、これ害あるのみ。
先生が言われた。「織物の両端(これが「異端」の意味でしたか、知らなかった)から一度に巻き始めるように別々の傾向の学問を一度に手がけると、中途半端になって、害しか受けないものだ」。
※浩→ここは難解で、定説はないそうです。上の訳は『世界の名著』の貝塚茂樹先生によります。『中国古典選・論語』の吉川幸次郎先生の解説では、異端は「異端邪説」という言葉があるように、正しくないことが初めからはっきりしている学説を言う、とあります(こちらの“異端”はこれまで知ったいたものです)。「攻むる」とは研究すること。異端の説を研究することは、百害あって一利なしと解釈します。
私は、「異端」という言葉からは、すぐに宗教の「正統」と「異端」の「異端」を連想します。大学の卒業論文で「アウグスティヌスの教父哲学」について書いたとき、異教と異端の区別を知りました。キリスト教からすれば、異教というのは仏教やイスラム教など他の宗教のことで、異端はキリスト教でローマカトリック教でない派を言います。古くは紀元325年のニケーア宗教会議で、イエス・キリストの神性をめぐる議論で、神性を認めて「三位一体説」を唱えたアタナシウス派が正統と認められました。イエスの人間性を強調したアリウス派は異端として退けられました。その後、5世紀にかけて、教父と呼ばれるアウグスティヌスが『神国論』を書いて、キリスト教神学の基礎を確立することになります。アウグスティヌスは若いころ放縦生活を送っていて、そこから血を吐く思いで立ち直る様子が彼の別の著書『告白録』に詳しく描かれています。ああいう苦悩は、アドラー心理学では「スピリチュアル・タスク」と言うのでしょうか。鎌倉仏教時代の日本では、「阿弥陀様のご本願が信じられない」という悩みを持つ人が相談に来たら、これはスピリチュアル・タスクでしたが、今日ではまずそういう人はいないので、わが国ではライフタスクは例の「仕事」「交友」「愛」の3つで間に合う、と野田先生はおっしゃっていました。
その野田先生からは、会議では「敵を論破するな」と教えられました。論敵のほうを向いて発言しない。支持者のほうを向いて、自分の考えることを述べる。話し終えるときに、最も支持してくれそうな人を見て、「ですね」と締めくくると、たぶんその人が賛成意見を述べてくれるでしょうと。ここでも「2:7:1」の法則が効いています。普通、敵の「1」を論破しようとして、そのために多大のエネルギーをつぎ込みます。そしてだいたい失敗します。説得すべきは「7」の人たちです。「2」の人たちは初めから味方です。「1」の人たちはどんなに努力しても味方にはならないと考えます。
「敵を論破するな。味方を増やせ」は現実的な処世訓としても実行していきたいです。
<ジョブキソ10>
#テーマ:なかなか教えてくれない相手から少しでも情報を聞き出すには?
(相手はできれば教えたくない)
※相手が言いたくない気持ちを察する。
たとえ相手の言うことが漠然としていても、It's very about.は論外。これは和製英語。「漠然としている」はaboutでなく、vage。
Please. Can you tell us anything more specific?
どうか何でもいいので詳しく教えてくれませんか?
@ specific = 具体的な、詳細な
@ anything = 何でも、どれでも
※プレゼンのあと、「質問ありますか」と言うには、
Do you have questions?と聞くより、Do you have any questions?と聞くほうが、「何でもいいです」という感じがする。「できる範囲で」という感じがする。
more specificの代わりにin more detailを使ってもよい。
「ここだけの話よ(ここで止めておきます)」はoff the record(オフレコ)。
#会話
Please. Can you tell us anything more specific?
Well, we launched a new product last year. ええと、昨年新しい製品を売り出したんですよ。
子曰く、学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。
先生が言われた。「ものを習っているだけで自分で考えてみないと、まとまりがつかない。考えているだけでものを習わないと、疑いが出てくる。
※浩→「学ぶ」というのは読書を意味し、「思う」というのは思索を意味します。むやみに読みあさるだけで思索しなければ混乱をきたし、逆に、空な思索をするばかりで読書をしなければ独断に陥る。
ここは、学び方のポイントを簡潔に表している有名な箇所です。ずっとあとの「衛霊公篇」に、「子曰く、吾かつて終日食らわず、終夜寝(いね)ず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなり」とあります。これが、空虚な思索は、たとえ寝食を忘れてのものであっても、読書による経験の堆積には及ばない、ということです。
アドラー心理学の学び方としては、野田先生からは、「読」「思」「修」の3つが必要だと教わりました。本を読んだり講演を聞いたりするのが「読」、自分で納得のいくまで考えてものにするのが「思」、それを実践するのが「修」です。それから、もう1つ、アドラー心理学はひとりでは学べない。ともに学ぶ仲間が必要だということ。多くの方々が、例えば、育児講座「パセージ」を受講されて、そのフォローアップの会などで、さらに情報交換を続けて、学びを深められています。私と相棒のK先生は、日常の何気ない会話の中で、互いのライフスタイルを再確認することがあります。エピソード分析を実際のカウンセリングで実施する機会はそんなに多くはありませんが、2人で日常の会話の中に、私的感覚のマイナス面を見出したときは、それをプラスに肯定文に替えてみるお稽古をしています。願いを肯定文にしてみるとそれが即、仮想的目標になっていることもよくわかります。おかげで少しずつ上達してきたように感じます。傲慢にならない謙虚さも必要ですが、自己勇気づけも大事だと思います。人には言わないで、自分で思うだけなら「僕ってすごい。天才!」と思い上がってもいい。自分と自分は“縦関係”にはならないから。自己嫌悪は最低で何も始まらないし、これは実は「劣等コンプレックス」で、自分から動き出さない言い訳になっているようです。
また、アドラー心理学の育児・教育では、「子どもに選択肢を与える」ことが大切だと言われます。「学べばすなわち固(かたくな)ならず」です。選択の幅が広がるということは、すなわち「自由」が広がるということです。子どもたちにこのことをよくわかってもらいたいです。
「知識は経験とともに始まるが、思惟がなければ盲目となる」として、経験論と合理論を統合したカントの批判哲学を思い起こさせる、と貝塚先生の解説にあります。一方的な立場を固執しないで、絶えず両面からものを眺める態度は、かつてNHKの大河ドラマ「篤姫」で、篤姫の母上が島津家の養女になっていく前に「一方を聞いて沙汰するな」と戒めていたシーンがあったのを思い出します。「独断」と「偏見」はトラブルのもとです。