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水無川 渉様詩を読んでいただきありがとうございます。
はい、私は先生のおっしゃたような部分に人の本性を見てもいいと感じています。
人も水と一緒で見方によって様々な色を見せるので、
早計に決めつけないようにしたいななんて思ったので書いた次第です。
今後とも、よろしくお願いします。
今回も詳細にお読みいただき、ありがとうございます。紙飛行機を上手に折って飛ばすことは昔から大の苦手でして、そのコンプレックスがこの詩につながったのかもわかりませんが ── 茨木のり子さんの言葉に「離陸する瞬間を持っていないものは詩ではない」と、あったとは、つゆ知らず、ああそうだったのか、どうりでと妙な納得をしてしまいました。今回の作品は結語(最終連)がなかなかに定まらず腐心したからです。ようやくことばが出てきたときに、え?っと自分でも狐につままれたような感触を覚えたことを思い出します。…… また、なんとかして、書きます。よろしくお願いいたします。
祭りの後、嵐の前
物語は続く
明日のことは誰も知らない
大海原に浮かぶ
一本の椰子の木がある
あてもなく彷徨う
緑と土の記憶は遠ざかり
潮風と波の音が満ちてゆく
穏やかな海を半月が照らす
時が止まったかのように
椰子の木は浮かぶ
遠い西の空には
黒雲と雷光
嵐の気配、雨の匂い
波はうねり立ち
暗闇の海の上を
何処かに運ばれていく
嵐のあと
辛うじて椰子の木は浮かぶ
渡り鳥が数羽、羽を休ませ
飛び立つ
その重みに耐えきれず
沈みはじめた
椰子の木は
宙を泳ぐように
冷たく、暗い海の中を
ゆっくりと
海底に向かう
弔いのような静けさの中で
旅は、終わりを迎える
軽い音をたて
深海の海底
終の棲家へ辿り着く
椰子の木は、海と溶けあい
朽ちていく
祭りの終焉、嵐の後
物語は終わる
静寂と、安らぎに包まれている
手のひらを埋めるほどの薬袋を抱える
二ヶ月に一度の定期検診の日
診察の長い順番を待つ
誰かの目が ちらりと
私を撫でるように通り過ぎる
テーブルに飾られた造花さえも
氷柱の視線で
私を射抜いてくる
気にし過ぎだよ──
耳元で誰かの声が響いた気がして
それは 自分の声かもしれない
もう慣れたはずなのに
震える指先を隠しながら
一歩を踏み出せずにいる自分が
痛いほどにわかる
薬袋は次第に重くなり
手は痺れて
私の影は足元の床に沈んでいく
遠い出口が滲んで揺れている
その先へと続く道は
どれだけ歩けば
辿り着けるのだろう
同じ場所に立ち尽くし
つま先が冷たくなっていく
扉の開く音だけが
私を待っている──
仕事場への道の途中
空をゆく揚羽蝶を見かけた
子供の頃 ふるさとのミカン畑で卵を見つけ
大事に育てた蝶は あんな姿だっただろうか
学校へ行っていた留守の間に羽化し
家族が放してしまったあの揚羽蝶は
ふいに記憶の蓋が開いて
ふるさとの夏が 脳裏に溢れ出てくる
すぐ傍にあり 毎日のように泳いだ光踊る海
浜辺での 親しい人たちとの夕涼み
夜毎仰いだ満天の星、そこに象られた季節の星座
神社の杜から響いていた蝉時雨
草いきれの中 夕暮れまで遊び戯れた野原
置き忘れられたような田舎に暮らしながら
満ち足りた時間を過ごした
いつの頃からか
そんな夏の訪れは途絶えていた
ふるさとを離れたことのためばかりではなく
それはきっと 憂いのない子供の時期でなければ
得られなかったであろう至福の夏だから
もう戻らないもの 願っても叶わないものを
思い起こさせられるのは悲しく
ならばいっそなかったことにできはしないかと
段々体にこたえてくるこの時季の日差しの下
頭の中で 摘み取った記憶の束を抱え
野辺送りよろしく運んでみても
結局どこにも葬り去れるあてのないそれは
幼い頃心弾ませた夏への 疼くような想いを
つのらせるばかりなのだ
さっき見た揚羽蝶は いなくなってしまった
けれど 別れを告げられないままの私の蝶は
今もまだ あの日の夏空を羽ばたいている
年追うごとに増す 日常の労苦を背負いながら
長く歩きすぎて
もう帰り道も分からなくなった遠いふるさとに
今年もまた 子供らのためだけの
珠玉の夏が来る
水無川 渉さま、こんにちは。初めまして、つる と申します。
ご感想をありがたく拝読しました。
はい、『老いらくのフレーム』は、人生のフレーム。
そういうテーマを設けて、ひとつの詩にしたかったのでした。
生きてゆく内に、人生の意義も変わってゆく。
今私は53歳ですけれども、
自身の境涯、および理想的、願いに近い気持ちを込めて、
