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初めまして。拙作「風土、違う四季の一景を切り取る」の感想ありがとうございます。
アックア・アルタ。写真集ではじめて知ったので気の向くままに書いてました。
海外に行ったことがないので、イタリアに関する知識は……「ミラノ風ドリアはないらしい」くらいしか知らなかったり。あとは……図書館で写真集を借りるようになったのも、つい最近という……汗
自己紹介的な作品としては写真で見て憧れの景色に想いを飛ばすのもありかな?と思い、書かせていただきました。温かい感想の言葉をありがとうございます。
また機会がありましたら、よろしくお願いします。
秋冬さん、こちらこそはじめましてです。このMY DEARと繋がるコトが出来てとても嬉しいです。
秋冬さんが一行目にお書きいただいた「これは詩ではないですよね。そして藝術でもないです」を読んで、どばッと汗が吹き出しました。うわあ、一気に否定された、と思ったからです。でも次行で「これは詩で、藝術です」で息が詰まる思いです。
詩には孤高の姿勢が必要であると思います。でもやはり「共感を求める」側面もあり、私はそれを重要視しているな、と思うコトしきり。でも詩は、ハッキリと言えないもどかしさの中にあり、それは詩が語られる中にありつづけるものなのだと思いますぜ。
私は68歳、老人初年兵、70歳以上の古参兵から「かわいがり」を受けてます。ウソです。しかし秋冬さん、詩においては、藝術もそうかもしれませんが、先輩、後輩は、ナイと考えています。もちろん個人的に師匠、弟子の関係はあってヨイと思いますが、詩は作品こそが全てちゃうかな、とも思います。極論であるは承知してます。でも詩作品では、私は秋冬さんと同じスタートライン。68歳は14歳とスタートラインは同じやと信じてます。
秋冬さんのおっしゃった「私は詩の定義に興味がない」は、やられた~~と思いました。この長編の詩を一言でまとめられたアと思ったからです。「今度の投稿、長い詩ィやねん。でもな、一言で言うたら『私は定義に興味がない』ちゅうコトやねん」です。クッソー!です。ウソです。
蜂飼耳氏の言葉、ありがとうございます。「詩は説明ではない。単なる行分け散文の鈍さから離れたところにしか詩は成り立たない」は良い言葉ですね。だから果たして私のように、詩を説明、あるいは取説みたいに書いて行く者もいていいかと思うしだいです。秋冬さんはまず詩に寄り添ってから感想を述べられ、そこから批評に入られるので、私は心地好かったですよ。若い詩人には、必要なスタンスやと思いました。今回は長い詩をご覧いただいてホンマにありがとうございました。
独り言には、やられた~~と思いました。そうですねえ、あれほど詩ィにこどわったなら、最後の一行はおっしゃる通り「僕は詩ィで今、旅が出来ればそれで充分だ」にすべきやったと思うしだいです。このMY DEAR 投稿分は、このままにしておきます。私に取っては『負の遺産』ですね♪ ありがとうございました!
そして、島さん。ホンマにホンマにありがとうございました。操作がわからず三度目にはいらつかれて、投稿禁止、とされたのは当然やと思っています。でも「四度目の正直」をお許しいただいたコトには涙流すほど感謝しております。そして私の詩友である滝本政博さんの「とりなし」なくしてはその四度目はあり得なかったコトは、礼どころではない。ホンマにありがとね。このMY DEAR誌面でも、詩の分野は全く違うのですが、共に詩の投稿が出来るコトを喜びとします。重ねて島さん、ホンマにありがとうございました。
秋冬さん、また、批評をお願いしたいと思います。失礼しました。では。
詩の評価をありがとうございます。
指摘されたように、壁は安易に使用するものではないと思いました。
島先生のアドバイスを参考にしながら、次回作は、もう少し長く書けるようにしたいと思います。
次回も評価を宜しくお願い致します。
ある時
ふと襲われることがある
不安という霧に
他人が発した何気ない一言
忘れていたことを思い出した時
どれも些細なことだ
きっかけは
霧が自分の周りを漂い始める
両手で払おうとするが消えない
ますます濃くなる
色も白から黒へと変わってゆく
もがけばもがくほど
辺りは見えなくなり
身動きがとれない
焦りばかりが募る
