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滝本様 読んで頂きありがとうございました。しかも貴重なご助言まで頂きとても嬉しいです。おっしゃる通り一人称の呟きだったのに、途中で自分の描きたいことが拡散して見失ったことに気づきました。次は描きたいことを書き切ることを意識したいと思います。子供の頃からキャッチボールをする際、自分の投げたボールから目を離してしまう癖が治りません。生み出した言葉を投げっぱなしにしないで、丁寧に整理、推敲したいと思います。
雨音様へ
この度は「冷え込む」をお読みいただきありがとうございます。
12月になって、さらに寒くなりましたね。
インフルエンザも流行ってきました。
さて、今回の詩は「寒い」をテーマに書きました。
起きるのが辛く、嫌になる様子を表現しました。
本当のことを言えば、布団から出たくないです(笑)
アドバイスありがとうございます!次回も宜しくお願い致します。
まず、詩集の上梓おめでとうございます。
光の描写に独自性があるとのことありがとうございます。
しかし、観念的なところが分からないとのこと、私の力不足に違いありません。
私のこれは悪癖で、観念的なものがどうしても詩にも出てしまうのは観念に頼ってしまうという私の弱さかもしれません。
他者に伝わらなければそれは単に独り善がりの言葉の羅列でしかありません。
夜は暗く観念をどうしても醸成してしまいます。
この「小春日和」は単に一日の描写を試みたものですが、夕刻以降の観念が主となるところは分からないというのは、まだまだ考える余地がありそうですね。
お忙しい中、それでも私の詩を読んで感想を書いて下さりありがとうございます。
◎12月5日(火)~12月7日(木)ご投稿分
今回もまた感想になります。
一生懸命に読みましたが、見当外れだと感じるところがあればスルーしてください。
次回から評を付けていきますので、よろしくお願いいたします。
「高跳び」 喜太郎さん 12/5
読んでいると、映像が次々と変化し、それを追うのが気持ち良いです。
高跳びという運動を書きあらわすのにふさわしい表現だと思います。
特に
<教室の窓から見ている私の手は熱く握られてる>
は、いきなりの展開で効果的でした。ジャンプ効果とでもいいましょうか、フォーカスが急に(私)に移り驚きました。この一行でこの詩が立体的になりました。
高跳びをする人と、教室の窓から見ている(私)が、まるで力を合わせて跳んでいるみたいです。
最終行の<飛んで!>は、やや唐突に感じるので、違う言葉に差し替えるか、なくても成立すると思いました。
「小春日和」 積 緋露雪さん 12/6
光りの描写が丁寧で独自性があり読ませます。
二連
<百メートル走を走る調子でマラソンをし始める。
だが、光がバテるのも待たずに、
日輪は南西の空に沈み、
雲ばかりが極彩色に彩られ、
夕焼けが矢鱈に美しい>
など特によいです。うっとり。
内容は陽が沈んで夜になるにしたがって、ネガティブなりに自分の居場所をみつけます。だが、その間主人公は具体的に何も行動を起こしていない。この詩の観念的な部分は、私にはもう一つわかりませんでした。
タイトルはこの詩全体を差し示すようなものに変えたほうがよいのかもしれません。
「踏切にて」 荒木章太郎さん 12/6
最初の二行は意表をつく導入部です。
全体的に人を思いやる想像力があり、その点が良いと思いました。
擬人化された踏切の一人称のつぶやきで書かれているとおもうのですが、(踏切みたいな顔をして)とか(踏切が鳴り響く)とかの言葉もあり、その他、少しわかりにくい表現がありました。そのあたり、もっと明確に読み取れるように推敲、整理するとさらに良くなる作品だと思います。
つまり、踏切の一人称のつぶやきで書ききるか。「踏切」「あんた」「その他の人々」の描きわけを徹底するとよいと感じます。
「私は誰の痛みも分かっていなかった」 紫陽花さん 12/7
喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言いますが、自分の痛みさえもたやすく忘れ去ってしまうのに、他の人の痛みがわかるというのは傲慢なのかも知れませんね。
詩はとても読みやすく、論理的に組み立てられていて好感がもてます。
最終連、腰痛が治りかけて、また元の他の人の痛みが共有できない自己に戻るというレトリックが、面白くもありリアルです。
痛みには体の痛みと心の痛みがありますが、心の痛みの方にも言及できれば深みがましたかも。でも、これはこれでよくまとまっています。一つの詩には一つの事だけを書けばいいので、よけいな意見かもしれません。
「ボーカリスト」 妻咲邦香 12/77
「かぶいてるな」という印象です。