綴らせていただいた次第です。
ひらめきと直感に頼って、言葉を使う癖があるかと
思われます。
自身の詩の在り方を、みなさまの作品も読ませていただいて
勉強してまいりたいと存じます。
どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
誠にありがとうございます。
はじめまして。よろしくお願いいたします。
このたびは拙作「漆黒の薔薇」を丁寧にお読みくださり、素敵なご感想をありがとうございます。
タイトルをお褒めいただき、また世界観に惹かれたと仰っていただけたことが、何より嬉しく思います。そのお言葉が、これからの創作にとって大きな支えとなりました。
闇に沈む言葉が、ほんの一瞬でも誰かの中で息をするなら、それが私にとっての再生です。今後も、自らの内に沈む声を丁寧に掬い上げていけたらと思います。
お待たせいたしました。10/21~23ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。
●ゆづはさん「漆黒の薔薇」
ゆづはさん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
この作品、まずタイトルが良いですね。自然界にも黒薔薇と呼ばれるものは数種類あるようですが、どれも黒っぽい濃い赤の薔薇であって漆黒のものはないようです。けれども詩においては漆黒の薔薇が実在するかどうかは問題ではありません。読み手のイマジネーションを掻き立てる、良いタイトルだと思います。私は暗く神秘的な、でも高貴でロマンティックな世界を想像しました。
詩の本文で中心的な役割を果たしているのは「言葉」です。主体の特定されない心の中から生まれた言葉は、しかし誰にも届くことなく葬られていきます。連が進むごとにそのような「言葉の死」がさまざまな表現で描かれていきますが、最後には将来における「再生」の希望が語られて終わる構成になっています。
この詩では何を描こうとしているのか。恋愛その他の人間関係におけるコミュニケーションの難しさを伝えようとしているのか、あるいは詩をはじめとする文学の営みの困難について語っているのか……。いろいろな解釈が可能だと思いますが、言葉を用いることの難しさを痛感しつつ、それでも言葉に信頼し続ける作者の強い意志が伝わってくるように感じました。
暗く硬質な文体と世界観は個人的にとても惹かれるものがありました。また書いてみてください。
●つるさん「老いらくのフレーム」
つるさん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
人生のフレームというのがこの詩の主題ですね。英語のframeという言葉は「枠、骨組み」等を表しますが、この詩の中では、人生を縁取り、意味を与える参照系あるいは解釈レンズのような枠組みを表しているのかと思いました。人は歳を重ねるごとに、自分の人生にさまざまな意味付けをしていきますが、過去の体験の意義や自分という存在の捉え方も時の流れとともに変わっていくものですよね。
特にこの詩では老境に入った「私」の人生観が描かれていますが、最終的には「私」というエゴが消え去り、人生に意義を見出そうとする欲求そのものがなくなっていく究極の境地が(理想として?)描かれているのではないかと思いました。作者ご本人が実際どのような年齢の方なのかは存じ上げませんが、人生の後半にさしかかった評者にとっては、心に染みてくる作品でした。
「愛らしく人生を枯れてゆく」「~記憶が/私にデジャブする」等、日本語の文法としてはぎこちないのに不思議と印象に残る言葉遣いにも魅力を感じました。またのご投稿をお待ちしています。
●喜太郎さん「赤ずきんさん」
喜太郎さん、こんにちは。有名な物語をパロディにして独自の視点で語り直すということは文学の世界ではよくある試みですが、この作品はペロー童話集やグリム童話などで有名な「赤ずきんちゃん」を下敷きにしていますね。そして、この詩では狼(詩中では「狼」とは一度も呼ばれませんが)の「赤ずきんさん」に対する恋心が一人称で語られるという、興味深い設定がなされています。「ちゃん」ではなく「さん」と呼びかけているのも、狼の恋心を表していて良かったです。
「男は狼」という使い古された喩えを持ち出すまでもなく、愛する者を求める思いと飢えた者が食べ物を求める思いはしばしばパラレルに描かれます。この作品でもこの2種類の欲求が渾然一体となっている気がして興味深かったです。それが「食べてしまいたいくらい愛していたから」の一行によく表れていますね。