自分を見失う
途方に暮れて仰ぎ見る
霧の切れ目から
空がわずかに見えた
すかさず飛び上がる
心は高く昇ってゆく
眼下には
霧が広がっている
一目でわかった
濃さや色が
上から
静かに眺めていると
やがて風が吹き
霧は晴れていった
そうか
これが
自分の心を
冷静に
見つめる
ということか
再び大地に降りた
霧はもうどこにもない
吹いていた風が止みました
さっきまで 僕のことをずっと呼んでいたのに
おーい おーい
小さな声で呼びかけても
風は返事を寄越しません
急に静かになってしまうと
なんだか寂しくなります
もう僕のことなんて
どうでもいいのかもしれない
扉に耳を当てて外の様子を伺います
ピタリと風が止んでしまうと
体の内側からさざめきの音がします
まだ僕の左胸は
早鐘を打つことをやめません
胸に手を当てて鼓動のリズムを確かめます
ふと窓から外を見てみると
シャボン玉がいくつも浮いていました
空に昇っていくわけでも 地面に落ちることもなく
視線の先に浮いている 虹色の球体
僕は瞳を閉じて 心にもシャボン玉を浮かべます
風はもう吹くことはありません
けれど 僕はもう寂しくもありません
おーい おーい
どこからか
小さな声が聞こえた気がしました
ご丁寧な感想をいただき、ありがとうございます。
母のことと父のことを並べて書くのがむずかしかったです。
最初これは、母の部分だけを短歌にして詠みました。それで十分だったのですが、二年後に父も逝きまして、その時、父や私の気持ちを察して、姪達が茶の木の枝を取ってきてくれました。
最後の部分は私も悩みました。これは無くても良かった気がします。
死んだ後のことは遺った人に委ねればいいので、自分の希望を言ってしまってはいけない。これは心に秘めて置くべきだったのかも知れません。
2025年6月6日(金)から6月7日(土)までのご投稿分の評と感想です。
○「しにたい」の底に 樺里ゆうさん 6月7日(土)
こんにちは。樺里ゆうさん。
お久しぶりです。樺里ゆうさんの詩を拝読するのは、5年前の「泣くこと」(2020年8月17日)以来です。
まず、二連一行目の投稿エラー対策の件、承知しました
ご自身の心情と誠実に向き合いながら書かれていますね。
口から漏れる「しにたい」は、「(漢字の)しにたい」という感情とはどこか異なる。なぜその言葉が出てしまうのか、その背景の出来事や気持ちを振り返りながら向き合い、言葉にしていますね。この振り返る作業をここでは自己覚知と名付けてみようと思いますが、この過程は、著者の置かれた状況によっては、大変苦しいことかもしれません。樺里さんは自身との対話を経て、咀嚼し、このように作品として昇華したのはすごいなと思いました。
そしてたどり着いた一つの答えが、五連。迷子だった感情を見つけましたね。
また、この箇所を一行で描いたのはとてもいいなと思いました。メリハリが付いています。
全体的に内容も構成も読みやすく気持ちが入りこみやすかったです。
この詩は、自分自身を抱きしめてくれる大切な作品ですね。
これからも素敵に磨きあげていただきたいです。
評価は佳作です。
ただ体調はご無理なさらないでくださいね。
今回も真剣にご自身と向き合っている詩をありがとうございました。
○ 風土、違う四季の一景を切り取る 松本福広さん 6月7日(土)
初めまして。松本福広さん
松本さんの作品を拝読するのは初めてなので今回は感想を書かせていただきます。
一冊の写真集を手に取り、想像と想いをめぐらせ、言葉に綴る。個人的にこの体験そのものがとても貴重なことだと感じました。補足で参考文献を載せてくださったので、近所の図書館で借りて観ようと思ったのですがありませんでした。でも、それで良かったのかもしれません。松本さんがこの作品で描いてくださっている。
いきいきとした冠水した水の都の人々の様子、表情、営みが。そして写真には映らない冠水の影響を受けた街や人々の姿、復旧活動を行う人々のことも、「うん。今日はいいかな」と観光客(写真の読み手)の視点から丁寧に描写されている。知識任せではなく、心で書かれていますね。最後の最後まで読み応え十分でした。
個人的に、僕は20年前に一度イタリアに行ったことがあるのですが記憶力が悪くてあまり覚えていなくて。ただ「青の洞窟」だけは覚えています。