「かぶく」は中世いらい「常識をはずれた振る舞いをする。人目につくような変わった身なりや態度をする(大辞林)」のことをいい、その名詞の「かぶき」は「異様で
華美な風体を好み、色めいた振る舞いをすること」で歌舞伎の語源になっています。
そのような目線で読めば、個々の単語の意味や繋がりが明瞭にわからなくても、この詩の魅力は十分感じ取れます。むしろ奇抜な言葉のハマり具合が気持ちいいです。ボーカリスト=作者だとすると、妻咲さまの気概がにじみ出た作品になっていると思いました。
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詩集刊行へのお祝いの言葉、まだいただいています。
この場所で勉強させていただきました。
本当にありがとうございます。
今回も細かく読んで感想を頂き、ありがとうございました。ただ『シート』はお薬を表していて、タイトルの『OD』はオーバードーズを表しています。自分自身、読み手の方にもわかりやすい表現の仕方をと反省して、勉強不足を感じました。まだまだ表現の仕方を良く考えなければと思いました。ありがとうございました。
生まれてから死ぬまでの意味を求めるなら
それ自体が無意味と知る時には
脳細胞はどのくらい死んでいるのだろう
息をして命を食べて無駄を吐き糞をする
それだけでも人は生きているよ
細胞は分裂を続け髪は伸びて
細胞は分裂を止め髭まで白く
それほど長くないが生きてるよ
水を飲んで寝て起きて小便垂れて夢を見る
脳細胞はどのくらい残っているのだろう
そんなことを考えることさえ無意味ならば
生まれて死ぬことに意味を求める前に
死んでも構わないと思えるほど
人を愛してみれば良い
地球の裏側まで穴を掘ってと言われたら
その人の為に真剣に掘るくらいの愛を知れば
『意味』の影は追えるかも知れない
青島様、こんばんは。またまた今日も寒くない冬を過ごしてます。ぎっくり腰で落ち込んでおりました悲しみを読んで頂きありがとうございます。
後半、疲れてますね私(笑)丁寧に最後まで介護日記書き直してみようと思います。またよろしくお願いいたします。
「曲がった襟を直されて」の2連と12連の最終行を書き直しました。
書き直すために使える機能ではないと何度もお聞きしていますので
心苦しいのですが、やってしまいました。
今ある物でお願いします。
足先をつけただけで
水たまりにおぼれた
そこからはなし崩し
どんどん おぼれる
はげしくうちつける雨は
水たまりをひろげる
どんどん ひろげる
おぼれる人も
どんどん ふえる
雨なのにさんぽしていた人と犬
ちこくしそうなねぼけた高校生
完全防備ではしってたおばちゃん
みんなおぼれる
私といっしょにおぼれた
みんなあっぷあっぷして
おかしかった
けけけ
とおぼれながらわらった
水たまりでみんな
まだまだおぼれる
そのうち
晴れる
いつもだと軽軽と奈落に落ちる吾なれど
今回ばかりは際にて立ち止まりをり。
さうして覗き込む奈落の底は
言はずもがなの闇なれど
ぢっと凝視し続けると
ゆっくりゆっくり渦を巻き出す。
それは正しく吾の心の動きを写したものなれど
渦巻く闇に見蕩れる吾は
やはり、そこへと飛び込む運命か。
すると、吾の視界の際に
柔らかい光の粒が出現し
ゆるりと視界の際を巡る。
それが仮令吾の魂魄であらうが
吾はそいつのなすがままにさせるだらう。
闇と光などといふ
使ひ古された二項対立を持ち出すまでもなく、
柔らかだった光の粒は
その闇との際ははっきりとしてゐた。
仮令脳がさう見させてゐようが
将又それがアリストテレスのいふ形相(エイドス)だとしても
渦巻く闇に質料(ヒレー)はなきに等しい。
詰まる所、光に質量がないことが全てを物語ってゐるのか。
例へばどれほどの光度の光が
どれほどの闇と等価なのだらうか。
闇と光を計ることは
そもそもがをかしいのか。
もの皆、アインシュタインによれば
莫大な光に帰するが
その光はどれほどの闇があって輝くといふのか。
この袋小路のジンテーゼは
光が輝くためには
無限大の闇が必要なのだらうといふことに帰する筈だ。
闇に没すれば
誰もがその恐怖を知ってゐる。
その恐怖は闇が無限大を想起させるからだ。
人でさへ無限大は持ち切れぬものなれど
脳のみ無限大を持ち切れる。
しかし、そこには恍惚とした
恐怖の底無し沼が存在する。
それから派生したのが夢幻といふものに違ひない。
やはり、闇は徹頭徹尾心を写すのだ。
それは闇が無限大故のことか。
際にて吾さう思ふなり。
春の海終日のたりのたりかな 与謝蕪村
夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉
月天心貧しき町を通りけり 与謝蕪村
ふるさとは雪も降りけりかきくらしあはれなることいふべきにあらず 西行