けれどもそんな狼たる「僕」の思いは赤ずきんには通じず、狩人に殺されて地獄に落ちていく……。切ない幕切れですが、読み手には強い印象を与えると思います。
一点だけ、第2連2行目だけ主語が「僕」ではなく「俺」になっているのはおそらくケアレスミスだと思われますが、意図的なものでなければ直していただければと思います。全体的にはとても良い作品であると思いました。評価は佳作です。
●トキ・ケッコウさん「二人乗り紙飛行機」
トキ・ケッコウさん、こんにちは。
この作品を読んでいるうちに、子どもの頃に遊んだ「人生ゲーム」を思い出しました。プラスチック製の車に人物を表すピンを差していって、結婚し子どもを持ち、億万長者を目指す……と今から思うと非常に資本主義的・アメリカ的なゲームでしたが、この詩では車ではなく紙飛行機に乗る「二人」が描かれていきます。
この「二人」はおそらく結婚やそれに類するパートナーシップ関係にある人たちだと思います。紙飛行機での旅が人生を表していて、人生につきものの様々なできごとが比喩的に語られていきます。一つ一つのメタファーが何を表しているのか、具体的には分からなくても、全体として二人で歩む人生の冒険が描かれているのは確かだと思います。
この詩で一番読ませるところは最後2連ですね。幾多の困難を乗り越えて共に歩んできた人生の行き着く先は「地平線いっぱいに広がった、……おおきな一枚の紙」だと言います。ここで「二人」は紙飛行機を降り、「ふたたび、二人それぞれの紙へと切り分けられる」……。このイメージは本当に美しくて心を打たれました。茨木のり子さんは言葉が離陸する瞬間を持っていないものは詩ではないと言っていますが、この詩はまさに最後2連で言葉が空高く飛び立つことに成功していると思います(詩の内容的には紙飛行機の着陸を描いているので反対ですが……)。
「二人」が紙飛行機を降りるというのは死を表していると私は解釈しました。熟年離婚等、パートナーシップを解消してそれぞれ第二の人生を歩んでいくということではないと思います。けれども語り手は「そこは目的地ではないし終点でもない。補給地でも経由地でもない。」と言います。ここには作者の死生観が表れているように思いますが、不思議な明るさを感じました。
この「二人」あるいは「あの人たち」が誰を指しているのかは分かりません。作者の親しい人々(両親等)なのか、作者自身とパートナーのことを言っているのか、はたまたまったくのフィクションなのか……。いずれにしても、人生に対する温かい眼差しが感じられる、味わい深い作品でした。評価は佳作です。
●多年音さん「水の本性」
多年音さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
水というのは不思議な存在ですね。どこにでもあるありふれた物質であり、人間が日々生きていくために欠くことのできない存在ですが、様々な形態を取り、時には命を脅かすものにもなり得る。では水の本性は何なのだと言われてもなかなか答えるのは難しいですね。エイチ・ツー・オーと化学式で答えても、それが水の本性を表しているわけではありません。
この作品で作者が本当に言いたいことは、最後から2番目の連にある、人間の本性についての考察だと思います。日常の具体的な物事に注意を向けるところから人間存在の本質に関する考察に向かっていくという展開はオーソドックスですが説得力があります。
最終連で再び水(雨)の話題に戻ってくるのは、作品全体の統一感を高めると同時に、その前の連にあった「人間の本性」に対する語り手の問いかけに対して一定の答えを与えているようにも思いました。すなわち、「一人でいる」状態ではなく、他者と関わる(離れて暮らす「じいちゃん」に思いを馳せる)状態にこそ、人間の本性があるのかもしれませんね。
とても興味深い詩をありがとうございます。またの投稿をお待ちしています。
*
以上、5篇です。今回は初めて担当させていただく方も多くて、新鮮な気持ちで読ませていただきました。新しい詩、新しい詩人さんたちとの出会いを感謝します。
わたしのあたまには2つのわたしがいる
よいわたしとわるいわたし
キッチンにある おとうとのチョコレート
「だれもみてないよ たべようよ」
「おとうとのだよ!たべちゃだめ!」
いそいでいるとき しんごうがきいろ
「くるまきてないよ わたろうよ」
「きいろはあぶない!わたったらダメ!」
よいわたしとわるいわたしが
まいにちケンカしている
でもでもね
わたしは わるいわたしにまけないよ
わるいこになりたくないから