松本さんの作品を拝読して、僕も何かの作品を読んでじっくりと想像と想いをめぐらしたいなと思いました。そしてヴェネツィアに行ってみたいなと思いました。ただ流石に実際行くのは難しいので写真集を手に取ってみますね。
素敵な作品をありがとうございました。
*************************
以上です。
お二人とも詩に心が乗っていたと思います。
僕自身が学びになりました。今後とも学ばせてください。
2025.6.8~9投稿の感想
※明日から出張のため、お先に失礼します。
こんばんは。
MY DEAR同人の秋冬です。
雨音さんの批評を期待されていた方、佳作等の評価を楽しみにされていた方には申し訳ありませんが、今回はピンチヒッターのため感想のみとさせて頂きます。
恥ずかしながら、あまり詩を読まずに詩を書くようになったものですから、投稿者の意図を私が十分に汲めずに、的外れな感想もあるかと思いますが、参考にならない場合はスルーの上、ご容赦下さい。
☆「旅立つ日に」津田古星さん
津田古星さん、はじめまして。
「旅立つ日に」は、亡くなられたご両親との「別れの日」を綴られていますが、梅雨明け、秋晴れという好天とローズマリー、茶の木が季節毎に見せる植物としての強さ(生命力)が描写され、それぞれ「可憐な水色の花」「慎ましい白い花」という故人を象徴する花を明示していることもあるからなのか、悲しさよりもありがとうの思いが溢れ、「別れの日に」ではなく「旅立つ日に」というタイトルがストンと肚落ちしました。
一読した時は「耐え忍んで働き続けた人の一生を」が「野良に生き 地位も名誉も求めなかった人の一生を」に比べると漠然として「弱い」と思ったのですが、二度目に読んだ時は、おそらく農家に嫁がれ、義父母などとの関係で大変な苦労をされたお母さまのことを考えると、あえて詳細に書かないで「耐え忍んで働き続けた」という表現の方が、逆に「重い」と思いました。私も含め、ついつい「書き過ぎてしまう」ものですが、この「書き過ぎない」点は評価できると思います。
それ以上に評価できる点は「今は肯うことが出来る」「今は誇ることが出来る」にあると思います。「今は」があることで、娘である「わたし」の葛藤が伝わります。「耐え忍んで働き続ける」母親、「地位も名誉も求めずに野良仕事をする」父親に対して、不満や反抗を覚える時期もあったけれど、自分自身も年齢を重ねて様々な経験を積んで「今は肯うことが出来る」「今は誇ることが出来る」と言えることは素晴らしいですし、「旅立つ」人にとっては最高に嬉しい言葉だと思います。良いことばかりではないけれど、やはり根では分かり合える親子の強い絆を感じます。この二行にはホロリとしました。
ここまでは、とても素晴らしいと思いました。
が、どうしても気になったのは、ここから先の終連です。
いつかわたしが旅立つ日には
わたしの棺には
誰が何を入れるのだろう
で終われば、どんな季節にわたしは旅立つのか、そして棺に誰がどんな枝(植物)を入れてくれるのか、と想像でき、余韻を楽しむことができたのですが
願わくは
わたしが幸福を願った人達から送られた
手紙の束を
と続きます。両親の「旅立つ日に」は娘であるわたしが思いと重なる枝を棺に入れているのに、どうして自分が「旅立つ日に」は自分の希望(「願わくは」)が入ってしまうのか、が何度読んでもしっくりときませんでした。
とはいえ、
わたしが幸福を願った人達から送られた
手紙の束を
には、きっと私が気づいていていない深い意味や思いがあるのでしょうから、津田古星さんにとって、「手紙の束」が必然であれば、何の問題もありません。あくまでも、読者としての感想です。
優しく、強く、深い詩ですね。
そして、リズムがとても良いと思いました。
読ませて頂き、ありがとうございました。
☆「欲望」鯖詰缶太郎さん
鯖詰缶太郎さん、こんばんは。以前、初心者向け掲示板でやり取りさせて頂いたことがありますね。お久しぶりです。
読み始めて直ぐに「あぁ、鯖詰缶太郎さんの詩だ」と思いました。でも、以前に比べると、良い意味で「整った」感があります。切ない「愛の詩」だと思いました。二人の距離感、関係性が微妙でとても気になります。なんでしょうね。「優しさ」「思いやり」をじんわりと感じる詩です。
リズムが独特で心地良くて、ラブソングを聴いているようでした。
初連は「わかってしまうのです」で終わりますが、二連は「とてつもなく いやだ。」で終わる。ですます調が続かないことで「とてつもなく いやだ。」がとてつもなく強く響く。とても効いていると思いました。
そして、「健やかな欲望」が良いですね。タイトルが「欲望」で「暴力性が散見する自分の姿」とあるので、まさか「健やかな欲望」がくるとは思いませんでした。純というか、真というか、悪い「欲望」ではなく良い「欲望」だな、と思いました。「欲望」と言いつつ、「願望」に近いような気もしました。
引力が
あなたと引き合った
その大いなるあたたかさだけが
僕にもあなたにも必要です。
どうしても私が理解できなかったのが、三連です。「僕にもあなたにも必要です。」の「あなたにも」が分からないままです。「僕には」必要なのだと思うのですが、「あなたにも」必要というのが、分かりませんでした。同じような「欲望」を持った人であれば、ハリネズミのジレンマになるので理解できますが、「白い夏服」の人が「僕」と同じように何かしらで苦悩しているとは思えず、ごめんなさい、どうしても「あなたにも」が分かりませんでした。
朝飯のあとは
あたりまえのように吠えていたいのです。
ここまで読んで、鯖詰缶太郎さんなので、色々と捻られて「飼い主と飼い犬」の詩なのか? と深読みしてしまいましたが、僕が犬だとしたら「悪意にとらわれてしまった獣のようで」「あなたを抱きしめていたいのです。」が矛盾するので、やはり男女の「愛の詩」であると思いました。(読み間違いだったらごめんなさい)
理解が及ばない箇所はありましたが、全体を通して、とても好きな詩です。読んで直ぐに「あぁ、鯖詰缶太郎さんの詩だ」と分かるのは凄い個性だと思います。
読ませて頂き、ありがとうございました。
☆「僕には藝術がわからないんだ」飯干猟作さん
飯干猟作さん、はじめまして。
これは詩ではないですよね。そして、藝術でもないです。
あるいは
いや、これは詩です。そして、もちろん藝術です。
なんていう具合に
はっきりと言えたら良いのですが
私も藝術が分かりません。
そして、詩も分かりません。
なので、誰かに私の詩を「詩ではない」と言われたら、そうなのだなと納得するだけで、別に抗議はしないです。私は「#詩のようなもの」を書いていると思っているので。
というわけで、私は「僕には藝術がわからないんだ」を大いに共感しながら読ませて頂きました。
好きか嫌いかで判断するのは、私も同じです。嫌いなものを、頑張って好きになろうとか、勉強のために我慢しよう、とは思いません。書かれている内容が現実に近いとしたら、飯干猟作さんは私よりも少し先輩だと思いますが、思考が似ているような気もします。ただ、初音ミクや大藪春彦などのように、何かにのめり込む性質ではないので、ここまで熱く語れるのは羨ましいな、と思いました。
同じ対象を観て、読んで、ある人は藝術であると言い、ある人は藝術ではないと言う。また、ある人は詩だと言い、ある人は詩ではないと言う。スポーツのようにルールがある訳ではないので、当然だと思います。なので「僕には藝術がわからないんだ」と明言するのは、とても潔いと思いました。もちろん、藝術も詩も定義はあるのでしょうが、私は定義に興味がありません。もしかしたら、飯干猟作さんも同じように興味がないのかもしれないな、と思いました。
ところどころに「老人」が現れますが、この詩を読んで、この長さは「老人」だからだ、と思う人もいれば、「老人」なのにこの長さを
書くなんてとても「老人」とは思えない、と思う人もいるでしょう。私は後者で、ほとばしるパワーを感じました。つまり、見方考え方は人それぞれです。きっと、藝術もそうなのでしょう。
「ハイにハイにハイにしてくれる」「好き」に囲まれている現状は最高ですよね。誰かの意見に流されることなく、自分で「好き」を選択される姿は理想的だと思います。
僕には藝術がさっぱりわからないんだ
だが今の所、わからなくて困るコトはない
その通りだと思います。「困るコトはない」のです。ただ、分かりたいという人がいて、色々と調べて突き止めようとすることは尊いと思います。でも、飯干猟作さんも私も興味がないので、分からなくても「困るコトはない」のです。
僕は詩で今、旅が出来ればそれで充分だ
最後の一行が、とても好きです。「詩を書いてさえいれば」ではなく、「詩で旅が出来れば」という表現が素晴らしいと思います。古くからの読書体験などの時間旅行もできる訳ですし、「詩で旅をする」というのは、とても素敵だと思いました。
藝術も詩も分かない私が、飯干猟作さんにお伝えする言葉はないので、最近心に残った文章を引用させて頂きます。蜂飼耳さんの散文「詩について」を読んで、次の箇所がとても心に残りました。
詩は、説明ではない。単なる行分け散文の鈍さからは離れたところにしか詩は成り立たない。
私は「#詩のようなもの」を書くときに、この文章(特に「詩は、説明ではない」)を思い出しながら書くようにしています。実際は、なかなか難しいですが……。
これだけ長い詩を書けて、しかもすんなりと読ませてしまうのは、書く力があるからだと思います。飯干猟作さんの方が私よりも藝術や詩に多く触れられていることは間違いないと思いますので、ここまで読んでも参考になるところはなかったかもしれませんが、ご容赦下さい。
読ませて頂き、ありがとうございました。
なんだか、元気になりました。とても楽しかったです。
(独り言)
僕は詩ィで今、旅が出来ればそれで充分だ
飯干猟作さんがご自身の詩を「詩ィ」と呼ぶのなら、詩ではなく「詩ィ」なのだと思います。
なので、個人的には、この終わり方の方がより響くような気がしました。独り言です。
以上になります。
雨音さんの批評に比べるともの足りなさを感じている投稿者の方もいらっしゃると思いますが、引き続き、MY DEARへの投稿をお願いします。私自身も詩だけでなく、批評もできるように成長したいと思います。
投稿者の皆様、じっくりと読んで感想を書く機会を頂き、ありがとうございました。
その曲がり角が隠している景色を見たくて
自身の不意をつくようにそこを曲がると
もう街の声は聞こえない
その道には
若葉を透いて非日常が差し込んでいる
風はスローモーションで吹いている
はじめて歩く道だけれど
過去に何回も歩いた道だ
目的をしらず進む道は
いつだってなにかを隠している
それが見たくて進むのだ
いつの間にか地面は舗装することをやめて
小さなお社をわたしに近づけた
箱庭のような境内で
ぐるりを木々がお守りしている
その一角の二本の木が
胴から切られ立っていた
一つはクスの木
もう一つはカエデの木
切られているのに立っている
切られているのに立っている
風が吹いても動かない
揺られる葉も枝もない
何万年も前からそうしてきたみたいに
何万年も後までそうしているみたいに
失ってもなお
ふたり
立っている
※
街の声が徐々に聞こえてくる
時間がふたたび秒針を動かす
隠されたものを見つけても
こたえがわかったわけではない
何万年も前からそうなんだろう
何万年も後までそうなんだろう
地表を鏡とせよ
その瞬間、180°展開が始まる
向こうに私はいる
ここは鏡像の世界、裏側の世界
くぐもった音、そこはかとなくする匂い
私以外、誰もいない
地面は透けていて、本当の世界の真実が見える
下を向いて世界を見てみよう
道を歩いている大勢の人
中身はー空っぽ、皮だけが歩いている
自分で考えない、考えれない
電車が定時に駅に停まるような
決められた、それだけのもの
ビル街が広がっている
誰も住んでいない
コンクリートの廃墟
見栄とか
踊らされた無機質のマネキンが置かれている
温もりはなく、底冷えする冷たさだけ
ひび割れた、マネキンの崩れる音が聞こえる
ガラスとコンクリートの巨大な墓標
道は森に向かう
樹木は、表も裏も変わらない
あちこちに化学薬品が染み付いている
汚染された世界にあらがう植物たち
剥き出しの地表に荒野が広がり
その上に
人工の、作り物の
自然が、薄っぺらく置かれている
沈黙と、大いなる存在の怒りが満ちている
ここは鏡像の世界、裏側の世界
透明な階段を見つけた
光の搖らぎで、全体が見える
遥かな天空まで階段は続いている
その先には、新しい世界があるのだろうか
今日はやめておこう
きっと、帰ってこれなくなる
中身のない、本質の失われた、人工の世界
何もかも、プラスチックで作られた
偽物の世界
いつから、こうなったのだろう
人間は、何処に向かっているのだろう
私は誰だろう
私は、再び唱える
地表を鏡とせよ
180°展開する
原色の世界に戻ってきた
どちらが、私の世界なのか
何処も居場所じゃない、そんな気もする
微かに記憶に残る、家族の笑顔
家へ、まだ、帰らねばならない
待っている人がいる限り
呼ぶ声がある限り
私は、私である